自分らしく生きるためには、「公的な環境」を築き、維持することが大事

 
 世の中にはDV(ドメスティック・バイオレンス)を行う男性がいます。家では暴力をふるい、ひどい暴言を吐く異常なふるまいを行いますが、職場や世間では、「いい人」だったりします。
 自分が悪くないということを紳士的に説くために、駆けつけたお巡りさんも騙されたりすることもある。
(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 ある評論家が、家で奥さんに暴力をふるい、それがエスカレートして警察に逮捕されてしまったそうです。
その方は、たくさん本を出して社会からは評価されていたわけですが、家ではとんでもないことをしていたようです。

 アインシュタインも奥さんに暴力をふるっていたというのを耳にしたことがあります。
 公的な業績とプライベートとは関係ない、といえばそうなのですが、なぜそのようなことをしてしまうのでしょうか?
 
 養育環境などはもちろん影響しますが、現在おかれた環境も強く関係します。

 

 

 以前の記事にも書きましたが、人間は公私があいまいな環境、もっと言えば私的な環境では容易におかしくなるのです。

 

(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 家でのふるまいだけを見たら、おかしなことをする人を止めることは難しいように思います。
実際、DVを行う人を治療するのは専門家でもなかなか大変な作業です。うまくいかないケースもあるようです。

 しかし、そのような人でさえ、職場や世間では紳士的なふるまいをする。

 ここには、私たちがハラスメントを防ぎ、自分が望むような関係を作り生きていくためのヒントが詰まっているようです。

 

 

 

 つまり、わたしたちが自分らしく生きていくためには、「公的な環境」を築き、うまく維持していく必要がある、ということ。

 

 「私的な環境」が本来であり、自然体である、というのは実は大きな間違い。

 トラウマを負っている人、生きづらさを抱えている人は、「私的な環境」を本来のものと考え、そこに陥ってしまいやすい。

 

 なぜかといえば、原家族が機能不全を起こしていているケースが多いから。

 “機能している”とは、公的役割をそれぞれが果たすということにほかなりません。

 父という役割、母という役割、兄、姉という役割、祖母、祖父という役割。社会通念に照らして適切な役割を果たす必要があります。

 “機能している家族”は緩やかにそれがうまくできている。 

 

 一方、“機能不全”な家族は、それがうまくできていない。それぞれが未昇華(消化)の私的な情動で動いている。

 父が父らしくなく、子供っぽい。気ままにふるまい、自分勝手なルールを家族に強いている。

 母は、気分のアップダウンが激しく、急に機嫌が悪くなったり、急に愛情深くなったりする。

 家族の中に秘密がある。

 家族の内面にずけずけと立ち入ってくる。

 などなど
 

 そうした環境で育つと子どもは健全に自我が芽生えず、常に自信がない状態になります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 会社の仕事で考えたらそうしたことは本来はあり得ない。「店員」は「店員」らしく振舞わないといけない。感情ままにふるまうことはできない。少々イライラしても我慢して、役割に殉じます。

 「課長」は「課長」の役割を果たさないと、減給や降格になるかもしれません。
 ※もちろん会社でも機能不全はしばしばあって、感情的にふるまう人がいますが(≒パワーハラスメント)。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちの多くがしばしばおちいっているのは、家庭は「私的な環境」であるという誤解です。

 
 「家庭」というのは、夫婦という血のつながらない他人同士と、社会から養育の責任を負わされた親と被養育者である子が営む共同生活の場であり、そこは立派な「公的な環境」であるということです。

 

 成人していない子供はまだ私的にふるまうことはやむをえませんが、成人のしたあとは、「私的な環境」というのは基本的には本来どこにも存在しません。あっても自分の部屋の中くらい。
 
 あとはどこにいても、「公的な環境」。

 

 だからといって、窮屈で、居場所がないということではありません。

 人間の本来の居場所は「公的な環境」だからです。

 大人になる、成長する、成熟するというのは、「私的な環境」を徐々に整えて「公的な環境」へと変えていくということ。
 “私的な情動”を公的に表現する手段を学び、獲得していくということ。
 公的な活動の場を得ていくということ。社会の中で「位置と役割」を持てるということ。
 社会というクラウドにつながる、ということ。
 
 それが本来の姿。

 

 
 「精神障害」というのは、何らかの原因で公的な環境が乱れて、公私の区別があいまいになっている状態、社会というクラウドにうまくつながれていない状態、を言います。
 

 自分の部屋にひきこもっている状態が快適か、自然体か、といえばまったくそうではありません。苦しんでいるわけですから。あくまで一時的な避難場所としてそうしているだけ。

