『夜と霧』再読

 

 新型コロナウイルスに対応するための自粛で、多くの方は疲れを感じておられるのではないでしょうか?
 ただ、行動を自粛するだけではなく、マスクや除菌と気をつけないことは多い。

 
 本当に、気疲れしてしまいます。

 

 専門家によっては1年、あるいは、終息には数年かかるとの見通しもある中で、制限を受けた生活は苦しいものです。

 先の見えない中で私たちはどのように過ごせばいいのでしょうか?

 

 なにかヒントを得ることができないか?ということで、
 V・E・フランクルの『夜と霧』と、『それでも人生にイエスと言う』を再読してみました。

 再読、というのは、高校生か大学生の頃に推薦されて読んだような記憶があるからです。 
 内容はほとんど覚えていませんでしたが、あらためて手にとってみました。

 

フランクル「夜と霧」

それでも人生にイエスという

 

 

 

 

 

 

 

 

 フランクルは、ウィーンに生まれた精神科医で、オーストリアのドイツ併合などによってナチス支配下に入り、ユダヤ人ということで、強制収容所に収容されてしまいます。約3年に渡り収容所生活を送ることになります。

 収容所では僅かな食べ物しか与えられずに、文字通り骨と皮だけになって過酷な労働を強いられる日々。
 

 

 歴史を知る私たちはいつ戦争が終わったかを知っていますが、当時収容されていた人たちにとっては、永遠にも思える絶望の中で、仲間たちも命落としていきます。

 フランクルは、「内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている」「未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と述べています。

 

 例えば、安易な希望的観測や楽観を持つような人、
 「クリスマスまでには解放される」「何月何日までには自由になれる」といったような人たちは、その希望が絶たれてしまうと、「人生にはもはや何の意味もない」としてろうそくの火が消えるように亡くなってしまったのです。フランクルによれば、実際、クリスマスの時期は不思議と死者の数も多かったそうです。
 それらは真に楽観的や希望をいだいているのではなく、悲観を隠すための楽観だったのかもしれません。

 

 反対に、生き残るために大切なものはなにか?本当の希望をもたらしたものはなにか?といえば、それは「生きることからなにかを期待する」のではなく、「私たち自身が問いの前に立っている」「私たちは問われている存在」であるという視点の転回であった、というのです。

 

 これはどういうことかといえば、
 「人生にはどんな意味があるのか?」という視点は、主権が自分にはない状態です。
 自分の外部に人生の有限の意味があって、それが枯渇するという感覚。
 未来への希望といっても、単に希望的な観測でしかなく、缶の中のクッキーの残りがもっとあるに違いない、と期待するようなものです。
 外部に翻弄されている状態です。実は暗に「人生には意味なんてないんじゃないか?」、あるいは「こんなにつらいのだから、大きな意味がなくては困る」という不安や怒りが潜んでいます。
 

 だから、希望的観測が外れて目の前にある状況が悪い状況が現れれば、絶望して命を落としていってしまうのです。

 
 精神障害や神経症、トラウマを負った人の感覚とも通じるものがあります。

 

 一般にトラウマを負っている人は楽観に頼り他人のせいにして生きているかといえばそうではなく、むしろ環境にあるものを過剰に自分で引き受けて生きてもいます。
 ものすごく努力もしていますが、積み上がらない。過大に背負った責任や苦労によって身動きが取れなくなっているのです。
 
 過剰な自助努力と、その苦しみや不安を癒すための希望的観測(しばしばスピリチュアルなものも含む)というアンビバレンツなものがともに存在しているのです。
 

 

 反対に、人生は常に自分に問いを投げ続けている、という考えは、常に自分に主権がある状態です。
 どんなに悪い状況でも、それは人生からの問いであり、自分はそれに答える権利がある。人生の問いは、無限に投げ続けられていて絶えることがありません。
 

 フランクルも、未来に希望があることは大事だと述べているのですが、その希望とは、自己都合による希望的観測ではもちろんなく、人生の問いに答えるという覚悟ということだというのです。

