ネガティブな感情に対処するコツ~自分が感じている感覚は、すべて外から来たものだと知る。

 医師やカウンセラーなど治療者がクライアントさんと接していると、セッションの中で体感が変化したり、雑念がわいてくることがあります。おなかに違和感を感じたり、頭が重くなってきたり。

 最初のころは、「食べすぎなのかな?」「今日は体調がよくないのかな?」なんて思っていたりします。

 別のケースでは、クライアントさんの訴えに対して、
「この人に問題があるのでは?」とか、「この人は〇〇だ」と相手を判断するような、およそ治療者らしくない気持ちがわいてくる。

 「いかんいかん、そんなことを思っては!」と打ち消そうとすると、余計に強まったりする。

 そのうち、「自分は人間的に未熟なのだ。だから邪な気持ちがあるのだ。治療者失格だ」なんて考えて落ち込んでしまう。

 抜け出そうとしても、なかなか雑念が去らずに困ってしまう。

 

 

 ただ、ある時気づくようになります。

 「あれ?これってもしかしたら、クライアントさんから来ているのではないか?」と。

 「この人に問題がある」というのは、クライアントさんがそう考えていた。
 「この人は〇〇だ」というのも、クライアントさん自身がそう思っていた。あるいは、クライアントさんの家族などがそのようにクライアントさんをとらえていた。
 

 実際に、そうとらえて話を聞いてくると、雑念がわいてこなくなってくる。逆に目に見えないクライアントさんの状態が見えてくる。

 
 そして、会話の中で、実際に、自信がありそうに見えたクライアントさんが「私は容姿に自信がないんです。自分はダメなんです」と言い出したりする。 

 
 ああやっぱりこれは相手から飛んできていたんだ、と気が付きます。
 治療者がそのようにとらえていると、本当の共感が起きますのでクライアントの症状もそれまでよりもよくなりやすくなります。

 

 ベテランの治療者などは、それぞれにこうした体験をしていて、「人間の感情のほとんどは、他人からの影響だよ」ということに気づいている人がチラホラといらっしゃいます。
 筆者も、相互にまったく関係のない治療者からそのことを耳にしたことがあります。

 筆者の経験からもこれはその通りだと感じます。

 

 たしか仏教でも、雑念というのは、マーラという悪魔がもたらしたりして仏陀を苦しめようとするシーンがあります。雑念というのは自分のものではなくて、自分は「無」である、ということに気づいて、悟りを得ていきます。
 
 

 

 

 イライラが止まらない

 怒りが収まらない

 不安でどうしようもない

  +感情が不安定なことへの罪悪感

 こうしたことでお悩みの方は多いです。

 そこまで行かなくても、自分が年齢相応に成熟したいにもかかわらず、子どものようなネガティブな感情が湧いてきて自分が嫌になる、ということがあります。

 

 相手にやさしくしたいのに、相手を揶揄するような思考が湧く、なんてこともあります。
 
 「なんで、こんな思考が湧くんだ?!」と慌てて打ち消そうとします。でも、次々湧いてヘトヘトになります。

 いろいろなセラピーを受けても、なかなか良くならなかったりする。

 この時に、実は、大事なポイントがあります。

 それは、冒頭の治療者のコツでも紹介したように、ネガティブな感情は自分の感情ではなく外から飛んできたものだ、という視点。

 以前にも書きましたように、人間は、クラウド的な存在です。ネットワークのように全て外からやって来る。自分が体感する感情というものは、相手や、身近な家族などの感情を無意識に写し取ったものである、ということです。

 

 極端に言えば、私達が感じる感情の99%は自分の感情ではありません。

 他人のものではないものを、自分のものだと考えるから苦しくなるし、セラピーでも良くならない。

 自分のものではないものを、自分のものだとしてセラピーなどで改善しようとすること自体が、自分のものだ、という暗示を強めてしまう場合があります。そうすると、却ってよくならない悪循環になる。

 

 イライラしやすい、怒りが止まらない、という場合、
それは、その方がイライラしやすい、というよりは、「他人の感情を受け取りやすい」という問題を持っているということ。

 

 事実、セッションの現場でも、例えばイライラしやすい、ということについて、そのまま扱ってよくなる場合もありますが、なかなか良くならない場合、「他者から影響を受けやすい」あるいは「他人の感情をもらってしまう」ということをテーマに変えてセッションを行うと、軽快していくことがしばしばあります。

 

 

 まったく影響を受けない人、というのはいませんが、
ネガティブな感情に悩みにくい方、というのは、他人からの感情と、自分のものとを区別する力がある、と考えられます。それを支えるのが「愛着」の力です。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

  
 愛着とは、親子の絆、安全基地のことを差します。
幼いころのやり取りで、むずかっているときに「悲しいの?」「しんどいの?」といったやり取りを通じて感情を正しく把握するトレーニングをしているわけで、その中で、自分の本当の感覚とは何か?そうではないものは何か?を自然と学ぶようになります。
 自分のものとして受け取ってよいものではないような否定的な感情に影響されても、「なんか変だな」としてその場を去ったり、これは相手のものだ、としてスルー出来たりする。

 

 愛着が安定している人にとっても、専門家ではないため言葉には出しませんが、「自分が感じているネガティブな感覚は外から来たものだ」というのは当然のこと、世の中の裏ルールといってよいものの一つかもしれません。

 

