アウトプットする習慣をつける

 

 トラウマを負って理想主義的になっている場合によくあるのが、感情にしても声にしても表に出すことを止めてしまっていることです。

 前回までの記事で「愚痴を言う」というのを扱いましたが、愚痴も言えなくなっている。

(参考)→「愚痴はどんどん言って良い

 
 「けっこうおしゃべりで話していますよ」と言う場合があっても、相手に気を使って場をとりつくろう言葉が多いだけで、自分でログインして、自分の言葉で話しているかといえばそうではなかったりする。 
 

 

 よくよく思い返してみると、ずーっと何十年も自分の言葉で話をしていないことに気がついたりします。

 

 それは、自分の言葉で話すと突っ込まれたり、嫌なことを言われたり、攻撃されるような恐れを感じているから。

(参考)→「ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 以前も見ましたが、「私は~」と話さないでいる方がより干渉されるものなのです。

  
 一人称の「私は~」は自分の言葉で他人が干渉する筋合いはありませんが、二人称、三人称は他者も入ってくる余地があるものです。

(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 さらに、他人の気持ちを自動的に忖度するようなメカニズムが働いていて、複雑な連立方程式になっている場合もあります。

 それでは、自分の言葉を話そうとしたらつねに解けない連立方程式を解いてから、となって言葉が出なくなります。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 言葉というのは、そんな忖度などせず、パっと出すものです。

 表に出すことをしないでいると、喉が詰まったり、横隔膜が固くなってきます。 
 

 
 表に出すことをしないでいると、とっさのときに出なくなります。

 とっさに声が出せないと、精神的な免疫が働かずに、他者からの理不尽をそのまま受け取ってしまうようになります。

 

 なにも言わず冷静に受け止めることがレベルの高いことだ、と思っている場合もあります。
 
 それは、ニセ成熟です。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 さっと反応する、突っ込むことができる人が次の段階で、あえて、待つということは応用技としてできますが、いきなり応用技となっている場合は、なにも出来ない状態だということです。

 

 

 すぐにサッと言葉を発するのが自然なことだと認識して、普段からそうするように意識することです。

 

お笑いのツッコミなんかが一番参考になります。

 理不尽、不条理な設定の中で、常識を言語化して陽の光を当てていきます。

 「おいおい、どうなってんねん」

 「あれ?なんかまたおかしなことしだしたよ~」

 「怖い、怖い、怖すぎるやろ」

 「なんか、相手がにらんできたよ、これ」

 「なに、この深刻な雰囲気?勘弁してほしいねんけど」

 

 最初は全然出来ないですが、意識していればだんだんできるように変わってきます。

 あるいは、できないでいる自分が信じている思い込みやとらわれ、そうするに至った出来事なども自覚できるようになります。
   

 言葉にするのが難しければ、少なくとも頭の中ではアウトプットすることです。
 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

愚痴を言わないと発散できない

 

 理不尽な目にあった際に、さっと言い返したり、反応できればよいですが、社会的な状況で、それが出来ない場合も多いものです。

 

 例えば、失礼な店員さんがいたとか、会社で嫌なことを言われた、とか。

 そうしたことを、「自分はそんなことでは動じない強い、高尚な精神の持ち主ですよ」「まさか、愚痴なんか言いませんよ」といっていると、精神的な免疫が下がってきます。

 

 さらに、相手の理不尽な振る舞いを、「秘密」として自分が抱えてしまうことになります。他人の秘密を抱える構造は精神的にとても良くありません。

 ファミリー・シークレットと言って、家族の秘密を抱えることがアダルトチルドレンといった状態の特徴とされますが、家族以外の人でも同様です。

(参考)→「他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 

 驚くようなおかしな目にあったら、それを知人や同僚に言う。愚痴を言う。

 これは自然なことです。

 陰口を言っているとか、そうしたものではありません。

 

 その際は、できたら1人称で言う。お互い弱い人間同士、「どうしちゃったんでしょうね?」「こんな目にあっちゃってさあ」という感じでいう。

 落語の枕や漫談みたいに話をする。

 「いや~、このあいだ、ひどい目に会いましてね~。お店の店員がいきなり僕に睨みつけてくるんですわ~。殺されるかと思いましたわ~」と。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすると、人間関係がおそろしく、おっくうなものとなる。

