トラウマを負うと、手順や段階、多次元多要素並列という視点が抜ける

 

 前回の記事でも書きましたが、私たちは自我からスタートすることが必須になります。

 生きづらさを解消するとは、自我を滅却して、理想の何者かになるなんてことはありません。

 自我からスタートするということは、自分勝手な人になるのでは?と不安になってしまうのですが、そうではありません。

 自我を土台にして、成熟していった果てに、周りのことも考えて、ということは普通に身につきます。

決して、二者択一ではない。

 

 

 料理の手順と同じです。段階を分ければそれぞれはなんの困難もなく共存できます。

 最初は生々しい魚や肉も、レシピの手順を経て、美しく盛りつけされた料理になります。

 生の魚や肉を使うと美しい料理にならない、とは誰も考えません。

 しかし、トラウマを負うと、そうした手順を踏む、多次元、多要素並列ということが、なぜかありえないと感じてしまう。

 自我を出すと、自分勝手になる、とか、

 自我を出すと、他者に嫌われてしまう、とか、

 なぜ、こんな単純な考え方になってしまうのでしょうか?

 

 

 それは、トラウマというのは、理不尽なストレスに圧倒される中で
 他者のローカルルールを丸呑みしてしまう、ということがあるためです。

 結果として、すべてが多様性のない一元(単次元)的世界観になってしまう傾向があるためです。
 他者のローカルルールという帝国主義に征服されてしまうようになってしまう。

 単次元の価値観の住人となってしまうことで、ステップを踏んで自分を構築するという感覚や、人がそれぞれに異なる、ということもわからなくなってしまう。

 「わかるけど、そうはいっても、正しいか間違っているか二者択一でしょ?」「何が正しいかがわからないと私は見捨てられてしまうのよ」と感じてしまうのです。

 

 

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女優のように生きる

 

 自己肯定感という言葉を最近はよく耳にします。

 本もたくさん出ていますし、NHKの子供番組を見て驚いたのが、そこでも「自己肯定感」って言葉が出てきたことです。

 
 文字通り、自分を肯定し、自信を持つということですが、自己肯定感を持とうということを実践するときに間違ってしまうのが、綺麗にやろうとしてしまうこと。

 綺麗に実践しようとすると、多くの場合、ログイン、ではなくログアウトしてしまう方向に向かってしまいます。

 私がよくクライアントさんにアドバイスさせていただくのは、「女優のように生きる」ということです。

 最近はジェンダーフリーということで、性別を前提に言うのは問題がありますし、女優さんにも色々なタイプの方がいるわけで物事を一様に言うことには常にリスクがありますが、ここではあくまでわかりやすく、俗なイメージということをお断りさせていただきますと、、

 

 女優さんのイメージというと、気が強い、わがまま、自分中心、という感じですが、まず自我を出して生きる、ということがまず必要だ、ということです。

 それができた上で、相手のことを思いやるとか、客観的に捉えてみる、ということはありますが、最初から、自分にも非があると考える、相手のことを思いやる、客観的に捉えてみる、といったことでは、自己肯定感など身につくはずもありません。

 つねに、まずは自分が大事にされて当然だ、がすべての起点。

 

 

 これは決して突飛な考えではありません、なぜなら、赤ん坊っていうのはそもそもそうだったはずです。
 大切に扱われることを求めている。大切にされることを土台にすることが「愛着」というものですから。

 

 上司に怒られたら、すいませんといいながらも、

 「なによ、なんでそんなことを言われないといけないのよ」 と考える。
  
 批判されても、
 「私は悪くないわよ」と考える
 
 無下にされたら、
 「もっと大切に扱いなさいよ。誰だと思ってんのよ」と考える。

 

 

 自己肯定感、自尊心って、本来こういうものです。

 自我はすべての原点。
 
 自我を原材料として、社会的動物として成熟していくのが人間です。

 その順番を経た人が、人格者ね、あのひとは柔らかいね、協調性があるね、仕事ができるね、という人であって、その逆ではない、ということです。

 順番を逆にすると、あの人は周りのことを考えていないとか、真逆のことを言われて、人格を否定されて混乱することになるのです。

 
 こうしたことも、暗黙のしくみ と言えるかもしれません。
 

 

 

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小説家みたいな複雑な感情なんていらない

 

トラウマを負うと、自分の感情や考えをストレートに出せなくなります。

他者の負の感情を飲み込んでいます。

その感情もシンプルなものではなく、とてもねじれたものです。

 好きなものを好きとは言えない。
 嫌なものをシンプルに嫌とはいえない。

 不全感から発せられて、そこにもっともな理屈をつけている(≒ローカルルール)。
 
 

 自分の中のトラウマからくる、不安や恐れ、そんなものが言語化できずに、自分の中ではいろいろな理屈をつけている。
 

 それがとても深い思索のように感じている。

 しかし、うまく言語化できない。

 いざ、友人や知人に自分の苦しみを話してみても、思いの外言葉にできず「ふーん」とそっけなく返されたり、
 (全然わかってくれない!! 共感力がない! 深みがない! とイライラしたり)

 「そうなの。私の親が頑固でねー」なんて返されて、

 (あなたが言うみたいにそんな簡単なものではない。一緒にしないでくれ!! と怒ったり)

 

 

 残念ながら、トラウマを負った人の考えが深く、思索に富んでいるわけではありません。

 そして、友人や知人が浅く、無理解というわけでもありません。
 そっけない反応は健全なものだったりします。

 トラウマというのは、ねじれた他者の感情や考えを飲み込まされることであり、さらに、経験、体験については言語化できない。

 その結果、なにやら複雑な感情や思考が頭の中で渦巻いたりします。

 それは決して奥深さを表しているわけではなく、単なる不全感の症状でしかありません。
 
 