 
 反対に、難しい養育環境の場合は、自他の区別が混乱させられてしまっているために、相手の感情も自分の感情としてしまう。例えば、夫婦喧嘩が絶えない家である場合、子供は親の気持ちを先取りして、「今日は喧嘩をしないか?」「機嫌がよいか?」とやきもきしている。そのうち、自分の感情と親の感情との区別もうまくつかなくなったりする。

 親から、「お前は気をつかえない」なんて、因縁をつけられていたりすることもよくあります。
 すると、理不尽で不安定な親の感情をわがこととして忖度してしまう。結果として、他人のネガティブな感情を自分のものとすることが習慣化する。
 
 身体レベルでも、ノイズをキャンセルする役割を果たすストレスホルモンの働きが乱れていますから、人からの影響を跳ね返すことができなくなる。

 そうして、人からの影響を受けて、簡単にイライラしたり、不安になりやすい人になって、精神科やカウンセリングのお世話になるようになります。

 そこでも、その人本人が「イライラしやすい人」という風に扱われて、イライラから抜け出しにくくなっていく・・・

 

 イライラが自分のものだと真に受けると、イライラはいつまでもさらないし、それを他人にぶつけてしまって、罪悪感を感じてしまう、という悪循環に陥ります。

 

 

 悪循環から抜け出すためには、イライラを感じたら、「これは誰かから来たものなんだな。自分のものではない」と思いながら、その感情を感じる。

 すると、感情と自分の身体とが少しずつズレてくるのがわかります。そして、自然と治まっていきます。

 
 「このイライラを、オリジナルに還元」と唱えてもよいです。

この言葉はとても役に立ちます。

 どうしても巻き込まれてしまう、自分のものではないと考えてもそう思えない、という場合も、とにかく毎日続けてみます。すると、感情に巻き込まれにくくなることが実感できるようになります。

 それでも、ある感情だけは自分のものとしか思えない、という場合、その際はトラウマケアの出番です。どうしても巻き込まれてしまうということを緩和していきます。

 

 「自分が感じている感覚は、すべて外から来たものだと捉える。」というのは、ベテランの治療者などが実践しているかなり重要なテクニックです。

 認知行動療法のように、自分の信念、感情を自分のものと捉えてケアをしていると、ある時点で限界がやってくるのですが、反対に「自分のものではない」と意識していると、その限界を超えて、これまで解消しなかった悩みを超えることができるようになります。

 嫌な人にも巻き込まれにくくなります。

 

 

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人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 私たち人間というのは、関係性の中で、「位置と役割」を得て、自分の自信や存在価値というものを感じ取ることができています。

 その一番の土台は「愛着」というもので、コンピュータのOSのようにワンパッケージで提供してくれます。
 そこから得られる自信、存在価値という感覚は、身体レベルのものです。
 身体レベルでの「安心安全」。頭で理屈付けする必要のないような感覚です(「理由わからないけど、当たり前」という感じ)。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着不安やトラウマ(ストレスによるストレス応答系の失調)、発達障害などになると、そうした身体レベルでの安心安全が崩れます。すると、コンパスが乱れて自分自身の「位置と役割」が感じにくくなり、根拠のない自信、存在価値というものが感じ取れなくなります。

 

 すると、頭(論理的に)で、自分自身の存在価値を構築する必要があります。ただ、この作業は本当に難しい作業です。

 なぜかというと、人間が自分の存在価値を証明する、というのは、たとえば、哲学者カントとかヘーゲルとかハイデガーとか、そうした天才たちでも完全にはできなかったような、とてつもない作業を一人でしなければならないからです。
 

 トラウマを負った人というのは頭のいい人が多い、という印象はここから来るのかもしれません。自分で色々と考えざるを得ないからです。
 

 

 生きづらさも極まったり、自分で考えることに疲れてくると、一足飛びに承認を得たい、という感覚になります。

 超越的ななにかとつながって、自分の価値や自身を認めるような関係がほしい。それがスピリチュアルなものへの関心、という形で現れることがあります。

 

 筆者も昔、天を指差す海外のスポーツ選手の仕草を見て
「キリスト教とか、一神教というのは羨ましいなあ」と感じたことがありました。自分で考えたり、煩わしい人との関係は抜きにして、自信を構築できる手段があるように見えたからです。

 

 問題なのは、人間にとって正しい正しくないとはしばしば相対的です。すると、頭のレベル(論理的に)で自分の正しさ( I’m OK )を証明するためには、誰かを敵として相手を貶めるしかない(「勝ち」を得る)、というところがあります。
 
 宗教などでも、異端とされる側の人たちを徹底的に殲滅しないと、自分たちが正しいと証明が難しい。ですから、苛烈を極めます。

 

 

 トラウマを負った人にとっても、「You are Not OK」という態度になりやすい。もちろん、自分にも根底ではどうしても自信がないのが拭えないのですが、躁的防衛で自分を高めて、相手を「You are Not OK」と思うこと(自己愛性パーソナリティ障害的な状態)で、自信をなんとかこしらえることができます。

 それが外に向くと、事業や仕事で一時的に活躍できたりすることがあります。

 

 

 自己愛が傷ついている状態の人というのがいます。トラウマを負った人たちにとっては、ハラスメントを仕掛けてくる側の人たち、といえるかもしれません。

 自己愛が傷ついているということは、常に「負け( I’m NOT OK )」を抱えている、ということです。
 
 人間、「負け( I’m NOT OK )」を抱えている状態を解消するためには、相手に「勝つ(You are Not OK)」しかありません。

 

