最近報じられている「目黒5歳女児虐待死事件」では、女児が残したノートの“反省文”の悲痛な内容に、虐待死させた親に対する怒りや、政治、行政などの再発防止に向けての要望が寄せられているようです。
わずか5歳の子が、自分が悪いと思い込まされ、反省する様は本当に痛ましいものです。
この事件には、ハラスメント(虐待)の構造がよく表れています。
まず、ハラスメントは妥当な根拠なく偶然にやってくるということです。
(参考)→「理由を考えると、呪縛にかかる~ハラスメントは偶然に」
無垢な5歳の子に罪があるわけはなく、まさに「因縁をつける」というように、相手に罪を着せて、理不尽な行為の根拠をでっちあげます。
反省文の中に表れているように、自責の念を刷り込んでいます。
そのために、20個近い毎日やるべきことをルールとして設定して、守らない女児を“罰して”いたようです。
人間とはだれもが不完全ですから、毎日たくさんのルールを設定されれば、大人でも何らかの瑕疵が出るものです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの」
こうした事件を起こすような親でさえ根拠をでっちあげなければならないということからわかるように人間というのは自身の行動を正当化する理由を必要とする生き物ですし、実は、ハラスメント(虐待)というのは、暴言・暴力だけでは成り立ちません。
筆者が昔読んだ本の中で、ある評論家は、「殴る、というだけでは人は言うことを聞かない」といったようなことが書かれていました。
つまり、相手を支配、服従させるためには暴言・暴力という圧力だけではだめで、相手を精神的にコントロールする必要があります。
そのためには「罪悪感の植え付け」を行います。
罪悪感の植え付けには、根拠が必要になります。
勝手なローカルルールを都合よく設定して、それを破っているということを根拠に相手を責めることになります。
そして、自分はその場のルールをつかさどる「ニセ神様」としてふるまいます。
ハラスメント ≠ 暴言・暴力
ハラスメント = 暴言・暴力 + 罪悪感の植え付け
本来、ルールを設定できる権利はあるのは本物の神様だけで、私たち人間にとってのルールとはすべてが「なんちゃって」の便宜的な決め事でしかありません。
なんちゃっての決め事は、共同体の歴史の中でもまれることで多元性を担保した「常識」となります。
(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。」
一方、解離してニセ神様のようになった人間が都合よくこしらえたルールは、偏ったローカルルールに過ぎず、支配の道具として使われるものです。
虐待死した女児の家と同様のことは、それが形を変えたり、薄まった形で、会社や学校、ほかの家庭などでも見られます。
特に会社などは、ローカルルールのかたまりで、ちょっと油断すればハラスメントが生じます。
ハラスメントを受けている方がよくおっしゃるセリフは、
「私にも悪いところはあるんです/あるかもしれません」ということ。
今回の虐待死した女児の反省文の内容とどこやら似たこと(≒自分が悪い、ということ)をおっしゃるのです。
私たちが知らなければならないのは、
自分にも問題があるかも、ということを思わされること自体がハラスメントなのだということ
職場でも、家庭でも、恣意的にルールを設定して「お前は全然できていない」と(神ではなく)不完全なはずの“人”がいうことを、
真に受けて、「自分はできない人間だ」と思い込まされる。
昔、姑が隅のホコリをすくい取って「ここがまだ掃除できていない」と嫁をいびるのと同じようなこと。
嫁のことを思ってやった行為ではなく、その背景には嫉妬、支配欲、縄張り意識といった動物的な行動でしかありません。
自責感や、自信のなさを感じている方はたくさんいらっしゃいますが、
自身が当たり前と考えている自分を責める気持ち、自分がだめだという気持ちは、本当に根拠はあるのか?
根拠と思っているものは、人間が勝手に動かしたゴールポスト(ローカルルール)ではないのか?
因縁をつけられ、罰せられていただけではないか?
「いや、事実自分は、ダメな人間で、これまで失敗してきた。」という思っている方の自責感も、それは、今回不幸にも殺された女児の“反省文”に見られる刷り込まれた罪悪感と同じではないか?
どうやら、私たちは、根拠なく自分が悪いと思い込まされて、呪縛され、現在に至っているようです。
ただ、“呪縛”というと恐ろしく感じるものですが、よくよくみれば不完全な人間が作ったハリボテでしかない。
こうしたことを少し距離を取ってみるだけでも、呪縛は軽くなっていきます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か」
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