以前の記事でも書きましたが、トラウマを負うと、自分の中に基準がなく、外側に答や基準があるような気になってしまう。
常に、答え合わせをするかのように、自分の言動が正しいかどうかが気になってしまう。
周囲の人が、その外的な基準を知っているような気がして、ダメ出しされないか?ビクビクしている。
そうしていると、案の定、周囲の人から指摘が入って、「ああ、やっぱり自分はだめだ・・」となって萎縮してしまう。
(参考)→「ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。」
本当は、周囲の人は絶対的な基準ではなく、個人的な価値観から言葉を発しているだけなのですが、それをあたかも客観的なものと錯覚して、真に受けてしまう。
そうして、さらに、誤学習し、他人のローカルルール(偽ルール)を自分の規則集に書き込んで、言動が制約を受けるようになってしまう。
幼少期に、家庭の中にストレスが多かったり、学校でいじめにあったりすると、幼い頃から、他人の価値観やローカルルール=外的な基準という錯覚をさせられてきています。
それらは、認知のレベルではなく、身体的な不安、安心安全感の欠如を伴っていますから、おかしいと思ってもどうしようもなく、体の芯が震えるような不安と緊張から、相手の理不尽さに従ってしまうようになるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
言葉についても同様で、相手の言葉がまさに正しいように感じて、振り回されるということが起きる。
外的な基準や権威なんていうものはどこにもありません。
権威というのは、その時点でのお約束程度のものでしかなく、本来は自分基準で都合よく利用するものです。こちらがスルーして、誤読して初めて言葉に命が宿る。
今回上梓しました本では、そうしたことも書かせていただいています。
“常識(パブリックルール)”とは、外的な基準でも、特定の決まりでも、多数決でも、権威でもありません。
“常識(パブリックルール)”とは、多様性、多元性の束です。
(参考)→「常識に還る」
パブリックルールとは、周囲の人との薄い関係性を通じて、少しずつクラウドのように、ミドルウェアのようにダウンロードされて、さらに、自分流に“翻訳”されて実装されていきます。
ややこしいのは、言葉では「常識」といいながら単なるローカルルールも横行しているため、「常識」という概念に混乱があって、私たちの基盤として不可欠なのに、それらを利用できず、迷走してしまうケースが多いということです。
でも、そうではありません。
“常識(パブリックルール)”は、ハラスメントや、支配といったものに対抗する土台となり、自我を形成するためにも必要なものなのです。
そんなことについても、本の中で触れています。
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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