 それが事業、仕事とか生産的なものに向く場合は良いのですが、そうした手段も奪われている人たち、あるいはあまりにも「負け」が混んでしまっていてにっちもさっちもいかない人、身体レベルでも強い不安、自信喪失を抱えている人は、他者を貶めることで、「勝ち( I’m OK )」を得ようとします。

 

 無意識に「勝てる(You are Not OK)」人を探そうとします。

 
 そうして「勝てる(You are Not OK)」人を見つけて、相手の行動に因縁をつけて、相手をコテンパンにやっつけようとします。

 例えば、ちょっとした態度や仕草、言葉尻、メールの文面を取り上げては「失礼だ」として怒り出したり。応じた相手を徹底的に人格攻撃をしたり。
 

その時の攻撃というのが、徹底しているのは、「勝つ」ためです。
 そのため攻撃(ハラスメント)を受けた側は、「こんなに非難されるということは、自分はよほどひどい人間なんだ」、と真に受ける必要はありません。
 なぜなら、「勝つ=相手を徹底的に負かす」ということだからです。
 相手を全くだめな人間だ、という形にしなければ、「勝ち」がつかないからです。

 自己愛が傷つくと側頭葉に怒りがたまり、認知に歪みが生じていますから、本人も半分無意識的に行っていることです。

 そうして「勝ち」を拾って、自分を一時的に癒そうとします。ただ、一時的なものですし、根本的には、何も解決しませんので、次の対象を探して、回ることになります。

 

 

 こうした人達が、世の中の「サービス業」の周辺を回遊していたりします。
 (境界性パーソナリティ障害、発達障害の一部の人達などがそれに当たると考えられます。)

 サービス業で目指すのは経済的にはWin-Win ですが、精神的には「Lose-Win」(お店側が負け-お客様が勝ち)という体(演技)をあえてとっているのは(「出血大サービス」という表現を使っているのは、まさにそうですね。「私達は大負けして、あなた達が勝っているんですよ」というニュアンス)

 

 トラウマを負った人は、この負ける演技をすることがうまくできない。ニュートラルな関係の中で、演技(=儀礼)をすることなのですが、すごくへりくだりすぎてしまったり、演技をせずに棒立ちになったりするので、相手は嫉妬を起こしたり、あるいは脅威、「負け」を感じてこちらに勝とうとして、失礼なことを言ってきたり、輪をかけてこちらを攻撃してきたりするようになります。

 人間は相手に「負け(You are Not OK)」を負わせて、自分の勝ちを得ようとする生き物、ということも世の中の裏ルールと言えるかもしれません。

そのルールを知った上で、うまく対処する必要があります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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「関係」は、基礎から積み上げていくもの

 

 スポーツなどではよくありますが、素晴らしいファインプレーや、流れるような動き、を素人が雰囲気でマネしようとすると、雰囲気はマネできるけども、根本的に違う、ということがあります。
 すると、「やっぱり、自分とプロは違うんだ」と落ち込んでしまいます。

 

 でも、実は、ファインプレーのような応用技とは、正確な基礎の上に成り立っています。

 

 プロほど基礎が正確に反復ができて、その上に応用が成り立っている。

 

 私たちのような素人は、そのことがわからず、基礎が不安定なうえに応用に走ってしまって打ちのめされてしまいます。

 

 コミュニケーション(「関係」)においても同様です。
 人づきあいがとても上手な人は、シンプルな基礎があって、その上に応用がなされています。

 
 例えば、本当に仲の良い関係ができている、気さくに話ができている、気づかいが素晴らしい、という「応用」の裏には、これまで紹介しました、「関係」の基礎ができている。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 その構造を知らないまま、いきなり仲の良い関係になろう、気づかいをしよう、としてもうまくいきません。

 いきなり応用から入った場合にどうなるかといえば、

 

 ・最初は仲の良い雰囲気だったのに、次第に馬鹿にされるようになり、関係が壊れてしまう(※基礎②:公的環境が整えられていない)。

 ・へりくだりすぎたり、弱みを見せすぎたりして、公私があいまいな状態を生み出し、ハラスメントの標的となってしまう(※基礎②の欠如)。

 ・相手が理不尽な言動をしたときに、自分のせいだと思って振り回されてしまう(※基礎①:健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである、ことがわからなくなっている)。
 ・自分がかかわりたくない人を引き寄せてしまう(※基礎③:階層構造を十分に理解していない)。
 ・誰でも彼でも気を使ってへとへとになってしまう(※基礎③の欠如)。

 などなど、

 

 

 個人間の「関係」でのトラブルと似た事象として、ビジネスにおいても、トラブルになってしまう、ケンカ別れになってしまうことがあります。出会ったときは意気投合して始めたけども、うまく行き始めたら思惑がずれてケンカ別れしてしまう、といったようなことです。

 よくよく聞いてみると、最初にちゃんと目的や責任の範囲や取り決めをしていなかった、あるいは、契約書を交わしていなかった、ということはよくあります。

 「その場の雰囲気で気が合うと感じるなら大丈夫だろう」
 「取り決めとか、堅苦しいことを言うと関係を壊してしまうのではないか(だから取り決めなんかしなくても大丈夫だ)」
 「信頼するというのは相手を信じることで、取り決めは疑うことでそれに反する。」
 

 という甘い考えや幻想から起こることですが、ビジネスのプロトコル(手順)から外れているので、やっぱりトラブルになってしまうのです。

 仕事においても、本当に良きパートナー、気の置けない関係、というのはあります。でもそれは、基礎がちゃんとできているから。私たちが錯覚してしまうのは、完成形(応用技)だけを見て、それをまねようとして基礎を抜かしているからです。