 なので、そこに共感をしてもなにも生まれません。
 周囲が「なんで、そんなに難しく考えるの? こう(シンプル)じゃないの?」という反応は正しい。

 

 

 小説家というのは、複雑な感情を言語にして描きますが、あれはあくまで職業として、エンターテイメントとして行っていること。
 (小説家の中には自身が不全感を抱えていたり、精神をすり減らしてしまう人もいるかも知れませんが)

 

 私たちは、哲学者や小説家みたいな複雑な感情を持つ必要はありません。

 
 熱いものに触ったら、熱い でよいし、
 冷たいものに触ったり、冷たい、でよい。

 シンプル・イズ・ベスト。

 複雑なものを作るのでも、シンプルの積み上げた先にありますから、最初から複雑にしていたら、積み上がるはずもありません。トラウマがもたらす積み上がらなさの要因の一つはここにもあるかもしれません。

 

 最初から複雑なねじれた感情を入れて、熱いけど冷たい とか、熱いけど、熱いといってはいけない、とか、そんなことをしていると、だんだん自分の感情も言葉も奪われていってしまうのです。

 これがまさにトラウマの状態。

 
 まず主語は常に「私は~」ではじめて、自分の感情や考えはシンプルにする。

 そして、「しかし~」とか、「ただ~」という接続詞をつかわない。
 特に家族の影響を受けている人には、これが癖になっている人はとても多い。
 
 

 本にも書かせていただきました「自分の文脈」を取り戻すためにも1人称で、短文で、常にシンプルに考えることはとても大事です。

 

 

 

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“常識”とはなにか?

 

 言葉というのはなかなかやっかいなもので、記号として用いられますので、同じ言葉を用いていても、実際に何を指すのかは異なることがあります。

 Aさんにとっての「ごはん」は、Bさんにとっての「ごはん」とは全く中身が異なる。

 Yさんにとっての「あそび」は、Jさんにとっての「あそび」とは全く中身が異なる。

 でも、「ごはん」とか「あそび」という記号は同じなので、同じことを指しているように感じてしまう。
 実際は全く違うのに。

 別の「ごはん」で過去に嫌な目にあっていたら、「ごはん」自体が嫌になるかもしれません。

 常識というのも、まさにそんな言葉の一つかもしれません。

 

 「常識」という記号を建前に私的情動(ローカルルール)を押し付けられて嫌な目にあった経験がある方からすると、常識というものには嫌悪しかなくなります。

 ※これと似たものに「感情」や「自我」というものもあります。
  他人から理不尽に「感情」や「自我」をぶつけられた結果、それが嫌になって、自分の感情や自我もなくそうとしてしまう。
  その結果、ログインできなくなって、生きづらさが増してしまう、ということは起こります。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 

 本来、常識というのは、特定のルールでもなければ、価値観でもありません。

 OSやプラットフォーム、クラウドというようなもので、個人個人の主体にあわせてカスタマイズされ、それを通じて、社会との繋がりと持つためのものです。

 俗にイメージされるような、強者や多数派に同調させられるものというではなく、むしろ、それによって、個々人がそれぞれ主権をもつためのものになります。

 前回も書きましたが、常識とは、多様性、多元性の束です。

 言語や、技能、スキル、みたいなものもそうで、それぞれには先人の知恵ですが、知恵は縛るためにあるのではなく、私たちに補助線を与えてくれるものです。

 それを絶対視すれば拘束されますが、自分を作る、自分らしく生きる道具だととらえれば、これほど便利なものはありません。

(参考)→「つねに常識に足場を置く

 

 常識というのはソーシャルプラットフォーム、ネットワークプラットフォームと言った感じです。

 

 トラウマを負うと結局これが毀損されます。

 トラウマとは、ストレス障害であり、自律神経などハードウェアの基盤がダメージを負いますが、自律神経などが乱れると、過緊張、不安、恐怖などが生じ、他人と自然体で付き合うことができなくなります。

 その結果、クラウド的な存在である人間が他者を通じてソーシャルプラットフォームをダウンロードし、社会的動物としてのさまざまな要素を更新し続けることができなくなってしまうのです。

 プラットフォームのない型無し状態。

 人間は、社会の中で生きていますから、社会におけるプラットフォームがないというのは様々に問題を生みます。

 その結果感じるものが「生きづらさ」です。

 ネットに繋がることができない、できても大きなファイルをダウンロードできないスマートフォンのような状態になります(不便、使いづらい)。 

 ネットに繋がることができない場合、そこにあるのは「無」かといえばそうではありません。

 世界は真空を嫌う。

(参考)→「自然は真空を嫌う

 

 真空を埋めるのは、多くの場合、家族のローカルルール(偽ルール)です。

 結局、家族の擬似的なローカルネットワークにはつながり続けるようになり、
 そこで落ちてくる情報は私的な情動であったり、それを正当化しようとするおかしな理屈であったり、汚言や悪口であったりします。
 それを内面化し、更新してしまい、自分の生きづらさは増していってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」  

 

 トラウマから回復するためには、フラッシュバックなどの処理、身体的なダメージを回復はもちろんですが、ソーシャルプラットフォーム、ネットワークプラットフォームを復旧させ、「常識」をいかに自分のものにするかが重要になってきます。

 こうしたことの基礎になることは今回の本でも触れています。

 

 

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