世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 妻夫木聡さんが主演している「悪人」という映画があります。
 吉田修一さんの小説に基づいたものですが、その映画の中で、登場人物がむしゃくしゃしてラーメン屋を出る際に「ああ、まずかった!」と大きな声で行って出ていくシーンがあります。

 これは明らかにその登場人物が物事がうまくいかない不全感からラーメン屋の店主を傷つけようとして行ったものです。
 
 当然、発言の内容には意味はありません。

 もし、ラーメン屋の店主が真に受けてしまったら、ラーメン屋を廃業する、なんてことが起きるかもしれません。

 

 

 以前、TV番組で、藝妓さんが取り上げられていました。
 伝説的な藝妓さんということで芸も一流ですが、会話の仕方からすべて相手のことを気遣って接していらっしゃいました。
 

 そんな伝説の藝妓さんでも、仕事をしていて辛い体験はあったそうです。
 それはある宴会の席でお座席に呼ばれたときのこと。会話を磨いていた藝妓さんは、相手が盛り上がる話題を提供し、自分では自信を持って接客できた、と思っていたら、後日、「あいつはもう呼ぶな」とお客さんから言われそうなのです。とてもショックな出来事です。

 問題なかったはずだけども、どこか自分に慢心があり、お客さんの気に触ったのではないか、ということだそうです。

 それ以来、会話など接し方を見直して今に至る、というエピソードが紹介されていました。
 

 

 別の例では、ある店員さんが普通に接客していました。そのお客さんは問題なくお帰りになられたと思っていました。
 
 しかし、後日会社のカスタマーセンターに
 「笑顔が嘘くさかった」「親切さが押し付けがましかった」とか、
 「上から目線に感じて不快だったから、二度と利用しない」とのクレームが入った旨の連絡が来て驚いたそうです。

 

 対応している側としてはそれで他のお客さんからは文句もないし、普通に接している。ただ、なぜか1年に1~2回は必ずそうしたお客さんが現れたりする。

 気にしなくて良いとはわかりながらも、店員としてはやはりショックを受けて傷つく、徐々に萎縮する感覚を感じてしまう。 
 
 「自分に問題があるのでは」という気持ちが拭えなくなってしまったそうです。

 

 

 冒頭からの3つの例について、ここで起きていることは、実は全てローカルルール人格が引き起こした現象です。

 (参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 顧客が自己の不全感から何かの引き金でローカルルール人格にスイッチします。すると、普通にサービスを提供しているのにもかかわらず、クレームを寄せてきて、言い返せない相手を傷つけるだけ傷つけます。

 

 一流のホテルや旅館、レストランでもクレームのないところはありません。

 
 もちろんミスからクレームになることはありますし、それに対応して改善することは当然ですが、多くのものが、要は「自分を大事に扱っていない」という過剰な(ニセモノの)クレームだったりします。

 

 飛行機の中では豹変してローカルルール人格になる人はとても多い。いい大人が駄々っ子のようになって、CAさんを相手に文句を言っている場面をよく目にします。

 CAさんなどの仕事は「感情労働」と呼ばれていますが、そのストレスは大変なものです。

 

 人間はどれだけしっかりと接していても、仕事などでローカルルール人格に変身した方に遭遇します。サービス業であれば必ずある一定の割合と頻度で、ローカルルール人格に変身した人たちが訪れてきます。ローカルルールに相手を巻き込むためだけにサービスに申し込む人もいます。

 

 サービス業などを中心に生じるクレーム(ローカルルール)というものは、「お客様は神様です」「お客様の言うことはどんなことでも応えなければならない」「お客様の方が正しい」といった観念を悪用して成り立っています。
  

 最近は、それを「カスタマーハラスメント」というそうですが、もしかしたら日本では特に生じやすいのかもしれません。
 

 

 以前記事に書いたことがありますが、海外だと、お店に入ってもスマイルもないし、店員さんも無愛想にしています。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」
  
 良いサービスを受けるためには、その分のお金を払わないといけない。ただでサービスは求めることができない。

 対価と提供するものとがしっかりと対になっている。

 

 実はこれが本来の姿ではないかと思います。

 一方、日本だと、安くてもサービスは良かったりするので、ついつい当たり前に思っていますが、お金も出していないのに、良いサービスを当たり前としているのはどこかおかしい。
 