 

 

 反対に、「なんでなんだろう?」と理由を考えたりというのは一番良くない。

 なぜ?と考えているときは必ず巻き込まれているときです。
生半可な知識で心理分析などしていれば、もっと巻き込まれています。

 

 理不尽の理由を知る必要なんてありません。
 「寂しいのかな」「かまってほしいのかな」「おかしいな」とバッサリ切り捨てて十分。
 
 理由を考えるのは、報酬を頂いた精神科医やカウンセラーがする仕事。
(参考)→「理由を考えてはいけない。

 

 

 さらに、相手の秘密を抱えて、さも不可解な行動をする人を取り繕う”マネージャー”のようにならない。
 
 いつのまにか、相手の頭の中を覗いて、忖度して、おかしさがバレなように、その秘密を自分で抱えてしまう。

 そんなことをしているうちに、自他の区別が曖昧になり、自分の輪郭がわからなくなり、自尊心が失われてしまうのです。

(参考)→「理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 
 自分は常に陽の当たる明るい常識の側に立っていることが必要。

 相手に引き込まれて、暗いジメジメした影に入っていかない。

 そのための暗いエネルギーの発散(排泄)手段の一つが愚痴です。

(参考)→「愚痴はどんどん言って良い

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

愚痴はどんどん言って良い

 

 トラウマを負うと、自分にも厳しく、理想主義的になります。

 さらにより良い自分になろうとして、「私」というものを抑えてしまいます。

 その結果、ログインではなく、ログアウトしていってしまって、自分の人生を生きれなくなってしまう。

 自分が望む方向とは別の方向へと進んでいってしまいます。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 理想主義的でログアウト傾向のになってしまうとよくあるのが、「愚痴を言ってはいけない」と自分を規制しているというもの。

 筆者もそうでしたが、愚痴を言うのを避けて、だんまりになったり、口を開けば「大丈夫です」と言ってしまったりする。

 本当だったら、違和感や不満があるのにそれを表に出すことが出来ない。

 そのうち、言葉を発する事自体が抑えられてしまう。喉が固くなってしまったりする。

 

 言葉を発する事自体が抑えられてしまうと、精神的な免疫力が下がります。

 外部から理不尽なことが飛んできたときに、さっと言葉を発して防御することができなくなるのです。

(参考)→「自我が強い力を持ち、ためらいなく“自分”という国の秩序を維持する大切さ

 

 
 昔、サッカー選手の中田英寿が現役のときにTVインタビューを受けていました。
 その際に、すごい愚痴を言っていたのを聞いてびっくりしたことがありました。

 当時の日本代表について不満をグチグチといっていたのです。

 
 愚痴は悪いものだと思いこんでいた当時の筆者は、こんな活躍している人でも愚痴を言うんだ!?と驚いたのでした。

 

 

 
 愚痴を言わないでいると、平気で愚痴を言える他者に巻き込まれて、やられてしまいます。

 もっといえば、自分のIDでログインができなくなる。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 皆様も、愚痴を飲み込んで高尚にしようとしている場面を思い返していただくとわかりますが、理想主義的になって自分からログアウトしていってしまっているのを感じることが出来ます。
  

 愚痴を言わないというのは、自分のIDでログインして自我が満たされた先にある応用技です。
 いきなりその境地に達しようとすると単にログアウトしてしまうことになります。

 

 ログインする練習の一つとしても、積極的に愚痴を言うことはとてもよいことです。

 

 

 その際は、自分(一人称)を主観にしてカラッと愚痴を言う。

 自分が大切にされていない、とか、なんだか物事がうまくいっていない、といった感じで愚痴を言う。

 それをしていると、自分に主軸が戻る感覚を感じることが出来ます。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」 

 

 

 二人称、三人称で「こうあるべきでしょ?」と言うと巻き込まれてしまいます。
 それは愚痴ではなくて自他の区別を失って他人をコントロールしようとしているだけです。それは違います。

 愚痴とは、自他の区別がついた状態で、自分を中心に本音を言うこと。

 他人のことを言うときは、私を視点にして、「まったく、しようがないなあ」という感じで言う。

 ビートたけしが、だめな弟子を見て「まったく、しようがねえなあ」と言いますが、あんな感覚。

 
 落語の世界観です。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 
 声に出せればよいですが、難しい場合は頭の中でも良いので愚痴を言ってみる。