 
 厳しい環境を覚悟してそのまま受け入れますが、実はそのことで、責任は自分から外れて、自分に主権が戻り自分のことに集中できるようになる。
  

 現実をそのままを受け入れると決めると、自分のニセの責任が外れて主権が戻る、という逆説が人間にはあるようです。
 (「実存」というものの本質はこの辺にあるのではないかと感じます)

 

 

 「それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられる。ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。」
 「そこに唯一残された、生きることを意味のあるのもにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限される中でどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。」

 

 新型コロナウイルスの自粛生活下の私たちにとっても通じるものがあります。

 5月6日に緊急事態宣言の期限が来ますが、再度延期される可能性もあります。
 「5月6日までがんばる」というのは、「クリスマスまでに解放される」という強制収容所での希望的観測にも似た趣があります。

 緊急事態宣言下のストレスに過去のトラウマを投影して、期限が来ることへの希望はそのかりそめの癒やしであるということです。
 でも、もし外れたら「希望が見えない」としてうつっぽくなったりしてしまう。

 これは、宣言の期限や新型コロナウイルスの方に主権があり、主権が自分にはない状態です。

 

 

 反対に、ウイルスによる制限のために失った「ないもの」にではなく、「あるもの(現実)」に目を向けて、淡々と自分のルーティンを作って、健康を守りながら、日々を過ごす。  
 何時に起きて、食事をして、仕事をして、家では自分でできるエクササイズをして、可能であれば健康維持のための散歩をして、というように。
 ※睡眠や食事が少なくなると、心理的なコンディションはてきめんに下がります。睡眠や食事はしっかり取る必要があります。

 

 たとえば、筆者も趣味で行っているスポーツのスクールが緊急事態宣言によって、休校となってしまいました。
 「新型コロナウイルスさえなければ・・」という考えで見てしまうと、「スクールがない」ことはストレスになってしまいます。
 外で運動をすることもかなりはばかられます。

 それらはすべて「ないもの」です。

 

 一方、あるものとしては、睡眠時間や食事、読書や動画、DVDを見る時間、など、仕事や収入が減った方も多いですが、その分自由な時間は増えたともいえます。
  
 そうした「あるもの(現実)」に目を向ける、ということは、私たちができるレベルで、人生からの問いに答えることになるかもしれません。

 

 これは、ポジティブ・シンキングということではありません。
 そうではなくて、最善手の幻想や作られたニセの現実を検定して、自分の主権で状況を翻訳する、ということです。
 (ニセの現実とは、過去のトラウマ/ローカルルールを投影して現実を曲げて捉えることです。)

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

 ※さらにいえば、新型コロナウイルスに対するストレスには実は「最善手の幻想」も潜んでいるかもしれません。収入にしても余暇にしても常に最善手が得られなければならないという非現実的な期待を私たちは持っていた。現実は株価のように上がったり下がったりするものなのに、なぜか常に最善の値であることを期待して、それが外れたら絶望に陥るといったようなおかしな感覚を当たり前のものとしていたのかもしれません。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 

 

問いに答えるというのは、『夜と霧』の中に
 「考えこんだり、現地を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、答えは出される」とあるように、
 高尚なことではなく、普段の行動によるもの。

 以前の記事でもまとめましたように、現実は常に動いているのですが、人間にはそれを感じ取ることは難しい。

(参考)→「知覚の恒常性とカットオフ

 

 カットオフ(質的変化)までは、待つしかない。人間の側が質的変化を感じ取ったり、具体化するためには準備をし、力をつけなければならない場合も多いですから、できることは目の前のことをして日々を過ごすことです。

 

 「目の前のこと」や「淡々と」というと地味に見えますが、そのことと質的変化(希望)とは結果としてバイパスして通じているようです。
 反対に大きな希望や夢と絶望もバイパスして通じているのです。

 

 現実はある時点を越えると急速に展開します。

 

 それがいつかはわかりませんが、それまでは、先は見ず、睡眠、食事、運動(家でできるエクササイズなど)をしっかりとしながら、普段できないようなことを楽しみながら(時間がないと読まない本や動画、DVDを見たり、どか)、淡々と過ごすことではないかと思います。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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「事実」とは何か?その2

 

