ローカルルール(偽ルール)とは何か?~私たちを苦しめる関係の構造

 

 臨床の現場にかかわっていると、相談者を長く苦しめ続けている悩みや生きづらさの奥に、共通した構造が見えてくることがあります。

 

 私は、トラウマ臨床を専門とする公認心理師として、『発達性トラウマ 生きづらさの正体』などの書籍で、そうした臨床の知見をまとめてきました。
このブログでは、現場で見えてきた構造を、できるだけわかりやすくお伝えしいます。

今回は、私たちの生きづらさの核にある「ローカルルール(偽ルール)」という構造について解説します。

 

・しつこい生きづらさ、悩み

 

 「鬱々とした気持ちが晴れない」

 「なぜか自信がない」

 「自分が気を遣って、どうしても下手に出てしまう」

 「人間関係で苦手な人がいて困っている」

 など

 こうしたお悩みはよくお伺いするご相談のテーマです。
 読者の皆様も同じようなお悩みでお困りの方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 もちろん、カウンセリングに取り組むことで様々な症状はよくなっていくのですが、なぜか根本のところの生きづらさがなかなか晴れないというケースはあります。

 ご本人は何年も苦しんでおられることが珍しくありません。

 どうして長く苦しみ続けるのでしょうか?
 実はそれには構造があります。それが今回のテーマである「ローカルルール(偽ルール)」の存在です。

 

 

・ローカルルール(偽ルール)とは何か?

 

 ローカルルールとは、規範や常識といったもっともらしい理屈を付けて他者に押し付けられる「不全感」のことを言います。

 一見もっともらしく見えますが、中身は個人の不全感でしかありません。

 

 ここでいう不全感とは、
・自分の存在が承認されていない感覚
・愛されていない感覚
・自分が否定されている感覚

などを指します。

愛着不安やトラウマ、短期的にはストレスなどによって生じます。
「I am not OK」と感じられている状態、と言えばわかりやすいかもしれません。

(参考)→「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状

    →「「愛着障害(アタッチメント障害)」とは何か?その特徴と症状

 

 私たちは成長過程で、親など他者から適切な関りを受け、自分を十分に認められ、安心安全感を感じられることが必要ですが、マルトリートメント(不適切な養育)や家族の不和・機能不全、学校でのいじめなどによってそれが十分になされないと私たちは強い不全感を抱えてしまうようになります。

 こうして抱えた不全感(「I am not OK」)の苦しみは大きく、適切なケアの機会がなければ、個人で抱えることは困難です。
その結果、多くの場合は他者を巻き込むことでかりそめの癒しを得ようとします(心身の不調や、それを解消するために依存症として問題化する場合もあります)。

 それが、他者に「You are not OK」というメッセージを飲み込ませることです。

 本来であれば、適切な関りやケアや自己の研鑽を通じて「I am OK」の状態を作り出すことが必要ですが、それがかなわないとき、他者を「You are not OK」と位置づけることで、一時的に自分を「I am OK」の側に置こうとするのです。

 

 その際に、そのまま不全感をぶつけては、自分がおかしな人間扱いされてしまいますし、相手も受け取るはずもありません。
そのため、
・「これはルールだ」
・「これは常識だ」
・「お前がおかしい」
といった理屈で、表面をコーティングすることになります。

 見た目はもっともらしい理屈ですが、中身は毒(不全感)です。
いわば“毒饅頭”のようなもの、飲み込まされた相手はその毒(他者の不全感)を抱えて長く苦しむことになります。

 不全感には、かつて自分が支配的な関係性を強いられてきた苦しみが含まれていることも多く、その反転として、相手を支配し(支配欲を満たし)、上下関係を作ろうとするケースも少なくありません。

 ローカルルール(偽ルール)とは、一時的な不全感の発散のみならず、飲み込んだ相手を自らの下位に置き、支配する関係性を作り出すことでもあるのです。
 

 こうしたことが半ば無意識におこなわれています。
 これがローカルルール(偽ルール)という現象です。

 

・なぜ、私たちは、ローカルルールを飲み込んでしまうのか?~社会的な存在(ゾーオン・ポリティコン)としての私たち

 