 

 

 私たちが個人間での「関係」を結ぶ場合も同様です。

 友達と気の置けない関係を築いている人、人づきあいのうまい人が築き上げた関係の完成形だけをまねたり、あるいは、「私には無理だ。根本的に違う」といったように落ち込む必要はない。

 以前筆者も書きましたが、人づきあいのうまい人でも親友を作るのは困難だ、と感じていたり、仲良さそうに見えても、本人に聞いてみると「そんなに仲良くないよ」「自分は友達少ないよ」と言ったりするものです。

 

 人間関係ではみんなそこそこ苦労している。
 
 

 そうした実態は幻想で見えなくなっている。

 よい「関係」を再構築するためには、応用や完成形から入ろうとしない。幻想や表面的な事象を排して、その本質となる「基礎」から組み立てる。

 

 その基礎を、ワンパッケージでインストールしてくれて、「それでいいのだ!」と確信を持たしてくれるものが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 成人になってから、親からの愛着を取り戻す、というのはなかなか容易ではありませんが、「愛着」がインストールしてくれるはずの「関係」の基礎の要素を分解して、理解して身に着ければ挽回できます。知的な理解から入って、取り組むだけでもかなり楽になります。

 

 

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「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 昔、筆者が、ペーパードライバーの講習を受けて運転の練習をしていたときのことです。

ドライビングスクールの先生と少し雑談しながら、運転をしていました。

  筆者「そういえば、運転すると人が変わる人っていますよね?」

  先生「いますね。」

  筆者「なんででしょうね?あれは」

  先生「車内がプライベートな空間で、自分が解放されるみたいですよ」

  筆者「なるほどそうなんですね。確かに知り合いのおじさんも、車に乗ると、オラー!って人が変わっていました。」

 

 

 このように、
 どうやら、〝私的な空間”というのは(厳密にいえば公私の区別があいまいなところは)人をおかしくしてしまうようです。

 

 

 別の例では、DVを行う男性もこれに似ています。
  公的な空間にいると、紳士的なのですが、
  私的な空間になると、人が変わって、パートナーに暴力、暴言を浴びせてしまう。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 親が子供にイライラをぶつけたり、暴言を吐いたりするのも、実は同様です。
 
  特に核家族になって、他者からのまなざしがない閉じられた私的な空間の中で親が解離を起こして、人が変わってしまうことから、イライラ暴言は起きます。
 (自転車に乗っているときに後ろに乗っている子供に暴言を浴びせているお母さんがいたりするのも車に乗ったら人が変わる、ということと同じなのかもしれませんね。)

 

 

 

  機能不全家族、というのは、家庭の中に「公的な環境」が失われているために父親、母親といった公的な役割が果たされていない(公私の区別があいまいな)状態を指します。

  「公的な環境」の代わりに、父親、母親の個人的な価値観(ローカルルール)を絶対化して多様性が失われ、過度に厳格になったり、逆に一貫性がなかったり、無秩序になったりしてしまいます。

  ローカルルールというのは、公的な仮面をかぶった私的な価値観の強制です。

 

 
 いじめ、ハラスメント、というのも、まさに公私の区別があいまいな環境で起こる現象です。
 学校や会社などは、「うちはうち、外の常識は関係ない」として、おかしなルールがまかり通りがちです。

 そこでは、私的な情動がむき出しになって、まともな人たちもおかしくなってしまいます。
(先生も、いじめっ子の味方をして、いじめられた側が悪い、と平気で主張したりするようになります。)

 

 こうした環境には、よほど愛着が安定していなければ抵抗することはできません。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと
 

 

 

 
 前回も書きましたが、「愛着」とは、子どもの中の私的な情動を、親のかかわりの中で公的な表現へと昇華させる作業です。

 おなかがすいたら、「おなかがすいたの?」

 悲しい時には、「悲しいの?」

 と関わることで、子どもの一貫し、情動は安定していきます。

 

 反対に

  楽しい時に、怒られる。
 
  悲しい時に無視される。何もないのに、

  気をつかわなければならない。

 こうした一貫しないコミュニケーションのことをダブルバインドといい、人類学者のベイトソンなどは精神疾患の原因としてきました。

 

 統合失調症などの原因としては否定されていますが、ベイトソンの視点は慧眼で、一貫しないコミュニケーションは人をおかしくしてしまいます。

 一貫したコミュニケーションとは、予測可能性を与え、それが「安心安全」を生みます。反対に、一貫しない応対というのは、不安の温床となります。

 境界性パーソナリティ障害の背景にも、養育環境での一貫性のなさの影響、あるいは自身や養育者の発達障害傾向等の身体的失調による情動の不安定さがあるのはそのためです。

 

 

 

 「私的な情動」というのは、私たちにとってはエネルギーの元となるもので大切なものです。ただ、加工されていない生の資源はそのまま用いることはできないように加工される必要があります。不純物も混じっています。
 加工され、磨かれて「公的な表現」となって初めて、社会で通用するものになるのです。

 プライベートとは、私たちの内面のことです。特に大人の場合、同居者がいれば、家庭の中でも本当の意味でのプライベートはありません。公的な機能を果たすことが求められます。
 (もちろん、家ではくつろいだり、休養したり、気楽に過ごしたりすることは大いにしなければなりませんが、そこにもマナーが必要になります。)
 そこを勘違いしてしまって、親の機能を果たさずに生の私的情動を発散させ、自分の価値観を押し付け、ハラスメントや虐待となってしまいます。
 

