臨床心理の領域では、昔から、親(家族)の影響ということは解釈では外せないポイントとされてきました。
誰でも誰かから生まれてきて養育を受けて育つわけですから当然ともいえます。しかも、その期間はとても長い。
他の関係で、特定の人とこれほど長く、ということはなかなかありません。
精神的にも、身体的にも発達するプロセスでの関係ですから重要さはわかります。
なんでも親(家族)の影響、と捉える、ということについては、筆者は「わかるけど、ちょっと胡散臭いな」と眉に唾をつけて捉えていた時期もありましたが、回り回って見れば、「やはり親の影響はでかいな」「それも、想像以上にでかい」というのが現時点での感触です。
それは、人間がネットワーク側の存在であるということがあります。
自分というものが、それだけで成立しておらず、外からの影響を内面に“沈殿”させて存在している、ということ。
人間は他者を通じて、自分を形成していく存在であるということです。
そのために、成長する過程で一番身近な養育者の影響を受けることは多大で、養育者の世界観そのものまで丸呑みするかのように内面化していくのです。
養育者の世界観が愛着的で、「常識」を代表したものであれば悪影響は少ないです。さらに、そこに2度の反抗期を通じて相対化されて、「自分」というものが離陸していく。
これが健全な発達と考えられます。
一方、養育者の世界観が、非愛着的で、それを理屈で偽装した「ローカルルール」である場合は大変な問題をはらみます。
子どももその世界観で世界を体感していくわけで、無用な恐れ、無用な不安、さらにはそれを超えるための過度な努力、理想、警戒を持つようになってしまいます。
人ともうまく打ち解けられず、生きづらさを抱えてしまう。
そうした苦しさをうむ親の価値観の影響ですが、本人にとっては世界観そのものなので、なかなか感知することが難しい。
見えたと思ったら、薄れ・・
自覚できたと思ったら、また薄れ・・・ と、わかったようでわからない。
霧の中の出口みたいに、見えても薄れとなっていきます。
セッション中に話をしていても、親の影響の話をしていたと思っていたら、あっという間に別の話題にスライドしていったりします。
あと、怒りといった感情も親ではなく別のものに向いていったりします。
それは、親の価値観によって動いてきたことが、その人の人生のメリットにもなってきた(なっている)、という点もあるでしょうし、共依存的に癒着している、という点もあるでしょうし、「ローカルルール」というのは、表面のルールはもっともに見えるために、疑いづらい、という点もあります。
「自分には影響はない」と思っている人でも、必ず(思いのほか)ありますから、親の価値観の影響、という観点を常に持っておくと生きづらさの解決の糸口となります。
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