感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 ステイホームということが合言葉になっている昨今。
 代わりに時間がありますから、家でできるなにかを、ということで、
 「自他の区別」をつけて、ローカルルールの影響を取り除くために自分でできる方法についてお伝えしてみたいと思います。

 ストレスを解消するためにもとても有効です。

 

 
 現在、非常にストレスフルな情勢下にあります。
 誰もがイライラを感じたり、ストレスを感じることは当然のことです。

 ただ、そのストレスの解消の仕方、ぶつける対象については、かならずしも適切ではありません。

 たとえば、
 「こんな状況でもパチンコ屋に行く人はけしからん」とか、
 「政府はもっと素早く動け」「検査数を増やせ」「保障をもっと多く、もっと早くしろ」とか、著名人のツイッターでの発言にムッとしたりとか。

 

 「理屈」そのものの是非は、ここでは問題ではありません。
 政府にもたくさん問題はありますし、パチンコ屋に行くことがふさわしいかについても同様です。

 「理屈」の中身の妥当性ではなく、私たちが感じている「感情」と、その「理屈」との組み合わせが適切なのかどうか?をテーマとしています。

 

 結論から言えば、99.9%の割合でミスマッチを起こしています。

 
 そして、ミスマッチを起こした状態だと、いくら「理屈」をつけても、もとにある「感情」は解消されないのです。

 イライラなどストレスはそのままとらえないと解消されません。

 

 
 たとえば、ステイホームで外出もままならない。
 せっかくの連休なのに、行楽にもいけない。

 その結果イライラが募っていますが、そのイライラの原因はなにからきているかは実は自分でもわかっていない。
 過去のトラウマ、生育歴の問題を投影している場合もしばしばです。
 

 
 よくあるのが、子どものときに「自分の意見が通らずに嫌な思いをした記憶」「友達であったり親などが思い通りに振る舞って自分が蔑ろにされた経験」「自分は我慢しているのに、兄弟(姉妹)が自分勝手なことをしていた」など。
  

 

 そのトラウマが潜んでいる中で、「自粛して自分が我慢しているのに、パチンコ屋に行く人」「自分の考えとは異なる政府や著名人の言動」を見たときに、生育歴の記憶が刺激、投影されて、「政府への怒り」「著名人の言動への怒り」「パチンコ屋に行く人への怒り」という「理屈」がついて、イライラが表に出てきます。
 (繰り返しになりますが、その理屈の是非はここでは問題ではありません。)
 

 

 
 本人は、政府のせいでイライラしている、パチンコ屋に行く人に怒っている、と思っていますが、 本当は、親や友達、兄弟、過去の自分のトラウマに対してイライラしている。

 
 その証拠に、「政府への怒り」「著名人への怒り」「パチンコ屋に行く人への怒り」という形では、イライラは解消されないはずです。
 さらにイライラが募るだけです。
 (マッチしていれば、イライラは減ります。)

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情」

 

 こうしたときには本当はどうしないといけないのか?といえば、

 「イライラ」や「怒り」だけをただ感じてみる、体感に注目しながら、「イライラする、イライラする」「怒り、怒り」とつぶやいてみたりする。

 

 あるいは、体感を感じながら、「なにが言いたいの?」と問いかけてみる。

 

 すると、「悲しい」といったように答えが帰ってきたりすることがあります。
 (感じていることや帰ってきた答えを言語化してみることが重要です。)

 

 そうして「感情」と「理屈」とを切り離していきます。

 

 「感情」をそのまま感じていると、その根源が見えてきます。

 

 根源が見えると、実は「理屈」というのは、他人からの無自覚な影響であったことも見えてきます。

 
 
 自他の区別がうまくついておらず、メディアなどを通じて他者の感情や理屈を自分のものとしていたりしていた。あるいは親の価値観を直訳して内面化していた。

 

 少し複雑ですが、現在の問題について語るメディアを見ながら、親が言うであろう文句を自分のものとしていたり。他人の評価を気にしていて、他人が言うであろう批判を先回りして自分のものとしていたり。

 その「理屈」と自分のイライラがくっついていただけだった。

 