 新型コロナウイルスで、全国に緊急事態宣言が出されました。

 感染者も増えて、病院でも対応が追いつかなくなる恐れが出てきているそうです。

 

 そのために、既存薬で新型コロナウイルスに効く可能性のあるものが注目されています。

 候補として挙げられているのが抗ウイルス薬「レムデシビル」や「アビガン」といったものです。

 中国や欧州では、実際に投与されて効果が出ているようです。

 ただ、一般的に用いることができるかは、現在治験中で、その結果が待たれます。

 

 一般人の感覚からすると、「実際に投与して効いているんだから、どんどん使っていけばいいんじゃないの」と思ってしまいますが、本当に効いているのかどうか、副作用は大丈夫なのか、を確かめないといけないそうです。

 

 特に、新型コロナウイルスは8割が自然に治るものなので、投与後の変化が薬の効果によるものなのか、自然に治ったものかを区別する必要があったり、プラセボ効果といって、暗示のような効果で実際の薬効がなくても効果が出てしまうことが知られていますので、それも排除しないといけないようです。

 

 現在臨床試験が行われていますが、数が少ないと本当に効果がないのに効果があるような結果が出る恐れもあります。
 さらには、ランダム化したり、性別、年代別のデータ、などが必要になったり、と、「本当に効く」という“事実”を取り出すためには、結構な時間がかかるそうです。

 

 「レムデシビル」のアメリカの臨床試験では、6000人が目標とのことですから、かなりの数です。

 薬が本当に効くかどうかという“事実”を確定させるためにもこれだけの事が必要になります。

 このように基準に達していないものは“事実”とはみなすことができないということです。
 

 

 

 そんな事を考えたときに、わたしたちが日常で特に自分について“事実”と考えていることがいかに怪しいものか、がわかります。

 特に、1つ、2つの「他人の発言」ということを真に受けて、「自分はダメだ」ということが“事実”だと捉えてしまう。

 

 治験などの科学的な立場からすれば、他人の発言や評価などは信ぴょう性ゼロ、といってもいい。
 人間はローカルルールといったものでも動いています。
 さらに、サンプルは、たった数件・・

 即却下、してよいものです。

 

 また、過去の自分が失敗したこと、うまく行かなかったという“事実”についても同様です。あまりにもサンプル数が少なく、しかも環境からのバイアスがかなり掛かっているものです。
 

 

 

 それなのに、そうした信憑性が低い、さらにサンプル数が少ないデータを、“事実”として受け止めることが、「独りよがりにならないための客観的な態度」だと思わされてしまっている。
 「過剰な客観性」ならぬ、ニセの客観性と言っても良いかもしれません。

(参考)「過剰な客観性」

 

 人生での失敗や、親や友達、上司から言われた気になることなどは、臨床試験ではすべて却下されてしまうようなレベルのものです。

 

 現代の心理療法は、社会構成主義と言って、わたしたちにとっての現実は、社会的に構成されたものだ、とされますが、確かにかなりの“事実”が意識の中で構成されていて、信頼性が低いものです。

 

 信頼性が低く、安定性がないからこそひっくり返すこともできる。
 ローカルルールといったこともそうですが、ニセモノだからこそ強固に見えて実は脆い。
 ここに長く苦しめられている悩みを解消するポイントがある。

 

 

 仏教などで執着を離れてありのままを見れば悩みはなくなる、といわれるのは、決して、現実が嫌なものでそれを見ろという、サディステクックな教えではありません。
 私たちは、サンプル数も少なく、信憑性もないニセの“事実”に取り巻かれていてそれに苦しめられている事に気づきなさいよ、ということ(ナラティブ・セラピーでは、ドミナントストーリーといいます)。

 ありのままの現実を見ることは、科学者が物を見るみたいに見る、ということに近いかもしれない。

 

 
 失敗してもなんとも思わない(実験結果に良い-悪いはない)、とか、サンプル数が少ないもの、環境の影響があるものは信憑性がないから却下する、という、当たり前のことを旨とする。
 (トラウマを負っていると、これが自分勝手な態度と感じて、してはいけない気がするのですから不思議なものです。)

 

 

 以前の記事でも書きましたが、人からの失礼な発言に「ふん!」といって耳を貸さない態度というのは、独りよがりに見えて、実は科学的な態度と一周回って親和性があったりするのです。