 

 例えば、コンビニやファーストフードの店員に笑顔がなかった、といってクレームをつける人がいたとしたら、どこか勘違いをしています。
 わずか数百円しかお金を払っていなければ、それだけのサービスしか受けれません。

 

 「いつでもどこでも、一流のホテルマンみたいな対応をしろ!それが常識だ。ただし、追加のサービス費用は払わないから、タダでお願いね」
 
 と言っているということですから。

 

 もし、本来いただいている費用によって提供を約束しているものを厳密に定義したとすれば、正当なクレームというのは半分にも満たないかもしれません。

 

 多くのクレームは、「お客様は神様です」という慣習にタダノリして、自分の不全感を発散しているだけ。

 一般の店員さんに対して、チップを渡しているわけでもないのに、一流の接客を求めるなんて冷静に考えれば変なことです。

 海外でチップが必要なのは、日本人から見たらドライですが、とてもフェアなことではあります。

 

 そう考えると、
 例えば、
 タクシーの運転手が道がわからないとすぐに腹を立てる人もいますが、(もちろん、道を知っていてほしいのはやまやまですが)特別料金を払っているわけではなく流しのタクシーを安く利用しているのであれば、稀にそうした事があるのはやむなしとしてある程度は許容しないといけないのでしょう。 

 

 

 以前、習い事のグループレッスンで先生が自分にアドバイスをくれなかった、と怒っている方がいらっしゃいましたが、それも、もちろん丁寧に対応してくれるに越したことはないのですけれども、グループレッスンであるために割安で利用できているのであればぼちぼちで許容しないといけない。
 手厚く対応してほしいのであれば、本来はマンツーマンのレッスンを申し込まなければいけないということなのでしょう。

 

 

 本来提供を約束しているものと期待のミスマッチ。その間を「お客様は神様です」という気合・慣習を背景に「自分だけは特別に優遇してもらえるはず」という幻想が生まれ、「自分は大事にされていない」という失望がきっかけでそこにローカルルールが付け入って炎上(クレーム)を引き起こす、という構図と言えます。

 

 

 その点、日本は異常かもしれない。

 同様に、個人同士でもさながら日本人全員が伝統芸能の弟子さんにでもなったかのように、過剰な礼儀や気遣いを求められることもおかしなことです。日本はあまりにも細かなことにうるさすぎて、それが自分にも返ってきて、互いに拘束しあっている。もはやローカルルール化している。

 そのために、「対人恐怖症」というのは、日本独自の悩み(文化依存症候群)とされるまでになっています。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 
 ローカルルールは、社会で一見正論のようでいておかしな慣習を悪用して、生き永らえようとします。

 例えば、いじめは、「学校の中は自治が行われる聖域で、外の社会とは違い特別だ」といった観念、慣習を悪用をして、社会の常識や法といった外部の介入がなされないまま、被害者が命を断ったり、消えがたいトラウマを負ってしまうということが起きてきました。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 
 DVやパワハラもそうで、「家庭や職場の中は特別(私的領域)」「私がおかしいと判断した相手を指導して良い」という意識がハラスメントの温床となります。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 外で人と殴ったり暴言を吐いたら警察に捕まります。しかし、「家や職場の中では良いのだ」といっているのですからおかしなことです。
 外でダメなことは家や職場の中でも当然ダメなのですが、ローカルルールは、内密な関係から外れたら生きていけないような気にさせて、常識がわからなくさせてしまいます。

 本来それぞれ独立した人間ですから、正当な権限でもなければ、相手を指導することなどできません。
 会社でも指導できるのはあくまで業務の改善だけです。人格に触れることはできません。

 

 ローカルルールがはびこりやすいのは、権限の範囲などが曖昧にされていて、曖昧さから生まれる不具合が個人の人格の問題とされたり、擬似的な私的領域が生まれやすい状況といえます。
 
 日本の職場は、仕事の権限や責任が明確ではありません。
 そのために、「これは私の仕事ではありません」「人格に関わることについて言われる筋合いはありません。」とは言えず、曖昧さの隙間にハラスメントが生じます。 

 

