“詐欺師”に相談してしまう ~実は、相談には環境の支援や構造が必要~

 

 ローカルルールにかかってしまうと、ハラスメントを仕掛けてきている人、支配してきている人に相談しようとする、関わろうとするという悪循環に陥ることがあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ハラスメントを仕掛けてきている相手ですから、嫌なことを言われるに決まっているのですが、何故かその人に相談してしまう。
「私は大丈夫かどうか?」「これはどうしたらいいの?」と尋ねてしまう。

 親や家族などが典型ですが、特に問題が起きると、そのハラスメントの加害者に相談する。

 
 傍から見ていると「なぜ、問題の原因になっている人に、自分を苦しめている人に声をかけるの??」と思ってしまいます。

 

 詐欺に引っかかった被害者の方が、詐欺だとわかったあとに、加害者である営業マン(詐欺師)を呼んで、「これはどうしたらいいですか?」と相談するようなことが起こりますが、まさに同様の事象です。
 相談するなら消費者センターとか、弁護士とか、警察であるはずですが、なぜかそこには相談しようとしない。
 

 なぜか外の人を警戒し、家(内)を守ろうとしてしまう。
外の専門家に相談したらいいのに、身内に相談してしまう。

 あるいは、外の専門家に相談するのも先延ばしにして、自分の頭の中でもやもやと考えて時間を浪費する。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 どうしてこのような事象が生じるのでしょうか?

 色々と要因はありますが、一つには、尋ねる相手が自分の存在を承認してくれると期待しているためです。
 あるいは、自分が関与を続けないといけないと思っているためです。なにか自分の不安から逃れるためです。

 

 もう一つは、ニセの公的領域(≒私的領域)に絡め取られていて、本当の公的領域にアクセスすることができていないためです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 まさに依存関係にあるということです。これは頭では切り替えることができない。体験や経験を偽装されているので、身体レベルでニセの公的領域が現実であると思わされています。
 

 

 最後には、コミュニティや社会自体の力も十分ではないということもあります。
 これは、日本の近代社会、現代社会の特徴でもありますが、コミュニティの力が弱く、行政の目も粗いために、私たちの側にそれを利用する能力やリテラシーがないと、社会の中で自分を位置づけること、社会の資源の利用が難しい、ということがあります。
 いろいろな問題はありながらも、うまくアクセスができれば何とか生きていけるだけの資源が社会にはあります。しかし、そこにたどり着けないままこぼれ落ちることも多い。
 上の例でしたら、行政や警察などに相談したってどうせ良い対応が返ってこない、カウンセラーに相談しても理解してもらえない、頼りない、という経験をしてしまっている。

 

 実は、「相談」や「探索」という行為自体が飛び込み営業、新規開拓にも似て、とてもエネルギーがいることです。
 こちらに自尊心が一定以上ないとくじけてしまうことでもあります。
 ですから、自尊心のエネルギー残量が一定以上に低下したり、相談や情報収集のスキルが十分ではないと、よい資源にアクセスできる前にくじけてしまう。

 本来の社会、コミュニティはそうした人でも包摂するように設計されなければならないのですが、現時点の日本社会はそうはなっていません。能動的にアクセス、探索が必要な段階の社会です
 (もっと言えば、”家族”という社会の最小単位足りえないものを基礎として設計してしまったおかしな社会。だから、まずは「家族」に相談してしまうのです)。

(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 本来、生きづらさとは社会からもらされるものですが、トラウマを負うと、社会の仕組みの不十分な点を内面化してしまい、抱えてしまうようになります。

 その結果、特に「家族」という脆弱なものに頼らざるを得なくなり、家族の機能不全や依存関係の影響にからめとられて行ってしまうのです。

 その結果、ハラスメントの加害者、あるいは、機能不全の家族に”相談する”なんていう滑稽な現象が生じるのです。
 
 詐欺師に相談することをもって、本人のせいだ、というのも実はかなり酷なことなのです。本当は構造の問題です。

 
 トラウマの特徴の一つはハラスメント(心理的な支配)、なのですが、トラウマを負わされていると、このような構造が生じます。

 

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

公式ツイッターはこちら

 

自尊心は、気安くない

 

 前回の記事の続きですが、

(参考)→「相談されやすい、話しかけられやすい、はよいことではない。

 世の中では、自尊心のある人、人望のある人というのは、しばしば、どこか、気安くないところがあったりします。

 あるいは、ある一定以上は近づけなさそうな感じがあります。

 無碍にできなさそうな感じがあります。

 価値のあるものというのは、そのように感じさせるものです。

 誰でも手に取れる、といったものに価値は感じません。
 
 

 しかし、トラウマがあると、

 壁があってはいけない、 
 怒ってはいけない、とか、
 そんな人間にはなりたくない、

 壁があることは下等であると思っていたりします。

 結果、ほんとうの意味で自他の区別をつけることができない。

(参考)→「人との「壁」がない人たち~発達障害、トラウマ

 

  
 なぜ、自尊心のある人、人望のある人が気安くないかといえば、

 自分を大事にできている、ということと、

 公的領域の維持ができている、ということがあります。

 人は、公私が曖昧になると不安定になる、というのが「公私環境(領域)仮説」のテーゼです。

 誰からも話しかけられやすい、気安い、というのは、公私が曖昧ということです。

 そうした環境では人はおかしくなりやすいのです。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 フランクというのは全くもって良いことではありません。
 フランク(気安さ)が成立するためには前提がある。

 親しき仲にも礼儀あり を保てているということがとても大切です。

 良い友人関係も、それがあります。

 人間関係が壊れるとしたら、多くの場合、公私が曖昧になったときだといえます。

 

 

 

 ↓ 公私環境仮説についても書いています。

 amazonでこの本を購入する →

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

相談されやすい、話しかけられやすい、はよいことではない。

 

 相談されやすい、話しかけられやすい、ということを良いことだと思っている方がいらっしゃるかもしれません。

 たしかに、良いことのように思えます。

 「私はよく親族や知人から相談される」

 「街でも人から声をかけてもらいやすい」
 
 と感じている方はいらっしゃるのではないでしょうか?

