内面化した親の価値観の影響

 

 新型コロナウイルスに感染したことで、志村けんさんが亡くなりました。
 そのことにショックを受けた方も多いのではないかと思います。

 筆者も子どもの頃は、「8時だョ!全員集合」などを生で見ていました。
 当時は、「志村けん」という名前をいうだけで、子どもがゲラゲラ笑うというくらい人気があったと記憶しています。

 筆者も大好きで見ていました。それが小学校低学年くらいのときでしょうか。
 

 

 少し時間が進み、筆者が10代になったころだと思いますが、母親が、志村けんさんのコントを見て、「汚い」とか、「下品だ」みたいなことを言って嫌悪感をあらわにすることがあって、それを真に受けた筆者は、それ以降、なんとなく志村けんの番組から遠ざかっていったのです。
 (志村けんさん自体も、一時、死亡説が流れるくらい、TVに出ない時期があったのもありますが)
 

 

 亡くなって感じるのは、「もっと見ておけばよかったなあ」ということです。
 落語とか古典芸能の世界でも名人がいますが、喜劇の世界でまさに名人に値する方ですから。

 

 

 お亡くなりになったこともあり、そんな事を考えていると、筆者が気がついたのは、「志村けん」と「汚い」ということを結びつけていたのは、単に親の価値観を相対化せずに内面化されていただけだったんだ、ということです。

 自分の価値観、自分の考えだと思っていたことは、自分のものではなかった!

 

 別の言葉で言えば、「ローカルルール(人格)」です。
   
 自分の中でも、相対化できる親の価値観は、まだまだ潜んでいることに気がついたのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  
  

 

 

 クライアントさんと接していても感じますが、親の価値観をそのまま内面化して、それが悪さをしている、ということは頻繁にあります。

 

 他人にイライラしたり、自分を責めている場面でも、結局それは、「ほら、だからあなたはダメなんだ。誰からも信頼されない」と、内面化した親の価値観がその人のそばで囁いているということだったりします。

 

 
 まれに、治療への抵抗が起きたり、中断が発生したり、ということもありますが、それも結局は、社会への不信感といった親の価値観を内面化したものだ、ということだったりします。
 「外で余計なものをもらうと危険だ」「治療者はお前を否定し、バカにしているんだ」「なんだかんだ言っても、家(家族)が一番だ」というのです。
 その結果、社会と分断され、親の価値観は相対化されずに残り続けてしまいます。

 

 

 「自分の考え」「自分の嗜好、感覚、価値観」だと思っているもののかなりの部分は実は、単なる親の価値観の直訳ではないか? ローカルルールではないか?と今一度疑ってみる必要があります。

 

 「良い会社に入らなければならない」「学歴がないといけない」に始まり、「こんな人間はダメだ」といったようなこと。
 
 あと、「こんな髪型は似合わない」とか、「こんな服は似合わない」というのも、子どもの頃に、親などから「あなた、そんな服はやめときなさい!」「似合わない!」と親の偏った嗜好、不全感から強く言われて真に受けたまま育ってしまったといったケースは本当によくあります。

 

 

 

 「でも、誰だって親とか周りから影響は避けられない。どれが本当の自分の価値観なのか。健全な影響とそうではないものとはどう区別したらいいの?」と疑問に思うかもしれません。
 

   
 区別できるポイントはちゃんとあります。

 それは、
 
1.親の価値観が社会の公的な価値を代表したものかどうか?(私的情動からのものではないか?)
 
2.公的な価値であっても、直訳ではなく、一旦否定したうえで、自分で翻訳し直しているかどうか?

 ということです。

 

1.についてですが、私的情動から発せられたものを、それらしい理屈でコーティングしたものはローカルルールといい、悪影響があります。
 価値観というのは社会を生きていくための学習であるわけですが、私的情動から発せられたものは価値観などと呼べる代物ではなく、結局は親の不全感にすぎないものだからです。

 

 

 志村けんさんの例で言えば、母親は、単に自分の不全感から「汚い」といっていただけだった。当時、母は夫との不和とかそうした問題がありましたから、男性に対する反感をもっともらしく吐き出していただけだったと考えられます。それに子どもを巻き込んでいただけで、価値観と呼べるような立派なものではありません。
 (巻き込まなければローカルルールは成り立ちませんから、子どもを利用していただけだった)

 

