自然は真空を嫌う

 

 子どものころ、筆者は学校でおしゃべりでした。
 クラスでも冗談を言って笑わせていました。

 授業中も私語をして怒られたり。
 (まあ、子どもですからそんなものですが)

 ただ、そんな当時でも、なぜか、無口で落ち着いた人に憧れて、黙って静かにしようと努力をしたりしようとしたことがありました。

 すました顔でクールにしていようと頑張っていたことがあります。
 ただ、3日くらいするとそれもだんだん崩れてきてもとに戻ってしまうのですが・・

 

 中学の時に、人間不信になるようなショックがあって、それからは、さらに自分を抑えようとして、良い人間になろうとするようになります。おしゃべりが原因だから、おしゃべりをなくそうとしたのです。

 
 

 大学生の後半になると就職にむけて、我流の認知行動療法みたいなものを実践するようになっていました。

 
 自分の間違った考えや信念を修正していくことで自分が変わっていくのではないか?弱点をどんどんなくしていけば、ということで様々に取り組んでみます。

 
 以前にも書いたことがありますが、途中まではうまくいくのです。

 まあまあいい感じになります。でも、結局自分を否定してジェンガのように自分の足元を掘り崩しているために、効果は反転してきます。

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」 

 

 

 そうした取組の中で、特に邪魔だと感じるのは「感情」。

 筆者は子供の頃、大人の諍いを見ていたために「あんな感情的な大人になりたくない」という思いも働きます。

 理想的な人間を目指しているのですから、どんな時も冷静に対応できる人間を目指そうとする。

 人から嫌なことを言われても、湧いてくる不快感を抑えよう、殺そうと努力する。

 驚くようなことがあってもポーカーフェイスでやり過ごす。
 

 社会人になると自己啓発の本などを読んでみたりするようにもなります。
 自分の我を捨てて、さらに良い人間になろうとがんばります。
 

 どんどんと、自分を捨てて、「無」になろうと取り組んでいったのです。

 

 しかし、生きづらさはどんどん増していきました。

 

 なぜか?
 
 自然な法則に反しているから、だと今ではわかります。
 

 

 

 私たちは、「無」になるとどうなるか?といえば、そこには他人の価値観が入り込んでくるようになるからです。

 私たちが生きる俗世では、自然は真空(無)を嫌う。

 なければ、そこは別のものが埋めるだけです。

 多くの場合、そこを埋めるのは、他人の価値観になります。

 

 いわゆる「無の境地」といったものは、自分の自我で自分を埋めた果てにある感情であって、自我を無くして自分を空っぽにするということではおそらくないのだと思います。

 

 私たちはもっともっと自分というものを「自我」とか「自分の感情」とか「自分の欲」といったもので埋めなければならない。

 そんなことをしたら暴走するのでは?とおもうかもしれませんが、私たちは、健康な状態であれば、満たされたら飽きます。 有限に循環していくものです。

 反対に不健康な状態は、無限。きりがないくらいに求めようとします。
 
 「無」を求めるというのも、ある種の不健康な状態。無限に乾き、無限に求めるようになってしまいます。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 私たち人間は、生まれてから発達する過程で、自分を自我で健全に満たして、反抗期などでは親の価値観を相対化し、自分のものにすることを学ぶ。

 自我で満たす・他人の価値観を相対化するとは、自分の資質に気づく・感じるということでもあります。

 さらに、社会で自分の資質に沿った「位置と役割」を得ることで、自我が公的に昇華されていきます。
 自分の中が公的な自我で健全に満たされていきます。それではじめて“人間”になることができる。

 “人間”になるステップを昔の人は、「道」とか「教え」、「礼」といいました。

 ここまでの一連の流れが完結することで、私たち人間は充足されます。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 どこかに瑕疵があると、生きづらさに苦しむことになります。
 自分の中で私的なドロドロとしたものがとぐろを巻いているような状態。

