以前も、同様の記事を書いたことがありますが、
(参考)→「まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと」
あらためて、
相手の気持を考えること、相手の心の中を覗き込むことは絶対にしてはいけません。
心の中というのは、私的領域であり、いうなればローカルルールだらけの世界なので、覗き込んでしまうと、そこに巻き込まれてしまう。
理不尽な親は、自分の不全感を癒やすために、「私の心を覗き込め」といって、様々な言葉(フィッシングメール)で巻き込もうとしてきます。
その中には、「あなたはだめな子だ」とか、「あなたは冷たい」とか、様々なものがあります。
(参考)→「ローカルルールの巻き込みは、フィッシングメールに似ている」
それらには深い意味などなく、単に自分の不全感を紛らわすために子どもを巻き込みたい、ということでしかなかった。
しかし、真面目な子どもは、「相手の気持を考える」ということが良いことであると思わされたために、学校や会社でも、同じことをしてしまうようになる。
「相手の気持を考える」ということが癖になってしまって、相手の私的領域、ローカルルールに巻き込まれてしまうようになっている。
例えば、仕事でミスをした、というケース。
ミスというのは誰にでもあります。ミスは起きます。
しかし、ミスをしたことで、相手は私のことを能力のない人間だと思うだろう、とか、相手は私を変な人間と思うかもしれない、というように、相手の気持を覗き込んでしまうと、ローカルルールに巻き込まれて、実際に不当な評価をされるような理不尽な目に合うことが起きてしまう。
とりわけ、顧客や上司が自己不全感のあるような方だと顕著におきます。
一方で、相手の気持をのぞき込まずに、淡々とミスを謝り、仕事をしていると、そうした事は起きなかったりする。
絶対に、相手の気持を考えてはいけない。
そうすると「相手の気持を考えてはいけない、のであれば、思いやりのない冷たい人間になるのではないか?」と疑問が湧いてきます。
「相手の気持を考える」とは社会でも良いこととされていると耳にしているから。
しかし、「相手の気持を考える」と一般に言われていることは、「相手の気持を覗き込むことではない」のです。
例えば、一流ホテルのホテルマンは顧客の気持ちを考えて接客しています。
では、どの様に接客しているかといえば、相手の気持を覗き込んだりはしていません。
まず、相手のプロフィールを知り、外形的な様子を観察します。
国籍、年齢、利用の目的、同伴者の有無、荷物、特別なニーズなど。
身体が悪ければ、エレベーターで椅子を案内するかもしれません。
誕生日であれば、ケーキを手配するかもしれません。
近くのお土産物店をお教えするかもしれません。
常連になると、時候の話題で軽妙な会話を交わすかもしれません。
そうしたものの積み重ねで、「心のこもったサービス」が構成されていますが、いずれも、相手の気持を覗き込んだりはしていないのです。
すべて、
1.外形的な情報の観察からはじまり、
次に、
2.「職業的な経験」「常識」を参照して、
3.サービスを提供しているのです。
そうしたほうが、顧客にとっても心地が良い。
反対に、気持ちをのぞき込まれるような対応は、重く、気持ち悪いものになります。
(自己不全感を抱えた人にとっては、その気持ち悪さが心地よいと錯覚していますが)
以上のように、相手の気持に立ち入らず、相手の状態をよく観察して、常識を参照し、外形的に対応することが健康なコミュニケーションです。
そのことを社会では、「相手の気持を考える」と表現してきた。
もし、仕事でミスをしても、相手がどう思うか、など考える必要はない。
1.状況を把握し、
2.常識を参照しに行き、
3.必要な対応をするだけ。
理不尽な相手が、フィッシングメールのように、「私の気持ちを考えろ」と巻き込もうとしてくることがありますが、それはおかしいとスルーする。
ローカルルールとは、因縁をつけて、私的領域の中に巻き込まなければ成立しないくらいにおかしく脆いということ。
(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由」
私たちは、ローカルルールによって、「相手の気持を考える」の意味や内容を勘違いさせられてきた。
それによって、自他の区別が曖昧になり、結果自分の感覚や考えもあやふやになって、ストレスにも弱くなるなどの弊害も被ってきました。
でも、ローカルルールというもののメカニズムを知って、常識に還ることで、自他の区別が明確になり、その呪縛から抜け出すことができます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。