(参考)→「「事実」とは何か? ~自分に起きた否定的な出来事や評価を検定する

 

  
 反対に、「自分の失敗や他人の意見を素直に受け止めなければ」というのは、似非科学にも似た態度といえます。本当の「事実」に到達できていない。
 だから、反省をしても、自責感がまして萎縮こそすれ今後の向上につながることはなにも得られないのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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内面化した親の価値観の影響

 

 新型コロナウイルスに感染したことで、志村けんさんが亡くなりました。
 そのことにショックを受けた方も多いのではないかと思います。

 筆者も子どもの頃は、「8時だョ!全員集合」などを生で見ていました。
 当時は、「志村けん」という名前をいうだけで、子どもがゲラゲラ笑うというくらい人気があったと記憶しています。

 筆者も大好きで見ていました。それが小学校低学年くらいのときでしょうか。
 

 

 少し時間が進み、筆者が10代になったころだと思いますが、母親が、志村けんさんのコントを見て、「汚い」とか、「下品だ」みたいなことを言って嫌悪感をあらわにすることがあって、それを真に受けた筆者は、それ以降、なんとなく志村けんの番組から遠ざかっていったのです。
 (志村けんさん自体も、一時、死亡説が流れるくらい、TVに出ない時期があったのもありますが)
 

 

 亡くなって感じるのは、「もっと見ておけばよかったなあ」ということです。
 落語とか古典芸能の世界でも名人がいますが、喜劇の世界でまさに名人に値する方ですから。

 

 

 お亡くなりになったこともあり、そんな事を考えていると、筆者が気がついたのは、「志村けん」と「汚い」ということを結びつけていたのは、単に親の価値観を相対化せずに内面化されていただけだったんだ、ということです。

 自分の価値観、自分の考えだと思っていたことは、自分のものではなかった!

 

 別の言葉で言えば、「ローカルルール(人格)」です。
   
 自分の中でも、相対化できる親の価値観は、まだまだ潜んでいることに気がついたのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  
  

 

 

 クライアントさんと接していても感じますが、親の価値観をそのまま内面化して、それが悪さをしている、ということは頻繁にあります。

 

 他人にイライラしたり、自分を責めている場面でも、結局それは、「ほら、だからあなたはダメなんだ。誰からも信頼されない」と、内面化した親の価値観がその人のそばで囁いているということだったりします。

 

 
 まれに、治療への抵抗が起きたり、中断が発生したり、ということもありますが、それも結局は、社会への不信感といった親の価値観を内面化したものだ、ということだったりします。
 「外で余計なものをもらうと危険だ」「治療者はお前を否定し、バカにしているんだ」「なんだかんだ言っても、家(家族)が一番だ」というのです。
 その結果、社会と分断され、親の価値観は相対化されずに残り続けてしまいます。

 

 

 「自分の考え」「自分の嗜好、感覚、価値観」だと思っているもののかなりの部分は実は、単なる親の価値観の直訳ではないか? ローカルルールではないか?と今一度疑ってみる必要があります。

 

 「良い会社に入らなければならない」「学歴がないといけない」に始まり、「こんな人間はダメだ」といったようなこと。
 
 あと、「こんな髪型は似合わない」とか、「こんな服は似合わない」というのも、子どもの頃に、親などから「あなた、そんな服はやめときなさい!」「似合わない!」と親の偏った嗜好、不全感から強く言われて真に受けたまま育ってしまったといったケースは本当によくあります。

 

 

 

 「でも、誰だって親とか周りから影響は避けられない。どれが本当の自分の価値観なのか。健全な影響とそうではないものとはどう区別したらいいの?」と疑問に思うかもしれません。
 

   
 区別できるポイントはちゃんとあります。

 それは、
 
1.親の価値観が社会の公的な価値を代表したものかどうか?(私的情動からのものではないか?)
 
2.公的な価値であっても、直訳ではなく、一旦否定したうえで、自分で翻訳し直しているかどうか?