 会社と顧客の間にも同様に曖昧さは生じます。

 
 サービス業の方が身につけているのは、当たり障りなく、そうした曖昧な隙間を埋めて、ローカルルール人格にスイッチする確率を減らすための所作やあるいはそれを鎮めるための方略や身を護る術、と言えるかもしれません。

 

 人間は公的な環境では本来の状態でいることができます。
 「礼儀」というのは公的環境を作り出すには最適なものであるためです。

(参考)→「親しき仲にも礼儀あり

 

 しかし、ローカルルール人格の言っていることを真に受けてしまうのであれば、それは全くの間違いです。ふりまわされているだけになります。

 結果、世の中のビジネスはクレームを恐れて過剰に設計されていて余計なコストを負担している。野菜などの食品がわかりやすい。クレームが来そうなものは食べれるものでも廃棄されている。過剰防衛になっていると言えます。 
 

 本来、おかしいのはローカルルール人格の側なのですから。

 

 かつては、ローカルルール人格の言うようなことも意味があるとして受け止める風潮はありました。

 理不尽な部活の先輩や監督の要求に耐える。

 弟子は師匠の気まぐれに応える。

 会社上司の言うことはすべて受け止める。

 などなど

 「理不尽を受け止めたり、耐えることで成長することができました!」というスポ根的な美談は数多くありました。
 (特にトラウマを負った人にとっては、理不尽なことは全て自分の責任であり、応えて当然、と思いがちです。)

 

 
 でも、それらは全く意味がなかったのかもしれない。その事に気がついた人たちが、最近は、モラルハラスメントだとして告発するようになりました。

 告発された側が地位を失うような自体になっています。

 「ハゲ~!」と絶叫していた国会議員は、まさにローカルルール人格に変身した姿を記録されて、失職してしまいました。

 

 冒頭の藝妓さんも、クレームを受けてそれに応えたということで美談となっていますが、現代の基準で言えば、それに応えなくても良かったのかもしれません。
 もちろんクレームに応えて成長できた部分もあることは否定しませんが、受け止めた結果、萎縮して抑えてしまった本来の自分の良さもあるでしょうから。

 

 例えば、好きな芸能人のランキングに上る人が、同時に嫌いな芸能人のランキングにも登場することがしばしばあります。

 その芸能人は、嫌いと言っている人のクレームを聞いて、改善しなければいけないのでしょうか?
 この世には万人に好かれる人はいないのですから、改善したら確実に良さが失われてしまいます。

 

 

 プロ野球の投手は打たれても反省することはありません。

 反省するような性格であれば、投手としてはやっていけない。
 では、独りよがりになるか、といえばそんなことはなく、自分の感覚を信頼して改善していきます。
 
 

 世の中にあるクレームのおそらく9割はローカルルール人格がからむニセクレームで、真のクレームというのは1割といってもよいのでしょう。 

 あおり運転などを見ればわかります。
 並走している車へのクレーム行為ですが、いかに異常であるかがよくわかります。

 

 あおり運転の加害者は異常だとはっきりわかりますが、日常のクレームについてはなぜか真に受けてしまいがちです。
 それは「お客様は神様です」といった慣習が邪魔をしているから。

 世の中には、ローカルルール人格というものが存在するということ、そして世の中はニセのクレームだらけだということを知る必要があります。

 

 ニセのクレームがあるということについてわかりやすいのは、モラルハラスメントを行う会社の上司、DVを行うパートナー、いじめっ子、虐待する親などの発言です。
 私的感情を隠すために彼らは理屈をこねますが、言っている内容が耳を傾けるに値しないことは明らかなことです。

 

 

 虐待死事件で、死に追いやられた子供が痛ましい反省文を書かされていましたが、あれも、親のニセのクレームにさらされ、本来改善する必要のないものを改善するように強いられていたわけです。

 もし、親にインタビューしたら、もっともらしい理屈を語るでしょうけどもたわごとであることは自明です。

 同様のことが、じつは私たちの身近な仕事の現場でも起きています。

 

 ニセのクレームを真に受けて心に傷を負ってしまう人や、場合によっては仕事を辞めてしまう人もいるでしょう。(以前ご紹介したカウンセラーの例もその一つです)

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 ニセのクレームだということと、そのことが世間でも浸透し、会社全体でも真に受けなくなれば、過剰防衛によるムダも減るかもしれないですし、トラウマを負ってしまう人も少なくなるかもしれません。
 「カスタマーハラスメント」という言葉が出てきたのは良いことです。