「そんな不全感など受け取らなければよいではないか」
と思われるかもしれません。しかし、それは容易ではありません。

 理由の一つは、
私たち人間が社会的な存在(ゾーオン・ポリティコン)であることにあります。

 人は社会的存在として、規範に従い、他者との関係を維持しようとします。
これは社会性の根幹にあるものです。

 そのため、「これはルールだ」「これは常識だ」として提示されるものにとても弱いのです。
 

 それを否定すれば、自分のほうが「おかしな人間」だと扱われかねません。
もっともらしい理屈を否定するには、強い対抗理由や、関係性が壊れる覚悟が必要になります。

 結果として、違和感を覚えながらも、表面の理屈を真に受け、ローカルルールを飲み込んでしまうのです。

 

 

・行動レベルのミスを口実にする

 ローカルルールを飲み込ませやすくするために、行動レベルでのミスや落ち度が利用されることもよくあります。

 例えば、
 些細な業務上のミスをタテに、指示・指導だとして、上司が部下などに対して一方的な価値観や方法を押し付ける、感情(不全感)をぶつけるといったようなことはその代表例です。自分のミスをあげつらわれているため、部下は指摘を拒否しにくくなります。

 また、仕事においては上司の指示に従うべきという規範もありますから、どこかおかしいとおもいながらも、飲み込まざるを得ません。

 しかし、よくよく見れば、結局のところは、それは上司の不全感でしかありません。

 業務上のミスは誰にでも起こりますし、仕組みの問題であることも少なくありません。それをわざわざ取り上げ、不全感解消と支配の口実にしているのです。

 

 学校などで生じるいじめでもそうです。
 同調的で閉鎖的な雰囲気の中、例えば運動ができない、ノリが合わないといった違いを理由に、「お前は変だ」「お前はダメだ」と位置づけ、
理不尽を飲み込ませることが起こります。
 
 さらに、いじめの場合は、教師や保護者もローカルルールの理屈に巻き込まれるということは珍しくありません。
 (「変わった子だからいじめられても当然だ」というようなように)

 
 こうして、加害者は、相手にダメ出しをするという因縁を付けて、自分を正義の位置に置き、相手を罰するように自分の不全感を飲み込ませて、支配し、かりそめに「I am OK」な状態を作り出して、自分の不全感を癒そうとするのです。
 
 スクールカーストという言葉があるように、傍観している側も下位の人間が生まれることで、自らをカースト上位に位置付け、「I am OK」を感じることができるというわけです。

 

 

・家族でも行われている~不全感は世代を超えて連鎖する

 

 家庭の中でもこうしたことは行われています。

 愛着不安やトラウマは連鎖するといわれるように、そもそも親自身も不全感を抱えているというケースは少なくありません。

 そうした場合に、子どもに対して、しつけや教育と称して不全感を飲み込ませてしまうということがあります。

 特に子どもが見せるわがままさや無邪気さとは、自身が認めてもらえずに、ダメだとされた自分の姿そのものとして親には映ります。
自分はそれを否定され、そして、適応するために努力してきた、大人が望むように姿になろうとしてきた、ということから、子どもの無邪気な姿に触れた時に強い恐れや不快感、拒否感が生じるのです。

 

 ただえさえ子育てには強いストレスがかかりますが、親自身が抱える不全感が刺激されると平静でいることは難しく、その不快感や拒絶の強い衝動を抑えるために子どもに対してローカルルールを飲み込ませるというようなことを行ってしまうのです。

 あるいは、もっと能動的に、親が子どもに干渉、支配するといったケースもあります。

 親の不安やコンプレックスや自分の人生の代償として、子どもに塾や習い事、将来の職業を強いるなどというのも、まさにローカルルールであることがわかります。
(「あなたのため」だとして表面をコーティングしていますが、結局は親の不全感でしかありません。)

 ローカルルールを飲み込まされた子どもは、長くそのことに気が付かず、成長してからそれが心身の不調として現れるといったこともありますし、一見問題なさそうに見えても、ローカルルールに適応した「ニセモノの自分」として生きづらさを抱えたまま生きるということもあります。

 

 

・真面目な人ほど「内面化」してしまう~社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)

 

 ローカルルールの恐ろしいところは、被害者がそれを「自分の問題だ」と信じ込んでしまう(「内面化」する)点にあります。
 特に、子どもの頃に親からローカルルールを押し付けられた場合、子どもは親を愛したい、愛されたいという社会性や善性から、自らが否定されることを「自分が悪い子だから怒られるんだ」と誤学習してしまいます。こうした社会性を悪用されることを「社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)」と呼びます。