 ですから、皆さんも、親の価値観というものが、私的情動から発せられたものではないかどうか、不全感が隠れていないかをよくよくチェックする必要があります。

 

 本当に影響されるに足る価値観というのは、社会の公的な価値を代表したものです。
 親は、自分の私物のように好き勝手に子どもを育てて良いわけではなく、社会の代表として子どもに接することが本来です。
 「こういうときにはこうしたほうがいい」とか、「こうしたときは、このようにかんがえるとよい」といったことは、社会の公的な価値を親など周囲の大人が自分の体験、体感覚から翻訳して、子どもに伝えるものです。そこには世の中の多元性も踏まえた、“わきまえ”があります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

2.については、 
 
 私的情動から発せられたニセの価値観(ローカルルール)をチェックすることはもちろんですが、社会の公的な価値を代表としたものであったとしても、成人するまでに人間は一度それらを否定する必要があります。直訳はダメ。「守破離」とはよく言ったもので、直訳をしていると、原理主義的、強迫的になり、徐々におかしくなってきます。

 否定した上で、自分の体験、体感覚を通じて翻訳し直す必要があるのです。
 
 自分で翻訳し直してはじめて、「自分自身の価値観」となります。

 それらを促すのが二度の反抗期だったりします。その結果、自他の区別がついて、他者とも適切な距離が取れるようになります。
  

 

 1.2.を経ないものは、「ローカルルール(人格)」となって、大人になったあとも生きづらさをうんだり、思考や行動を制限することになるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 アラン・ソーカルという物理学者が、1996年に「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて」という論文を雑誌に掲載しました。その内容を見て、批評家や思想家たちが評価しました。
 一通りの評価が揃ったころに、その頃合いを見計らって、実はその内容は哲学や物理学の単語をもっともらしく並べただけの全くのデタラメだったと発表しました。意味のない文章を見て「意味がある」と評価した学者や批評家は面目丸つぶれになりました。

 

 

 アラン・ソーカルは、現代思想などで科学の知識がいい加減なまま乱用されていることへの警鐘として、こうした挑発を行ったといわれています。
 
 「アラン・ソーカル」事件といいます。

 

 実は学者とか専門家でも、自分の目で見て、頭で考えて物事を判断しているわけではなく、「すごそうだ」とか、「すごいといわれている」ということで判断をしているのではないか、というのです。

 

 

 昔は、日本でもマルクス主義という考え方が主流でしたが、今から見ると非科学的な考えも含まれていますが、「真理である」と普通に流通していたりしていました。

 それも、当時の社会状況や問題意識もありますが、じつはベタに言うと「(内容はよくわかってないけど)なんか、すごそうだ」というような感情がベースにあったのではないかと考えられます。

 

 

 もう亡くなってしまいましたが、吉本隆明という思想家がいました。娘は吉本ばななという作家です。「戦後最大の思想家」と呼ばれ、信奉者も多い人です。

 近年は、それに対して疑義を唱える人が出たりしています。

 

 「吉本隆明という共同幻想」という本がありますが、簡単に言えば、「吉本隆明というのは、難しく書いてあるだけで、何を書いているのかわからない。実は内容も意味がないのではなかったのではないか?!」
 というものです。単なる難癖ではもちろんなく、吉本のいい加減な言葉遣いや、デタラメさについて、細かく例を上げて示しています。

 

 

 かんたんなことをわざわざ難しそうに書いてあるのは、結局は、「どうだ、オレはすごいだろう!」という顕示欲や相手をマウンティングしたいという支配欲だったのではないか、というのです。  
 その難しそうな文章を見て、同時代の人たちは「吉本隆明はすごい」と思って、共同幻想(ローカルルール)に染まっていただけではなかったのか?と。

 

 

 

 明治大学の鹿島茂教授が、小林秀雄を取り上げて同じようなことを書いています。
  
 小林秀雄といえば、私たちが使っていた国語の教科書にも登場する日本を代表する英文学者とされます。

 しかし、小林秀雄もどうやら「どうだ、オレはすごいだろう!」という自意識から、わざわざ難しい言葉で文章を書いていたのでは?というのです。

 

小林秀雄

 

 
 

 

 

 

 

鹿島茂は、

 「小林秀雄が書いた文章で「わかった!」と思った経験が一度もない。文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは小林の文の方であることがわかる。」
 「こういう意味不明なことを書く小林秀雄も困ったものだが、それを入学試験にあえて出題する大学教師とは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 

