前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。
(参考)→「「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」
カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。
私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。
自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。
理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。
心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
それは確かにある。筆者も経験することです。
かなり重篤なケースなのに、
「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。
そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。
それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。
そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。
養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。
「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。
それではとてもやりきれない。
ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。
では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか?
ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。
そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?
それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。
悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。
「そこに存在する」ということができなくなる。
何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。
「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。
エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」
ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。
「トラウマ」もそう。
トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。
非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。
そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。
そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
悩みにある人は、
「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。
例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。
「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。
機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。
何かをしなければいけない。と思われたりする。
「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。
それは、
1.安心安全が脅やかされる
2.(公的な)関係・役割が切られる
3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
ということ。
それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。
安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。
(参考)→「「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。」
責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。
といったようなループに入ってしまう。
本来は、
1.安心安全を感じている
2.(公的な)関係・役割がある
ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。
(参考)→「常識、社会通念とつながる」
この場合、3.は無責任であること とすることができるかもしれません。
カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、
1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)
という要件が整っているからと考えられる。
このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。
クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。
ある種のセラピーや自己啓発でも、
「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。
1~3を整えるためには、まずは、
1.安心安全を確保すること
具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。
(参考)→「「0階部分(安心安全)」」
次には、
3.無責任であること(免責されること)
ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。
そして最後に、
2.(公的な)関係・役割が回復する
公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。
(参考)→「常識、社会通念とつながる」
責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと」
効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
(実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
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