 大人になってもこの影響は続き、「自分はダメな人間だ」という感覚(自己否定感)や、「人の顔色をうかがわなければならない」という過剰適応、過緊張、自分の外側に正しさの基準が存在するという感覚から自信のなさ、自己の喪失といったトラウマ症状として残ります。その結果、職場など新たな環境でも、再びローカルルールを押し付けてくる支配的な人に巻き込まれやすくなってしまうのです。

 

【図解:ローカルルールの構造】

 

 

・ローカルルールという視点がもたらすもの~ハラスメントなど日常の理不尽の構造や対策が明らかに

 

 ここまでローカルルールについて解説してまいりましたが、ローカルルールという視点を持ってみると、悩みや生きづらさはもちろんですが、私たちが日常で感じる理不尽さや違和感の構造がよくわかります。

 例えば、社会で問題となっている「ハラスメント」の構造もより深く知ることができます。
 多くの場合ハラスメントは労務や行政のガイドラインといった表層的な定義ばかりが取りざたされますが、関係性や心理的な背景がわかれば、対策も洗練されていきます。上司がハラスメントとされてしまうことを恐れるあまり生じるホワイトハラスメントといったおかしな現象も防ぐことができます。

 

 別の例では、いわゆる、ブラック職場や、不祥事を起こす会社の風土などもローカルルールという視点を持ってみるとその理由が見えてきます。会社組織の場合は、そもそも創業者やトップの持つ不全感がカルチャーとしてローカルルールとして浸透しているのです。

 上記以外でも、私たちは、ハラスメントとまでは言い切れないけども、なぜかうまく言語化できない、腑に落ちないけど人間関係を維持するために飲み込んでしまっているようなこともよくあります。そうしたことにも光を当てていくこともできます。

 今回解説したローカルルール(偽ルール)のように、関係性や心理の“構造”を明らかにすることで、従来は言語化されてこなかった「現代社会の病理を解き明かす新しい視点」を私たちは手にすることができるのです。その視点は、個人が抱える生きづらさを理解し直す手がかりにもなります。

 

 

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ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 「愛」などもそうですが、私たちにとってサイズに合わない言葉や概念は、私たちを機能不全に陥れます。

 
 人間にとってスペックオーバーである「愛」という概念を持ち出すと、愛が得られないことに絶望したり、応えてくれない相手に憎しみを感じたり、個として完成しようとするあまりに孤独に陥ったり、ということが起こります。

(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 「責任」も同様に私たちにはスペックオーバーの観念の一つ。

 

 一般に言われる意味での「責任が果たされていない状態」とは、責任がないのではなく、「責任」という身の丈に合わないものを当てはめた結果、逆説的に機能不全になってしまっていると考えられます。

 

 

 本来、私たちに必要なのは、それぞれ適切な「役割(位置)」です。

 
 以前、経営学者のドラッカーの言葉を紹介しましたが、
 「個人にとって、社会的な位置と役割がなければ、社会は存在しないも同然である。(中略)個人と社会との間には、機能上明確な関係が存在しなければならない。」と述べています。
 反対に、「役割」が失われると、社会の中で存在していないも同然となる。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 広く言えば、失業など「役割」を奪うハプニングは、社会に多くありますが、私たちの日常にも私たちの「役割」を奪ってしまうものは存在する。

 対人関係などで浴びる嫉妬や支配、それらが化けたローカルルールといったものはその代表格。

 

 ローカルルールとは、常識のフリをした私情が相手を支配しようとすること。

 いわゆる支配というのは、身の丈に合わない概念や言葉を持ってきて、私たちの「役割」を奪い去ってしまうことです。

 

 「責任」やそれにともない「罪悪感」というのは最もよく用いられる支配の道具の一つです。

 

 

 

 「責任」という言葉が過剰に用いられると、「役割」は失われて機能不全になってしまう。

 以前の記事で、「カウンセラーも免責が必要なようです。」と書きました。カウンセラーも責任から自由な状況のほうが、不思議なことに効果が出やすいことがわかってきている。
 統合失調症でさえ短期間で治る、という報告があるくらい。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 なぜ、効果が出やすいのか? については、よくわかっていませんでしたが、
「責任」ということを深めて考えていくと、その謎に迫ることができるかもしれない。
 