 

 作家の丸谷才一や、比較文学者の小谷野敦も小林秀雄は意味不明だと批判しているそうです。

 

 

 でも、小林秀雄は国語の教科書にも載っているくらいだから、それなりの学者たちには評価されていたはずですが、実は、それは、「どうだ、オレはすごいだろう!」というローカルルールに染まった結果だったのかもしれない。
 

 そのことを、鹿島茂は、漫画家東海林さだおの言葉を借りて「ドーダ」という言葉で表現しています。
 
 

 

 「ドーダ」とは、「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義しています。
 (なんか、ローカルルールとよく似ていますね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本当はすごくないけども、皆が何故かすごいと思いこむのは、「その時代特有の「集団の夢」」だと鹿島茂は言っています。
 

 

 さらに、森鴎外や、西郷隆盛などを取り上げて、歴史上の人物の行動にも、「ドーダ」というものがあったとして、これまでとは違って視点で「すごい」とされる人の行動の背景にある「ドーダ」を描いています。

 さて、こうしたことから見えてくるのは、「すごそうだ」とか、「皆から評価されている」ということの実像です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちも、「職場のあの先輩は皆から評価されている(でも、私には理不尽なことをする)」「親戚のあの人は尊敬されている(でも、とても支配的で窮屈だ)」ということがあります。
 周りから評価されているから、ということで理不尽さを否定し難いように見え、自分を否定する行為を真に受けてしまいがちですが、それも、結局「ドーダ」という集団の夢だったのではないか?別の言葉で言えば単なる「ローカルルール」でしかなかったのではないか。

 
 

 

 日常でも、わたしたちに対して、「仕事はここまでできて当然だ!」とか、「これができないなんて恥ずかしい!」と指摘してくる人がいたりしますが、それって、結局は、その人が「自分をすごいと思わせたい」「相手をマウンティングしたい」「相手を負かしたい」という気持ちの発露でしかなかったのではないか。

 つまり、「ドーダ」でしかなかったのではないか?
 
 もちろん、「ドーダ」以外にも嫉妬ということもあります。広義では嫉妬も「ドーダ」といえますが。
  

 

 

 筆者も、以前の職場で、先輩から「東大卒で営業部に配属されて、上司からいじめられた人」の話を聞いたことがあります。
 東大卒ということに対するやっかみから、「こんなこともできないのか」と些細なことを取り上げて上司がその人をいじめて潰してしまった、というのです。

 東大卒のその人は、指摘されることが事実であると真面目に考えて、単なる嫉妬でしかないことで潰されてしまったのです。

 

 

 このブログでも、手塚治虫の有名なエピソードをとりあげましたが、
 手塚治虫も、嫉妬から同輩や後輩の漫画家を「こんな描き方はだめだ」こき下ろして、トラブルになることしばしばであったのです。
 漫画家の神様も、当たり前ですが、業の深い人間でしかないのです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 わたしたち人間はだれでも、嫉妬や「ドーダ」から自由ではありません。
 

 

 鹿島茂は、「ドーダ」は自己愛から発するので、「自己愛とはターミネーター2の金属男のように、あらゆる形をとってどこにでも発言するから、容易にそうとは見抜けぬ」といい、そして、「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」ともいっています。
 

 

 いいかえると、私的領域の言葉はすべてローカルルールということです。

 

 だから、人の言葉や行動をそのまま真に受けるなんてしない。できるわけない。

 

 

 トラウマを負った状態というのは、いいかえれば「ローカルルール」の幻想にとらわれている状態。ローカルルールの幻想とは、「そうはいってもローカルルールが正しい」「自分は間違っている」という感覚。
 だから、代謝が進まない。

 でも、そのローカルルールとは、結局「ドーダ(私的情動、不全感)」でしかなかった。 

 

 ローカルルール(人格)の言葉とはすべてそうです。

 深刻そうにして、相手を非難する。自分は悲劇の主人公で、それを理解できない相手の理解や共感性の欠如に問題があるとする。
 難しい理屈で感情や思考をこねくり回して理屈を作り上げているが、意味不明。

 しかし、ローカルルールというものの正体がわかると、
 「文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちらのせいだと思っていたが(罪悪感を感じていたが)、今になると悪いのはローカルルールの方であることがわかる。」
 のです。

 

 