 

 

 こうした前提から考えると、

 仕事において、普通にサービスを提供して、普通に応対していて、それでもクレームが来るなら、それはすべて相手がおかしい、と捉えて間違いではない。
 いじめられっ子が、いじめっ子の理屈を真に受けないでいいのと同様。ローカルルール人格が絡んでいるということ。  

 (会社の中での上司の叱責や、学校や家庭の中での心のない言葉もです。)

 

 

 冒頭のラーメン屋の例であれば、もちろん受け止める必要もなく、店主がその失礼さを叱りつけて、「二度とのれんをくぐるな~」と、水をまいても良いくらいかもしれません。
 叱責によって公的環境にいると目が醒め、人間はローカルルール人格への変身から目が覚めやすくなります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 万が一、提供すべきサービスが提供できていなければ、それは謝罪し、改めたものを提供し直すということは当然のことですが、

 私たちは、自分の立ち位置は、常に日の当たる側、常識の側においておく。
 そして、しっかり普通に仕事をする、予定されたサービスを提供する。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 それでもクレームが来たとしたら、それはニセのクレームだと知る。
 

 

 本当のクレームというのは、意識を向けていれば身体で自然とわかるものです。 

 

 お客さんと会話していく中で、改善のヒントにハッと気がついたり、仕事をする中で不意にアイデアが降りてきたり、といったことがおきます。それが本来のカタチ。 

(参考)→「真の客観とは何か?

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 「本来の自分」同士のやりとりというのは、安心安全で創造的なものです。

 私たちはもっと、常識を背景とした自分の感覚を信頼しても良いのかもしれません。そうすると、何を受け止めるべきことかは自然が教えてくれます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 「愛」などもそうですが、私たちにとってサイズに合わない言葉や概念は、私たちを機能不全に陥れます。

 
 人間にとってスペックオーバーである「愛」という概念を持ち出すと、愛が得られないことに絶望したり、応えてくれない相手に憎しみを感じたり、個として完成しようとするあまりに孤独に陥ったり、ということが起こります。

(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 「責任」も同様に私たちにはスペックオーバーの観念の一つ。

 

 一般に言われる意味での「責任が果たされていない状態」とは、責任がないのではなく、「責任」という身の丈に合わないものを当てはめた結果、逆説的に機能不全になってしまっていると考えられます。

 

 

 本来、私たちに必要なのは、それぞれ適切な「役割(位置)」です。

 
 以前、経営学者のドラッカーの言葉を紹介しましたが、
 「個人にとって、社会的な位置と役割がなければ、社会は存在しないも同然である。(中略)個人と社会との間には、機能上明確な関係が存在しなければならない。」と述べています。
 反対に、「役割」が失われると、社会の中で存在していないも同然となる。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 広く言えば、失業など「役割」を奪うハプニングは、社会に多くありますが、私たちの日常にも私たちの「役割」を奪ってしまうものは存在する。

 対人関係などで浴びる嫉妬や支配、それらが化けたローカルルールといったものはその代表格。

 

 ローカルルールとは、常識のフリをした私情が相手を支配しようとすること。

 いわゆる支配というのは、身の丈に合わない概念や言葉を持ってきて、私たちの「役割」を奪い去ってしまうことです。

 

 「責任」やそれにともない「罪悪感」というのは最もよく用いられる支配の道具の一つです。

 

 

 

 「責任」という言葉が過剰に用いられると、「役割」は失われて機能不全になってしまう。

 以前の記事で、「カウンセラーも免責が必要なようです。」と書きました。カウンセラーも責任から自由な状況のほうが、不思議なことに効果が出やすいことがわかってきている。
 統合失調症でさえ短期間で治る、という報告があるくらい。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 なぜ、効果が出やすいのか? については、よくわかっていませんでしたが、
「責任」ということを深めて考えていくと、その謎に迫ることができるかもしれない。
 
 
例えば、カウンセラーの「役割(機能)」というのは、本来は、

 ・そこに存在すること(それによって、クライアントは「安心安全」を得る)
 ・クライアントを苦しめているローカルルールからクライアントを切り離し、本来の社会とつなげる。(それによって「関係」を回復する)
 ・上の二つための入口、媒介となる。
  ※心理療法は、これらを助けるための単なる道具。
 