 
例えば、カウンセラーの「役割(機能)」というのは、本来は、

 ・そこに存在すること(それによって、クライアントは「安心安全」を得る)
 ・クライアントを苦しめているローカルルールからクライアントを切り離し、本来の社会とつなげる。(それによって「関係」を回復する)
 ・上の二つための入口、媒介となる。
  ※心理療法は、これらを助けるための単なる道具。
 
といったことが考えられる。

 しかし、

 ・(お金をいただいているからには)早く良くしなければならない
 ・難しいクライアントを怒らせてはならない

 ・クライアントに責められる
 ・首尾よく、改善しなかった場合にクレームになると困る
 ・医師やスーパーバイザーの評価が気になる

 といった「責任」がのしかかってくると
 「機能不全」を起こし始め、徐々に「役割」が果たせなくなってしまう。

 

 
 反対に、うまくいっているケースというのは、クライアントとの「関係」が良いことから、「役割(機能)」が発揮される。

 心理療法自体の効果というのは、あくまで「関係」とその先にある「役割」発揮を助けるきっかけでしかないのかもしれない。

 実際に、よく知られた研究では、
 治療効果に与える、心理療法の割合は、15%程度でしかないとされている。

 クライアントとの「関係」のほうがずっと大事とされる。
 

 

 それは「関係」によって、カウンセリングの「役割(機能)」が発揮されることを示している。

 

 

 境界性パーソナリティ障害など
 かんしゃくを起こしたりして治療者を責める他責的なクライアントが「難しい」のは、治療関係に「責任」の呪縛をかけてしまうから。

 治療者を非難したり、振り回したりして、「責任」のプレッシャーをかければかけるほど、反比例して効果は下がる。
 だから、なかなか良くならない。

 そのクライアントも、実は本心ではなく、養育環境での呪縛でそのようにさせられているだけ。
 「I’m OK」を得るために、「You’r NOT OK」として相手に自分にのしかかっている「責任」を渡そうとして他責的になっている。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 このように考えると、「無責任(免責された状態)」をいかに作り出すかは、とても大切。

 

 “名人”と呼ばれるような名医は、治療に行き詰まると、
 「う~ん、なぜよくならないかわからないね~~。なぜだろう?」とクライアントにわざと正直に白状したりする。

 すると、治療の膠着状態が解かれて難しいケースが不思議なことに前進することがあるという。
 「責任」の呪縛、機能不全に陥るのをうまく回避して、「役割(機能)」が発揮されるようにしていると考えられる。

 

 「無責任」というのは、実はとても大切。

 

 
 以上のことは、治療者側を例にしていますが、
 「無責任(役割・機能を発揮する)」の効果は、私たちすべてに当てはまります。

 
 私たちがよりよく生きていくためには、
 「責任」は棄てて、「役割」を発揮させることが必要。

 生きづらさとは、「過責任」がもたらしたものであることは、社会学などでも指摘されている(関係性の個人化)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 「責任」といったビックワードはかくも、私たちを機能不全に陥らせてしまうもの。

 

 私たちは養育環境など、これまで生きてくる中で、「責任」を過剰に背負って生きている。それで生きづらくなり、力を発揮できない。

 例えば、

 「両親が不機嫌なのは自分がいい子ではなかったからだ(自分の責任)」

 「友達を怒らせたのは自分の存在がいけないからだ(自分の責任)」

 「上司が期限が悪いのは、自分がどんくさいからだ(自分の責任)」

これらは、すべて「責任」というニセモノ。

 

 ただ、「責任」(ニセの責任)が捨てれないのは、それを捨ててしまったら、自分が堕落してしまうかも、といった恐怖があるから。

 
 実はそれも「責任」がもたらす幻想。

 「責任」を捨てて「無責任」になってしまったら、いい加減で無秩序になるのではありません。むしろ、本来の「役割(機能)」が発揮されて、社会とつながることができる。

 

 
 例えば、すごくプレッシャーのかかる仕事で、追い詰められて追い詰められてうまくいかず、最後に開き直ったらうまくいった。
というのはよく聞く話です。

 スポーツ選手など、試合に勝つためにストイックに責任を感じて煮詰まっていると、あるときコーチなどから、「もっと楽しんだら?」といわれて、ハッとなって、本来のパフォーマンスが発揮される、
というのもよくあります。

