お正月に新聞を見ていたら、「昭和天皇拝謁記」という本が出版されたとのことで、それについての記事が載っていました。
それによると、これまでの昭和天皇に関する資料というのは、天皇の声を間接的に要約したものが多かったのですが、今回出版された本は、直接書き起こしたような“肉声”で、当時関わった人物たちへの辛辣な声が目立つ、とのことです。
たとえば、弟の高松宮については「人が右と言えば左」という性格で、戦前は日米開戦論者だった、と批判。
進歩的とされる三笠宮については「皇族の義務は行わず権利ばかり主張」「皇弟たる自覚が足りぬ」と興奮して話す。
自分の母親の皇太后についても「感情に勝り、虫の居所が悪いときは正反対の矛盾したことを言う」と批判。
政治家についても近衛文麿は「無責任」、片山哲は「善人だが意志が弱い」
天皇退位論を主張していた東大総長の南原繁については「東大総長として常識がない」と、それぞれクソミソに言っているそうです。
これまでの天皇というイメージからはすこし意外に感じられるものばかりです。
天皇も人間なんだからそりゃ愚痴も言うだろうし当然といえば当然ですが、幼少期から帝王学を身に着け、元老の講釈を受け、神道の最高位の神官であり、戦前は“神”とされていた天皇ですから、わたしたちがセミナーで学んだり、本を読んで行うよりも遥かにレベルの高い“自己啓発”をなさっていたはずです。
でも、当たり前ですが愚痴を言うし、批判もする。
というよりも、人格に主体性があれば、おかしな状況や人に対して愚痴や不満を言うのが当然。
母親に対して「感情に勝り、虫の居所が悪いときは正反対の矛盾したことを言う」というのは、何やら親近感がわきますが。
対して、トラウマを負った私たちは、どうでしょうか?
全然、人の愚痴は言えない。言わない。
自分の意見は言わない。
それが人として良いことのように考えている。
天皇でもそんなことしていないのに、トラウマを負った私たちは一体何を目指しているのでしょう?
(参考)→「愚痴を言わないと発散できない」
理想として描いていることが、とても無理なこと、いびつなものであることがよくわかります。
おそらく、それが理想と植え付けられたローカルルールなのかもしれません。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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