なぜか自分だけが「きつい」とか「おかしい」と言われてしまう。

 

 人見知りであるとか、人といると億劫だ、人とうまく話すことができない、といったお悩みを持つ方は多いです。

 コミュニケーションの問題だ、とか、対人緊張が原因だとかいろいろなことは考えられますが、

 その背景には実は、そもそも自分の考えや感情を素直に表明することができない、ということがあります。

 

 もちろん原因としては、親の悪口や、変な指摘をされてきたためにローカルルールの影響もあります。

(参考)→「「汚言」の巣窟

 自分の意見を表明すると親が変な指摘をしてきたり、価値観を押し付けられてきたから。

 あるいは、テレビを見ていて、親がいつもテレビに出ている人に文句を言っていて、「こういう行いはダメなんだ」とその影響を受けてきた。

 自分の意見はうかつに言わないようにしようと決めてきた、ということはよくあります。 

 

 自分の価値観だと思っていたことは、実は、親のローカルルール(不全感)でしかないのに、それに気が付かずに、ずっと忠実に守っているのです。
 そのために、自由に意見を表明することが今でもできなくなっていたりする。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 さらに、トラウマを負った人の悩みとしてよくあるのが、自分の意見を言うと、「変だ」とか、「おかしい」といわれてしまったり、「きつい」といわれてしまい、こわくなって自分の意見が言えない、自己開示できないということがあります。

 他の人は好き勝手に話をしているのにその人はなにも言われなくて、“自分だけ”が「きつい」「おかしい」と言われてしまう、というのです。

 

 

 その原因の一つはなにかといえば、“自分の”感情、意見を言っていないから。 

 親などから影響を受けた「理屈(不全感≒ローカルルール)」がくっついていて、それを表明している。

 本人は、自分の意見や考えを言っているように見えますが、自分のものではない「理屈(不全感)」がついているために他者にとっては侵害を受けているように感じられて、「きつい」と言われてしまう。

 ローカルルールは、「You’r NOT OK」でなりたっていますから、内容としてももっともに見えて他者にきついもの(「You’r NOT OK」)です。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 一方、反抗期などを経て一旦他者の意見を否定して、自分の感情からスタートして、自分の意見を言えるようになると、自分の意見や考えを言っていても、あくまで「私は~感じる」「単に私のものでしかありません(あなたには関係ないよ)」というメッセージとなります。

 言葉だけを見たら、きつく見えるようなことでも、他者は「きつい」とは言わず、反対に共感してくれたり、面白がってくれたりする。

 

 具体的に言えば、「芸能人の~~っていう人は嫌い」という同じ言葉でも、他者(親など)の価値観から発せられた言葉は、越境する理屈(同意しないお前は変だ、とか、自分の不全感にまきこまれろ)が暗についているため、それを聞いた人は、「きつい」といって眉をひそめたりする。
 (よく見たらわかりますが、「芸能人の~~っていう人は嫌い」という言葉は、ほとんどの場合「Iメッセージ(私の言葉)」になっていません。)

 

 

 そうではなく、自分の感情から発せられたなら、「あくまで自分の好き嫌いでしかありません」というわきまえがあるため、越境することがなく、それを聞いた人も、安心してうけとめることができる(受け止めても侵害されない)。そして、「私は好きだけど、私は~~が嫌い」といって会話を楽しむことができるのです。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 こうして、自分の感情からやりとりすると、自他の区別の中で安全に他者と意見を交換したり戯れたりすることができるようになるのです。

 なぜか、「きつい」とか「おかしい」と言われてしまうなら、他者の価値観(ローカルルール)を直訳していないか、影響を受けていないか、をチェックする必要があるかもしれません。

 

 

 

自分の考え、そして、感情が悪いものだとされてきた

 

 自分の考え、感情を感じることは「自他の区別」をつけるためには必須のものになります。

 
 人間とは「クラウド的な存在」。環境の影響を受けながら成長し、考えや感情で行動していますが、どれが自分のものでどれがそうではないかがわからなければ自他の区別のつけようがないからです。

(参考)→「人間、クラウド的な存在」「私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。

 

 

 成長する中で内面化した他者の価値観(理屈≒ローカルルール≒不全感)をそのままにしていると、自分の頭で考えているようでいて、実際は他者の考えを直訳しているだけになってしまいます。