 

 

 「責任」があるほうが良い、と思っていますが、「愛」とおなじくそれはまったくの幻想で、本当は、「責任」こそが力を奪っている。

 

 本来の意味で「責任を果たす」とか「責任を取る」というのは、「公的な役割」を意識して、没頭すること。「責任」なんていう概念を持ち出す必要はどこにもない。

 

 逆に、「責任」というのはプライベートな人格にまで侵食して責任を問おうとする性質から、「公的な役割」に集中することを阻み、公私をあいまいにする。
 仕事の失敗が、あたかも自分の存在をすべて消し去るかのような恐怖を与えてきます。
 公私があいまいな状況というのは私たちをおかしくする。本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 こう考えると、私たちが感じる「責任」とは、実はローカルルールの一種であることが見えてくる。あらゆる「責任」それ自体がニセモノ。

 

 

 事実、「責任」といったものを感じているときと、「役割」を感じているとき(例えば仕事に没頭しているときのすがすがしさ)とを身体感覚で比べてみるとその違いがわかります。
 

 「責任」の気持ち悪さ。居心地の悪さたるやない。

 
 反対に、「役割(機能)」の場合はとても心地が良い。

 よく、「あの人はなぜ、あのように状況で役割を果たせたのだろう?」と思うようなケースがありますが、(消防士とか、乗務員とかが、危険を顧みず人を助けたり) あれは、「役割」を果たす感覚なのかもしれない。

 

 反対に、「なぜ、あの人は責任逃れのような卑劣な行為をしたのか?」という場合は、「責任」にとらわれた結果の行為なのかもしれない。

 

 

 私たちの生きづらさの大きな原因の一つは「責任」という、一見大切だけど、まったくのニセモノの概念にありそう。

 
 日常で、もし「責任」を感じたら、「そんなもの要らない」と完全に捨ててみる。

「無責任になって、いい加減な人になるのでは?」と思ったら、それも捨ててみる。大丈夫、心配いりません。

「無責任」になることで、本来の「役割」が浮き上がって来ますから。

 「役割」の心地よさ、機能する状態のすがすがしさを体感してみる。

 

 呪縛が取れた身体の軽さ、本当の意味での社会とのつながりの回復、湧き上がってくる自尊心、信頼感といったものを感じることができます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 “責任”にはニセモノが多い。
その蓄積が、私たちの苦の根源にあるものだ、としてきました。

 ニセモノがあるのであれば、ホンモノの責任があるのか?ということについて、ですが、便宜的に、ホンモノがあるということはできます。

 本物の責任だけを背負って、そうではないものは背負わないことがポイントといえます。

 

 ただ、いろいろと調べてみると、“責任”という概念は、とても曖昧で、納まりが悪い言葉であることが見えてきます。

 哲学とか、法学とかで責任ということについていくつか研究されているようですが、どうやらイマイチピンとくるものがない。

 

 『“責任”はだれにあるのか』という本を書いた国士舘大学客員教授の小浜逸郎氏は、「本書を書き終えた感想をひとことで率直に言うと、「やっぱり責任て、なんだかよくわからない概念だなあ」というところです。」
 と述べています。

 

 

 なぜ、よくわからないか、というと、
簡単に言えば、責任の主体と、問われる責任そのものとがどう理屈をつけても一致しない、ということ。 

 

 責任とは、自由意志を持つ主体が、その行為の結果について問われる、ということです。

 しかし、人間ってそもそも自由意志など持っていない。自由意志を持っている、といってもあくまでそれは理想の話。
 実際の人間は、外的、内的環境の影響を受ける存在で、否応なしに追い込まれるように反応しているだけ。

 

 哲学者のスピノザも述べていますが、人間には自由意志などなく、行為の原因をたどると環境に還元されてしまう。

 

 

 今日朝ごはんになぜパンを食べたか、といえば、前に見たTV番組のせいか、メーカーのマーケティングのせい、スーパーの価格決定のせい、親の教育のせい、意図しないホルモンバランスの乱れのせいか、政府の政策のせいか・・・
 など原因はきりがありません。
 何にも影響されず、自由意志で選んだ、とは言えない。
 

 「いやいや、そんなへ理屈を言って。パンは自分で選んだでしょ」と思うかもしれませんが、自分の行動を説明できないのは、私たちがよく知っている。
 買いたくない買い物をしたり、やりたくないことをしてしまったり、自分の行動で説明できることのほうが少ない。