といったことが考えられる。

 しかし、

 ・(お金をいただいているからには)早く良くしなければならない
 ・難しいクライアントを怒らせてはならない

 ・クライアントに責められる
 ・首尾よく、改善しなかった場合にクレームになると困る
 ・医師やスーパーバイザーの評価が気になる

 といった「責任」がのしかかってくると
 「機能不全」を起こし始め、徐々に「役割」が果たせなくなってしまう。

 

 
 反対に、うまくいっているケースというのは、クライアントとの「関係」が良いことから、「役割(機能)」が発揮される。

 心理療法自体の効果というのは、あくまで「関係」とその先にある「役割」発揮を助けるきっかけでしかないのかもしれない。

 実際に、よく知られた研究では、
 治療効果に与える、心理療法の割合は、15%程度でしかないとされている。

 クライアントとの「関係」のほうがずっと大事とされる。
 

 

 それは「関係」によって、カウンセリングの「役割(機能)」が発揮されることを示している。

 

 

 境界性パーソナリティ障害など
 かんしゃくを起こしたりして治療者を責める他責的なクライアントが「難しい」のは、治療関係に「責任」の呪縛をかけてしまうから。

 治療者を非難したり、振り回したりして、「責任」のプレッシャーをかければかけるほど、反比例して効果は下がる。
 だから、なかなか良くならない。

 そのクライアントも、実は本心ではなく、養育環境での呪縛でそのようにさせられているだけ。
 「I’m OK」を得るために、「You’r NOT OK」として相手に自分にのしかかっている「責任」を渡そうとして他責的になっている。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 このように考えると、「無責任(免責された状態)」をいかに作り出すかは、とても大切。

 

 “名人”と呼ばれるような名医は、治療に行き詰まると、
 「う~ん、なぜよくならないかわからないね~~。なぜだろう?」とクライアントにわざと正直に白状したりする。

 すると、治療の膠着状態が解かれて難しいケースが不思議なことに前進することがあるという。
 「責任」の呪縛、機能不全に陥るのをうまく回避して、「役割(機能)」が発揮されるようにしていると考えられる。

 

 「無責任」というのは、実はとても大切。

 

 
 以上のことは、治療者側を例にしていますが、
 「無責任(役割・機能を発揮する)」の効果は、私たちすべてに当てはまります。

 
 私たちがよりよく生きていくためには、
 「責任」は棄てて、「役割」を発揮させることが必要。

 生きづらさとは、「過責任」がもたらしたものであることは、社会学などでも指摘されている(関係性の個人化)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 「責任」といったビックワードはかくも、私たちを機能不全に陥らせてしまうもの。

 

 私たちは養育環境など、これまで生きてくる中で、「責任」を過剰に背負って生きている。それで生きづらくなり、力を発揮できない。

 例えば、

 「両親が不機嫌なのは自分がいい子ではなかったからだ(自分の責任)」

 「友達を怒らせたのは自分の存在がいけないからだ(自分の責任)」

 「上司が期限が悪いのは、自分がどんくさいからだ(自分の責任)」

これらは、すべて「責任」というニセモノ。

 

 ただ、「責任」(ニセの責任)が捨てれないのは、それを捨ててしまったら、自分が堕落してしまうかも、といった恐怖があるから。

 
 実はそれも「責任」がもたらす幻想。

 「責任」を捨てて「無責任」になってしまったら、いい加減で無秩序になるのではありません。むしろ、本来の「役割(機能)」が発揮されて、社会とつながることができる。

 

 
 例えば、すごくプレッシャーのかかる仕事で、追い詰められて追い詰められてうまくいかず、最後に開き直ったらうまくいった。
というのはよく聞く話です。

 スポーツ選手など、試合に勝つためにストイックに責任を感じて煮詰まっていると、あるときコーチなどから、「もっと楽しんだら?」といわれて、ハッとなって、本来のパフォーマンスが発揮される、
というのもよくあります。

 

 

 「責任」があるほうが良い、と思っていますが、「愛」とおなじくそれはまったくの幻想で、本当は、「責任」こそが力を奪っている。

 

