”作られた現実”の代表的な事象はハラスメントの被害にも見られるのではないかと思います。
(参考)→「「物理的な現実」に根ざす」
最近、ハラスメントの被害を受けた、と訴える有名人のニュースをよく目にします。
あんなに快活なようにみえるスポーツ選手が、関係者からいじめにあっていたりしたんだ、と驚いてしまいます。
乙武洋匡さんも、一時、教師をしていた際に赴任先で同僚の教師からいびられて、とても嫌な思いをした、ということをTV番組でおっしゃっていました。
USJを再建して有名になった森岡毅さんも、P&Gで働いていた際に、米国本社で現地の社員にとても激しいいじめにあって苦しんだそうです。
自分だけ会議の案内といった情報が来なかったり、面罵されたり、大変な思いをしたそうです。
歌手の和田アキ子さんも、新人の頃、楽屋で先輩から辛いいじめにあったそうです。
臨床のあるあるかもしれませんが、野球部など運動部に属していたという人に「いじめにあったか?」とたずねると、かなりの確率で「部でいじめられていた」と答える、と聞いたことがあります。
こうして、いろいろな人のハラスメント経験を聞いて改めて思うことは、「ハラスメントはどこにでもある」そして、「ハラスメントの対象となるのは、やはり、たまたまだ」ということです。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か」
わたしたちは、「自分だから、ハラスメントを受けた」「ハラスメント受けた理由の一端は、自分の言動や性格の不備にある」と思いがちです。
しかし、それらは全くの間違い。それ自身が刷り込まれたローカルルールである、ということです。
ローカルルールとは、常識を騙った私的情動です。
私的情動であることがバレたら、成立しなくなります。
最もな理屈をつけて正統性を偽装し、巻き込み、相手に真に受けさせることが不可欠なのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
物理的な現実は「たまたま」なのですが、「たまたま」では都合が悪い。
そのために、「お前だからハラスメントを受けて当然だ」とか、「これは常識なのだ」という“現実(ローカルルール)”を作り上げをわたしたちに投げつけてきてきます。
昔、学校などでいじめを受けた、という人にとって、何より影響を及ぼしているのは、当時のダメージよりもむしろ、「わたしだったから(因果、必然)」という感覚ではないかと思います。
(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
わたしたちが、過去の嫌な記憶を思い出して、「自分だから、あんな目にあったんだ」「イケている他の人だったら、あんな目には合わなかったはずだ」
「他に人からは人気のあるあの人からハラスメントを受けた、ということは相手がどこか正しいに違いない」とか、そうした思いは単なるローカルルールによる“思い込まされ”なのです。
いじめとか、嫌がらせというのは、その行為自体だけではなく、「あなたのせいだ」「あなただからこうした仕打ちを受けている」と”たまたま”を「因果、必然」と言い立てる理屈付けとセットでなりたっているものだからです。
理屈づけは「おまけ」ではなく、それがなければハラスメントというローカルルールは成立しないからです。
つまり、「因果、必然」と偽装するその理由付けは全くのデタラメだ、ということなのです。
(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの」
わたしたちが生きていく中では、必ず、このようなローカルルールによるハラスメントには遭います。それらは”たまたま”でしかない。戯れ言としてスルーしていく必要があります。
作られた現実は、一つの目立つ要因を取り上げて”「因果」を騙ります。
一方、「物理的な現実」は多要因、多次元ですから、因縁でもつけなければ言語化できるレベルに明快な因果や必然などはないのです。
私たちにとって安全基地となるいわゆる”愛着”というものは、私たちに「物理的な現実」を見せることをサポートするものです。
たとえばハラスメントにあったとしても、それを「たまたま」「あなたは大丈夫」として、ローカルルール(作られた現実)をバラバラと解体する作用があることがわかります。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
反対に、先日の記事でも書きました「ニセの感情」や「俗な知識」はニセの因果や必然を補強するものであることがわかります。
(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情」
(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~俗な知識」
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
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