 もっと別のケースでわかりやすく言い換えたら、

 「昔は、親の言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは親の方であることがわかる。」
 
 あるいは、

 「昔は、友人やパートナーの言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは友人やパートナーの方であることがわかる。」

 そして、親や友人やパートナーの言うことに賛同していた人たちは、「集団の夢」に染まって、
 「こういう意味不明なことを言う親や友人パートナーも困ったものだが、それに賛同する人たちとは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 ということです。
 

 

 「生きづらさ」とは、結局、他人のドーダを真に受けて、後始末を押し付けられている状態、といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 実は、冒頭のアラン・ソーカル事件のように、人間というのはローカルルールの世界では中身などは見ていないのです。「なにやらすごそうだ」という様だけを見て、それなりの人でも、おかしな理屈に染まったりする。

 

 ドーダはあちらこちらにありますから、そうと知っていなかれば、ついついもっともな気がしてしまいます。そして、自分が特別に駄目だと思ってします。

 

 

 歴史に名が残るような人、あるいは現在すごいとされている著名な人でも、結局は意識、無意識にドーダをかましているだけ可能性が高い。
というか、鹿島茂が「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」といっているように、すべての言動はドーダなのだと思う必要がある。
 特にテレビとかマスコミに出るような人は、全てが演出でできていますので。

 

 スポーツ選手も、経営者も、作家も、政治家も、哲学者も、芸能人もみんなみんな「ドーダ」でできていただけだった。

 

 

 
 身近な人達なども同様です。
 カーネギーの名著「人を動かす」はまさに、「ドーダ」の塊である人間をどう扱うか?をまとめた本でした。

 

 

 
 日常生活において、例えば仕事で威圧的な人にあったら、「あ、この人もドーダなんだ!」と考える。
 「このくらいのこともできないの」といわれたら、「あ、この人、今ドーダをかましてきた」と気づく必要がある。
 (昔、アニメとかで見た、見栄を張った奥様同士の会話のようですね。「うちの主人は、今度ニューヨークに出張なんですのよ!」のと同じこと)
 「自分はできていない」「自分はだめだ」なんて、反省したり、真に受ける必要なんてありません。

 

 みんなが「すごい、すごい」と言っていても、「本当か?」と思ってよい。
 というか、思うほうが普通だし、世の中を生きる者の作法として、疑わないといけない。

 
 
 でも、健康な人間はすべてを疑って生きてもしんどいので、ノリつつツッコミ、ツッコミながらノル、ということをして生きる。
 二重の意識を持ちながら物事を楽しんだりします。

 人間というのは、本来「すごい人」など実は一人もおらず、誰しも業が深く、弱い生き物なのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 前回、意思決定、選択プロセスについて、結果論からマウンティングされると、結果から最善手を求めるようになり、自分の主権が奪われる。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 ということを書きました。

 

 その背後には、マウンティングする側が自己を神とするような万能感の錯覚が潜んでいることにも触れました。
 

 

 
 ローカルルール(人格)とは、それ自身がルールを創造する小世界のニセ神のような存在です。
 そのなかでは、あたかも神のように振る舞う(正統性を偽装する)ことでなければ、成立しません。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 その証拠に全体主義の国では指導者や組織は神に擬せられ、神聖化されます。カルト教団の教祖は神のようですし、機能不全家族の親もあたかも自分は全能であるかのように言動します。

 

 

 トラウマを負った人は、

 「私はいつもだめです。判断のおかしさを指摘されてきました。」
 「自分の親や、他人はいつもしっかりしていて、正しい。なぜなら結果がそうだったから」
 

 といいますが、実はそれはニセ神化した他者が、結果論で評論をしていただけだったのではないか。

 自分に自信を持つとは、自分の判断や選択、行動に自信を持つということです。

 

 

 なぜ自信がないか?といえば、その一つに、判断や選択の主権を奪われてきたから。

 自分が選んだことも「これが正しいかわからない」となる。

 では結果から判断しようとしますが、結果が最善手ではないことを取り上げて「やっぱり、自分の考えは信用できない」となって自信を失ってしまう。

 他人からも「もっとこうしておけば」と指摘されて、「ああ、他人のほうが優れている」となって、自信を失う。

 

 

 でもそれは、「結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想」でしかないものです。

 前回も触れましたが、人間は最善手を打つことは絶対にできないのですから、結果から判断することは実は意味がない。
 

 

