コロナ禍に見る「自分の感覚」とトラマティックな感覚

 

 悩みから抜け出すためには、自分の感覚を感じる、ということはとても大切です。

フォーカシングとか、マインドフルネスなどそのための心理療法があるくらいです。 

 

 たとえば、「他人の言葉」というものがあります。

 他人の言葉で「あなたはこんな人ね」といわれても、「自分の感覚」を感じることができれば、それに対して、「自分の感覚」が違和感を伝えてきますから、「いや、違うと思う」と言えます。

 でも、多くの場合それができないのは、「自分の感覚を感じる」ことができていないためです。

 もっと言えば、自分の感覚を疑わされてしまっている。感じることを曖昧で下等なものだとしてしまっている。

 
 
 私たちの土台として大切とされる、「愛着(アタッチメント)」というものは、まさにこの自分の感覚を形成するための核となるもので、親と子供との間で、感覚を確認、承認するやり取りを身体レベルで行うものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「自分の感覚」が信頼できなければ、身体ではなく、思考という不安定な道具で対処しなくてはならず、他人からの影響に左右されてしまいます。

 

 

 

 今はまだ新型コロナウイルスで大変な時期ですが、例えば新型コロナウイルスを材料として、「自分の感覚」とはなにか?について考えてみたいと思います。

 

 新型コロナウイルスのリスクをどう評価するか? どこまで恐れるのか? というのは、まず科学的な知見があり、そして次に個人の感覚があります。

 個人の感覚には個人差があります。個人差は単に感覚の差、というだけではなく、年齢や既往症の有無などでの実際的なリスク差もあります。

 TVやインターネットからの情報などを私たちは浴びるように受けています。
  

 そうした情報と「自分の感覚」とをあわせて、「まあ、こんなものかな」とそれぞれリスクを判断しています。

 

 病気を持っている、あるいは高齢なために家でじっとしている、という方もいらっしゃるかと思いますが、筆者の周りでしたら、街でもマスクをしながら普通に買い物したり、食事をしている方が多いように感じます。

 政府からは外出は控えるように、といわれていますが、出張や旅行に行く方もいらっしゃいます(その是非はともかく)。

 
 日本で「まあ、こんなものかな」と感じさせているものこそ、山中教授などが言うファクターX なのかもしれません。

不謹慎と批判されましたが、首相や大臣までもが「会食しても、まあ大丈夫だろう」とおもうのも、肌感覚だと言えます(その是非は、さらにともかく)。

 

 

 それに対して、「気の緩みだ」という意見もあります。

 ただ、カウンセラーからすると、各人が「肌感覚(自分の感覚)」で適切に判断しているのだろう、と感じます。
 

  ※適切というのは100%正しいという意味ではなく、生きる上で「それなりに正しい(妥当だ)」という意味です。

 

 こうした肌感覚でのリスク判断や感覚を「常識」と呼ぶのだと思います。

 「常識」とは、科学的な知見そのものではありません。「理想」でもありません。専門的な知識も参考にしますが、生活での感覚など実際的なもので掛け算して出された生きる上でムリのない総合判断です。
 ですから、多くの場合は極端にならず、中庸なものに落ち着きます。

 医療関係者からすれば、「そんな常識では困る。もっと対策を」ということかもしれませんが、多くの人は自分の身体、肌感覚でリスクを判断して、マスクや手洗いなど対策をしながら、それぞれに適度に経済活動、消費活動をしながら、日常を過ごしている、というのが実際のところではないかと思います。
 実際に、今年はインフルエンザは例年の何万分の1レベルの発生状況だそうで、「常識」「肌感覚」で動いていても、かなりの効果が伺えます。

 残念ながら、「肌感覚」以上のことは人間は長くは続けることはできなさそうです。

 ※筆者も、春頃には、知人に「スーパーで買ってきたものも除菌したほうがいいみたいよ」みたいなことを伝えたら、「確かに頭では理屈はわかるが、今でも対策しているのに、もうこれ以上の対策は疲れて、難しいよ・・・」と言われて、そうだよなぁ・・と感じたことがあります。

 やりすぎると疲れる、無理は続かない、というのも「常識」「肌感覚」の特徴です。
 (やりすぎる、疲れないというのは、依存症の特徴です。)

 

 

 

 新型コロナウイルスに限らず、私たちの人生はリスクだらけですが、ほとんどのことはこのように「まあこんなものかな」「最悪のことが起きても仕方がない」と、ある意味鷹揚に構えているものです。

 医学的に見て完全に健康な生活をしているわけでもありません。タバコ・お酒はもちろん、甘いものもたくさん食べるし、ある程度身体を犠牲にしても自分が求める何かを獲得しに行くこともある。