 「私的」というのは字義通り「私のもの」というものではなく、実際は多くの場合、内面化した他人の感情や他人の価値観、考えのこと。非常に混沌としてネガティブなものです。

 これを統御できないでいる状態が不全感というものです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 「充足感」とか、「満たされた」という表現があるように、私たちが求めているのは自分を自我によって十分に満たすことにほかなりません。

 最近だと、無意識を活用して「無」になるというものもありますが、、
 「無」になれるのは一瞬で、すぐにぐるぐるとネガティブな意識が渦巻くことになります。

 なぜそうなるかといえば、それは、「無」になろうとするから。

 繰り返しになりますが、自然は真空を嫌うから。何も無ければ、そこに外からの雑念が入り込んでくる。

 俗世では「無」の状態でいることは出来ない。
 スポーツ選手等がいう「ゾーン」なども、勝利への欲の果てにある境地ですから。

(参考)→「俗にまみれる

 

 だから、自分の中は常に「自我」で満たしておく。

(もちろん、他人の価値観や他人を理想とするのでもない。)

 自我で満たしているから、外からくる余計なものも跳ね返せるし、その内側は安心安全でいられるのです。

 

 

(参考)→「本来の自分の資質に沿って生きる。

 

 

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本来の自分の資質に沿って生きる

 

 精神科医の神田橋條治が、ある本の中でこんなエピソードを語っています。

 
 なかなか良くならずに他の病院から紹介されてきた遷延性のうつ病の患者さんについてです。

 その方は18,9歳くらいのときに賭け玉(お金をかけて行うビリヤード)を打ったりして、チンピラみたいなことをしていたそうですが、一念発起して大学に入り公務員になりました。

 しかし、係長になったころにうつ病になり、ベテランの医師が治療してもなかなか良くならなかったそうです。

 

 そこで紹介されてやってきたその患者さんに神田橋氏は「あんた、一番輝いていたのはどの時期?」と尋ね、患者さんが「賭け玉を打っていたころだ」といいます。

 そこで、「じゃあ、賭け麻雀をしなさい」と伝えて、実際にそのようにすると、それまでは薬を飲んでもなかなか良くならなかったうつ病が治ったそうです。
 

 

 

 先日の記事では、ログイン、ログアウトという表現で、悩みからほんとうの意味で回復すためのポイントはなにか?について考えてみましたが、このエピソードはとても示唆的です。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 エピソードにあるうつ病を患った公務員の方は、頑張って大学に入り、公務員になったわけですが、それは仮のIDでしかなく、本来の自分からはログアウトしたままの状態だった。

 でも、常識的に考えれば大学に入って、公務員で頑張ってということは良いことです。出世もして係長にもなっていた。
 しかし、本来の自分からログアウトしている状態のストレスには長く耐えられず、その事によってうつにまでなった。

 うつは、「ログアウトしたままではだめですよ」というサインですから、ある意味心身は正しく反応している。

 

 
 しかし、医学としては、そのうつ状態を治そうとします。薬を出してみたり、もしかしたらカウンセリングを受けてみたり、と取り組んでみる。

 解決の方向も公務員の方がうつ状態で休職ということですから、当然、公務員として復帰できるように。また真面目に働けるようにという方向になる。

 ただ、結局それはログアウトの方向だった。
 
 それで、いつまでも良くならないでうつ状態が続いた、ということです。

 

 

 神田橋氏が「あんた、一番輝いていたのはどの時期?」と尋ねたのは、ログインの方向はどっち?本来のあなたのIDはどれ?っていう問いだったのでしょう。  

 その方は、それがたまたま賭け事だった。

 さすがに、賭け事だけで生きていくことは難しいですから、社会的に問題にならない範囲で賭け麻雀を勧めて、ログインして生きていくことができるようになった。

 というメカニズムと考えられます。

 

