トラウマを負った人の特徴として、「過剰な客観性」があるということは、これまでもご紹介してまいりました。
参考→「過剰な客観性」
「客観」というものはとても曲者で、当たり前ですが、「客観」などというものはこの世には存在しません。
例えば、なにかデータを見て判断する、という場合も、最後にそのデータを受け取るのは「主観」です。
そのデータが生成される過程にも必ず主観が入り込んでいます。
どの数字や事実をどのように加工するのか?どの基準だったら良い‐悪いとするのか?などすべて主観が入っています。
神様がいて判定を下してくれるわけではないのですから、人間の主観しかこの世には存在しないのです。
そうした場合に、トラウマを負った人の頭の中にある「客観的でなければ」というのは、実はかなりおかしな考え、感覚になるのです。
主観、イコール「自分の判断」は間違っている、あるいは劣っている、または、容易に独り善がりに陥ってしまう、という考えが土台にあり、そうした考えを元に、”客観なるもの”を常に意識しようとするのです。
しかし、そこで意識する客観とは、真の客観でもなんでもなく、自分の身近な「他者の主観を忖度したもの」でしかありません。
つまり、常に客観的であろうとする場合には、自分というものが「他人の主観」に占領されるような自体になり、自分の感覚や考えが失われてしまうのです。
無意識に「バランスを取らなければ」「(自分が嫌いな親にも)いいところもある。そうは言っても育ててくれたり、愛情もあったのも確かだ」みたいな考えは「他人の主観」です。
では、自分の感覚を持つためにはどうすればいいのか?といえば、「自分の主観を極める」しかありません。
その際の自分の主観とは、けっして「洗練されて立派な判断能力」のことではありません。
無邪気さ、わけのわからなさ、といったものを肯定した先のものでしかありません。
子どもがグズグズしていて、分けのわからない状態もある程度は親から受け入れられたり、わがままも許容されることがあることで、愛着は安定します。
わがままさこそ、自分の判断の土台となります。間違ってもいいし、失敗してもいいから自分で判断した経験こそが大切。
参考→「自分の弱さ、わけのわからなさ~他者向けの説明、理屈から自由になる」
そのうえで、徐々に主観は等身大の自己へと昇華していきます。
一方で、「きちんと自分を律する」、「洗練されて立派な判断能力」といったことが「自分の主観」と捉えてしまうと、結局それは「自分の主観」でもなんでもなく、それを望む「親の主観」になってしまい、努力して実現した果に待っているのは自分が失われて、「他人の主観の植民地になった自分」だけが残ってしまうのです。
そして、しゃべる言葉もなにも、他人の主観、価値観でしかなくなり、でも、発話、発声しているのは自分だから、そのことに気が付かずに、ずっと人生を過ごしてしまうようなことが生じるのです。
借りてきたパーツで話をしたり、相手に合わせて間を埋めるような話し方になったり、声が揺れたり、声に重心がなくなったり、過度に抽象的になったり、俗な知識で解釈したり、極端になると、壊れたラジオのようにずーっとしゃべりっぱなしになるなんてこともあります。
「自己」を陶冶する、というのは昔(古典の時代)からテーマになってきたことですので、なかなか深い問題です。
トラウマは「自己の喪失」を引き起こすこともあり、それを問題にできる契機を、一般の人よりも強く提供してくれている、と言えるかもしれません。
みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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