 

 街頭でいきなりインタビューを受けて、「その服はなぜ買ったのですか?」と聞かれたら、スッキリ答えることはできない。
 「たまたま通りかかって」とか、「バーゲンをしてて安かったから」とか、
 「いや、デザインが気に入ったので」と、それはわかりやすい理由を探して言うだけ。本当の原因とは言えない。

 

 マーケティングなどの研究では、そうした答えは本当の答えではなく、真に受けると痛い目に合うことはよく知られている。
 本当の理由はもっと奥にあるけど、当人は気が付けない。第三者もそれを導くためには、正しく設計された調査と統計的な手法が必要になる。
 その際明らかにするのは、自由意志というものではなくて、環境の要因とか、無意識に潜む因子といったものです。

 

 こうしたことを考えると、人間には完全な自由意志などはないし、そこから導き出される“責任”という概念はまったく似合わない。

(パリ大学の小坂井敏晶教授も、『責任という虚構』という本の中で責任ということが人間にとってふさわしくないことをまとめています。)

 

 

 実際、“責任”という概念を持ち出して議論すると紛糾しています。
 納得できず、納まりが悪いので、いつまでたっても結論が収束しない。

 犯罪といったような明らかにその人が起こした問題であっても“責任”という言葉で語り始めると、居心地が悪くなってくる。

 例えば、ある国でマイノリティの人たちは犯罪率が高い、といったときに、では、犯罪はその人たちの責任か、といえば、そもそも構造的に貧しいから、教育水準が低いから、差別にさらされているか、となる。

 では、現場で起きた窃盗の責任はだれにあるの?と突き詰めていくと、訳が分からなくなってくるのです。

 『反省させると犯罪者になります』という本にもあるような理不尽さを人間は正しく感じるようになります。

 

 

 

 筆者は、“責任”という言葉は不要で、廃止してしまったほうが良いのではないか、と思っています。

 とっても扱いづらいし、納得性も低い。実用性も低い。なくても全然困らないからです。

 

 
 「責任っていう言葉がなくなったら、無責任な人が増えて困るのでは?」と思うかもしれません。 

 
 しかし、“責任”という言葉は、日本においては、実は明治になり外から入ってきた言葉です。

 それ以前は“責任”という言葉は現代でいう意味ではありませんでした。
 でも、困ることはなかった。  

 私たちが教科書なんかで習った「御恩と奉公」だとか、儒教の「仁」だとか、別の言葉が代わりにあったと考えられます。

 

 
 現代でいえば、「役割」という言葉がそれにあたるのかな、と思われます。

 

 使いにくい“責任”という言葉は廃止して、「役割」を用いたほうがよほどすっきりする。

 

 

 なぜかというと、これまで述べたように、“責任”というのはありえない自由意志と対になっていることから、そもそも範囲が広くなりすぎる性質があるため。

 
 “責任”はその範囲を制限していても、結局、「道義的な責任」といったようなものも含んで、当人の人格や存在そのものにまで浸透して、否定して消し去ろうとする傾向がある。

 
 “責任”が想定する自由意志とは環境も含んだ要素から成り立っているため、環境という自分ではコントロールできないものまで、自分のせいにされてしまうのです(社会学では、「関係性の個人化」といいます)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 だから、皆、“責任”という言葉には理不尽さを感じて、しり込みをしてしまうし、それが私たちを苦しめる。

 

 あるいは、本来、 責任のない人まで責任を感じて、「ニセの責任」引き受けてしまう、という不思議な現象も起きてしまう。

 
 例えば、子どもが、夫婦の不和の原因を、自分の責任だと思う、といったようなこと。そして、それがおかしいことだと気が付きにくい。

 

 

 しかし、「役割」だったらどうでしょうか? 
 