 本来の意味で「責任を果たす」とか「責任を取る」というのは、「公的な役割」を意識して、没頭すること。「責任」なんていう概念を持ち出す必要はどこにもない。

 

 逆に、「責任」というのはプライベートな人格にまで侵食して責任を問おうとする性質から、「公的な役割」に集中することを阻み、公私をあいまいにする。
 仕事の失敗が、あたかも自分の存在をすべて消し去るかのような恐怖を与えてきます。
 公私があいまいな状況というのは私たちをおかしくする。本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 こう考えると、私たちが感じる「責任」とは、実はローカルルールの一種であることが見えてくる。あらゆる「責任」それ自体がニセモノ。

 

 

 事実、「責任」といったものを感じているときと、「役割」を感じているとき(例えば仕事に没頭しているときのすがすがしさ)とを身体感覚で比べてみるとその違いがわかります。
 

 「責任」の気持ち悪さ。居心地の悪さたるやない。

 
 反対に、「役割(機能)」の場合はとても心地が良い。

 よく、「あの人はなぜ、あのように状況で役割を果たせたのだろう?」と思うようなケースがありますが、(消防士とか、乗務員とかが、危険を顧みず人を助けたり) あれは、「役割」を果たす感覚なのかもしれない。

 

 反対に、「なぜ、あの人は責任逃れのような卑劣な行為をしたのか?」という場合は、「責任」にとらわれた結果の行為なのかもしれない。

 

 

 私たちの生きづらさの大きな原因の一つは「責任」という、一見大切だけど、まったくのニセモノの概念にありそう。

 
 日常で、もし「責任」を感じたら、「そんなもの要らない」と完全に捨ててみる。

「無責任になって、いい加減な人になるのでは?」と思ったら、それも捨ててみる。大丈夫、心配いりません。

「無責任」になることで、本来の「役割」が浮き上がって来ますから。

 「役割」の心地よさ、機能する状態のすがすがしさを体感してみる。

 

 呪縛が取れた身体の軽さ、本当の意味での社会とのつながりの回復、湧き上がってくる自尊心、信頼感といったものを感じることができます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 “責任”にはニセモノが多い。
その蓄積が、私たちの苦の根源にあるものだ、としてきました。

 ニセモノがあるのであれば、ホンモノの責任があるのか?ということについて、ですが、便宜的に、ホンモノがあるということはできます。

 本物の責任だけを背負って、そうではないものは背負わないことがポイントといえます。

 

 ただ、いろいろと調べてみると、“責任”という概念は、とても曖昧で、納まりが悪い言葉であることが見えてきます。

 哲学とか、法学とかで責任ということについていくつか研究されているようですが、どうやらイマイチピンとくるものがない。

 

 『“責任”はだれにあるのか』という本を書いた国士舘大学客員教授の小浜逸郎氏は、「本書を書き終えた感想をひとことで率直に言うと、「やっぱり責任て、なんだかよくわからない概念だなあ」というところです。」
 と述べています。

 

 

 なぜ、よくわからないか、というと、
簡単に言えば、責任の主体と、問われる責任そのものとがどう理屈をつけても一致しない、ということ。 

 

 責任とは、自由意志を持つ主体が、その行為の結果について問われる、ということです。

 しかし、人間ってそもそも自由意志など持っていない。自由意志を持っている、といってもあくまでそれは理想の話。
 実際の人間は、外的、内的環境の影響を受ける存在で、否応なしに追い込まれるように反応しているだけ。

 

 哲学者のスピノザも述べていますが、人間には自由意志などなく、行為の原因をたどると環境に還元されてしまう。

 

 

 今日朝ごはんになぜパンを食べたか、といえば、前に見たTV番組のせいか、メーカーのマーケティングのせい、スーパーの価格決定のせい、親の教育のせい、意図しないホルモンバランスの乱れのせいか、政府の政策のせいか・・・
 など原因はきりがありません。
 何にも影響されず、自由意志で選んだ、とは言えない。
 

 「いやいや、そんなへ理屈を言って。パンは自分で選んだでしょ」と思うかもしれませんが、自分の行動を説明できないのは、私たちがよく知っている。
 買いたくない買い物をしたり、やりたくないことをしてしまったり、自分の行動で説明できることのほうが少ない。

 