 このように、実際に失われた人生のポイントを探って、その要素を現在の生活に取り入れると、難治のケースが良くなることが珍しくないそうです。
 
 
 このことを「失われた人生の回復」と神田橋氏は呼んでいます。
 

 

  
 トラウマのケアを行っていても、必ずこの「自分がない」「ログインしていない」という問題は出てきます。それが治療の核心といってもいいくらいに。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 

 とても行動力があって、努力もしている人が、「自分がない」「自分が空っぽである」ことに気づく。

 本人にしてもまさか自分がないなんて思ってもみません。なぜなら、こんなに考えて、努力して、行動しているんだから。

 でも、その「考えて」というのは、なによりまず他人の頭の中を考えている。もっといえば、親の頭の中を考えて、親の価値観で生きている。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響」 

 

 

 結局、活発な行動があるだけで自分というものはない。
 その証拠にいくら行動しても、積み上がる感覚はない。自分で経験している感じがしない。

 

 クライアントさん自身が無意識に治療に抵抗しているという考えは筆者はあまり好きではないのですが(治療者側の都合のいい言い訳としてや、ゴミ箱診断的に長年使われてきたから)、内面化した規範や価値観などからくる抵抗や葛藤というものは確実に存在します。

 

 たとえば、ログインしたいのに、そうではない方向で生きなければならない、という心の中の圧力。

 サンクコストのように、いままでログインしない方向で頑張ってきたのに、今更自分のIDでログインする方向に進むのはできない。かつての自分の努力は意味がなかったのか、という感覚。
 

 

 あと、「自分がおかしい」というローカルルールの前提が根底に入っていることが多くのケースにありますから、自分のIDでログインしましょう、自分の資質に沿ってといわれても、おかしい自分のままで生きるなんてできない、と感じたりする。
(参考)→「自分は本質的におかしな人間だ、と思わされる。」 

 自分の資質で生きるという提案について「あ、この先生は私に才能がないと思っている。この中途半端な状態が私なんだといいたいんだ?」と勘違いしてしまうことも起きてしまいます。

 

 

 また、自分のIDでログインしたらひどい目に合う、という恐怖心ももっていますから、ログインすることはとてもこわい。

(参考)→「ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 できれば、このログアウトしたままで、セラピーの力で都合よく悩みを解消し、ニセのIDででもいいから社会から期待される姿で生きていきたい、と思っている。

 

 なかなか良くならないケースでは、社会からの期待に沿って、という枠組みが強固な場合が多いです。ものすごく周りを忖度して、忖度した価値観で生きている。たとえば、会社でも出世して結果も出してきている。だから、その期待から外れることはできない。
 でも、そのことが悩みがしつこく続く原因となっている。

 社会的なのぞましさとか世間体、あるべき生き方といったもの圧力がものすごくあって本来の自分の戻ることが出来ず、そのためになかなか変化が起きない、ということが見られます。

 

 かんたんに変わるケースもありますが、手強いケースも多い。本当に良くなるためには避けては通れない。
 ニセのIDのままでいいから悩みだけ取りたい、と思っているとそのことがネックになって悩みが取れないということが起きてくる。

 

 
 冒頭に挙げました神田橋條治氏は「鵜は鵜のように、烏は烏のように」(資質に沿って生きる)ということを治療の要諦として語っています。

 

 筆者も昔は、「そんなのつまらない」「もっと、自分ではないなにかすごいものにならないと生きている意味がない」と思っていました。
 セラピーについても何やら“デキる人”になるための道具のように捉えていたりしていました。
 しかし、そう思っていると、自分の人生は全然うまく行かない。空回りしてとても苦しむことになります。セラピーでも単発では良くなった気がしても“デキる人”にはならず、となる。

 