 ということです。

 

1.についてですが、私的情動から発せられたものを、それらしい理屈でコーティングしたものはローカルルールといい、悪影響があります。
 価値観というのは社会を生きていくための学習であるわけですが、私的情動から発せられたものは価値観などと呼べる代物ではなく、結局は親の不全感にすぎないものだからです。

 

 

 志村けんさんの例で言えば、母親は、単に自分の不全感から「汚い」といっていただけだった。当時、母は夫との不和とかそうした問題がありましたから、男性に対する反感をもっともらしく吐き出していただけだったと考えられます。それに子どもを巻き込んでいただけで、価値観と呼べるような立派なものではありません。
 (巻き込まなければローカルルールは成り立ちませんから、子どもを利用していただけだった)

 

 ですから、皆さんも、親の価値観というものが、私的情動から発せられたものではないかどうか、不全感が隠れていないかをよくよくチェックする必要があります。

 

 本当に影響されるに足る価値観というのは、社会の公的な価値を代表したものです。
 親は、自分の私物のように好き勝手に子どもを育てて良いわけではなく、社会の代表として子どもに接することが本来です。
 「こういうときにはこうしたほうがいい」とか、「こうしたときは、このようにかんがえるとよい」といったことは、社会の公的な価値を親など周囲の大人が自分の体験、体感覚から翻訳して、子どもに伝えるものです。そこには世の中の多元性も踏まえた、“わきまえ”があります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

2.については、 
 
 私的情動から発せられたニセの価値観(ローカルルール)をチェックすることはもちろんですが、社会の公的な価値を代表としたものであったとしても、成人するまでに人間は一度それらを否定する必要があります。直訳はダメ。「守破離」とはよく言ったもので、直訳をしていると、原理主義的、強迫的になり、徐々におかしくなってきます。

 否定した上で、自分の体験、体感覚を通じて翻訳し直す必要があるのです。
 
 自分で翻訳し直してはじめて、「自分自身の価値観」となります。

 それらを促すのが二度の反抗期だったりします。その結果、自他の区別がついて、他者とも適切な距離が取れるようになります。
  

 

 1.2.を経ないものは、「ローカルルール(人格)」となって、大人になったあとも生きづらさをうんだり、思考や行動を制限することになるのです。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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生きづらさとは、他人の「ドーダ」を真に受けていただけ

 

 アラン・ソーカルという物理学者が、1996年に「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて」という論文を雑誌に掲載しました。その内容を見て、批評家や思想家たちが評価しました。
 一通りの評価が揃ったころに、その頃合いを見計らって、実はその内容は哲学や物理学の単語をもっともらしく並べただけの全くのデタラメだったと発表しました。意味のない文章を見て「意味がある」と評価した学者や批評家は面目丸つぶれになりました。

 

 

 アラン・ソーカルは、現代思想などで科学の知識がいい加減なまま乱用されていることへの警鐘として、こうした挑発を行ったといわれています。
 
 「アラン・ソーカル」事件といいます。

 

 実は学者とか専門家でも、自分の目で見て、頭で考えて物事を判断しているわけではなく、「すごそうだ」とか、「すごいといわれている」ということで判断をしているのではないか、というのです。

 

 

 昔は、日本でもマルクス主義という考え方が主流でしたが、今から見ると非科学的な考えも含まれていますが、「真理である」と普通に流通していたりしていました。

 それも、当時の社会状況や問題意識もありますが、じつはベタに言うと「(内容はよくわかってないけど)なんか、すごそうだ」というような感情がベースにあったのではないかと考えられます。

 

 

 もう亡くなってしまいましたが、吉本隆明という思想家がいました。娘は吉本ばななという作家です。「戦後最大の思想家」と呼ばれ、信奉者も多い人です。

 近年は、それに対して疑義を唱える人が出たりしています。

 

 「吉本隆明という共同幻想」という本がありますが、簡単に言えば、「吉本隆明というのは、難しく書いてあるだけで、何を書いているのかわからない。実は内容も意味がないのではなかったのではないか?!」
 というものです。単なる難癖ではもちろんなく、吉本のいい加減な言葉遣いや、デタラメさについて、細かく例を上げて示しています。

 

 