 

 

 私たち人間は一貫し、安定した、公的な環境に照らされることで成長し、社会の中で位置と役割を得て、「社会人(市民)」として成熟することができます。
 自分の内面でさえ、内省を経て磨かれて初めて意味のあるものになります。瞑想や禅などはそうした役割があります。

 

 

 社会が混乱したり、あるいは当人の内的環境(健康状態)が不安定なるなどして、公私の区別があいまいになってしまうと、私的情動が適切に昇華されず、自己や他者に対する攻撃や支配となって向けられられるようになります。
 カルト集団内部とか、ナチズムが生まれた社会環境はまさにそうです。

 

 

 私たちは、公私の区別があいまいな環境ではおかしくなってしまう。

 

 ここに、私たちが「関係」を再構築するための大きなヒントがあります。

 

 

 「親しき中にも礼儀あり」とはよく言ったもので、私たちが、心地よい「関係」を築くためには、「公的な環境」をどう作るか?維持するか? 公私の区別をあいまいにしない、ということがとても大事だ、ということです。

 

 ハラスメントを受けやすい方、バカにされやすい方、というのは、対人関係において公私の区別があいまいになってしまっていると考えられます。

 それは、もともとの養育環境が公私の区別があいまいでローカルルールがはびこる中で、混乱した状況を生きてきたために起きます。
 親がそうだったために、対人関係であいまいな対応、私的な対応をしてしまうことが当たり前となっているのです。

 

 例えば、人間関係で大切とされるような「気をつかう」「へりくだる」「相手の内面に立ち入る」といったことは、公私の区別をあいまいにしてしまうもので、実は本来は安易に使ってはいけないものなのです。

 

 

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親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「安心安全」と「関係」

 私たち人間が自分らしく生きいていくうえで必要なものとは何でしょうか?

 これまでの記事でも書きましたが、人間は有限で循環しながら、秩序を形成し、成熟していくのですが、
 現時点で分かっている知見からみると、 
 そのかなめは
 「安心安全」であり、次に「関係」なのだといえそうです。
  

 最も大切なのは「安心安全」です。それをいかに確保するか?ということ。

 近年再注目されている「愛着」がどうして大事かといえば、幼いころに、親との絆という形で「安心安全」の感覚をワンパッケージでインストールできる効果があるから。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 母親(父親)に十分に抱きしめられた。適切に応答されてきた経験があることで、世界は秩序があって、安心安全なのだ、と感じることができます。親が、「安全基地」として機能するため、成長の過程での探索も抵抗なく行うことができるようになります。「関係」の形成も後押ししてくれます。

  前回の記事では批判的に紹介したロジャーズの来談者中心療法も、それがなぜ効果があるか?といえば、外では得られない「安心安全」を提供しているから、と考えられる。

 

 もし、いろいろな要因から安定した「愛着」が得られなくても、それが「安心安全」のことなのだ、ととらえれば、取り組みようがあります。

 逆に、「愛着」を“親子の絆”というように狭くとらえてしまうと、“絆”という何やらウェットな関係を取り戻そうと必死になって、親はそれに応えてくれずさらに傷つく、ということになりかねません。

 さらに、「愛着=絆」と考えると、解決のために何をしていいかわからなくなったり、複雑な行為を想像してしまいますが、「愛着=安心安全」と捉えれば、いろいろなアプローチが考えられます。
 

 

 

 安心安全を回復する方法について、いくつかの視点があります。土台となるのは、身体の内部の安定性を高めること。そのために、睡眠、食事、運動、といったことがある。

 どうして、睡眠や食事、運動が有効なのか?といえば、身体のレベルから「安心安全」を取り戻す効果があるから。以前も書きましたが、どんな暗示の言葉などを駆使しても、それはあくまで促進剤であり、体内の治癒力にはかなわない。医療、薬もあくまで治癒力を助けるためにある。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 マインドコントロールなどで悪用されますが、睡眠、食事、運動を制限されると内的安定性が急減し、とたんに人間の精神面での安定は下がります。逆に言えば、それらの質が高まると、精神面の安定は高まるということ。

 

 また、“身体”とは、私たちにとって一番手前にある“自然(世界)”です。
 身体が安定すると、私たちと“自然”としての身体との信頼が高まり、結果、世界に対する信頼も回復していきます。
 パニック障害は典型的ですが、身体への信頼が下がると、世界とのつながりが断絶し、「安心安全」感も急激に下がるのです

 「愛着障害(不安定型愛着)」が原因で悩みを抱えている方の問診を詳しくとると、睡眠、食事、運動に何らかの問題があることがほとんど。ある意味とても、努力家で、能力が高かったり、ということもあるので、自分はもっともっと頑張らなきゃ、と努める結果、「内的な安定」にとって大切な要素が犠牲になって、「安心安全」が不足して、という悪循環に陥っている。

 

 

 私たちは、回避や防衛といった意図しない問題行動をとってしまうのも、「安心安全」がないから。身に迫る危険からなんとか自信を守るために回避や防衛を起こしている。回避や防衛は脳に備わった安全装置ですが、放置しておくと社会生活を送る上ではなかなか厄介なことになりえます。

 認知行動療法などでは、「認知の歪み」が悩みの原因である、と考えますが、実は違います。認知は悩みの原因ではありません。「安心安全」がなく追い込まれた結果として、最後に認知は歪み、問題を起こすのです。
 原因ではなく結果であり、原因のように見えるのは二次的な問題を生み出す元になっているため、と考えられます。