 

 
 相談されることは自分が良い人間であるからだ、話しかけられやすい、というのも、敬遠される要素がないからだ、と、思うかもしれません。

 あるいは、自分に価値を感じる、人から認められている、といったような感じを持つかもしれません。

 

 

 しかし、これは、あまり良いことではありません。

 相談されやすい、話しかけられやすい、というのは、他人から侵害されやすさと相関しています。
 
 相談されやすさ、と、ハラスメントを受けやすい、というのは≒(ニアリーイコール)といっても良いかもしれません。

 

 

 世の中で、人望のある人は、ちょっと怒りっぽい感じがして、気安くなかったりします。

 それは、ちゃんと自尊心があるということで、自分がしっかりあるから、それが魅力であり、人望にもつながる。

 

 一方、話しかけられやすい、というのは、ただ自分を大事にしていないだけだったりします。
 ガードや防壁がないだけで、それは人の善し悪しや人望とは違う。
 
 
 家に例えれば、「入りやすい家」「勝手に入っても怒られない家」
 営業マンからすれば「勧誘しやすい」「訪問しやすい」ということですから。

 人から相談される、ということを喜んでいる場合ではありません。

 

 

 自尊心があるということは、

 「自分の時間は貴重な時間だが、その時間をタダで使おうと思っている?」
 「それ相応のリスペクトはありますか?」

 という気持ちをしっかりと持っているということです。

(参考)→「私を大事にしてくれる?

 

 自分を大事にしていていれば、普通は、大事な自分の時間を渡す意味がない、ということに気づいて、むやみに応じるモチベーションは湧くことはありません。

 相談されやすい、話しかけられやすい、という場合は、

 自分を大事にできておらず、
 リスペクトチェック、時間泥棒チェックといったことがうまく働いていないということです。 

 本来は、心の免疫が働いていれば、リスペクトがあるかどうかにも敏感なものです。

 失礼があったら、怒る、といった雰囲気を醸してもいる。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 

 まずはしっかりと自分をガードする。心は閉じておく。
 自分を大事にすることが第一。

 その上で、人と軽く、いい加減に接する。

 

 

 そうした基礎の果てに、「人望がある」という目指したいところに到達できるかもしれませんが、その反対はありません。

  
 「話しかけにくい」
 「リスペクトを欠いたら、怒られそう」
 「親しみやすいが、気安くない」というのが、健康な姿と言えます。

(参考)→「「いい人」には意識してなるものではなく、環境の集積である。

 

 

 

 amazonでこの本を購入する →

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

女優のように生きる

 

 自己肯定感という言葉を最近はよく耳にします。

 本もたくさん出ていますし、NHKの子供番組を見て驚いたのが、そこでも「自己肯定感」って言葉が出てきたことです。

 
 文字通り、自分を肯定し、自信を持つということですが、自己肯定感を持とうということを実践するときに間違ってしまうのが、綺麗にやろうとしてしまうこと。

 綺麗に実践しようとすると、多くの場合、ログイン、ではなくログアウトしてしまう方向に向かってしまいます。

 私がよくクライアントさんにアドバイスさせていただくのは、「女優のように生きる」ということです。

 最近はジェンダーフリーということで、性別を前提に言うのは問題がありますし、女優さんにも色々なタイプの方がいるわけで物事を一様に言うことには常にリスクがありますが、ここではあくまでわかりやすく、俗なイメージということをお断りさせていただきますと、、

 

 女優さんのイメージというと、気が強い、わがまま、自分中心、という感じですが、まず自我を出して生きる、ということがまず必要だ、ということです。

 それができた上で、相手のことを思いやるとか、客観的に捉えてみる、ということはありますが、最初から、自分にも非があると考える、相手のことを思いやる、客観的に捉えてみる、といったことでは、自己肯定感など身につくはずもありません。

 つねに、まずは自分が大事にされて当然だ、がすべての起点。

 

 

 これは決して突飛な考えではありません、なぜなら、赤ん坊っていうのはそもそもそうだったはずです。
 大切に扱われることを求めている。大切にされることを土台にすることが「愛着」というものですから。

 

 上司に怒られたら、すいませんといいながらも、

 「なによ、なんでそんなことを言われないといけないのよ」 と考える。
  
 批判されても、
 「私は悪くないわよ」と考える
 
 無下にされたら、
 「もっと大切に扱いなさいよ。誰だと思ってんのよ」と考える。

 

 

 自己肯定感、自尊心って、本来こういうものです。

 自我はすべての原点。
 
 自我を原材料として、社会的動物として成熟していくのが人間です。

 その順番を経た人が、人格者ね、あのひとは柔らかいね、協調性があるね、仕事ができるね、という人であって、その逆ではない、ということです。

 順番を逆にすると、あの人は周りのことを考えていないとか、真逆のことを言われて、人格を否定されて混乱することになるのです。

 
 こうしたことも、暗黙のしくみ と言えるかもしれません。
 

 

 

 amazonでこの本を購入する →

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について