 
 失礼なことがあったら、「ほんとに、いいかげんにしなさいよ(私を大事にしてよ)」とこれも一人称でいう。  

 

 アサーション(自己表現)がハードルが高い場合は、その手前の軽い表現(愚痴)に規制がかかっていることが多いです。
 

 だから、気楽にぐちぐち言ってみることはとても良いことです。
 

 自尊心を育てることに繋がります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 

 

 

常識に還る

 

 このブログでお伝えしてきたことを改めて見ると、どれも本来は“常識”というか、当り前のようなこと、と言えるかもしれません。

 「言葉は戯言」だとか、
 「物理的な現実を信頼する」とか、
 「自我が大事」だとか、
 「俗にまみれる」だとか、、、
 さらには、
 「食事、運動、睡眠が大事ですよ」といったことなど、、

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 健康な人からすれば、人として成熟するため、世の中を渡っていくためには当然なことばかり。

 

 

 しかし、この“当然”とか“当り前”を身につけることは実はかなり難しい。

 特に若いころは体力とか勢いで状況を打破できることが多いために、わからなくなる。

 しかも、常識というのは言語化されない。みんなわかっていても言語化できず・されず、密教のように分かる人にだけじわっと感じ取られているものだったりする。

 

 やっかいなのは、時代の流れで一時的に“当然”とか“当り前”が崩れたように見えることもしばしば起きます。

 “当然”とか“当り前”の反対のことが正しいように見えてしまうし、それを宣伝して商売する人もいますから、さらに厄介です。
(参考)→ 「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 「常識」とつながっていて、「自我」、もっといえば体感が機能していると、なんとなく、何が正しいかの判断ができたりします。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 しかし、「自我」が未形成で、焦燥感や不安などで体感を十分に感じ取ることができないでいると、「常識」からのメッセージもキャッチできず、何が当り前のなのかはわからなくなります。
 

 “当然”とか“当り前”ということが全く見えなくなってしまうのが、不全感(愛着不安、トラウマ)の影響の中核ともいえるものです。

 そうすると世の中の当り前が全く真逆に見えてしまう。

 そんなものからは自分を遠ざけることが解決の筋道であるかのように見えてしまって、ずーっと遠回りをしてしまう。なぜかセラピーも創始者自身がトラウマを負っているために、遠回りする方向に持っていってしまう。

(参考)→「心理学、精神医学の由来にも内在するログアウト志向

 

 例えば、失礼なことを言われても、反撃もせずに怒らないことが良いことだ、として、その方法を指南しようとする。
 当然ながらそんなことは実行できないのですが、一生懸命カウンセリングを受けたり言葉を唱えたりして、怒りがスルーできるように頑張ってみようとする。

 

 本来は、失礼なことを言われたら、怒ればいい。
 それこそが自尊心である、ということは、以前の記事でも見てみました。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 免疫システムのように、ウイルスが入ってきたら、まずは有無を言わさずに攻撃する。それが生き物のあり方です。
 

 一方、「ウイルスにも意味があるのだから、すぐに反撃しないようがよい」とか、「免疫を使わずにスルーできる方法を探したい」といっているのがトラウマがある状況です。

 ウイルスの意味などは別の場所で研究者などが考えれば良いことで、現場に生きる人間としてはとにかく免疫を機能させて自分を守る必要があります。

 

 

 ログインするとは、別の言い方をすれば「常識に還る」ことだということができるかもしれません。

 
 常識とは、もっといえば愛着的世界観の中で自分のものにしたルールや作法ということ。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 常識に還るためにはすべてをいきなり全部実行することは難しいかもしれません。

 だから、まずは運動してみる、とか食事をしっかりとってみる、とか当り前のことから始めてみる。

 「こんな事で変わるはずがない」と思ってもやってみる。

 のんびりと過ごしてみる。気楽に散歩をしてみる。

 
 「私は~」といって、話しはじめてみる。これも当り前。

 そうして、だんだんログインする世界へとスライドしていく。 

 

  
 平凡なことほど、物理的な現実として積み上がっていって、私たちを守ってくれるものです。

 

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」