 車の運転も事故の可能性を考えればとんでもないリスクですが、毎日仕事や日常生活で使っています。

 
 地球の反対側に飢えている子供がいても、私たちは直接救に行くことはせずに、罪悪感もなく楽しんで生活しています。
 自分の仕事、経済活動をそれぞれしながら、余力のあるときに関心を向けたり、専門家に対策を託したりしながら、自分として社会の中でわずかながらも貢献している、という実感を持っています。
 (「いつも、飢えている子供のことが頭から離れません」となっていると、お医者さんからも、「うつか不安障害かもしれませんね」と言われてしまうでしょう。)
 

 この感覚は健康で健全な感覚です。

 トラウマを克服した先にあるのはこうした感覚です。

 

 

 一方、トラウマを負うと、そうはなりません。

 「肌感覚なんていっていて、リスクを見落とすかも?!」とか、「昔から自分は独りよがりに考えて失敗して怒られてきたから、自分の感覚、肌感覚なんて信用できない」という気持ちが湧いたりする。
 

 誰かから「お前はおかしい」とツッコまれる不安にも苛まれている。
ヒステリックな大人から怒られるようなイメージがある。罪悪感も感じている。

 例えば、「医療体制が逼迫しているのに、のんびりしているとはどういうことだ!!」と怒られるような恐れ、不安を感じてしまう。

 ※「火垂るの墓」というジブリの映画で、主人公の兄妹がピアノを弾いていると、身を寄せた先の親戚のおばさんに、「よしなさい!」と怒られる場面がありますが、まさにあんな感じですね。
  おばさんはローカルルールで意地悪しているのですが、「戦況が逼迫している中、皆、お国のために働いているのに、あなた達は!」ともっともなことを言っています。

 

 それがさらに強くなると、「私ってわかってなかったのかしら?自分はおかしいのかしら?!」と自分の感覚を疑いだして、頭で考えるようになってしまう。
あるいは、「もっと、人の気持ちを考えなきゃ」と人の心の中を想像して覗き込もうとしてしまう。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 

 頭で考えると、過去の不全感が疼いて、自分の感覚を我慢しているフラストレーションがたまり、マスクしていない人や、飲食店でのんきな若者を見ると怒りが湧いてきたりしてしまう。
 インターネットで自粛していない飲食店の名前を書き込んだり、、、みたいなことをしてしまう(これはローカルルール人格へのスイッチです)。
  

背景には、非愛着的世界観も潜んでいます。世の中はひどい人ばかりで、自分は脅かされている、という不安感です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 

 トラウマというのは、近代に入り惨事や戦争で注目されるようになったものですが、新型コロナウイルスが起こしている情勢というのは、まさにトラウマティックといって良いと思います。

 そうした状況であるからこそ、反対に本来の自分の感覚とはなにか?がわかりやすい。

 

 戦時中に、不謹慎とされても、パーマやおしゃれを楽しもうとしていた人がいたそうですが、「おしゃれをしたい」という感覚は自分の感覚といえそうです。
反対に、「戦時中だから、押し殺して我慢をするべきだ」というのは、どちらかというとトラウマティックな感覚です。

 

 昔、「白洲次郎」というNHKのドラマがありましたが、その中で、白洲次郎が召集令状が来たのを拒否して、裏から手を回して徴兵を逃れます。
 それに対して「多くの国民が高潔な魂を胸に戦地に赴いている。恥ずかしいと思いませんか?」と非難されますが、白洲は「それは自分の役割ではありません」といい、自分の信念を貫きます。
 後日、そのことを、刑務所から出てきた吉田茂に報告した際に、白洲次郎は徴兵を逃れた自分の判断への後悔、迷いを見せます。
 そのときに、吉田茂に「自分の決断に自信を持てよ!」と励まされて、「はい!」と気を取り直す、というシーンがあります。
 法的にも、道義的にも当時、徴兵から逃れるというのは良くないとされたことですが、その結果、生き残り、戦後のGHQとの交渉などで白洲次郎は大活躍をすることになります。
 

 

 こうした例も、自分の感覚を感じる、と言えるかもしれません。

 
 

 

 こういうと、「無限定に自分の欲望のままになるのでは?」「なんでもかんでも思い通りではいけないのでは?」という気持ちが湧いてくる。実はこれもトラウマティックな感覚なのですが、でも大丈夫。

 人間は「社会的な動物」ですから、だまっていても社会の常識を代表して生きる存在です。ですから、社会の常識から逸脱しようにも離れることはできない。スマホのような存在。自分の感覚に従えないと、社会を代表できない。