 

 私たちは、「公的な環境」を築き、維持していく必要があります。

 

 「公的な環境」とはどんな状態か?といえば、

 自他の区別がついていることですし、距離が取れていること、
 相手へのリスペクトがありながらも、対等な関係を持てていること。
 礼儀はあるけど気をつかわないこと、
 公的な行動から逸脱した他者の振る舞いは取り合わないこと。

 

 「愛着」というOSがあれば、ワンパッケージでそれらを備えられますが、愛着が不安定である場合は意識して身に着けていく必要があります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 重いトラウマがあったとしても、公的環境を築く、ということ、それが自分を守ってくれるのだということを意識しているだけで普段の生きづらさは変わってきます。

 

 自分が生きてきた家とか学校とかおかしなローカルルールが占めていたところは私的な闇の環境だとして、そこに呪縛されていると自分も闇の側にいるような感覚に陥ります。

 そこから脱して、自分は闇の側にいるのではなく、常に明るい公の光の側にいる、という感覚。

 今までは、例えば親の闇(私的な)の部分を背負わされていて、闇の暗示をかけられていただけ。
 

「公的な環境」を築くには、いろいろな方法がありますし、条件がありますが、暗示の言葉の力を借りるのであれば、 

 「公の光(おおやけのひかり)」

   あるいは、

 「公の力(おおやけのちから)」

 
と普段、唱えてみるのはけっこう良いです。

「公的な環境」を築き、守るのに役立ちます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

適応するとはルール無用になることではない~自分にとっての“正義”の感覚を身に着ける

 

 人間というのは、クラウド的な存在で、内的外的に環境からの影響で生きている生き物です。理性的な存在ではない。

 そのため、「公私の区別があいまいな環境」に陥ると、すぐに解離しておかしな言動をとり始めます。

 例えば、イライラ。

 イライラの原因はいろいろです。

 ただ、多くの場合、環境からやってくるものを自分のものと錯覚してしまう。他者が感じているイライラを自分のものと思ってしまう。

 あるいは、内面化している父母のイライラを自分のものとしていることもあります。

 

 安定型愛着の場合、イライラを公的な表現へと昇華したり、キャンセルしたりすることが比較的上手ですので、イライラに巻き込まれにくいのですが、不安定型(トラウマを追っている)の場合、簡単に巻き込まれてしまいます。

 

 人間の素朴な信念に、「原因があるから結果がある」ということがあるためにこのイライラは、自分のせいではなく、目の前の人間のせいだ、ということで「因縁(原因帰属)をつけたくなります」

 そこで、「あなたの仕事ぶりが気に入らないのよ」とイライラを相手のせいにする。

 解離した意識の上ではそれはいかにももっともなため、因縁をつけている本人も自分がおかしいとは気が付きません。

 

 人間の行う原因帰属の大半は間違っています。
 特に自分のイライラの原因は他者にはありません。

 ただ、もっともらしく、因縁をつけているだけ。

(参考)→因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 先日の記事でも書きましたが、本来、健康な状態の人というのは、コミュニケーションはシンプル。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

 

 

 明らかにだれが見てもイライラして当然という際にはイライラしますが、おかしな因縁をつけることは少ない。

 それは、うれしい時にはうれしい、悲しい時には悲しい、怒るときには怒る、というように公的な表現への消化が適切になされてきた(愛着)ために、おかしな状況で起こるイライラに巻き込まれにくいのです。

 

 おかしな状況で起こるイライラは、「ここはイライラするところではない。」

 因縁をつけられても、「私には関係ない」と直感することができます。

 
 
 一方、トラウマを負っている人は、すべての責任は自分にあるとしていますから、
 (個人主義的な心理主義も共犯関係にありますが)
 「相手のイライラもすべて自分のせい」
 「理不尽な因縁もすべて自分のせい」
 としてしまい、何が正しいか、正しくないかがわからなくなってしまっています。

 全方位のゲリラ戦を戦っているような感覚で、すべてに備えて、へとへとです。
 

 

 それは、例えば、子供のころに母親が自身のイライラを「あなたのせいよ!」と子供(本人)のせいにしてきたり
 など理不尽な環境で自他の区別、善悪の区分けが混乱させられてきたためでもあります。

 理不尽なことが渦巻く現実の環境に適応する、とは、ルール無用になることではありません。

 適応とは、何が健康なルールで、何がそうではないか、を見極められることで、あとは、そのルールを持って、「これはおかしい(と感じる)」「これは正しい(と感じる)」と自分で見極められることです。

 