 街頭でいきなりインタビューを受けて、「その服はなぜ買ったのですか?」と聞かれたら、スッキリ答えることはできない。
 「たまたま通りかかって」とか、「バーゲンをしてて安かったから」とか、
 「いや、デザインが気に入ったので」と、それはわかりやすい理由を探して言うだけ。本当の原因とは言えない。

 

 マーケティングなどの研究では、そうした答えは本当の答えではなく、真に受けると痛い目に合うことはよく知られている。
 本当の理由はもっと奥にあるけど、当人は気が付けない。第三者もそれを導くためには、正しく設計された調査と統計的な手法が必要になる。
 その際明らかにするのは、自由意志というものではなくて、環境の要因とか、無意識に潜む因子といったものです。

 

 こうしたことを考えると、人間には完全な自由意志などはないし、そこから導き出される“責任”という概念はまったく似合わない。

(パリ大学の小坂井敏晶教授も、『責任という虚構』という本の中で責任ということが人間にとってふさわしくないことをまとめています。)

 

 

 実際、“責任”という概念を持ち出して議論すると紛糾しています。
 納得できず、納まりが悪いので、いつまでたっても結論が収束しない。

 犯罪といったような明らかにその人が起こした問題であっても“責任”という言葉で語り始めると、居心地が悪くなってくる。

 例えば、ある国でマイノリティの人たちは犯罪率が高い、といったときに、では、犯罪はその人たちの責任か、といえば、そもそも構造的に貧しいから、教育水準が低いから、差別にさらされているか、となる。

 では、現場で起きた窃盗の責任はだれにあるの?と突き詰めていくと、訳が分からなくなってくるのです。

 『反省させると犯罪者になります』という本にもあるような理不尽さを人間は正しく感じるようになります。

 

 

 

 筆者は、“責任”という言葉は不要で、廃止してしまったほうが良いのではないか、と思っています。

 とっても扱いづらいし、納得性も低い。実用性も低い。なくても全然困らないからです。

 

 
 「責任っていう言葉がなくなったら、無責任な人が増えて困るのでは?」と思うかもしれません。 

 
 しかし、“責任”という言葉は、日本においては、実は明治になり外から入ってきた言葉です。

 それ以前は“責任”という言葉は現代でいう意味ではありませんでした。
 でも、困ることはなかった。  

 私たちが教科書なんかで習った「御恩と奉公」だとか、儒教の「仁」だとか、別の言葉が代わりにあったと考えられます。

 

 
 現代でいえば、「役割」という言葉がそれにあたるのかな、と思われます。

 

 使いにくい“責任”という言葉は廃止して、「役割」を用いたほうがよほどすっきりする。

 

 

 なぜかというと、これまで述べたように、“責任”というのはありえない自由意志と対になっていることから、そもそも範囲が広くなりすぎる性質があるため。

 
 “責任”はその範囲を制限していても、結局、「道義的な責任」といったようなものも含んで、当人の人格や存在そのものにまで浸透して、否定して消し去ろうとする傾向がある。

 
 “責任”が想定する自由意志とは環境も含んだ要素から成り立っているため、環境という自分ではコントロールできないものまで、自分のせいにされてしまうのです(社会学では、「関係性の個人化」といいます)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 だから、皆、“責任”という言葉には理不尽さを感じて、しり込みをしてしまうし、それが私たちを苦しめる。

 

 あるいは、本来、 責任のない人まで責任を感じて、「ニセの責任」引き受けてしまう、という不思議な現象も起きてしまう。

 
 例えば、子どもが、夫婦の不和の原因を、自分の責任だと思う、といったようなこと。そして、それがおかしいことだと気が付きにくい。

 

 

 しかし、「役割」だったらどうでしょうか? 
 