 実は、自分の考えと思っていたものは自分のものではなく、それどころか自他の区別がうまくいっていなかったことが明らかになってきます。

 他人の「理屈」を無自覚に受け入れていると、他者に支配され自分というものは失われていきます。
 また、他人との距離が適切に取れず、他人の言葉がズバッと心に侵入してきて振り回されるようにもなるのです。 

 

 

 健康な発達の過程では、安全な環境の中で自他の区別をうまくつけることができるように自然とトレーニングを受けていきますが、不適切な環境下でそれが果たせずにサバイバルしてきた方も多いのです。

 それどころか、他人の理屈をそのまま受け入れることが、「素直」であり、「相手に合わせること」であると思い、人間関係のスタイルとなっていた。 
 自分の感情なのか、相手にものかもわからずにごちゃごちゃの中で生きてきた、ということも珍しくありません。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる」 

 

 

 

 さらに、「負の感情」+「理屈」のセットというのは、よく見るとローカルルールの構造ではないか?!ということにも気が付きます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 つまり、これまで自分の中で内面化したローカルルールがウイルスのように再生産され続けていた、ということもわかってきます。

 再生産されていたローカルルールが自律的に影響を及ぼす状態を「ローカルルール人格」と呼んでいます。

 こうしてストレスによる機能障害が続くのがトラウマです。

 「自他の区別」というのローカルルールの影響を取り除いたり、悩み解決のためのキーポイントになるものです。
 

 日常でも、負の感情を感じたら、「理屈」を被せる前に、「感情」をただそれだけで感じて見るようにする。

 これを繰り返すと、感じている「感情」の根源が見えてくることでストレスが解消されやすくなりますが、なにより、自分そのものと、そうではないもの(他者の影響)に自覚的になり、区別する習慣ができてきます。

 

 自他の区別をつけるためには、なにが自分のもので、なにがそうではないかを自覚することが大切です。
 その上で、自分のものではないものを否定する。自分のものだけを感じる。
 

 まとめると、

 1.イライラなど、感じているストレスや感情を取り上げる。

 2.頭で考えているそのストレスの原因(「理屈」)はいったん脇に置く。
 
 3.ストレスそのものを感じる。

   身体のどこで感じているのか?どのように感じているのか?
   
   その際に、  
    ・その感じを取り出してみて、自分の手の上においてみても良いです。どんな形でしょうか?どんな大きさでしょうか?どんな色でしょうか?どんな肌触りでしょうか?
    ・そのストレスに名前をつけてみてください。

 

   取り出さないパターンもあります。
    ・ただ感じてみてください。どんな感じなのか、言葉に出してみてください。(「イガイガ」「ふわふわ」「カチカチ」)など

   そのストレスに問いかけてみてください。「なにがいいたいの?」と。 答えは期待しなくて良いです。ただ問いかけるだけでも良いです。ふと頭の中に浮かんできたら、それがヒントになります。
  
   ヒントが浮かんできたら、それを感じてみてください。更に問いかけてみても良いです。(「どこから来たの?」といったように)

  自動的に目の前のものや人に原因を求めていた「理屈」が本当の原因ではないことに気がついてきます。「理屈」と「感情」とを分ける間隔が身につきます。

 

 4.日常でもストレスや「感情」を感じたら、「感情」だけを感じて、「理屈」は常に脇に置くことを習慣とします。

 

 このトレーニングは本来の自分を取り戻すことにつながります。

 よろしければ、ステイホームの期間にでもお試しください。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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家でできるエクササイズ

 

 新型コロナウイルスでの自粛もあり、おすすめのエクササイズはありませんか?と聞かれることがありますので、今回は、いつもと趣が異なりますが、エクササイズについてです。

 エクササイズは今は良いものがたくさんありますので、あくまでわかる範囲からということになりますが、2つご紹介です。

 

 まずひとつ目は、スロトレです。

 かんたんで優しい動きのエクササイズですが、その分無理がなく続けやすくダイエットなどにも効果もあります。以下のような本を参考になさってください。

 

スロトレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 2つ目は、HIIT です。

 20秒エクササイズ、10秒休憩、20秒エクササイズ、10秒休憩・・と8セッション、計4分行います。たったそれだけです。しかも、週2~3回で良いとされます。休憩を挟んで短い時間に運動を繰り返すことが秘訣で、脂肪燃焼や持久力の向上などに効果があるようです(有名なタバタ式トレーニングの優しいバージョンという感じでしょうか。)

 4分で終わるのも、時間がないときにでもできてうれしいです。

 短時間の割に得られる効果が高く、続けやすいトレーニングです。科学的なエビデンスがあるのも継続を後押ししてくれます。

 

 詳しくは、下記の本をご覧ください。

HIIT

 

 

 

 

 

 

 

HIIT2

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分で時間を測るのは面倒ですから、インターバルを教えてくれる専用のアプリがいくつもあります。

(Andoroid版)はこちらです。

Tabata Timer – タバタタイマー

インターバルタイマー HIITトレーニング&フィットネス

 

(iOS版)はこちら

H-I-I-T-Timer

 

 

 エクササイズは良いものがたくさんありますので、ご自身ですでに実施されているものがあれば、それを続けていただければと思います(ご紹介したものに変更する必要はありません)。

 

 たとえば、ヨガなどは心身にとても良いとされます。最近はオンラインでもレッスンを受けられたりします。

 

 以前も記事でお伝えしましたが、悩みを解決するためにも睡眠、食事と並び、日々の運動はとても大事です(セラピーを下手に受けるよりも効果があったりします)。自分が気持ちよく続けられるものを見つけて、日々のルーティンに組み込んで実践してみることをおすすめします。

 

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

(参考)→「「運動」の動機づけに:脳を鍛えるには運動しかない

 

 

 

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『夜と霧』再読

 

 新型コロナウイルスに対応するための自粛で、多くの方は疲れを感じておられるのではないでしょうか?
 ただ、行動を自粛するだけではなく、マスクや除菌と気をつけないことは多い。

 
 本当に、気疲れしてしまいます。

 

 専門家によっては1年、あるいは、終息には数年かかるとの見通しもある中で、制限を受けた生活は苦しいものです。

 先の見えない中で私たちはどのように過ごせばいいのでしょうか?

 

 なにかヒントを得ることができないか?ということで、
 V・E・フランクルの『夜と霧』と、『それでも人生にイエスと言う』を再読してみました。

 再読、というのは、高校生か大学生の頃に推薦されて読んだような記憶があるからです。 
 内容はほとんど覚えていませんでしたが、あらためて手にとってみました。

 

フランクル「夜と霧」

それでも人生にイエスという

 

 

 

 

 

 

 

 

 フランクルは、ウィーンに生まれた精神科医で、オーストリアのドイツ併合などによってナチス支配下に入り、ユダヤ人ということで、強制収容所に収容されてしまいます。約3年に渡り収容所生活を送ることになります。

 収容所では僅かな食べ物しか与えられずに、文字通り骨と皮だけになって過酷な労働を強いられる日々。
 

 

 歴史を知る私たちはいつ戦争が終わったかを知っていますが、当時収容されていた人たちにとっては、永遠にも思える絶望の中で、仲間たちも命落としていきます。

 フランクルは、「内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている」「未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と述べています。

 

 例えば、安易な希望的観測や楽観を持つような人、
 「クリスマスまでには解放される」「何月何日までには自由になれる」といったような人たちは、その希望が絶たれてしまうと、「人生にはもはや何の意味もない」としてろうそくの火が消えるように亡くなってしまったのです。フランクルによれば、実際、クリスマスの時期は不思議と死者の数も多かったそうです。
 それらは真に楽観的や希望をいだいているのではなく、悲観を隠すための楽観だったのかもしれません。

 

 反対に、生き残るために大切なものはなにか?本当の希望をもたらしたものはなにか?といえば、それは「生きることからなにかを期待する」のではなく、「私たち自身が問いの前に立っている」「私たちは問われている存在」であるという視点の転回であった、というのです。

 

