言葉というのはなかなかやっかいなもので、記号として用いられますので、同じ言葉を用いていても、実際に何を指すのかは異なることがあります。
Aさんにとっての「ごはん」は、Bさんにとっての「ごはん」とは全く中身が異なる。
Yさんにとっての「あそび」は、Jさんにとっての「あそび」とは全く中身が異なる。
でも、「ごはん」とか「あそび」という記号は同じなので、同じことを指しているように感じてしまう。
実際は全く違うのに。
別の「ごはん」で過去に嫌な目にあっていたら、「ごはん」自体が嫌になるかもしれません。
常識というのも、まさにそんな言葉の一つかもしれません。
「常識」という記号を建前に私的情動(ローカルルール)を押し付けられて嫌な目にあった経験がある方からすると、常識というものには嫌悪しかなくなります。
※これと似たものに「感情」や「自我」というものもあります。
他人から理不尽に「感情」や「自我」をぶつけられた結果、それが嫌になって、自分の感情や自我もなくそうとしてしまう。
その結果、ログインできなくなって、生きづらさが増してしまう、ということは起こります。
(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」
本来、常識というのは、特定のルールでもなければ、価値観でもありません。
OSやプラットフォーム、クラウドというようなもので、個人個人の主体にあわせてカスタマイズされ、それを通じて、社会との繋がりと持つためのものです。
俗にイメージされるような、強者や多数派に同調させられるものというではなく、むしろ、それによって、個々人がそれぞれ主権をもつためのものになります。
前回も書きましたが、常識とは、多様性、多元性の束です。
言語や、技能、スキル、みたいなものもそうで、それぞれには先人の知恵ですが、知恵は縛るためにあるのではなく、私たちに補助線を与えてくれるものです。
それを絶対視すれば拘束されますが、自分を作る、自分らしく生きる道具だととらえれば、これほど便利なものはありません。
(参考)→「つねに常識に足場を置く」
常識というのはソーシャルプラットフォーム、ネットワークプラットフォームと言った感じです。
トラウマを負うと結局これが毀損されます。
トラウマとは、ストレス障害であり、自律神経などハードウェアの基盤がダメージを負いますが、自律神経などが乱れると、過緊張、不安、恐怖などが生じ、他人と自然体で付き合うことができなくなります。
その結果、クラウド的な存在である人間が他者を通じてソーシャルプラットフォームをダウンロードし、社会的動物としてのさまざまな要素を更新し続けることができなくなってしまうのです。
プラットフォームのない型無し状態。
人間は、社会の中で生きていますから、社会におけるプラットフォームがないというのは様々に問題を生みます。
その結果感じるものが「生きづらさ」です。
ネットに繋がることができない、できても大きなファイルをダウンロードできないスマートフォンのような状態になります(不便、使いづらい)。
ネットに繋がることができない場合、そこにあるのは「無」かといえばそうではありません。
世界は真空を嫌う。
(参考)→「自然は真空を嫌う」
真空を埋めるのは、多くの場合、家族のローカルルール(偽ルール)です。
結局、家族の擬似的なローカルネットワークにはつながり続けるようになり、
そこで落ちてくる情報は私的な情動であったり、それを正当化しようとするおかしな理屈であったり、汚言や悪口であったりします。
それを内面化し、更新してしまい、自分の生きづらさは増していってしまうのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
トラウマから回復するためには、フラッシュバックなどの処理、身体的なダメージを回復はもちろんですが、ソーシャルプラットフォーム、ネットワークプラットフォームを復旧させ、「常識」をいかに自分のものにするかが重要になってきます。
こうしたことの基礎になることは今回の本でも触れています。
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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