 

 愛着の研究の知見などから考えると、「安心安全」の欠如こそが悩みの真因の一つと考えられます。 悩みの原因を、深層心理だとか、未知なる何か、に求めてしまうと、いかにアプローチをしたらよいかがわからなくなってしまいますが、「安心安全」を回復させればいいのだ、と考えればシンプルになります。

 

 

 例えば、安心安全には、「経済力」も重要。 俗に、「金持ち喧嘩せず」といわれるのは、経済力が安心安全を担保してくれたり、心理的な安定の元となっているため。
「金持ちブーム」というのも、お金があってうれしくない人は基本的にいませんが、生きづらさを抱える人が「安心安全」を求める本質が下地にあるのではないかと思います。

 ただ、すべてを「心理」に求めるのはおかしい。TVや新聞を見ていれば貧困などが問題となっているように、お金にまつわる生きづらさとは「社会的な問題」であることが基本。
 かつてであれば、自殺をしたら「景気が悪いせいかしら」など、と要因を社会に求めるのが普通であって、個人の心理のせいにするのはどこか変なのです。心理学ブームや新自由主義(自己責任の強調)の影響であると考えられます。
 マクロの経済からすれば、個人の努力なんて塵程度のものでしかありません。たとえば、急成長する会社があれば、それは経営者の力もあるけど、基本は時代のおかげ。人間は環境にはあらがえません。

 

 お金の問題を自分の責任とは思わず、社会の問題、政治の問題としてとらえることも大切。そうすると、これまで自責で苦しんでいたものがとたんに軽くなりますし、そのほうが実際に良い方向へと改善していきます。自分の意識の問題だ、なんて言っている状態の時のほうが物事はうまく回らなくなります。

 

 社会の要因から来ている生きづらさが個人に転嫁されることを社会学では「関係性の個人化」といいます。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」 

 

 カウンセリングの役割というのは、「安心安全」が定着するサポートを行うことです。「安心安全」が確保されない要因はいくつもあります。
 生活習慣の乱れもそうですし、運動不足もそう、愛着が不安定で安心安全のパッケージがないこと、ハラスメントなど現在の環境の悪さ、家庭の問題、経済的な問題、など、そこを切り分けて、内的安定を高めて、呪縛で罪まみれになったクライアントさんの“冤罪”を明らかにしていく。「安心安全」を回復させていく。

 

 「安心安全」を確立するためには、最終的には「関係」が不可欠。
「関係」というのものには、社会的な呪縛も大きく、ここをいかにして乗り越えるかは、重要なテーマとなります。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

誰かに「自分に罪はなく、自分はおかしくない」と証明してほしい。

前回の記事ではアルコール依存症を例に書きましたが、
悩みを持つ方、トラウマを負った人は、どうしようもなく苦しい悪循環に陥らされてしまいます。

 

1.親や周囲から子どものころにおかしな暗示を入れられてしまう。
(あるいは生まれつきの気質で環境になじめず、普通のストレスもトラウマ(暗示)として記憶されてしまう。)
    ↓
2.その暗示をもとに問題行動を起こさせられてしまい、問題行動が暗示を証明しているように感じさせられる。暗示が強化される。
(「ほら?やっぱり、あなたはおかしな人間じゃないの」「何もできないじゃないの?」)
    ↓
3.さらに苦しみが倍加して、その苦しみを癒すために問題行動や、関係念慮、解離など様々な症状が生まれる。

    ↓
4.その問題行動が自分がおかしな人間であるという思いをさらに強くする。場合によっては、治療、支援してくれる人にも疑いの目を向けて、サポートが少なくなり、さらに苦境に立たされる。
    ↓
5.この悪循環(スパイラル)。

 

私たちは、日々、ストレスにされされます。人格にかかわるような批判にさらされることもあります。支持的な人が周りにいたり、「愛着」が安定していれば、都度、そのストレスをキャンセルして、暗示はブロックされます。
しかし、残念ながら、そうした支援がない場合、「自分はおかしな人間である」という意識はぬぐえなくなり、罪まみれになったような感覚になります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

悩みを持つ人、トラウマを負った人の願いは一つ
「誰か、この罪(暗示)を説いてくれ!」
そして、
「自分に罪はないことを、おかしな人間ではないことを証明してくれ!」
「自分はおかしな人間ではないんだよ!周りがおかしなだけなんだよ!身体、心が言うことをきかないんだ!わかってくれ!!」

ということです。

 

私たち人間は「二重の見当識」といって、どんなにおかしな症状に陥っても、自分を冷静に見る視点や直観を持っています。

私たちは、直観では、「自分はおかしくない」ということを知っています。でも、社会で行う自分の言動は問題ばかりで、それを現実に証明することができないでいるのです。

 

本当だったら、自分の親や家族が「お前は大丈夫だよ」と言ってくれればそれで解決するのに、親や家族に限って、それをしてくれません。
「お前は~~がダメだ」「そんなんじゃ、どこでも通用しない」と否定的な言葉を浴びせ続けます。

 

悩みを持つ人、トラウマを負った人は、自分の暗示を解くカギを自分の親が握っている、と思っています。だから、成人してもなお、親にこだわります。
親に訴えて、訴えて、「まともな親になってくれよ」「そして、私のことを「大丈夫だよ」と一言いってくれよ」と懇願します。

でも、親は応えてくれません。だから、暗示の呪縛はそのままです。

 

カウンセリングや心理療法は、「あなたは大丈夫だよ」「罪も何もなく、問題ないよ」と心から思えるために親の代わりに“代替のカギ”を作り出して、呪縛を解こうとします。

カウンセリング、心理療法の究極目標はここにあって、そう考えると私たちの行っていることは、とてもシンプルなものです。

ただ、実現のためにはいくつものハードルがあります。
(なかなか、その“代替のカギ”がうまく鍵穴に合わない!?)