 自分がみにくいアヒルの子の白鳥や、ライオンキングのライオンであることに気がつくまでには、色々と痛い目にあって、まわりまわる必要があるのかもしれません。

 狼に憧れるけど、自信がなく。でも他人には優越感を持っている。
 「あなたは、ライオンなのよ」といわれたら「イヤイヤ野良犬なんです」と過剰に卑下する。
 野良犬であることを前提にして狼になろうと努力するけど空回り。やっと、ライオンであることに気づくと運命の主権は自分のものになる。

 

 まわりまわったその果てに、やっぱり自分のIDでログインしよう!と思うとうまく回り始めて「もっと早くやっておけばよかった」となったりするのです。

 

 

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心理学、精神医学の由来にも内在するログアウト志向

 

 先日の記事では、セラピーの創始者や治療者の回避傾向、ログアウト志向が、セラピーの効果のいま一歩感の原因となっているのではないか?ということを見てまいりました。

 ログアウト志向のままでは、短期的には効果があっても、結局は解決しきれない、本来の自分として生きていく実感が十分に持てないままにになっている恐れがある。

 そして、自分のIDでログインしていくということがこれからのセラピーにおいては必要になってくるのではないか?ということでした。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 他の記事でも見ましたが、自分のIDでログインしていると、他者は干渉することが非常に難しい。
 かなり強引に因縁をつけてでもしなければ、干渉する筋合いがない。

 自分のIDでログインして生きていくことが、人格が成熟していくということです。

 

 反対に、ログインしないままでいると、「ログインしていないのだから、あなたはあなたものではないでしょ?だったら、私が口出すよ」と、他人から干渉され続けてしまうのです。
 
 さらに、自分の感覚がなにかもよくわからなくなっていってしまう。

 このような自分のIDでログインしないままでいる、ログアウト志向の状態にとどまっている方は非常に多いのです。
(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」 

 

 ※ここで整理すると、ログインというのは、「自分として社会の中で生きる」という意味です。ログアウトというのは反対に、「自分じゃないもので社会の中で生きる」あるいは、「社会から自分が排除される」ということです。

 

 

 

 さらに、検討をすすめると、実は、このログアウト志向というのは、心理学や精神医学の起こり自体にもその要因があります。

 それは、フランスの哲学者、心理学者のフーコーが「狂気の歴史」という本で書いていますが、心理学や精神医学が対象とする狂気というのは、もともとは社会の中でそれなりに役割があったり、神の現れとして敬意さえ示されていたものが、近代化する中で、病気という扱いを受けて区別されていきました。

 通常の理解では、科学が進歩したから狂気の原因が解明されて病気として扱えるようになった、ということですが、フーコーによれはこれはそうではありません。

 科学の進歩で病気として扱えるようになったのではなく、狂気を病気として区別する(社会からログアウトさせる)ことによって心理学や精神医学自体が科学として成立してきた、というのです。

 上の定義でいえば、まさにもともと社会にログインしていた狂気を、隔離してログアウトさせることで、生まれてきたのが心理学や精神医学である、ということです。

 

 単にこれは、論理の遊びではありません。
 実際に臨床現場の治療においても、このことを証明するかのようなエピソードがいくつもあるのです。

 
 たとえば、18世紀末の精神医学では統合失調症の治療として、フランス人のピネルがそれまでは鎖に繋がれていることが当たり前だった療養所の患者たちを鎖から解放したことがありました。

 鎖から解放するかわりに暴れないと約束させ、患者に仮の役割、たとえば「下士官」とか「召使い」とかを与えて患者の症状が安定した、ということがありました。
 それまでは、怒り狂って看守を殴り殺してしまうような患者もすっかり落ち着いて、その役割を生きるようになったのです。

 

 

 それまでの概念とは全く異なる対応で、その後の精神医療の出発点となる出来事でした。

 現代の臨床現場でもこうしたことは受け継がれていて、腕のある精神科医は、患者の中の本来の自分が機能するように働きかけることをしています。

 近年、統合失調症の治療での目覚ましい効果で注目されているオープンダイアローグも、患者の目の前で、治療者や家族が話し合い、患者自身が意思決定するという形を取ります。