 親の不和を仲裁したり、気にかけることが子どもの「役割」とまでは、ふつうは思えない。もし、アダルトチルドレン状態でそのように錯覚していても、落ち着いて眺めれば、「それは自分の役割ではない」と気が付きやすい。

 

 「役割」にはあいまいさが少なく、範囲も限定されやすい。
 人格や道義的なことまで広がることもない。
 役割は、自由意志などといった過大な前提がないからです。

 

 職場でも、“責任”というと、道義的、人格的なことも含めてどこまでも広がっていくようなところがありますが、「役割」というとはっきりします。
 「それは私の役割ではありません」といえます。
 反対に、“責任”といわれると、「責任逃れ」という言葉の悪い印象から
 「私の仕事じゃないけど、道義的には申し訳なく思わなくては・・・」となってしまう。
 
 
 「自分のことじゃなくても、人としては責任を感じるのが正しいんじゃないのか!」なんて、怒る教師や上司もいたりする。悪用する人も出てくる。
  まさに、「関係性の個人化」を表すような言葉です。

 

  実は「罪悪感」という言葉には、“責任”が裏に潜んでいる。
 “責任”が潜んだ「罪悪感」には終わりがない。無限に広がって、終わりなく自分を責めてくる感じがあります。

 

 でも反対に「役割」であればどうか、といえば、そうしたことが少ない。限定的です。
  

 対人関係で、「罪悪感を植え付けてくる」ような人がいても、“責任”という観念を当たり前としていると、「私が悪いのかも」「道義的に責任を引き受けなければ・・」と考えてしまいますが、「役割」といえば、「相手を気分良くさせるのは私の“役割”ではない」とピンときます。立て直しやすくなる。
 

 

 また、“責任”は無限定であいまいなために、反対に具体的な機能が果たされていない場合にも、そのことが気づかれにくい。

 例えば、「親の責任」というと、ほとんどの親は「親の責任を果たしている」と漠然と答えたり、子どもを思っていれば、責任を果たしたことになる、と自己愛的にとらえる人も出てきます。
 しかし、具体的に「ちゃんと役割を果たしているか?」と問われると、怪しくなってくる。

 「役割」とは、機能不全家族でいう、「機能」という言葉に近いですが、具体的であるため、何が欠けていて、何が欠けていないかが確認しやすい。
 “責任”だと、ふわっとして、訳が分からなくなってくる。

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 「役割」というのは、物理的な量感、身体感覚を伴った言葉であるため、それが実際背負える量に対して、過大であることも感覚的にわかりやすい。具体的で、等身大で、個人が何をしなければいけないかが明確。場によって生じ、場を離れればなくなる。時間が経てば自然となくなります。

 

 “責任”というと、とても自己愛的で、空想的な言葉で、自我肥大するかのように、過大なものを背負っていても、違和感なく受け取ってしまう。またプライベートとパブリックとがあいまいにもなりがち。場が変わってもずっと呪いのようについてくるような概念。時間がたっても消えにくい。
 

 

 「法律に違反したという場合は?」というと、それは法令順守という市民の「役割」を果たさなかったということで、それに付随した罰則が来る、という理解になります。

 

 
 このように考えると、“責任”なんて言葉はまったくいらない(明治以前にはなくても困らなかったのですから)。
 「愛」と同じで、人間にはまったくサイズが合わない。おそらく、それは、神様しか使えない言葉です。

 (参考)→なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 私達の世の中には、人間の身の丈に合わないために、私達を苦しめる結果となる言葉、概念がいくつかあり、“責任”もその一つ。
 私たちはよりよく生きるためには、必ず等身大の身体感覚からスタートする必要があります。
 

 

 私たちが生きていく上では、“責任”という言葉は棄て、「役割」を採用することが大切。 

 

 “責任”という言葉が浮かんで来たら、「役割」という言葉に変換して、そして、「実際、今私の役割って何?」と確認すればいい。

 友達同士の付き合いなどの場面であれば、自分の「役割」などほとんどないことがわかる。
 「ゲシュタルトの祈り※」が、きれいごとじゃなくて、本当にそうだな、ということが実感できる。

 だから、「相手を不快にさせたかな?」なんて思いは全く浮かんで来ることがなくなります。

 

 「相手を気持ちよくさせるのは私の役割ではない」と。
 

 

 
 迷ったり罪悪感が湧きそうになったら、仕事でも、プライベートでも、自分の「役割」を確認する。
  
 
 そうすると、ニセの責任に振り回されることが少しずつなくなっていきます。

 

 

 ※ゲシュタルトの祈り  フリッツ・パールズがセッションの前に読み上げたとされる詩のこと

「われはわが事をなさん。汝は汝の事をなせ。わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。
 汝は汝、われはわれなり。されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。もし心通わざればそれもせんかたなし」

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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