「常識(パブリックルール)」が弱い、とはどんな状態か?

 

 
 前回、トラウマを負っている方は、「常識(パブリックルール)」が弱い と書きましたが、これは、もちろん俗に言うような意味で「常識がない」ということではありません。

(参考)→「自我と常識(パブリックルール)が弱い

 むしろ、他人からどう思われているか? 迷惑をかけていないか? をものすごく意識しています。

 「過剰適応」という言葉があるように、常識やルール、マナーということは意識しすぎるくらいに意識している。

 過剰なくらい”常識的”です。
 

 

 しかし、ここからが問題ですが、

 一方で、自分がどこか変だ、と感じている。

 なぜか、自分がマナーや常識というものがわからない感覚があって、それを人から指摘されるのではないか?と恐れている。

 だから、過剰に意識しているのです。

(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 

 さらに、トラウマを負った人が考える「常識」とは、他人の考えを忖度することだったりする。他人の頭の中を覗きにいって、相手の機嫌を損ねないような振る舞いが「常識」と考えていたりする。

 

 本来は、他者の頭の中を経由せずに社会通念、社会でのルールをダイレクトに身につけるものが「常識(パブリックルール)」です。

 他人の頭の中を忖度したものは「ローカルルール」です。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

  

 他人が言う理不尽なことも含めてそれが「ルール」だとして守ろうとする、合わせようとしてしまう。

 そうすると、段々と、ほんとうの意味での「常識(パブリックルール)」からはずれていってしまって、さらに自分の足場がわからなくなる。
 結果として、パブリックルールに支えられて形成されるところの「自我」も弱くなってしまう。

 

 人間は社会的な動物と言われるように、「自我」と「常識(パブリックルール)」とは、対の関係になっていて、「常識(パブリックルール)」の型がなければ「自我」は健康には成り立たないものです。

 一方で、「自我」がしっかりしていないと、「常識(パブリックルール)」もうまく根付かない。
  

 「自我」が曖昧なために他者の頭を忖度して、ローカルルールを常識だと勘違いしてしまう。
 
  
 トラウマを負った人のもつ常識とは、過去に受けた理不尽への対応集になっています。

 そうした状況を指して、「常識(パブリックルール)」が弱い、というのです。

 

 

 

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自我と常識(パブリックルール)が弱い

 

 ある学者が、「個人-中間集団-国家」と3層で考えたときに、日本は、個人主義と国家主義が弱い、みたいなことを書いていて、とても印象的でした。

 たとえば、戦前の日本は、国家主義で「お国のために」と建前では強調されていましたが、実際は国ではなく、省益や世間の圧力で動いていました。
 イメージとは異なり、戦前は国の力がとても弱い時代でした。

 事実、総理大臣でも戦争を止めることはできないし、予算も通せないし、大臣を選ぶのも自由にできない。
 天皇にも全く発言権はない。無責任体制と呼ばれるような極度な“分権制”でした。
 

 そのために機能不全に陥ってしまい、本音ではしたくもない戦争に突入して負けてしまった、ということのようです。

 

 

 この学者さんの指摘が印象的だと感じましたのは、機能不全に陥る状態が、トラウマを負った人とよく似ている、ということです。

 

 「1.自我」-「2.中間集団」-「3.公的規範」の三層でとらえた場合に社会と同様に、私たち人間にとっての機能不全状態とは、「1.自我」と「3.公的規範」が弱い状態を言います。

 反対に、機能している状態というのは、「1.自我」と「3.公的規範」がしっかりとしていて、「2.中間集団」はそれに従属しているような状態です。
 

「3.公的規範」とは言い換えると「常識(パブリックルール)」ということです。

 

 

(図解)機能している状態-機能不全状態の違い

機能している状態:「◎1.自我」-「△2.中間集団」-「○3.公的規範」

機能不全状態:  「●1.自我」-「◎2.中間集団」-「●3.公的規範」

 

「1.自我」というのはすべての土台です。
 これは愛着によって支えられます。
 愛着の支えによって健康に形成されていく「1.自我」は、教養、仕事を通じて「3.公的規範」に接続されます。
 

 「◎1.自我」-(教養・仕事)-「○3.公的規範」というラインが揃うと公的な人格として自我も発揮しながら自己一致、自己実現が果たされるのです。

 

 

 

 しかし、愛着が不安定であったり、トラウマによってダメージを負ってしまうと、「1.自我」がうまく確立しなくなる。そうすると、「1.自我」を確立するために内面化していた他者(通常は親)の規範がローカルルールとなって「1.自我」を支配するようになってしまいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 
 

