あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 私たちが日常で出会う「ニセの公的領域」について書いてきましたが、視点を社会に移した時、社会的な現象としてのニセの公的領域の典型は、ファシズム、全体主義というものです。

 

 ファシズムというのは、本来多元的であるはずの社会の規範を一元的に単純化して、ニセの公共を作り出す現象です。

 

 社会の状況が深刻な際は、問題が輻輳して閉塞感が覆っている中で、問題が単純化されるので、その社会にいる人々は一気に問題が解決したような気になります。

 

 ただ、実際は解決したわけではないですし、多元的である現実世界とは不適応を起こします。そこで、一元的なニセの公共を維持するために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とします。

 

 ナチズムであれば、反ユダヤ主義、反資本主義、反社会主義、反軍国主義、反平和主義、反キリスト教、反無神論・・
 何についても「反」で、互いに矛盾していてまったく合理的ではありません。
 内容はめちゃくちゃなのですが、「反(You are NOT OK)」とすることで成り立たせています。
 (ドラッカーは「全体主義には、前向きな心情がないかわりに、おびただしい否定がある」(「経済人」の終わり)としている。)
 

 「反((You are NOT OK))」を必要とするのは、それがなければ一元的に単純化した規範を維持できなくなるからです。
 だから、ファシズムというのは常に敵を必要とします。
 (これがファシズムというもので、日本で素朴に理解されているように、必ずしも、ファシズム=軍国主義というわけではない。
 「反」であればなんでもよいので、平和主義のファシズムもあるし、民主主義のファシズムもあるし、人道主義のファシズムも成り立つ)

 

 

 私たちの身近な現象に視点を戻した時に、私たちが接する「ニセの公的領域」もまさにこうしたことが当てはまります。

 たとえば、「いじめ」。
 いじめは典型的なニセの公的領域、ファシズム的現象です。

 (参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 「いじめられっ子」のいない、いじめというものは存在しないように、「いじめ」でいじめる側が主張する「空気が読め」「ノリに乗れ」といったことは、多様な人間の在り方には全く反します。
 ノリに乗らないマイペースも人間の素晴らしいリソースであるし、人間のタイプは様々です。暗い性格でもよいし、運動ができなくてもよい。
 

 

 しかし、「いじめ」は社会の多元性を否定して、一元化して、人を裁きます。

 

 実際に、いじめについての研究書の中で、インタビューされた学校の先生の発言に「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかないし、それはわかるんですよ」といった発言があります。
 いじめがおきると、教師もその空気に支配されて、一元的な価値観で人を判定するようになってしまいます。
 

 一元的な価値観(ニセの公的領域)というのは現実と齟齬を起こしますから、「敵((You are NOT OK))」を作り出して、一元的価値観が正しいことを維持しようとします。
 (「ああいうタイプの子(いじめられっ子)は、社会に出てもうまくいかない」≒だからいじめには正当性がある)

 

 

 いじめまでいかなくても、私たちが日常で接するハラスメントも同様です。
多元的であるはずの人間の在り方を、一元化しているために、必ず「敵(You are NOT OK)」を必要とする。
 だから、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」というメッセージを私たちに投げかけてきます。

 

 「ニセの公的領域」は、もっともらしく見えても、直感的には矛盾だらけですから、直感的に矛盾を感じたら、「You are NOT OK」といわれていても、真に受けずに、「I’m OK」と受け流す必要があります。

 

 

 例えば、親から投げかけられる「You are NOT OK」も、ニセの公的領域の典型といえます。
 「あんたは理屈っぽい」
 「あんたはかわいげがない」 
 「あんたは文句ばかりで、やかましい」

 といって、親の不全感から、子供を否定する親というのは少なくありません。

 ただ、よくよく見ると矛盾だらけで、たとえば、兄弟がいるケースだと、ある兄弟にはダメだけど、同じことをした別の兄弟は許されたり。親自身に非があっても謝らずごまかしたり、といったことが起きています。

 そうした矛盾があっても気が付かず、子供への否定を繰り返すのは、
 私的な情動から生まれたニセの公的領域を正当化するためなのです。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 本来、多元的な社会の中にある、真の「公的な領域」というのは、成員すべての「I’m OK」を成り立たせるために存在しています。そのため、すっきりもしませんし、ある意味あいまいなところも多い。