 これはどういうことかといえば、
 「人生にはどんな意味があるのか?」という視点は、主権が自分にはない状態です。
 自分の外部に人生の有限の意味があって、それが枯渇するという感覚。
 未来への希望といっても、単に希望的な観測でしかなく、缶の中のクッキーの残りがもっとあるに違いない、と期待するようなものです。
 外部に翻弄されている状態です。実は暗に「人生には意味なんてないんじゃないか?」、あるいは「こんなにつらいのだから、大きな意味がなくては困る」という不安や怒りが潜んでいます。
 

 だから、希望的観測が外れて目の前にある状況が悪い状況が現れれば、絶望して命を落としていってしまうのです。

 
 精神障害や神経症、トラウマを負った人の感覚とも通じるものがあります。

 

 一般にトラウマを負っている人は楽観に頼り他人のせいにして生きているかといえばそうではなく、むしろ環境にあるものを過剰に自分で引き受けて生きてもいます。
 ものすごく努力もしていますが、積み上がらない。過大に背負った責任や苦労によって身動きが取れなくなっているのです。
 
 過剰な自助努力と、その苦しみや不安を癒すための希望的観測(しばしばスピリチュアルなものも含む)というアンビバレンツなものがともに存在しているのです。
 

 

 反対に、人生は常に自分に問いを投げ続けている、という考えは、常に自分に主権がある状態です。
 どんなに悪い状況でも、それは人生からの問いであり、自分はそれに答える権利がある。人生の問いは、無限に投げ続けられていて絶えることがありません。
 

 フランクルも、未来に希望があることは大事だと述べているのですが、その希望とは、自己都合による希望的観測ではもちろんなく、人生の問いに答えるという覚悟ということだというのです。

 
 厳しい環境を覚悟してそのまま受け入れますが、実はそのことで、責任は自分から外れて、自分に主権が戻り自分のことに集中できるようになる。
  

 現実をそのままを受け入れると決めると、自分のニセの責任が外れて主権が戻る、という逆説が人間にはあるようです。
 (「実存」というものの本質はこの辺にあるのではないかと感じます)

 

 

 「それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられる。ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。」
 「そこに唯一残された、生きることを意味のあるのもにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限される中でどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。」

 

 新型コロナウイルスの自粛生活下の私たちにとっても通じるものがあります。

 5月6日に緊急事態宣言の期限が来ますが、再度延期される可能性もあります。
 「5月6日までがんばる」というのは、「クリスマスまでに解放される」という強制収容所での希望的観測にも似た趣があります。

 緊急事態宣言下のストレスに過去のトラウマを投影して、期限が来ることへの希望はそのかりそめの癒やしであるということです。
 でも、もし外れたら「希望が見えない」としてうつっぽくなったりしてしまう。

 これは、宣言の期限や新型コロナウイルスの方に主権があり、主権が自分にはない状態です。

 

 

 反対に、ウイルスによる制限のために失った「ないもの」にではなく、「あるもの(現実)」に目を向けて、淡々と自分のルーティンを作って、健康を守りながら、日々を過ごす。  
 何時に起きて、食事をして、仕事をして、家では自分でできるエクササイズをして、可能であれば健康維持のための散歩をして、というように。
 ※睡眠や食事が少なくなると、心理的なコンディションはてきめんに下がります。睡眠や食事はしっかり取る必要があります。

 

 たとえば、筆者も趣味で行っているスポーツのスクールが緊急事態宣言によって、休校となってしまいました。
 「新型コロナウイルスさえなければ・・」という考えで見てしまうと、「スクールがない」ことはストレスになってしまいます。
 外で運動をすることもかなりはばかられます。

 それらはすべて「ないもの」です。

 

 一方、あるものとしては、睡眠時間や食事、読書や動画、DVDを見る時間、など、仕事や収入が減った方も多いですが、その分自由な時間は増えたともいえます。
  
 そうした「あるもの(現実)」に目を向ける、ということは、私たちができるレベルで、人生からの問いに答えることになるかもしれません。

 