 「1.自我」は単なる不安定な私的情動となって、その人を苦しめるようになります。

 その結果、「3.公的規範」とうまくつながれていない「2.中間集団」のローカルルールに支配されやすくなります。

 「2.中間集団」のローカルルールとは、具体的には、家族の支配、学校でのいじめ、会社でのハラスメント、などが代表的です。

 

(図解)ローカルルールに支配されてしまう

「◎他者の規範」が支配 

   ↓
「●1.自我」→「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→「●3.公的規範」に繋がれない。
  

 

 中間集団に支配された自我は、さらに中間集団に従属あるいは他者を巻き込んでいって、というハラスメントの連鎖が起きるのです。

 (図解)ハラスメントの連鎖

 「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→ 

  ↓ 巻き込み≒支配

 「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる→ 

  ↓ 巻き込み≒支配
「●1.自我 」  → 「◎2.中間集団」に支配されやすくなる → 「●3.公的規範」に繋がれない。

 

 

 

 「自我」が弱い人が、形だけの「常識」を肥大化させたようなケースもよくあります。これをニセ成熟といいます。  

 外では礼儀正しいのに、自分が全然ない、という状態です。
 結局、中間集団への感情に強く影響されてしまいます。

(図解)ニセ成熟 

「●1.自我」-「◎2.中間集団」-「◎形だけの常識」-「●3.公的規範」

 

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 

 自己啓発やある種のセラピーによって、「1.自我」を抑えましょう、無意識に委ねましょうというのも機能不全を引き起こします。
 基盤となる「1.自我」を叩いてしまうのですから当然の流れです。

 この場合は、中間集団のポジションにセラピーの論理が来てしまっていて真の解決を阻む、という構図になってしまいます。
     
(図解)自己啓発やセラピーがログアウトを志向してしまう

「●1.自我」-「◎2.中間集団(自己啓発やセラピー)」-「◎-セラピーの論理」-「●3.公的規範」

 

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 

 

 「2.中間集団」の役割とは、本来「3.公的規範」の代理店です。家族もそう、会社、学校もそうです。
 

 機能している家族、会社は、個人(自我)を尊重した上で、「3.公的規範」を代表し、個人を社会につなげる役割を持っています。

 家族であれば「愛着」を、
 学校は「教育、教養」を、
 会社は「職能、技能」を、提供することを通じて、社会の中での位置と役割を個人に与えています。
 

 
 生きづらさから抜け出そうという場合、こうした構造を知ることはとても大事です。そのうえで、欠けているものを補い、足を引っ張っているものを取り除いていく。
 
 

 特に、いかに「1.自我」を強化していくか?ということが大切で、そのための基礎は「睡眠、食事、運動」であり、「2.中間集団」の影響から抜け出し、「3.公的規範」とつながることがとても大事。
 

 そのための橋渡しが、「愛着」「教育、教養」「職能、技能」です。

(参考)→「すべてが戯れ言なら、真実はどこにあるの?~“普遍的な何か”と「代表」という機能

 

 

 愛着については、以前もお伝えしましたが、特に成人が一人の人から全てを得ることは出来ませんので、街で出会う人達から、0.01程度をコツコツ集めていく。ちょっとした挨拶、目配せ、気配りで十分。
 そうしたものをじわじわ浴びる。

 深い付き合いは必要ありません。負担になってしまいます。

(参考)→「0.01以下!~眼の前の人やものからはほんのちょっとしか得られない

  
 
 橋渡しとしてあげた項目ですが、実は、濃淡はあれ、それぞれを有していたりしますから、「私は~」という言葉を意識して、それらに自分の名前をつける、ということをしていくことです。

 これまでは、完全でなければ自分のものではない、としていたのを、厚かましいくらいに自分のものだと捉えていく。

 難しい状況にある方も多いですが、やはり、社会の中で位置と役割を得られるように様々な支援を受ける。

 

機能している状態:「◎1.自我」-「△2.中間集団」-「○3.公的規範」

 

を意識して、環境を整えていくことがとても大切です。

 

 

 

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アウトプットする習慣をつける

 

 トラウマを負って理想主義的になっている場合によくあるのが、感情にしても声にしても表に出すことを止めてしまっていることです。

 前回までの記事で「愚痴を言う」というのを扱いましたが、愚痴も言えなくなっている。

(参考)→「愚痴はどんどん言って良い

 
 「けっこうおしゃべりで話していますよ」と言う場合があっても、相手に気を使って場をとりつくろう言葉が多いだけで、自分でログインして、自分の言葉で話しているかといえばそうではなかったりする。 
 

 

 よくよく思い返してみると、ずーっと何十年も自分の言葉で話をしていないことに気がついたりします。

 

 それは、自分の言葉で話すと突っ込まれたり、嫌なことを言われたり、攻撃されるような恐れを感じているから。

(参考)→「ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 以前も見ましたが、「私は~」と話さないでいる方がより干渉されるものなのです。

