前回は主体を喪失した重いケースを取り上げました。
主体を喪失すると、変化したくても変化したくない、という解決困難なねじれた状態に陥ってしまいます。
そうした状態までには至らなくても、親の価値観が世界観全体を支配するようなことは誰にとっても生じます。
例えば、反抗とは、人間にとってはとても大切な権利、営みです。
ひどい状況に対して、反抗することで自我を守り、自我が確立されます。
反抗のリソースが外部にある場合、外部を土台として反抗することが、当事者が社会化する手助けにもなります。
一方で、反抗さえも、親の価値観のもとに置かれてしまうことがあります。
親が設定したゲームのルールの中で、反発して頑張ろうとするようなケースです。
親を見返そうとして努力をしていますが、実は、それは親の価値観の手のひらの上で踊っているだけで、反抗と違い、ゲームの外には出ていません。
頑張れば頑張るほどに、前提としてある「自分はだめな人だ」ということは強化されてしまいます。
トラウマを負っていると、自分では色々と考えているつもりでも、実は、ローカルルールの闇世界の絶対解けない無理ゲーをプレイさせられているだけであることはとても多いのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
なぜか親や家族が作った、絶対解けないゲームのルールの中で頑張ろうとしている。
『カイジ』というマンガ、映画がありましたが、あのような世界ですね。
よく考えれば、そのルールに従う必要はないのですが、罪悪感や、あと、家族のニセの義務感、ニセの責任感で、どうしても自分がやらないといけない、お世話しないといけない、あるいは、逃げてはいけない、という感覚でその無理なルールの中で戦おうとしてしまう。
この無理ゲーというのは、以前書きました、連立方程式状態と言いかえることができるかもしれません。
(参考)→「おかしな“連立方程式”化」
絶対に解けない、多元連立方程式を解こうとしている。
河原で石を積み上げ続ける餓鬼のような状態です。
洗脳レベルの家族のトラウマを負っている場合は顕著ですが、軽いトラウマでも、実は似たような状態が起きていたりします。
なぜか、自分はだめだということを所与の前提として無理なルールの中で戦おうとしてしまう状態。
無理ゲーとは、他人の文脈の支配と言い換えられるかもしれませんが、自分がその状態にある、と仮定して一度点検してみると、意外なことが見えてくるかもしれません。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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