(参考)→「「代表」が機能するために必要なこと

 大事なことは、それが、主権を持った自分の身体を通して、翻訳されて、自分の内側から湧いてくるものか否か、です。反対に、上に挙げたような、「こうするべき」という頭ごなしに、罪悪感とともに湧いてくる感覚は、ニセの常識であり、言い換えればローカルルールのものです。

 これを区別することはとても大事です。
 区別できないことが、生きづらさや、悩みの根幹とも言えます。それは人格構造の機能不全から来ます。

 

 そうしたことから抜け出すために大切なことは、頭でではなく、自分の身体(肌感覚、ガットフィーリング)で判断するということです。
 「自分の感覚」とは、社会の何かを代表して身体に湧いてくるものです。
その際に罪悪感とか義務感といったことは「自分の感覚」を感じる邪魔になります。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。」「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 くれぐれも、「他人の目」とか、「こうするべき」という感覚からではありません。それは結局、自分の親とか他者に自分の主権を明け渡すことになってしまうのです。
(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

イライラ、怒りの背後にある「不安」

 職場や日常生活で人に対してイライラして困る、
 
 なんでこの人はこんなことをするんだろう? と怒りが湧く、

 そして、イライラや怒りを感じている自分にがっかりしたりする。
 

 こうしたお悩みは珍しくありません。

 

 他者に対するイライラや怒りの背景は、実は「不安」であることがあります。

 もともと根底に「不安」があって、人の言動が不安を強くする。

 例えば、仕事のあるプロジェクトでストレスが掛かっている。

 そのときに、「もしかしたら、うまくいかないかも」とメンバーが発言したことに対して、「なんで、悲観的なことを言うんだ!」みたいなことで怒る、イライラする。

 

 そのときになぜ怒るかといえば、もともと自分も「プロジェクトが上手く行かないかも?」という不安があるから。

 そして、「私をこれ以上不安にさせるな!」と怒っているのです。

 でも、不安から怒っているので、相手にはその怒りは伝わりません。
 

 たしかに、怒りの勢いで相手は“萎縮”はするのですが、「実は不安だから八つ当たりしているだけ」ということが伝わり、相手はそのことを無意識に感じて取っています。だから、態度は萎縮しますが、内心はそのメッセージに従えない、ということがおきます。
 だって、原因は自分の言動にはない、ということが相手はわかっていますから。

 

 私たちも人からいらいらや怒りを向けられたときに、態度を萎縮させますが、内心全く納得してないことがありますが、それも相手が不安から怒っているからです。

 

 本来は、「僕も不安なんだ」「不安だけど、頑張ろう!」といったほうが良いのです。そして、ありのままに現実を見ればいい。実際には現実のほうがずっと優しかったりするものです。

 

  
 トラウマを負っていると、根本の部分に安心安全がありません。だから、ベタッとした「不安」が根底にはあります。

 日常生活においても不安がある。
 
 物理的な現実に対する信頼がありません。

 そのため、自分の思考や他人の言動という「空想界」を、現実そのものとしてしまう。

 不安から目をそらすために、自分の思考や他人の言動を自分の思い通りに保とうとする。

 だから、自分が求める安定を壊すような、乱すような言動を他者がするとものすごくイライラしたり、腹をたてるのです。

 
「自分の思い通りに」「自分が求める」というと自分に主体性があるように感じますが、全くの逆です。

 他者の言動、あるいは、根底にある不安に主体性を持っていかれてしまい、自分は右往左往しているだけ。

 
 「なんで?自分の気持ちを察してくれないんだ?! こいつ空気読めないな~!」と相手にイライラしながら、自分の主権を奪われている。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 相手に意識が向くことで、自分の悩みの主因に目が向かなくなる。

 本当の主因は、「不安」であり、それをもたらした過去の逆境体験(ストレス)であるわけです。

 それどころか過去の逆境体験をもたらした家族などについては、その価値観を守ろうとしてしまったり、いびつな愛着を感じていたりする。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 自分のエネルギーを本当の原因にぶつけることはせず、目の前で自分を不安にする人に八つ当たりさせている。
 
 

 もっといえば、不安から、目の前の人を「巻き込もう」としている。
自他の区別が見えなくなり、相手とジトッとした関係になることで、不安を紛らわそうとしている。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 依存症とか、パーソナリティ障害の方と接すると、まとわりつくようなエネルギーを感じることがありますが、まさにあのような感じ。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと」 

    →「パーソナリティ障害の正しい理解と克服のための7つのポイント

 