 しかもそれは、不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「Im OK」を得るために、他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こすのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 自他の区別をつけるためには、越境を引き起こす要因を取り除き、自分の中で自足する必要があります。

 他者から影響を受けて直訳してしまっている不全感を区別して、自分から切り離していく。

 そのためには、自分の考え、特に感情を感じることはとても大切です。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 

 ただ、どうしても、自分の考えや感情を感じることにブレーキが掛かることがあります。

 その場合は、実は、過去の養育環境などで、「感情とは悪いものだ」と思わされたり、「自分はアテにならない(だから、自分の考えで考えたら間違えてしまう≒他者の考えに従わなければ)」とされてきたという場合がよくあります。 

 

 たとえば親などが不安定で、急に感情的になったりするような環境であったために、「自分はあんな感情的な人間にはなりたくない」と反面教師にしていたり、あるいは、自分の素直な感情を出したらそれを否定されてきたり。過干渉な養育者から考えを強制されてきていたり。

 

 

 マインドコントロールの手口に似ていますが、とにかく「あなたの感覚、考えはおかしい」となれば、自分の考えを刷り込みやすくなりますから、相手の足腰を折ることは、過干渉やローカルルールを押し付けるための前提となるのです。

 

 単に支配を強制するために「あなたの感覚、考えはおかしい」といっているにもかかわらず、真面目にそれを真に受けてしまうと、内面化した他者の価値観(理屈≒ローカルルール≒不全感)は、自分のものだと思いこんでしまい、取りづらくなります。

 

 「感情とは悪いものだ」「自分の考えはおかしい、当てにならない」という感覚の背景には、他者からのどういった影響があるのかも探ってみると、自由になるきっかけを得られたりします。

 子どもの感情を親がおそれていただけだった、とか、親が単に自分の不全感を発散させたいために行っていた、反面教師にしていただけだ、ということがわかれば、「感情は悪いものだ」ということを持ち続ける根拠はなくなります。

 

 自分の考え、感情を制約なく感じることができるようになれば、「自他の区別」を取り戻すことができるようになります。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 
 「理屈」を一度否定して、自分の感情を感じることの大切さをお伝えしてきました。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 自分の感情、考えから発したことについては、「ただ自分がそう思う」「そう感じている」ということですから、基本的に他人を侵害しないし、他人からも侵害されることはない。

 自分の感情、たとえば、「私はそれは嫌い」「私はそれが好きだ」「それが怖い」といったことは、その人が感じていることで、他人が「そんなふうに思うんじゃない!」とか、「それはおかしい!」とは言えないものです。そんな謂れはない。
 
 
 「ふーん、そうおもうんだね」というふうに本来しかならない。

(おかしいというのは、因縁をつけないとできません。)

 

 一方、「理屈」がついた場合は違います。

 「それは、~~だからおかしい」とか、「それは、~~するべきだから、なくさないといけない」といったことについては、「理屈」を通じて他人を侵害し、その「理屈」に反論されたりして、侵害されるおそれがあります。

 なぜなら、「理屈」によって、人間一般のことに話題が持ち上げられているから。「自分は人間一般(という架空の概念)から見て正しい存在だ。反対にあなたはおかしい」という争いになってしまうのです。

 

 自分の感情から発しているだけであれば、「人はそれぞれ違う」という前提があり、各人が独立した領域を保った状態で互いに越境し合うことがありません。

 ※国と国とが互いに異なる文化があり、どっちがいいとは言えないのと似ています。どちらが優れているというためには一般化する理屈が必要で、たとえば昔であれば「中華思想(華夷の別)」であったり、近代以降であれば「啓蒙思想」「人種主義」であったり。

 

 

 感情から発しているように見えても、言語化されていないだけで、暗に「理屈」がついている場合もあります。たとえば、相手を攻撃するために、「私はそれが嫌い」という場合。言葉には出していませんが、「私はそれが嫌い」ということのあとに、(あなたはおかしい)という言葉がついていたりする。

 この場合も、相手を侵害し、さらに相手から反撃される余地があります。なぜなら一般化してこき下ろそうとする「理屈」がついているから。

 

 

 相手を侵害する、あるいは、相手から侵害される ことを分けるポイントはなにかといえば、それは、“自分の”ということであるかどうか、ということがあります。
 
 相手を侵害する感情、あるいは理屈とは、ほぼ他者の感情や理屈をそのままにしている、ということがあります。

 それはなにかといえば、生きてきた中で受けた他者からの理屈や感情(≒ローカルルール)です。親や兄弟や友人など。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 しかもその理屈、感情は不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「I’m OK」を得るために、比較するなどして他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こします。