 これは、ポジティブ・シンキングということではありません。
 そうではなくて、最善手の幻想や作られたニセの現実を検定して、自分の主権で状況を翻訳する、ということです。
 (ニセの現実とは、過去のトラウマ/ローカルルールを投影して現実を曲げて捉えることです。)

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 ※さらにいえば、新型コロナウイルスに対するストレスには実は「最善手の幻想」も潜んでいるかもしれません。収入にしても余暇にしても常に最善手が得られなければならないという非現実的な期待を私たちは持っていた。現実は株価のように上がったり下がったりするものなのに、なぜか常に最善の値であることを期待して、それが外れたら絶望に陥るといったようなおかしな感覚を当たり前のものとしていたのかもしれません。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

問いに答えるというのは、『夜と霧』の中に
 「考えこんだり、現地を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、答えは出される」とあるように、
 高尚なことではなく、普段の行動によるもの。

 以前の記事でもまとめましたように、現実は常に動いているのですが、人間にはそれを感じ取ることは難しい。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 カットオフ(質的変化)までは、待つしかない。人間の側が質的変化を感じ取ったり、具体化するためには準備をし、力をつけなければならない場合も多いですから、できることは目の前のことをして日々を過ごすことです。

 

 「目の前のこと」や「淡々と」というと地味に見えますが、そのことと質的変化(希望)とは結果としてバイパスして通じているようです。
 反対に大きな希望や夢と絶望もバイパスして通じているのです。

 

 現実はある時点を越えると急速に展開します。

 

 それがいつかはわかりませんが、それまでは、先は見ず、睡眠、食事、運動(家でできるエクササイズなど)をしっかりとしながら、普段できないようなことを楽しみながら(時間がないと読まない本や動画、DVDを見たり、どか)、淡々と過ごすことではないかと思います。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「事実」とは何か?その2

 

 新型コロナウイルスで、全国に緊急事態宣言が出されました。

 感染者も増えて、病院でも対応が追いつかなくなる恐れが出てきているそうです。

 

 そのために、既存薬で新型コロナウイルスに効く可能性のあるものが注目されています。

 候補として挙げられているのが抗ウイルス薬「レムデシビル」や「アビガン」といったものです。

 中国や欧州では、実際に投与されて効果が出ているようです。

 ただ、一般的に用いることができるかは、現在治験中で、その結果が待たれます。

 

 一般人の感覚からすると、「実際に投与して効いているんだから、どんどん使っていけばいいんじゃないの」と思ってしまいますが、本当に効いているのかどうか、副作用は大丈夫なのか、を確かめないといけないそうです。

 

 特に、新型コロナウイルスは8割が自然に治るものなので、投与後の変化が薬の効果によるものなのか、自然に治ったものかを区別する必要があったり、プラセボ効果といって、暗示のような効果で実際の薬効がなくても効果が出てしまうことが知られていますので、それも排除しないといけないようです。

 

 現在臨床試験が行われていますが、数が少ないと本当に効果がないのに効果があるような結果が出る恐れもあります。
 さらには、ランダム化したり、性別、年代別のデータ、などが必要になったり、と、「本当に効く」という“事実”を取り出すためには、結構な時間がかかるそうです。

 

 「レムデシビル」のアメリカの臨床試験では、6000人が目標とのことですから、かなりの数です。

 薬が本当に効くかどうかという“事実”を確定させるためにもこれだけの事が必要になります。

 このように基準に達していないものは“事実”とはみなすことができないということです。
 

 

 

 そんな事を考えたときに、わたしたちが日常で特に自分について“事実”と考えていることがいかに怪しいものか、がわかります。

 特に、1つ、2つの「他人の発言」ということを真に受けて、「自分はダメだ」ということが“事実”だと捉えてしまう。

 

 治験などの科学的な立場からすれば、他人の発言や評価などは信ぴょう性ゼロ、といってもいい。
 人間はローカルルールといったものでも動いています。
 さらに、サンプルは、たった数件・・

 即却下、してよいものです。

 

 また、過去の自分が失敗したこと、うまく行かなかったという“事実”についても同様です。あまりにもサンプル数が少なく、しかも環境からのバイアスがかなり掛かっているものです。
 