 
 結局このような巻き込むようなジッとりした関わりは、その人の家族が行っていた関わり方だったりします。不安とともにその関わり方も、内面化して引き継いでいる。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響
 

 人に対してイライラしたり、怒りを感じたときは、「自分の不安からでは?」と疑ってみて、チェックしてみるとものすごく良いです。

 ほぼすべてのシーンで、自分の不安が原因であることに気が付きます。
気がつくと、スーッと、イライラが消えていったりします。根底にある「不安」をこそ手当をしないといけない問題ということに目が向くようになるのです。

 

「不安」を健康な性質、水準に戻すことも、自我を確立するためには必須と言えます。

 

 

 

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相手の気持を考えることが良いことだと思わされ、「他者の植民地」になっている。

 

 最近、いろいろなクライアントさんを見ていて気がつくのは、相手の意識、心の中を覗き込むことが、「相手に気を使うこと」「共感すること」「相手の気持を考えること」で、それが良いコミュニケーションだと勘違いさせられていて、そのことが悩みを生んでいるというケースが非常に多いということです。
 (少なくないケースでそこが大きな要因の一つである、ということがあります。)

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。」「共感してはいけない?!」 

 

 

 まるで自分の体から意識が抜け出すようにして、他人の心の中を覗きにいって、そこで相手のプライベートなドロドロとした感情を拾ってきてしまう。

 人間はプライベートな状態では、おかしくなってしまう。
 さまざまな他者の否定的な感情を取り込んでしまっていたりもします。

 

 

 相手の心のなかにあるものは決して「本音」ではありません。
 
 本音とは、あくまで社会化(パブリック)の洗礼を浴びたものだけです。

 本音と思っているのは、他者のネガティブな感情や意識でしかない。
(参考)→「まず相手の気持ちや立場を考える、というのは実はかなり変なこと
 
 
 それを勘違いして、「本音」を拾いに行ってしまう。

 すると、背負う必要もない負荷を自分の中に溜め込んでしまいますから、それが心や身体の症状となって現れてしまう。

 なかなか取れない悩み、生き辛さの原因になって、その負荷が腸に現れれば過敏性腸症候群、目に現れれば視線恐怖、といった具合になります。
  

 おそらく、発達の過程で誤学習をさせられてしまったためにそうしたことが生じています。

 

 

 私たち人間は「社会的な動物」であり、そもそもが「クラウド的な存在」です。スマホのように、外からのネットワーク供給でなりたっている。
(参考)→「私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。」 

 ネットワークからの供給がうまくいかなくなる、あるいは、主権を奪うくらいに供給過多になると、ひきこもるしかなくなってしまいます。ひきこもりの方が死に至る事例が最近多数報告されていますが、それもそのはずなのです。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント」 

 内面化した他者の意識は、私達を強く規制し、主権を奪います。

 

 本来は、「愛着」という名のOSによって、他者の意識を一旦否定して、自分のものに翻訳し直すプロセスが必須です。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 そのためには他者からの承認が必要ですし、自我の発揮を後押ししてもらわなければなりません。
 二度の反抗期に見られるように、内面化した他者の意識を否定することが、発達におけるとても大切な課題になります。

 

 

 その「否定と翻訳」ができずに、内面化した他者の意識が人格のように誤って機能しはじめると「ローカルルール人格(≒人格化された超自我)」というように本人を困らせるようになります。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 それが強く行き着くと多重人格というようなケースにも至ります。

 

 他人の意識に憑依する、というのは、無自覚にタコのように意識を他者に向けて、他者の意識を取り込んで内面化しつづけて、主権を奪われている、ということです。
 

 

 見た目は立派な大人でも、内面は「他者の植民地」という方はゴロゴロいて、そうした方々はカウンセリングを受けても効果を感じられず、あれ?ということでさまよい続けてしまうのです。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」

 それもそのはず、自分と思っているものが「他者の植民地」なのですから、自分が自分であるかもよくわからないままでいては、なかなかままなりません。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 しかし、他者の意識の内面化しつづけていることが問題の原因なのだと気がつくと変わってきます。

 

  
 以前にも書いたことがありますが、相手の気持の中を覗き込もうとしては絶対にいけない。

(参考)→「あらためて、絶対に相手の気持ちは考えてはいけない。

 それは健康な状態でもなければ、良いコミュニケーションでもありません。

 意識が自分の体から出て、相手に入るこむようなことはことはやめて、ドライに感じるくらいに、自分の範囲を守る。

 すると、自他の区別がついてきますし、それをきっかけに人格の成熟も再び機能し始めます。

 

 

 

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