 それが、他者への支配、干渉といったかたちであらわれるのです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」 

 

 

 

 セラピーを受けたり、「理屈」を切り離し、自分の感情を感じるトレーニングなどをしていると、「自分のものと思っていた価値観は、実は親のものだったんだ?!」ということをしばしば経験します。

 “他者の”価値観、理屈、あるいは感情は、自他の別を越境し、他者を侵害していく。越境しているために反対に他者からの干渉、支配も呼び込みやすくなります。

 

 反対に、 “自分の”価値観、感情、は、他者を侵害する根拠(因縁)がそもそもありません。

 なぜなら、それらが成立するために「Im OK」と自己で完結しているためです。外に求める必要がないのです。

 

 

 アサーションのトレーニングでは、「Iメッセージ」で伝えましょう、というものがあります。「私は~ 」といった形で始める伝え方です。

 「Iメッセージ」だと、伝えにくいことも伝えられたり、相手の同意や共感を得やすくなったりするとされます。   

 

 自他の区別が保たれて、越境しないからです。
さながら、アイデンティティや基本的な物資が自足している国同士のように。

 それぞれ、「私は私」「あなたはあなた」といったかたちで、自他の別が保たれていることは、安心安全を生みます。

 安全が保たれた中でのコミュニケーションですから、安心して意見を交わすことができるのです。 

 
 多くの場合、相手が反対したり、同意しないのは、意見の内容についてではなく、自分の安全が脅かされるからです。同意すれば侵害される、と感じている。

 

 

 自分の中にある、直訳された他人の理屈や感情 を一旦すべて否定する。必要なものは自分で翻訳し直す。
 
 そして、常に、自分の「感情」からスタートする。自分の考えというときも、「好き嫌い」からスタートする。「理屈」からスタートしない。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 理屈で考えるとされる職業でも、実は「好き嫌い」からスタートしていたりします。

 将棋や囲碁の棋士も、最初に「直感」が降りてきて、後で検証するそうです。
 
 ビジネスの現場でも、コンサルタントや経営者なども、「ピンとくる」かどうかで判断していたりする。「理屈」はそれを検証するための道具でしかなかったりする。

 「理屈」からスタートすると多くの人を巻き込めなかったり、「理屈」に溺れたりするものです。

 自分の感情から発すれば、自然と「自他の区別」がついてきて、他者との関わりも侵害されない安全なものになってきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールは幼児性の表れでしかない~真に大人になるとはどういうことか?

 

 「理屈」と「感情」を分けるトレーニングのお話をしていましたら、5月1日付の日本経済新聞で、一橋大学教授の楠木健さんのコラムが載っていました。楠木教授は経営学の先生です。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

そのコラムでは、「大人の幼児化」が取り上げれられいました。

 簡単にご紹介しますと、

近年よく使われるようになった言葉に「イラッとする」というものがあり、
 それは、大人の幼児化を象徴する言葉だとしています。

 楠木教授は、幼児性には3つあるといいます。

 1つ目は、「世の中は思い通りになる」と思ってしまっていること。

 2つ目は、独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと
 
 3つ目が、他人のことに関心をもちすぎるということ。

 

 楠木教授は、子供がイラっとするのは、本来比較する必要のない他人に興味を向けて、嫉妬であることが少なくない、としています。

 さらに、その他人への興味も本当に関心があるわけではなく、自分の不満や不足感の埋め合わせという面が多いのでは、としています。
 (まさに、ローカルルールですね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本来人はそれぞれの自分の価値基準で生きているわけで、他人と比較しないのが大人である、ということであり、自分は全てに優れるわけでもない。社会は相互補完しあってできている。
 
 これが社会の実態だから、全て自分の思い通りに、ということはなく、「他人を気にせず自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。」としています。   

 

 たまたま、拝見した記事ですが、まさにこのブログでもお伝えしている「ローカルルール」「自他の区別」そのものといってもよいかと思います。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 

 2つ目に上げた「独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと」は、自分の「感情」だけを感じて「自他の区別を」つけるトレーニングにも関係する話と言えます。