 

 

 それなのに、そうした信憑性が低い、さらにサンプル数が少ないデータを、“事実”として受け止めることが、「独りよがりにならないための客観的な態度」だと思わされてしまっている。
 「過剰な客観性」ならぬ、ニセの客観性と言っても良いかもしれません。

(参考)「過剰な客観性」

 

 人生での失敗や、親や友達、上司から言われた気になることなどは、臨床試験ではすべて却下されてしまうようなレベルのものです。

 

 現代の心理療法は、社会構成主義と言って、わたしたちにとっての現実は、社会的に構成されたものだ、とされますが、確かにかなりの“事実”が意識の中で構成されていて、信頼性が低いものです。

 

 信頼性が低く、安定性がないからこそひっくり返すこともできる。
 ローカルルールといったこともそうですが、ニセモノだからこそ強固に見えて実は脆い。
 ここに長く苦しめられている悩みを解消するポイントがある。

 

 

 仏教などで執着を離れてありのままを見れば悩みはなくなる、といわれるのは、決して、現実が嫌なものでそれを見ろという、サディステクックな教えではありません。
 私たちは、サンプル数も少なく、信憑性もないニセの“事実”に取り巻かれていてそれに苦しめられている事に気づきなさいよ、ということ(ナラティブ・セラピーでは、ドミナントストーリーといいます)。

 ありのままの現実を見ることは、科学者が物を見るみたいに見る、ということに近いかもしれない。

 

 
 失敗してもなんとも思わない(実験結果に良い-悪いはない)、とか、サンプル数が少ないもの、環境の影響があるものは信憑性がないから却下する、という、当たり前のことを旨とする。
 (トラウマを負っていると、これが自分勝手な態度と感じて、してはいけない気がするのですから不思議なものです。)

 

 

 以前の記事でも書きましたが、人からの失礼な発言に「ふん!」といって耳を貸さない態度というのは、独りよがりに見えて、実は科学的な態度と一周回って親和性があったりするのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

  
 反対に、「自分の失敗や他人の意見を素直に受け止めなければ」というのは、似非科学にも似た態度といえます。本当の「事実」に到達できていない。
 だから、反省をしても、自責感がまして萎縮こそすれ今後の向上につながることはなにも得られないのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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内面化した親の価値観の影響

 

 新型コロナウイルスに感染したことで、志村けんさんが亡くなりました。
 そのことにショックを受けた方も多いのではないかと思います。

 筆者も子どもの頃は、「8時だョ!全員集合」などを生で見ていました。
 当時は、「志村けん」という名前をいうだけで、子どもがゲラゲラ笑うというくらい人気があったと記憶しています。

 筆者も大好きで見ていました。それが小学校低学年くらいのときでしょうか。
 

 

 少し時間が進み、筆者が10代になったころだと思いますが、母親が、志村けんさんのコントを見て、「汚い」とか、「下品だ」みたいなことを言って嫌悪感をあらわにすることがあって、それを真に受けた筆者は、それ以降、なんとなく志村けんの番組から遠ざかっていったのです。
 (志村けんさん自体も、一時、死亡説が流れるくらい、TVに出ない時期があったのもありますが)
 

 

 亡くなって感じるのは、「もっと見ておけばよかったなあ」ということです。
 落語とか古典芸能の世界でも名人がいますが、喜劇の世界でまさに名人に値する方ですから。

 

 

 お亡くなりになったこともあり、そんな事を考えていると、筆者が気がついたのは、「志村けん」と「汚い」ということを結びつけていたのは、単に親の価値観を相対化せずに内面化されていただけだったんだ、ということです。

 自分の価値観、自分の考えだと思っていたことは、自分のものではなかった!

