機能不全家族において”主体”を喪失したケースで特に重い状態として見られるのが、
「変化したいが、変化すると他者(家族)が喜ぶから変化したくない、できない(自立したいが、自立すると家族、親が喜ぶから自立したくない、できない)」
というようにねじれた感情に陥っているようなケースです。
親に対して強い恨み、怒りがある。
普通であれば、じゃあ、親から離れましょう、あるいは変化しましょう、と考えますが、自分が変化すると親が喜ぶから変化したくない、という感覚に陥っています。
普通に聞くと、とても奇妙に聞こえます。
なぜこのようなことになってしまうのでしょうか?
機能不全家族で育つことで、当事者は、自分という主体が奪われ、寄って立つ土台を失われます。
足場が自分にあれば、「じゃあ、変化しましょう、親から離れよう」となれますが、土台を「親(家族)」に設定させられてきたために、離れようにも離れられないのです。
親(家族)は、子が本来持つ「土台(資質)」を怖れ、それ自身が悪、あるいは矯正されるべきものとして除こうとしてきました。
そうして、「土台(資質)」を親の意向や気まぐれ、信じる思想に入れ替えることが教育、躾だと考えて実行してきました。
しかし、人間には原的な直感がそなわっていますから、そのことがおかしいということは感じます。それが怒りとなって表れます。
しかし、土台を奪われているために怒りはあっても、具体的に発揮するための起点が無くなっています。すべて「親(家族)」が起点となっています。
自分が主体で感情が出ているわけではないので、いくら出しても怒りや恨みが解消されることがありません。
その状態を言葉に転換したものが、「自分が変化(自立)すると親が喜ぶから変化(自立)したくない」という、普通の人からすれば意味がわからない状態です。
一方、子の土台を破壊することをしてきたわけですが、親にはその自覚がありません。
そのため親も
「なぜ、自分の子供はいつまでも親に恨み、怒りを向けてくるのか?」
「繰り返し謝っているのに、なぜ、わかってくれないのか?」となってしまいます。
さらに、当事者の側も土台を壊されているために、あなたはどうしたいのですか? 何を謝って欲しいのか?どう変わってほしいのか?と尋ねられて、深掘りしようとしても実のある話は出てきません。
土台がないために、親に何を謝って欲しいのか、親がどのように変わってほしいのかも、本人もよくわからなくなっているのです。
もともと、機能不全でそのような力がないのが問題だったので、親側も主体的に解決する力がなく、ずーっと堂々巡りを繰り返すことになります。
では、外部の支援を得ようと考えますが、現代(近代)のカウンセリングは、クライアントに主体があることを暗に前提としています。
そのため、主体の土台が奪われた状態ではカウンセリングという土俵にも乗りにくいのです。
実際に、カウンセリングや治療を受けてみても、主体的なやり取りができないことがあります。
通常の形式ではカウンセリングも受けにくい、運良く効果的な支援を受けれても、変化すると親が喜ぶから変化したくない、という感情から抜けれない、という恐ろしい悪循環にあります。
そこまでに達するまでに、本人が40歳、50歳、60歳になっているなんていうこともあります。
社会的にも自立するための有利な条件がどんどんと失われていきます。
機能不全とは誠に根深いものがあります。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」
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