  
 一人称の「私は~」は自分の言葉で他人が干渉する筋合いはありませんが、二人称、三人称は他者も入ってくる余地があるものです。

(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 さらに、他人の気持ちを自動的に忖度するようなメカニズムが働いていて、複雑な連立方程式になっている場合もあります。

 それでは、自分の言葉を話そうとしたらつねに解けない連立方程式を解いてから、となって言葉が出なくなります。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 言葉というのは、そんな忖度などせず、パっと出すものです。

 表に出すことをしないでいると、喉が詰まったり、横隔膜が固くなってきます。 
 

 
 表に出すことをしないでいると、とっさのときに出なくなります。

 とっさに声が出せないと、精神的な免疫が働かずに、他者からの理不尽をそのまま受け取ってしまうようになります。

 

 なにも言わず冷静に受け止めることがレベルの高いことだ、と思っている場合もあります。
 
 それは、ニセ成熟です。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 さっと反応する、突っ込むことができる人が次の段階で、あえて、待つということは応用技としてできますが、いきなり応用技となっている場合は、なにも出来ない状態だということです。

 

 

 すぐにサッと言葉を発するのが自然なことだと認識して、普段からそうするように意識することです。

 

お笑いのツッコミなんかが一番参考になります。

 理不尽、不条理な設定の中で、常識を言語化して陽の光を当てていきます。

 「おいおい、どうなってんねん」

 「あれ?なんかまたおかしなことしだしたよ~」

 「怖い、怖い、怖すぎるやろ」

 「なんか、相手がにらんできたよ、これ」

 「なに、この深刻な雰囲気?勘弁してほしいねんけど」

 

 最初は全然出来ないですが、意識していればだんだんできるように変わってきます。

 あるいは、できないでいる自分が信じている思い込みやとらわれ、そうするに至った出来事なども自覚できるようになります。
   

 言葉にするのが難しければ、少なくとも頭の中ではアウトプットすることです。
 

 

 

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愚痴を言わないと発散できない

 

 理不尽な目にあった際に、さっと言い返したり、反応できればよいですが、社会的な状況で、それが出来ない場合も多いものです。

 

 例えば、失礼な店員さんがいたとか、会社で嫌なことを言われた、とか。

 そうしたことを、「自分はそんなことでは動じない強い、高尚な精神の持ち主ですよ」「まさか、愚痴なんか言いませんよ」といっていると、精神的な免疫が下がってきます。

 

 さらに、相手の理不尽な振る舞いを、「秘密」として自分が抱えてしまうことになります。他人の秘密を抱える構造は精神的にとても良くありません。

 ファミリー・シークレットと言って、家族の秘密を抱えることがアダルトチルドレンといった状態の特徴とされますが、家族以外の人でも同様です。

(参考)→「他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 

 驚くようなおかしな目にあったら、それを知人や同僚に言う。愚痴を言う。

 これは自然なことです。

 陰口を言っているとか、そうしたものではありません。

 

 その際は、できたら1人称で言う。お互い弱い人間同士、「どうしちゃったんでしょうね?」「こんな目にあっちゃってさあ」という感じでいう。

 落語の枕や漫談みたいに話をする。

 「いや~、このあいだ、ひどい目に会いましてね~。お店の店員がいきなり僕に睨みつけてくるんですわ~。殺されるかと思いましたわ~」と。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすると、人間関係がおそろしく、おっくうなものとなる。

 

 

 反対に、「なんでなんだろう?」と理由を考えたりというのは一番良くない。

 なぜ?と考えているときは必ず巻き込まれているときです。
生半可な知識で心理分析などしていれば、もっと巻き込まれています。

 

 理不尽の理由を知る必要なんてありません。
 「寂しいのかな」「かまってほしいのかな」「おかしいな」とバッサリ切り捨てて十分。
 
 理由を考えるのは、報酬を頂いた精神科医やカウンセラーがする仕事。
(参考)→「理由を考えてはいけない。

 

 

 さらに、相手の秘密を抱えて、さも不可解な行動をする人を取り繕う”マネージャー”のようにならない。
 
 いつのまにか、相手の頭の中を覗いて、忖度して、おかしさがバレなように、その秘密を自分で抱えてしまう。

 そんなことをしているうちに、自他の区別が曖昧になり、自分の輪郭がわからなくなり、自尊心が失われてしまうのです。

(参考)→「理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 
 自分は常に陽の当たる明るい常識の側に立っていることが必要。

 相手に引き込まれて、暗いジメジメした影に入っていかない。

 そのための暗いエネルギーの発散(排泄)手段の一つが愚痴です。

(参考)→「愚痴はどんどん言って良い

 

 

 

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