これまでの記事で見てきましたように、私たちがこの社会と生き生きと関わるためには、主体性を持って向き合うことが必要になります。
言い換えると“私は~”で生きる。 「自分」というIDでログインすることが必須になります。
(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」
この“私は~”というものを健全に出せば出すほど、愛着的世界に入り、世の中はこちらに優しく関わってくれます。反対に、“私は~”を隠して、回避すればするほど生きづらいものになってきます。
主権を奪われて、他人の価値観で、他人の言葉で生きていくようになってしまうからです。
(参考)→「「私(自分)」がない!」
自分らしく生きていくためには「自分」のIDでログインする。“私は~”というものを表に開示していくということが求められます。
ただ、多くの場合、そこには強い恐怖感がつきまといます。
“私は~”を表に出したら、他人から攻撃される、否定される。あと、自分が独りよがりになってしまうのでは、といった不安です。過去に失敗してきた苦い思い出が蘇ってきます。
そのために、“私は~”は殺して、理想的な人間を目指すニセ成熟状態となってしまうのです。
スピリチュアルなもので回避したりすることはもちろん、“私は~”を回避するというのは、結果として他者に依存することになります。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」
記憶では、今までの人生において“私は~”を出したから人から攻撃されたと捉えていますが、よくよく検証してみるとその反対だったりします。
例えば親とか周りから理不尽に怒られたり、感情をぶつけられたりする場合も、相手はそれをローカルルールとして成立させるために「あなただから」と「あなたに問題があるから」因縁をつけることがよくあります。
ただ、理不尽なことをされたり、感情的にされているのも嫌ですが、相手を支配するためには、自分の言動を理屈でコーティングしないと成り立ちません。
ローカルルールは、相手に「自分が間違っている」と思わせて完結するという性質があります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
理不尽を受けた側もローカルルールに巻き込まれて、「自分はおかしい」「“私は~”を出すと攻撃される」「自分だからだめなんだ・・」というふうに捉えてしまいます。
そうすると、“私は~”を奥へと引っ込める。“私は~”を回避するということが身につくようになります。
「私は~」を出すことを回避することで、生育の過程で内面化した他者の価値観が前面に出てくるようになります。
特に他者のローカルルールが前に出てくる。
※解離の方は、父や母など強くハラスメントを仕掛けてきた方を内面化しているのため、父母と同じ否定的な言葉を発するようにもなります。
(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?」
ローカルルールは自他の区別を越境するようにして「こうあるべき」「こうあるはず」というふうになりがちです。“私は~”というものを脇においた言動になります。
(参考)→「ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す」
あるいは、自己不全感を癒やすために躁的になったり、自我肥大したように自分をアピールするような言動となることもよくあります。
その言動が他者の違和感を生みますから、さらに「おかしい」と指摘されるようになります。
本人は、自分が喋ったり行動したりしているため、まさか「私は~」を脇においているとは思いません。
むしろ“私は~”を積極的に出して行動していると考えていますから、「おかしい」と指摘されると「“私は~”を表に出したからこうなった」と、回避を強化するようになります。
さらに“私は~”を奥へと引っ込めるようになるのです。
「自分のIDでログインする、といっても今まで「私」を出したら嫌われていたし、さんざん否定されて嫌な思いをしてきたから、それはできない」というのは、“私は~”を出すどころか、反対に“私は~”を回避する言動を取らされていたために起きていたのです。
“私は~”を出すと否定される、というのは誤った強いられた条件づけだったわけです。
本来“私は~”を出せば出すほど、自他の区別はつき、他人への侵害、他者からの侵害はなくなるものです。
なぜなら、「私は~と思います」「私は~と感じます」といっている限りは、他者からも「あなたはそうなのね(私とは別)」で終わるからです。
自他それぞれが適度に区切られた中で「つきあう」ことができるからです。
(参考)→「「私は~」というと、社会とつながることができる。」
しかし、“私は~”がなくなって、「人間全般」として言動するようになると、真逆となります。
「人としてこうあるべきでしょ?」ということから言動するため、他者には侵食的で強い違和感、反発を持たれます。
他人の言動に対してもイライラが止まらなくなります。
本当にあるべき行動をしてくれないし、こちらは“私は~”を抑えて我慢してがんばっているのに察してくれないという不満が湧き上がってくるのです。
さらに、人とも馴染めず生きづらくなってしまうのです。
(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる」
“私は~”を出すことが問題の根源と思い込まされ、“私は~”を抑える方向に努力をするのか?
“私は~”を出すことが解決の道と知り、“私は~”を出す方向に行くのか?
全く真逆ですが、この迷子になっているかのような状態になっている方はとても多いです。
というか、この迷子自体が生きづらさの本質といってもいいかもしれません。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」
ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示がずっと効いてしまっているようです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」
「“私は~”を出したら嫌な目に合う」という壁を越えることは、愛着を回復するためにも、自分の人生を生きるためにも一大ポイントといえます。
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