 

誰かに自分が無罪でおかしくないと証明してほしい、ということを実現するために、その”カギ”を探して、悩みを負った私たちは、長く険しい旅を歩んでいます。

 

映画や文学などの冒険譚で、主人公が呪いを負っていて、その呪いを解くために旅をしている、といったストーリーを目(耳)にしますが、こうした私たち人間の姿を現しているようです。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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お悩みの原因や解決方法について

世界に対する安心感、信頼感

 

 筆者が、子どものころ、学校の成績はあまりよくなく、おそらくせいぜい真ん中くらいだったのではないかな、と記憶しています。
 小学校のころはそもそも成績を意識することはありませんでした。

 

 中学に入ると、本格的なテストというものがスタートしますが、勉強するのはテストの時だけでした。
普段はそれほど真剣に勉強をするわけではありませんので、ずーっと真ん中を行ったり来たりしていました。
 英語は最悪で、20点台の時もあったのを覚えています。勉強していないので当然ですが・・。

 

 ある時、秀才の転校生がやってきました。その転校生は、子どものころから塾に行っていていたようで、勉強の仕方を知っていました。自分で中間、期末の予想問題集をつくって、配ったりしていて、実際、その通りの問題が出たりしていました。
 当時の筆者にしてみたら、どうして何がテストに出るのか最初からわかるの? という感じですが、勉強に慣れた立場であればなんてことはないことなのかもしれません。

 

 筆者は、その転校生に勉強の仕方を教えてもらうようになったことと、このままじゃだめだ、という危機感もあって成績が一気に伸びたのを覚えています。
目からうろこというか、ああ、こういう風に取り組むものなのか! と思った経験があります。

 

 勉強が得意ではない人にとって、数学でも英語でもなんでもそうですが、世界は無秩序で、安心できない感覚があります。そわそわするような感じ。結果が悪いと放りだしたくなるような感覚。あるいは、テストの結果が自分の人格と連動しているような感覚。自分が良い成績が取れるとはおよそ想像もつかない。いや~な感じです。

 

 一方、勉強が得意な人を見ていると、そもそも落ち着いている。世界には秩序があって、冷静に適切に向き合えば、そこには取り組み方やコツ、対策というものが必ずあるという確信がある。結果が悪くても、無用な反省や、自分の人格と結び付けてへこむ意味はなく、淡々と問題点を洗い出して、修正をする。

 このような感覚が教科の勉強だけではなく、世界全体に及ぶと感じられる人は、社会に出てからも同じように取り組んで成功できる。
 おそらく、勉強だけではなく、スポーツや芸術などの分野でもトップクラスの人はそのような感覚があるようです。
 (プロの選手などを見ていると失敗してもケロッとしていたりしますね。「ごめんなさい」なんて基本的には言いません。)

 

 勉強が得意な人の中でも当然レベルの違いがあって、
 本当にありのままに世界をとらえる人と、自分独自のマイルールで世界をとらえる人とがある。
 自分独自のルールでとらえる人は調子の良い時はいいけども、調子を崩すと立ち直りにくくなったり、不得手なものは不得手なままだったりする。
 自分独自のルールでとらえる気持ちの裏には、どこか世界というものが信頼できないので、呪い(まじない)のようなもので何とか抑え込んでいる、という感覚があるように思います。

 本来、出来る限り、世界をありのままにとらえられる人であればあるほど、癖や偏りなく世界とかかわることができます。

 

 それを支える能力のことを「非認知能力」といって、子どもの学力やソーシャルスキルの土台となるのではないか?と最近では指摘されています。「非認知能力」とは、目標に向かって頑張る力、感情のコントロールや対人関係に関する能力などのことです。

 

 受験勉強とか、部活などは、社会とのかかわり方、付き合い方を鍛える役割があって、そのために、就職の時は学歴や、体育会系が評価されるのでしょう。
 ただ、受験勉強については、一人だけで取り組めて、自分独自のルールでも突破できてしまうので、社会に出てから、人間関係などで躓く場合もあります。

 

 

 最近注目される、「愛着」というのは、「非認知能力」の土台となるものを、パソコンのオペレーションシステム(OS)のように、ドライバやアプリまでワンパッケージで提供してくれます。
 そのため、本人が一つ一つ必要なものを自分で集める必要がない。自然体でいればそこそこに世界とかかわることができます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 子育ての費用対効果は早いうちのほうがよく、年齢が立つにつれて挽回しづらくなってくる。
 (特に、1歳半くらいまでは、親ができるだけ頻繁に抱きしめて愛着を形成を促したほうが結局後が楽なようです。)

 

 「愛着」で何より大切なのは、世界に対する信頼感というか安心感というものです。
 

 

 冒頭に書いた、勉強が得意な人が「この世界というのは、秩序があって、そこにはルールやコツ、対策が必ずある」という確信があるのもまさにこのためです。

 

 