 

 このように、自分や社会からログアウトされるように扱われると悩みは解決にはつながらず、ログインするような環境が与えられると重いケースでも軽快していく、ということから、フーコーが発見した「狂気を病気として区別する(社会からログアウトさせる)ことによって心理学や精神医学自体が科学として成立してきた」というのは、核心をついているといえそうです。

 

 さらにフーコーは、フランス人のピネルがおこなった鎖からの解放はまだ本物のログインではない、ということも指摘をしています。
 
 ピネルが与えた仮の役割とは、あくまでピネルの道徳的価値観に基づいたものですから、いわば仮のIDでしかなく、患者本来のIDではない、として、精神医学に潜むログアウト志向の一例として批判的に取り上げているのです。

 

 ピネルがおこなった仮のIDを与えるという解決策は、私たちが日常で触れるセラピーにおいても同じ構造が見られます。
 

 以前の記事で、筆者がたまたま見た「私を消す」という言葉を唱えて悩みを解決しようとする、というのもそうかもしれません。
 鎖からは解放されるかもしれませんが、創始者が作った価値観の世界(仮のID)にとどまり、自分のIDではログインできずに、ログアウトしたままになるのです。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 このように、精神医学や心理学自体もその内に、ログアウト志向を内在させているのです。

 

 

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ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 最近、用事があってたまたま書店で立ち読みしていたときにセラピーに関する本を手にとって、パラパラと見ていました。
 その本の中に、悩みの解決方法として「私を消す」みたいなことが書かれていました。

 今までだったらなんとも思わなかったと思うのですが、そのときは、あれ? となんとなく違和感を感じたのでした。

 これまでこのブログでもお伝えしてきましたように、社会的な動物としての人間は、自分としてログインすることで、その人らしく行きていくことが可能になっていくものですが、それなのに、なぜ「私を消す」必要があるのでしょう。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 むしろ、「私を出す」とか「私を示す」という方向にだとわかるのですが、なぜ逆方向に導こうとするのでしょうか。

 あらためて考えると、なぜか、セラピーは私たちをログインの方向ではなく、ログアウトしよう、ログアウトさせようとしがちだな、ということに考えが向きました。

 

 もしかしたら、これは、セラピーの創始者や治療者自身の生育歴からくる回避傾向や理想主義のゆえに、セラピーや解決策自体も回避的になっているのかも?ということがふと頭に浮かんだのです。

 

 

 以前も触れましたが、カウンセリングの創始者ロジャーズ自身も、ある哲学者との対談の中で、哲学者から痛いツッコミをされたことがあります。
 
非常に乱暴に訳せば、

 哲学者「ロジャーズさん、あなたは人間はただ本人の中で気づきを得ていくことでその人らしくなる、というふうにおっしゃっていますが、俗にまみれることもなく人として成熟することなどあると思っているのですか? 人は社会の中で生きる存在なのですよ?」と。
 
 それに対してロジャーズは有効に反論することができなかった、とされます。

(参考)→「私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

 ロジャーズ自身も、社会からログアウトして、ピュアに気づきを得ることで人は良くなっていくと捉えていた。

 当時の理想主義的なヒューマンポテンシャルムーブメントなどと相まって人気を博したわけです。

 

 
 確かに、支配されて苦しんでいる、ローカルルールに縛られて困っているという状況に対しては、一旦そこから「ログアウト」することで、支配から逃れる、ということは有効です。

 苦しい状況から脱する、避難する効果はあるかもしれません。

 
 冒頭に上げた「私を消す」というようなことも、試してみたら無事ログアウトできて「かなり効果がありました!」というふうになるかもしれません。

 

 

