最近、用事があってたまたま書店で立ち読みしていたときにセラピーに関する本を手にとって、パラパラと見ていました。
その本の中に、悩みの解決方法として「私を消す」みたいなことが書かれていました。
今までだったらなんとも思わなかったと思うのですが、そのときは、あれ? となんとなく違和感を感じたのでした。
これまでこのブログでもお伝えしてきましたように、社会的な動物としての人間は、自分としてログインすることで、その人らしく行きていくことが可能になっていくものですが、それなのに、なぜ「私を消す」必要があるのでしょう。
(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」
むしろ、「私を出す」とか「私を示す」という方向にだとわかるのですが、なぜ逆方向に導こうとするのでしょうか。
あらためて考えると、なぜか、セラピーは私たちをログインの方向ではなく、ログアウトしよう、ログアウトさせようとしがちだな、ということに考えが向きました。
もしかしたら、これは、セラピーの創始者や治療者自身の生育歴からくる回避傾向や理想主義のゆえに、セラピーや解決策自体も回避的になっているのかも?ということがふと頭に浮かんだのです。
以前も触れましたが、カウンセリングの創始者ロジャーズ自身も、ある哲学者との対談の中で、哲学者から痛いツッコミをされたことがあります。
非常に乱暴に訳せば、
哲学者「ロジャーズさん、あなたは人間はただ本人の中で気づきを得ていくことでその人らしくなる、というふうにおっしゃっていますが、俗にまみれることもなく人として成熟することなどあると思っているのですか? 人は社会の中で生きる存在なのですよ?」と。
それに対してロジャーズは有効に反論することができなかった、とされます。
(参考)→「私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?」
ロジャーズ自身も、社会からログアウトして、ピュアに気づきを得ることで人は良くなっていくと捉えていた。
当時の理想主義的なヒューマンポテンシャルムーブメントなどと相まって人気を博したわけです。
確かに、支配されて苦しんでいる、ローカルルールに縛られて困っているという状況に対しては、一旦そこから「ログアウト」することで、支配から逃れる、ということは有効です。
苦しい状況から脱する、避難する効果はあるかもしれません。
冒頭に上げた「私を消す」というようなことも、試してみたら無事ログアウトできて「かなり効果がありました!」というふうになるかもしれません。
ただ、問題はそこから。
たとえば、最近、新型コロナで指摘されているのは、あまりに長期間にわたり感染症対策ということばかりをしすぎることで、かえって免疫を弱めないか?ということです。
大人もそうですが、特に子どもは免疫トレーニングをするために、適度に菌やウイルスに罹って風邪をひいたりする必要があります。
それなのに、アルコール消毒やマスクなどで過度に守られることでそのトレーニングができなくなってしまう。
実際に対策が行き過ぎて、幼稚園などでは土遊びも禁じられてしまったり、というケースもあるようです。
もともとうがいもうがい薬を使うと、喉にある自分を守る良い菌までもがやられてしまうので、普通の水道水のほうが良い、ということを聞いたことがあります。
抗生物質なども使うとたしかに劇的な効果を示すことがありますが、良い菌までもが死滅して、下痢をしたり、耐性菌でかえって良くなかったりということは知られています。だから、使う場面は選ばないといけない。
私たちは、重篤化するようなウイルスは避けながらも、生活の中のバイキンなどにまみれて生きていく必要があるようです。
(参考)→「俗にまみれる」
セラピーも、創始者たちがトラウマを抱えてきたためか、どこか回避傾向、ログアウト志向があるのかもしれません。
だから、解決策自体もログアウト志向になりがち。それが効果を発揮してよくなるケースもありますが、そのあとに反動で行き詰まる恐れもある。
たとえば、意識をどこか悪いものとし、無意識を良いものとして単純化して捉えてしまうのも、もしかしたら、ログアウト志向かもしれません。ユングなんかもそんなところがあるかもしれないですね。
ログアウト志向の人というのは魅力的です。
その人が夢を語ってくれて、魔法の杖をくれて、「どこか理想的なところに連れて行ってくれそう」に感じるから。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」
しかし、実際は、「我」とか「自己」というなにやら泥臭く感じるものはものすごく大事です。
ローカルルールから逃れるために一時的にログアウト、ログオフすることは必要ですが、本来の自分のIDでログインする視点がないと、いつまでたっても、イマイチ感が出てスッキリせず、社会に中でうまく生きていくということができなくなる。
たとえば、先日の記事のように、失礼なことを言われたらジローラモさんみたいに対応しようと考えるのはログイン志向で、その場では何もせず相手の射程範囲外で言葉を唱えてしらずしらずのうちに相手の態度を変えよう、キレイに済まそうというのはログアウト志向といえるかもしれません。
(参考)→「自尊心とはどういうものか?」
精神科医の中井久夫の本に「世に棲む患者」というタイトルのエッセイがありますが、まさに私たちは診察室やカウンセリングルームの中でもなく世に棲んでいる。
医師の経験談でよく出てくるエピソードとして、「最近来なくなった患者に久しぶりに再会したら、仕事をしていて、結婚をしていたりして驚いた」ということがあります。
医師から見てもなかなか良くならず大丈夫かなかな?といったようなケースでも、気がつくと、思いがけなく社会の中でしなやかに生きていたりする。
名人とされるような治療者はログイン志向で、ログインして生きることも含めて目配せがあるのかもしれません。
もちろん、いきなり実生活でうまく行かないから、診察室やカウンセリングルームがトレーニングの場として求められています。そこでは、ログアウトしたあとにはログインできるようにトレーニングしてもらう。
従来のセラピーにおいて、ある程度良くなるけれども、なぜか人の中ではうまくやり取りができない、社会の中で生きていくことがいま一歩できない、というようなイマイチ感の由来はもしかしたら、そのログアウト志向にあるのかもしれません。
そして、ログインするっていうことはこれからのセラピーにはとても大切なポイントかも、ということをふと書店で本を手にとったときに感じたのでした。
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