 求めていることと全く違えばそのプロセスを改善することは意味があるかもしれませんが、次善手であれば万々歳といっていいのです。

 仮に失敗であったとしても、自分の価値基準(フォーム)から意思決定をできたのであれば、それは大いに褒められることです。

 なぜなら、人生は判断の連続です。
 自分の価値基準(フォーム)で生きるしか、主権を持って生きる方法はないのです。

 
 人間は弱く認識能力は限定されており最善手にはアプローチすることはできない。
 世の中には常に次善手しか存在しない、ということを知ることを成熟といいます。

 世の中は、多元的ですから、自分のスタイルに沿った瞬間に、評価の次元が自分軸になりますから、次善手が最善手となります。 
 そして、自分のスタイルに沿った選択の結果を「縁」というのです。

 

 

 一方、人間の能力は高いはずで、そこに向けて努力するべきだ、と考える考えをハラスメントといいます。
 DV、虐待、モラハラ、クレーマーにはすべてこのおかしな人間感が背景にあります。

 そして、幼い子どもが完全な人間(立派な人間)でないことに腹を立てて激しい折檻をしたりして、命を奪ってしまったりするのです。

 クレーマーは、自分の趣向や思考をエスパー(完全な人間、立派な人間)のように汲み取れない店員に腹を立てて、「気が利かない」として怒り出す。 

 

 

 人間の能力が高いはずだと捉えて、最善手を求めるものは、しらずしらずのうちに、人間の判断力を超越した不思議なめぐり合わせや、自分に備わる特別な力を信じるようになります。

 なぜなら、そうでなければ、最善手に達することはありえないからです。

 例えば、株が最高値で売れるかどうか、最安値で買えるかどうかなど予め分かるはずもありませんが、人間の能力は高いはずで、最善手が予め分かるということが成立するためには、自分だけが特別で不思議なめぐり合わせがやってくる、というおかしな考え(トリック)をもってくるしかありません。

 

 

 これは「縁」とは実は全く異なる概念です。「縁」とは人間の力が有限であることを背景に、自分のスタイル、価値基準で得た選択(次善手≒自分軸では最善手)との出会いの中に感じるなんともいえない感覚のことです。

 

 自分の価値基準に基づきますから、あたかもフォームができたスポーツ選手がコンスタントに結果が出せるように、また次の「縁」に出会うことができて、縁が積み重なり、人生が拓かれていく。

 

 

 一方、人間の能力が高いはずだ、自分もそうあるべきだ、と捉えて、最善手を求めるものは、自分の価値基準を崩して主権を他者に奪われた状態です。
 主権を奪われた状態にもかかわらず、頭の中でだけ不思議なめぐり合わせを信じていますが、主権が奪われていますから、目の前に来たものが最善かどうか判断することができません。
 常に、判断に迷い選びきれず、選んでも結果論から最善手でないことを悔い、他人の後出しジャンケン批評にマウンティングされ続けることになるのです。

 

 自信はまったくないのですが、心のどこかで「自分は特別だ」と思っている。

 それもそのはず「自分は特別だ」というのは、上でも書きましたように、最善手を求める錯覚が成立するために必要なトリックだからです。

 
 実は、トラウマを負った人がもつ「自分はだめだ」というスティグマ感は、そのコインの裏側です。

 結果論で裁かれることと、予め分かるはず、ということをつなぐのは、自分はだけが特別にだめで、いつも悪い結果が起こる、というローカルルールしかないからです。

 

 最善手が予め分かるはずなのにできないのは、自分は特別にだめらから、ということで、親や他者から裁かれてきたためです。
 「ほら、他の子は出来ている」と、たまたまできている最善手らしき例を後出しで取り上げて、結果論が正統だと真に受けさせられてきた。
 

 トラウマを負った人には、「自分は特別だ」という変な自信と同時に、どんなに学歴やキャリアなど実績があっても拭えないくらい深い自信のなさとが存在するのです。

 

 主権を回復したいけど、どうしていいかわからない。
 わかっていてもできない、という場合は、最善手の幻想(ローカルルール)にかかっています。

 自信がないから主権がない、とか、自分で選べないのではありません。最善手の幻想が成立させるために(それによって)、万能感やスティグマ感、長年苦しめられてきた「自信のなさ」が必要なのです。
 

 

 この不思議な構造が見えてきたということは、「最善手の幻想」を壊すことで、自信のなさや、自他の区別がない、自分はおかしい、ということを変えていくことができるかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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