 親の不和を仲裁したり、気にかけることが子どもの「役割」とまでは、ふつうは思えない。もし、アダルトチルドレン状態でそのように錯覚していても、落ち着いて眺めれば、「それは自分の役割ではない」と気が付きやすい。

 

 「役割」にはあいまいさが少なく、範囲も限定されやすい。
 人格や道義的なことまで広がることもない。
 役割は、自由意志などといった過大な前提がないからです。

 

 職場でも、“責任”というと、道義的、人格的なことも含めてどこまでも広がっていくようなところがありますが、「役割」というとはっきりします。
 「それは私の役割ではありません」といえます。
 反対に、“責任”といわれると、「責任逃れ」という言葉の悪い印象から
 「私の仕事じゃないけど、道義的には申し訳なく思わなくては・・・」となってしまう。
 
 
 「自分のことじゃなくても、人としては責任を感じるのが正しいんじゃないのか!」なんて、怒る教師や上司もいたりする。悪用する人も出てくる。
  まさに、「関係性の個人化」を表すような言葉です。

 

  実は「罪悪感」という言葉には、“責任”が裏に潜んでいる。
 “責任”が潜んだ「罪悪感」には終わりがない。無限に広がって、終わりなく自分を責めてくる感じがあります。

 

 でも反対に「役割」であればどうか、といえば、そうしたことが少ない。限定的です。
  

 対人関係で、「罪悪感を植え付けてくる」ような人がいても、“責任”という観念を当たり前としていると、「私が悪いのかも」「道義的に責任を引き受けなければ・・」と考えてしまいますが、「役割」といえば、「相手を気分良くさせるのは私の“役割”ではない」とピンときます。立て直しやすくなる。
 

 

 また、“責任”は無限定であいまいなために、反対に具体的な機能が果たされていない場合にも、そのことが気づかれにくい。

 例えば、「親の責任」というと、ほとんどの親は「親の責任を果たしている」と漠然と答えたり、子どもを思っていれば、責任を果たしたことになる、と自己愛的にとらえる人も出てきます。
 しかし、具体的に「ちゃんと役割を果たしているか?」と問われると、怪しくなってくる。

 「役割」とは、機能不全家族でいう、「機能」という言葉に近いですが、具体的であるため、何が欠けていて、何が欠けていないかが確認しやすい。
 “責任”だと、ふわっとして、訳が分からなくなってくる。

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 「役割」というのは、物理的な量感、身体感覚を伴った言葉であるため、それが実際背負える量に対して、過大であることも感覚的にわかりやすい。具体的で、等身大で、個人が何をしなければいけないかが明確。場によって生じ、場を離れればなくなる。時間が経てば自然となくなります。

 

 “責任”というと、とても自己愛的で、空想的な言葉で、自我肥大するかのように、過大なものを背負っていても、違和感なく受け取ってしまう。またプライベートとパブリックとがあいまいにもなりがち。場が変わってもずっと呪いのようについてくるような概念。時間がたっても消えにくい。
 

 

 「法律に違反したという場合は?」というと、それは法令順守という市民の「役割」を果たさなかったということで、それに付随した罰則が来る、という理解になります。

 

 
 このように考えると、“責任”なんて言葉はまったくいらない(明治以前にはなくても困らなかったのですから)。
 「愛」と同じで、人間にはまったくサイズが合わない。おそらく、それは、神様しか使えない言葉です。

 (参考)→なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 私達の世の中には、人間の身の丈に合わないために、私達を苦しめる結果となる言葉、概念がいくつかあり、“責任”もその一つ。
 私たちはよりよく生きるためには、必ず等身大の身体感覚からスタートする必要があります。
 

 

 私たちが生きていく上では、“責任”という言葉は棄て、「役割」を採用することが大切。 

 

 “責任”という言葉が浮かんで来たら、「役割」という言葉に変換して、そして、「実際、今私の役割って何?」と確認すればいい。

 友達同士の付き合いなどの場面であれば、自分の「役割」などほとんどないことがわかる。
 「ゲシュタルトの祈り※」が、きれいごとじゃなくて、本当にそうだな、ということが実感できる。

 だから、「相手を不快にさせたかな?」なんて思いは全く浮かんで来ることがなくなります。

 

 「相手を気持ちよくさせるのは私の役割ではない」と。
 

 

 
 迷ったり罪悪感が湧きそうになったら、仕事でも、プライベートでも、自分の「役割」を確認する。
  
 
 そうすると、ニセの責任に振り回されることが少しずつなくなっていきます。

 

 

 ※ゲシュタルトの祈り  フリッツ・パールズがセッションの前に読み上げたとされる詩のこと

「われはわが事をなさん。汝は汝の事をなせ。わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。
 汝は汝、われはわれなり。されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。もし心通わざればそれもせんかたなし」

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について