 

 別の言葉で言えば、「ローカルルール(人格)」です。
   
 自分の中でも、相対化できる親の価値観は、まだまだ潜んでいることに気がついたのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  
  

 

 

 クライアントさんと接していても感じますが、親の価値観をそのまま内面化して、それが悪さをしている、ということは頻繁にあります。

 

 他人にイライラしたり、自分を責めている場面でも、結局それは、「ほら、だからあなたはダメなんだ。誰からも信頼されない」と、内面化した親の価値観がその人のそばで囁いているということだったりします。

 

 
 まれに、治療への抵抗が起きたり、中断が発生したり、ということもありますが、それも結局は、社会への不信感といった親の価値観を内面化したものだ、ということだったりします。
 「外で余計なものをもらうと危険だ」「治療者はお前を否定し、バカにしているんだ」「なんだかんだ言っても、家(家族)が一番だ」というのです。
 その結果、社会と分断され、親の価値観は相対化されずに残り続けてしまいます。

 

 

 「自分の考え」「自分の嗜好、感覚、価値観」だと思っているもののかなりの部分は実は、単なる親の価値観の直訳ではないか? ローカルルールではないか?と今一度疑ってみる必要があります。

 

 「良い会社に入らなければならない」「学歴がないといけない」に始まり、「こんな人間はダメだ」といったようなこと。
 
 あと、「こんな髪型は似合わない」とか、「こんな服は似合わない」というのも、子どもの頃に、親などから「あなた、そんな服はやめときなさい!」「似合わない!」と親の偏った嗜好、不全感から強く言われて真に受けたまま育ってしまったといったケースは本当によくあります。

 

 

 

 「でも、誰だって親とか周りから影響は避けられない。どれが本当の自分の価値観なのか。健全な影響とそうではないものとはどう区別したらいいの?」と疑問に思うかもしれません。
 

   
 区別できるポイントはちゃんとあります。

 それは、
 
1.親の価値観が社会の公的な価値を代表したものかどうか?(私的情動からのものではないか?)
 
2.公的な価値であっても、直訳ではなく、一旦否定したうえで、自分で翻訳し直しているかどうか?

 ということです。

 

1.についてですが、私的情動から発せられたものを、それらしい理屈でコーティングしたものはローカルルールといい、悪影響があります。
 価値観というのは社会を生きていくための学習であるわけですが、私的情動から発せられたものは価値観などと呼べる代物ではなく、結局は親の不全感にすぎないものだからです。

 

 

 志村けんさんの例で言えば、母親は、単に自分の不全感から「汚い」といっていただけだった。当時、母は夫との不和とかそうした問題がありましたから、男性に対する反感をもっともらしく吐き出していただけだったと考えられます。それに子どもを巻き込んでいただけで、価値観と呼べるような立派なものではありません。
 (巻き込まなければローカルルールは成り立ちませんから、子どもを利用していただけだった)

 

 ですから、皆さんも、親の価値観というものが、私的情動から発せられたものではないかどうか、不全感が隠れていないかをよくよくチェックする必要があります。

 

 本当に影響されるに足る価値観というのは、社会の公的な価値を代表したものです。
 親は、自分の私物のように好き勝手に子どもを育てて良いわけではなく、社会の代表として子どもに接することが本来です。
 「こういうときにはこうしたほうがいい」とか、「こうしたときは、このようにかんがえるとよい」といったことは、社会の公的な価値を親など周囲の大人が自分の体験、体感覚から翻訳して、子どもに伝えるものです。そこには世の中の多元性も踏まえた、“わきまえ”があります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

2.については、 
 
 私的情動から発せられたニセの価値観(ローカルルール)をチェックすることはもちろんですが、社会の公的な価値を代表としたものであったとしても、成人するまでに人間は一度それらを否定する必要があります。直訳はダメ。「守破離」とはよく言ったもので、直訳をしていると、原理主義的、強迫的になり、徐々におかしくなってきます。

 否定した上で、自分の体験、体感覚を通じて翻訳し直す必要があるのです。
 
 自分で翻訳し直してはじめて、「自分自身の価値観」となります。

 それらを促すのが二度の反抗期だったりします。その結果、自他の区別がついて、他者とも適切な距離が取れるようになります。
  

 

 1.2.を経ないものは、「ローカルルール(人格)」となって、大人になったあとも生きづらさをうんだり、思考や行動を制限することになるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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