 世の中の裏ルール、二階建ての構造になっている、ということについても、世界に対する信頼感や安心感があれば、自然と感じ取って、身についたりします。
(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 安心感や信頼感が崩れれば崩れるほど、世界をありのままに捉えることができなくなり、そこに呪い(まじない)のような解釈やマイルール、ローカルルールが入ってきて、世界を「知る」のではなく、「信じる」ような関わり方になってしまいます。

 

 

 

トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう

 

前回、自他の別を越えてハラスメントを受ける、といった内容を書かせていただきました。

逆に、自分自身が自他の別を越えて、相手を侵犯してしまう、させられてしまう、ということもよく起こります。
「余計なお世話」というものです。

そうしたときは解離させられていることが多く、「相手はわからず屋で道理は通らない」「自分が何とかしなければ」と思い込まされています。

そして、自他の別を侵犯していることを正当化するために、ムリな理屈や自分の価値観を絶対化する(モラハラ)ようなことをしてしまいます。

すると、相手は反発したり、逆に依存してきたりします。

反発されると怖くなって相手をこき下ろし、依存されると、何とかしなきゃ、と頑張って、泥沼になってしまいます。

 

 

例えば、子どもが宿題をしない、しつけを守らないのは、
どこまでいっても「子どもの問題(領域)」です。

大人にできることは「こっちのほうがいいよ」と教えてあげたり、手本を見せる、といったところまで、ですが、あたかも自分の問題であるかのようにイライラしてしまうことがあります。

それは自他の別を越えて、子どもの領域まで侵犯している、ということになります。

 

結果、ますます子どもは宿題をしなくなります。
なぜなら、介入してきた親が宿題は自分の問題、と手を挙げて宣言しているからです。また、子どもは道理が通らないおかしな人間だ、という勝手な前提も持ち込んでもいます。

 

人間は無意識に責任の在処を察知していますから、ダチョウ倶楽部のコントではありませんが、手を挙げた人に、「どうぞ、どうぞ」と責任がやってきます。ここでは、手を挙げた親が宿題の責任を負うことになります。

育てにくいお子さんがいることは事実ですから、子育ては簡単ではありません。
ただ、周囲ができることは、環境を整備したり、構造化したり、といったことまでで、実際に行動するのは、どこまでいてもそのお子さん本人になります。
これも、「自他の別」です。

 

 

介入する親の側も、自分の親から同じような対応を受けてきて、道理の通らない、理不尽な世界で生きてきた方が多いようです。(イライラする親の頭には、子どもの責任を自分のせいにしてくる自分の親の理不尽な声が聞こえているのかもしれません)

 

理不尽で、道理のない世界で生きてこられていますから、
世の中は道理が通って当たり前だという信頼感や自他の別を分けている状態に対する安心感がありません。

 

 

 

 

 

また、自他の別を侵犯することが当たり前の環境で育っていますから、自他の別がある状態がどこか冷たいように感じてしまったり、素っ気ないように感じてしまったりします。
壁を越えることが愛情、世話であるような錯覚をさせられています。

 

一番わかりやすいのは、生後半年~1歳半までの親子のコミュニケーションで、ここでお母さん(お父さん)が忙しかったり、不安定だったりして、十分に抱きしめられていないと、境界を越えて愛情を得ようとしたり、逆に求めなくなったり、両価的で不安定になったり、ということが起こるのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

大人になってもそのスタイルは続き、
自分が相手に領域まで入っていって、何とかしなければいけない(自己愛性パーソナリティ)、逆に正面から要求できず相手が介入してきてくれるのを待つ(依存性パーソナリティ、回避性パーソナリティ)、ということがコミュニケーションの基本となってしまいます。

関わるところと関わらないところ、自分と他人の領域の区別もつかなくなります。

そして、無理やり「ローカルルール(理不尽な前提)」を作り出して、自分の行動を正当化しようとします。
(壁を越えることは愛ではありません。)

そして、それが周囲に連鎖していきます。

 

 

恋愛関係では、「自他の別」がよりごちゃごちゃになります。

「俺ならあいつをなんとかできる」として、自他の別を越えて介入してしまいます。
介入することが恋愛であるという、快感(錯覚)も手伝います。

相手が問題を抱えていると、
泥沼の中でボロボロになって抜け出せなくなってしまいます。

 

 

ゲシュタルト療法のフリッツパールズが書いた有名な言葉に、ゲシュタルトの祈り、というのものがあります。

 

 

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待にこたえて行動するためにこの世にあるのではない。
そしてあなたも私の期待にこたえて行動するためにこの世にあるのではない。
もしも縁があって、私たちがお互いに出会えるなら、それはすばらしいこと。
出会えなければ、それはしかたのないこと。

 

 

パールズ自体はエキセントリックな人だったそうなのですが、この文句は、人間関係の本質が書かれているように思います。

 

人間同士は、本来もっともっと距離があって、自分の領域を大きく後退させて狭めて、必要な時、余裕のある分で関わり合うものです。
敬意というのは距離をとることであり、その上で相手に関心を持つことです。
家族でも(家族ほど)、自他の別をしっかりととれる環境をお互いに作ってあげることが、本当の安全基地のあり方なのかもしれません。

 

なぜ、動物や自然がカウンセラー以上の癒しを与えてくれるかといえば、無用な関わりをしてこないからです。

 

こうしたことが、現代の自己愛型社会では見えなくなっていたり、コミュニケーションや愛の名のもとに領土侵犯が当たり前になっています。

愛着不安やトラウマを負っていると、そのことが顕著に現れます。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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