 
 私たちは、子供は「好き嫌い」をいい、大人は「良し悪し」という理屈を言う、と思っていますが、実はそうではありません。

 大人になるというのは、生育の過程で得た親や周囲の大人の「良し悪し」を一旦否定、相対化して、自分の形に翻訳し、自分の基準で「好き嫌い」を言えるようになることです。

 

 「好き嫌い」は、自分を超えて越境することがありません。
 
 あくまで、「自分の好き嫌い」でしかなく、他人に押し付けようとしても押し付ける根拠がないからです。

 反対に、「良し悪し」は、自分を超えて越境する誘引があります(帝国主義的と表現してもよいかもしれません)。

 「良し悪し」という理屈で語ることに慣れていると、越境すること=されることが当たり前になりますから、他者の振る舞いに気持ちを奪われたり、反対に、「良し悪し」というニセの土台に上に他者も越境してきて、自分の行為も支配しようとしてきます。

 
 楠木教授に言わせればこれは「幼児性」の現れなのです。

 

  
 筆者は、ローカルルール人格そのものと対峙したことがありますが、
  
 まさに上記の3点そのものでした。

  1.目の前の人が自分の思い通りに動いてくれないと癇癪を起こす。

  2.自分の好き嫌いをそのまま表現できず、他者に因縁(良し悪し)をつけてわあわあ言う。

  3.他人に関心をもちすぎる。嫉妬などにとらわれる。

 など

 

 

 ローカルルールとは、おそろしい大人の支配ではなく、幼児の振る舞いといったほうが適切なのかもしれません。
 (だからこそ、難しく見えて、その内実はスカスカで、もろく、それに気がつけば変えられる)

 トラウマを負っていると、「大人」というものに嫌悪感があって、永遠に若いことがなにか良いように感じる心性もあったりします。

 あるいは、妙に大人びた感じになって、人並み以上に気を使って、しっかりしなきゃ、という感覚を持っていたりする。
 さらに同時に、周りの人が自分よりもずっと成熟していて、いつも自分が未熟で自信がない、という感覚も持っていたりする。

 実はそれはトラウマ特有のもので、本来の自分の感覚ではない。
 これらは「ニセ成熟」と呼んでいる現象です。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 
 

 真に「大人」となるためにはどうすればよいか、といえば、頭で意識するような「大人」になることではありません。それはニセモノの大人。

 

 他人と比較し、羨んだり、いつも自信がなくおどおどしたり、反対にちょっと調子が出ると見下したり、他人の行為にすぐにイライラしたりという風になってしまう。
 
 (最近報じられているように、自粛しない人に怒りをぶつけたり、他人のSNSを炎上させたり、というのは、まさにニセの大人、幼児性によるものと言えます。)

 

 

   
 大人になるというのは、実は「無邪気さ」といったほんとうの意味で人間の根源的な要素(エネルギー)を陶冶し、自分のものとしていることであったりする。(交流分析では、フリーチャイルド といったりする要素)

 

 一見子どもに見えることが「真の大人」に通じ、一見大人に見えることが醜い「幼児性」に陥るという逆説。

 

 

 トラウマというのは、人間の根源的な要素を、他者の理屈(ローカルルール)で押さえつけられている状態、といってもよい。
 人間の根源的な要素を見た、たとえば親などが、それを羨み、おそれ、あるいは不全感をぶつけて、潰してきた。
 さらに、理屈をこねて、人間の根源的な要素を抑えることが「大人」なのだとしてきた、ということ。

 その理屈は、単なる親の幼児性(ローカルルール)の表れでしかないために、真に受けた当人も、大人になったら他人に「理屈」をつけてイライラする事が止まらなくなったりするのです。

 

 

 真に「大人」なるためには、「理屈」はつけず、「感情」だけを感じることを意識すること。先日お伝えしたトレーニングを繰り返す。 

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 なにか頭の中で、「そうはいっても、これは常識でしょ」というものがあっても、実は単なる親の価値観(親の幼児性、理屈)に過ぎなかったりする。

 それは一旦否定して、本当に必要なものがあれば自分で翻訳し直す。

 それは、楠木教授が言うように「好き、嫌い」で判断する、といったこと。
 

 

 そうすることが、「自他の区別」を生み、他者と比較せず自分の価値観で生きるということができるようになる。他者に無用に越境(支配)するようなことをしない、支配もされない、という真の成熟を生むのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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