 かんたんなことをわざわざ難しそうに書いてあるのは、結局は、「どうだ、オレはすごいだろう!」という顕示欲や相手をマウンティングしたいという支配欲だったのではないか、というのです。  
 その難しそうな文章を見て、同時代の人たちは「吉本隆明はすごい」と思って、共同幻想(ローカルルール)に染まっていただけではなかったのか?と。

 

 

 

 明治大学の鹿島茂教授が、小林秀雄を取り上げて同じようなことを書いています。
  
 小林秀雄といえば、私たちが使っていた国語の教科書にも登場する日本を代表する英文学者とされます。

 しかし、小林秀雄もどうやら「どうだ、オレはすごいだろう!」という自意識から、わざわざ難しい言葉で文章を書いていたのでは?というのです。

 

小林秀雄

 

 
 

 

 

 

 

鹿島茂は、

 「小林秀雄が書いた文章で「わかった!」と思った経験が一度もない。文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは小林の文の方であることがわかる。」
 「こういう意味不明なことを書く小林秀雄も困ったものだが、それを入学試験にあえて出題する大学教師とは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 

 

 作家の丸谷才一や、比較文学者の小谷野敦も小林秀雄は意味不明だと批判しているそうです。

 

 

 でも、小林秀雄は国語の教科書にも載っているくらいだから、それなりの学者たちには評価されていたはずですが、実は、それは、「どうだ、オレはすごいだろう!」というローカルルールに染まった結果だったのかもしれない。
 

 そのことを、鹿島茂は、漫画家東海林さだおの言葉を借りて「ドーダ」という言葉で表現しています。
 
 

 

 「ドーダ」とは、「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義しています。
 (なんか、ローカルルールとよく似ていますね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本当はすごくないけども、皆が何故かすごいと思いこむのは、「その時代特有の「集団の夢」」だと鹿島茂は言っています。
 

 

 さらに、森鴎外や、西郷隆盛などを取り上げて、歴史上の人物の行動にも、「ドーダ」というものがあったとして、これまでとは違って視点で「すごい」とされる人の行動の背景にある「ドーダ」を描いています。

 さて、こうしたことから見えてくるのは、「すごそうだ」とか、「皆から評価されている」ということの実像です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちも、「職場のあの先輩は皆から評価されている(でも、私には理不尽なことをする)」「親戚のあの人は尊敬されている(でも、とても支配的で窮屈だ)」ということがあります。
 周りから評価されているから、ということで理不尽さを否定し難いように見え、自分を否定する行為を真に受けてしまいがちですが、それも、結局「ドーダ」という集団の夢だったのではないか?別の言葉で言えば単なる「ローカルルール」でしかなかったのではないか。

 
 

 

 日常でも、わたしたちに対して、「仕事はここまでできて当然だ!」とか、「これができないなんて恥ずかしい!」と指摘してくる人がいたりしますが、それって、結局は、その人が「自分をすごいと思わせたい」「相手をマウンティングしたい」「相手を負かしたい」という気持ちの発露でしかなかったのではないか。

 つまり、「ドーダ」でしかなかったのではないか?
 
 もちろん、「ドーダ」以外にも嫉妬ということもあります。広義では嫉妬も「ドーダ」といえますが。
  

 

 

 筆者も、以前の職場で、先輩から「東大卒で営業部に配属されて、上司からいじめられた人」の話を聞いたことがあります。
 東大卒ということに対するやっかみから、「こんなこともできないのか」と些細なことを取り上げて上司がその人をいじめて潰してしまった、というのです。

 東大卒のその人は、指摘されることが事実であると真面目に考えて、単なる嫉妬でしかないことで潰されてしまったのです。

 

 

 このブログでも、手塚治虫の有名なエピソードをとりあげましたが、
 手塚治虫も、嫉妬から同輩や後輩の漫画家を「こんな描き方はだめだ」こき下ろして、トラブルになることしばしばであったのです。
 漫画家の神様も、当たり前ですが、業の深い人間でしかないのです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 わたしたち人間はだれでも、嫉妬や「ドーダ」から自由ではありません。
 

 

 鹿島茂は、「ドーダ」は自己愛から発するので、「自己愛とはターミネーター2の金属男のように、あらゆる形をとってどこにでも発言するから、容易にそうとは見抜けぬ」といい、そして、「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」ともいっています。
 