 ただ、問題はそこから。

 
 たとえば、最近、新型コロナで指摘されているのは、あまりに長期間にわたり感染症対策ということばかりをしすぎることで、かえって免疫を弱めないか?ということです。

 大人もそうですが、特に子どもは免疫トレーニングをするために、適度に菌やウイルスに罹って風邪をひいたりする必要があります。

 それなのに、アルコール消毒やマスクなどで過度に守られることでそのトレーニングができなくなってしまう。

 実際に対策が行き過ぎて、幼稚園などでは土遊びも禁じられてしまったり、というケースもあるようです。
 

 もともとうがいもうがい薬を使うと、喉にある自分を守る良い菌までもがやられてしまうので、普通の水道水のほうが良い、ということを聞いたことがあります。

 抗生物質なども使うとたしかに劇的な効果を示すことがありますが、良い菌までもが死滅して、下痢をしたり、耐性菌でかえって良くなかったりということは知られています。だから、使う場面は選ばないといけない。

 私たちは、重篤化するようなウイルスは避けながらも、生活の中のバイキンなどにまみれて生きていく必要があるようです。

(参考)→「俗にまみれる

 

 

 
 セラピーも、創始者たちがトラウマを抱えてきたためか、どこか回避傾向、ログアウト志向があるのかもしれません。
 だから、解決策自体もログアウト志向になりがち。それが効果を発揮してよくなるケースもありますが、そのあとに反動で行き詰まる恐れもある。

 たとえば、意識をどこか悪いものとし、無意識を良いものとして単純化して捉えてしまうのも、もしかしたら、ログアウト志向かもしれません。ユングなんかもそんなところがあるかもしれないですね。

 

 ログアウト志向の人というのは魅力的です。
 その人が夢を語ってくれて、魔法の杖をくれて、「どこか理想的なところに連れて行ってくれそう」に感じるから。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 しかし、実際は、「我」とか「自己」というなにやら泥臭く感じるものはものすごく大事です。

 

 たとえば、「心に聞く」などは、「自己対話」です。

 自分からログアウトして離れた高次の意識に答えを聞いているのではありません。
 ローカルルールなどに邪魔されてわからなくなっている「我」「私」「自己」というものを取り出す、ログインする、というところに本来のポイントがあります。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 

 ローカルルールから逃れるために一時的にログアウト、ログオフすることは必要ですが、本来の自分のIDでログインする視点がないと、いつまでたっても、イマイチ感が出てスッキリせず、社会に中でうまく生きていくということができなくなる。
 

 たとえば、先日の記事のように、失礼なことを言われたらジローラモさんみたいに対応しようと考えるのはログイン志向で、その場では何もせず相手の射程範囲外で言葉を唱えてしらずしらずのうちに相手の態度を変えよう、キレイに済まそうというのはログアウト志向といえるかもしれません。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 
 精神科医の中井久夫の本に「世に棲む患者」というタイトルのエッセイがありますが、まさに私たちは診察室やカウンセリングルームの中でもなく世に棲んでいる。

 
 医師の経験談でよく出てくるエピソードとして、「最近来なくなった患者に久しぶりに再会したら、仕事をしていて、結婚をしていたりして驚いた」ということがあります。
 医師から見てもなかなか良くならず大丈夫かなかな?といったようなケースでも、気がつくと、思いがけなく社会の中でしなやかに生きていたりする。

 名人とされるような治療者はログイン志向で、ログインして生きることも含めて目配せがあるのかもしれません。

 

 もちろん、いきなり実生活でうまく行かないから、診察室やカウンセリングルームがトレーニングの場として求められています。そこでは、ログアウトしたあとにはログインできるようにトレーニングしてもらう。

 従来のセラピーにおいて、ある程度良くなるけれども、なぜか人の中ではうまくやり取りができない、社会の中で生きていくことがいま一歩できない、というようなイマイチ感の由来はもしかしたら、そのログアウト志向にあるのかもしれません。

 そして、ログインするっていうことはこれからのセラピーにはとても大切なポイントかも、ということをふと書店で本を手にとったときに感じたのでした。
  

 

 

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