 法律に反するなど他者の「I’m OK」を侵害すると制されますが、極端に何かを否定(You are NOT OK)することもありません。 

 

 私たちが日常で、
 「You are NOT OK≒I’m NOT OK」を感じたときは、
 その元となっている「公的な領域」が本当はニセモノではないか、
 あるいは、自分の中にある過去に形成された規範がニセモノではないか、と疑ってみる必要があります。

  (※例えば、目の前にある人は「You are NOT OK」とはいっていないけど、過去に親や学校から受けたトラウマによって、
   「You are NOT OK」と捉えてメッセージを受け取っていることもあります。)
 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

親しき仲にも礼儀あり

 

 親しかった人が急に態度が変わった。失礼な態度になった、という場合、とてもショックを受けます。
 私が悪かったのかな、こちらの態度もよくなかったのかな、と。

 

 筆者もそのような経験があります。
 あれ?以前までは仲良かったはずなのに急によそよそしくなった、とか、失礼なことを急に言ってきた、というようなこと。

 

 こうした経験はとてもショックで、後々まで引きずってしまうことも少なくありません。

 

 ある歌手は、少年時代に仲良かった友人が急に態度が変わって自分のもとから去ってしまった、といってコンサートでも涙したり、そのための歌を作ったりしていました。
 それほどショックな出来事だったようです。

 

 別の芸人さんは、かわいがっていた後輩がいきなり自分に反旗を翻して、いなくなってしまった。考えても理由がわからない、と悩んでいました。

 

 稀なようでいて、結構よくあることなのかもしれません。

 
 実際、カウンセリングでは初回に、クライアントさんに問診を行いますが、学生時代に、急に仲間外れになったり、友達が無視してきたり、というエピソードはよく耳にします。

 

 

 

 臨床心理などでわかってきているのは、人間というのは発作や解離を起こしやすく、急におかしくなってしまったりする生き物である、ということ。
 脳というのは未成熟でとても不安定なものですからすぐにショートしたり、勘違いしたりする。

 

 だから、被害を受ける側はとても傷つきますが、当人たちは、特段の理由なくおかしくなってしまっている。

 ただ人間は自分はまともだ、とおもっているために、おかしくなった原因を目の前の人に帰属させようとするのです(因縁をつける)。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 人間は、「私的な環境」では容易におかしくなる、というのは、重要な裏ルールの一つです。

(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 関係の中での距離感、リスペクトが乱れると、人間関係は公的なものから私的な状況に堕してしまいます。
そうなると時間の問題で、理不尽なふるまいをしてしまうようになります。
 関係を保つためには、親しい人間関係でも公的環境を維持しなければならない。
 言い換えれば、「親しき仲にも礼儀あり」ということ。

 

 

 夫婦でもそうです。

 良い夫婦、というのは、「何でも言い合う夫婦」ではない。本来の良い夫婦とは、ちゃんとそれぞれの役割をはたしていて、礼儀をわきまえている関係。

 だから、言ってはいけないことは我慢して言わない。意図してマネジメントしている。

 率直に話し合うにしてもタイミングや相手への敬意がある。そうしたことの土台の上に“結果として”、「なんでも言い合える」関係ができるのであって、好き勝手、感情に任せていいたいことを言うことが良いのではない。

 

 

 機能不全家族に育った方などにしばしばみられますが、
親が家族ならば何でもずけずけ言うことが当たり前だ、と思っていたために、相手の内面にも平気で立ち入ったり、失礼なことを言ったり、ということをしてしまう。

 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 結局そうした振る舞いは、家族の機能を壊してしまいます。

 

 

 友達でもそう。
 友達も「機能」なのですから、「機能」が果たせなくなって、公的な環境が維持できなくなると、発作を起こしたりして急におかしくなってしまうのです。

 

 上司‐部下、先輩‐後輩の関係においても「公的な環境」が崩れると、後輩が下克上してしまう、ということが起こります。

 例えば、経営者と従業員で友達同士のように付き合っていると、おかしなことになる、とよくいわれます。だから、無理をしてでも経営者然として孤独を覚悟しないといけない、と。

 実際に、筆者の知人も従業員と友達のように接していましたが、結果、従業員全員が裏切るようにやめていってしまった、ということがありました。

 

 
 親しき仲にも礼儀あり、とは、相手へのリスペクトと「公的な環境」を維持すること。 

 

 実はこうしたことの上に本当の「親しさ」というものが生まれてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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