 

 いいかえると、私的領域の言葉はすべてローカルルールということです。

 

 だから、人の言葉や行動をそのまま真に受けるなんてしない。できるわけない。

 

 

 トラウマを負った状態というのは、いいかえれば「ローカルルール」の幻想にとらわれている状態。ローカルルールの幻想とは、「そうはいってもローカルルールが正しい」「自分は間違っている」という感覚。
 だから、代謝が進まない。

 でも、そのローカルルールとは、結局「ドーダ(私的情動、不全感)」でしかなかった。 

 

 ローカルルール(人格)の言葉とはすべてそうです。

 深刻そうにして、相手を非難する。自分は悲劇の主人公で、それを理解できない相手の理解や共感性の欠如に問題があるとする。
 難しい理屈で感情や思考をこねくり回して理屈を作り上げているが、意味不明。

 しかし、ローカルルールというものの正体がわかると、
 「文の一つ一つが理解不能である。また、文の一つ一つのつながりもよくわからない。」
 「昔は、わからないのはこちらのせいだと思っていたが(罪悪感を感じていたが)、今になると悪いのはローカルルールの方であることがわかる。」
 のです。

 

 

 もっと別のケースでわかりやすく言い換えたら、

 「昔は、親の言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは親の方であることがわかる。」
 
 あるいは、

 「昔は、友人やパートナーの言うことが、わからないのはこちら頭が悪いのせいだと思っていたが、今になると悪いのは友人やパートナーの方であることがわかる。」

 そして、親や友人やパートナーの言うことに賛同していた人たちは、「集団の夢」に染まって、
 「こういう意味不明なことを言う親や友人パートナーも困ったものだが、それに賛同する人たちとは一体どういう神経をしているのだろうと疑った」
 ということです。
 

 

 「生きづらさ」とは、結局、他人のドーダを真に受けて、後始末を押し付けられている状態、といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 実は、冒頭のアラン・ソーカル事件のように、人間というのはローカルルールの世界では中身などは見ていないのです。「なにやらすごそうだ」という様だけを見て、それなりの人でも、おかしな理屈に染まったりする。

 

 ドーダはあちらこちらにありますから、そうと知っていなかれば、ついついもっともな気がしてしまいます。そして、自分が特別に駄目だと思ってします。

 

 

 歴史に名が残るような人、あるいは現在すごいとされている著名な人でも、結局は意識、無意識にドーダをかましているだけ可能性が高い。
というか、鹿島茂が「表現というものは、それがどういうかたちをとっていようとも、ドーダ」といっているように、すべての言動はドーダなのだと思う必要がある。
 特にテレビとかマスコミに出るような人は、全てが演出でできていますので。

 

 スポーツ選手も、経営者も、作家も、政治家も、哲学者も、芸能人もみんなみんな「ドーダ」でできていただけだった。

 

 

 
 身近な人達なども同様です。
 カーネギーの名著「人を動かす」はまさに、「ドーダ」の塊である人間をどう扱うか?をまとめた本でした。

 

 

 
 日常生活において、例えば仕事で威圧的な人にあったら、「あ、この人もドーダなんだ!」と考える。
 「このくらいのこともできないの」といわれたら、「あ、この人、今ドーダをかましてきた」と気づく必要がある。
 (昔、アニメとかで見た、見栄を張った奥様同士の会話のようですね。「うちの主人は、今度ニューヨークに出張なんですのよ!」のと同じこと)
 「自分はできていない」「自分はだめだ」なんて、反省したり、真に受ける必要なんてありません。

 

 みんなが「すごい、すごい」と言っていても、「本当か?」と思ってよい。
 というか、思うほうが普通だし、世の中を生きる者の作法として、疑わないといけない。

 
 
 でも、健康な人間はすべてを疑って生きてもしんどいので、ノリつつツッコミ、ツッコミながらノル、ということをして生きる。
 二重の意識を持ちながら物事を楽しんだりします。

 人間というのは、本来「すごい人」など実は一人もおらず、誰しも業が深く、弱い生き物なのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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