 自分の中で、自分にとっての“正義”の感覚が身につくことも、自分らしく生きていくための条件といえます。

 

 そのためには、ルール無用で適応するのではなく、まずは健康な状態に人間のルールとは何かを明確にすること。
そして、そこに当てはまらないものはキャンセルすること(敬して遠ざける)。

 

 
 健康な状態の人間のルールというのは、先日の記事にも書きましたように、

 ・コミュニケーションはシンプルである、ということ、
 ・成熟した人間とは公的な存在であること(公的な環境を維持する大切さ)
 ・関係の階層構造(階層で構造化する)
 といったようなことです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 こうした原則を破ってくるケースは、どこかおかしい。要注意して対応する。
 

 ナチスとかカルトとかもそうでしたが、巧妙に善悪の基準が分からなくしてしまいます。
 機能不全家族もまさにそうで、厳格なローカルルールで、公的な善悪の基準を壊してしまう。
 

 そこに育った人は、善悪の基準がないために、自分というものがなかったり、反対に妙に頑固になったり、何でもかんでも気を使って、適応してしまうために不適応を起こしてしまうのです。

 

 そうした状況では、いくらコミュニケーションの本を読んだり研修を受けてもダメで、まずは、親からの価値観や、理不尽な状況で受けたトラウマを捨てて、原則に還ること。

 そこから、スタートして、もう一度、自分にとっての正義の感覚を回復させていくことが必要になります。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 昔、筆者が、ペーパードライバーの講習を受けて運転の練習をしていたときのことです。

ドライビングスクールの先生と少し雑談しながら、運転をしていました。

  筆者「そういえば、運転すると人が変わる人っていますよね?」

  先生「いますね。」

  筆者「なんででしょうね?あれは」

  先生「車内がプライベートな空間で、自分が解放されるみたいですよ」

  筆者「なるほどそうなんですね。確かに知り合いのおじさんも、車に乗ると、オラー!って人が変わっていました。」

 

 

 このように、
 どうやら、〝私的な空間”というのは(厳密にいえば公私の区別があいまいなところは)人をおかしくしてしまうようです。

 

 

 別の例では、DVを行う男性もこれに似ています。
  公的な空間にいると、紳士的なのですが、
  私的な空間になると、人が変わって、パートナーに暴力、暴言を浴びせてしまう。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 親が子供にイライラをぶつけたり、暴言を吐いたりするのも、実は同様です。
 
  特に核家族になって、他者からのまなざしがない閉じられた私的な空間の中で親が解離を起こして、人が変わってしまうことから、イライラ暴言は起きます。
 (自転車に乗っているときに後ろに乗っている子供に暴言を浴びせているお母さんがいたりするのも車に乗ったら人が変わる、ということと同じなのかもしれませんね。)

 

 

 

  機能不全家族、というのは、家庭の中に「公的な環境」が失われているために父親、母親といった公的な役割が果たされていない(公私の区別があいまいな)状態を指します。

  「公的な環境」の代わりに、父親、母親の個人的な価値観(ローカルルール)を絶対化して多様性が失われ、過度に厳格になったり、逆に一貫性がなかったり、無秩序になったりしてしまいます。

  ローカルルールというのは、公的な仮面をかぶった私的な価値観の強制です。

 

 
 いじめ、ハラスメント、というのも、まさに公私の区別があいまいな環境で起こる現象です。
 学校や会社などは、「うちはうち、外の常識は関係ない」として、おかしなルールがまかり通りがちです。

 そこでは、私的な情動がむき出しになって、まともな人たちもおかしくなってしまいます。
(先生も、いじめっ子の味方をして、いじめられた側が悪い、と平気で主張したりするようになります。)

 

 こうした環境には、よほど愛着が安定していなければ抵抗することはできません。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと
 

 

 

 
 前回も書きましたが、「愛着」とは、子どもの中の私的な情動を、親のかかわりの中で公的な表現へと昇華させる作業です。

 おなかがすいたら、「おなかがすいたの?」

 悲しい時には、「悲しいの?」

 と関わることで、子どもの一貫し、情動は安定していきます。

 

 反対に

  楽しい時に、怒られる。
 
  悲しい時に無視される。何もないのに、

  気をつかわなければならない。

 こうした一貫しないコミュニケーションのことをダブルバインドといい、人類学者のベイトソンなどは精神疾患の原因としてきました。

 

 統合失調症などの原因としては否定されていますが、ベイトソンの視点は慧眼で、一貫しないコミュニケーションは人をおかしくしてしまいます。

 一貫したコミュニケーションとは、予測可能性を与え、それが「安心安全」を生みます。反対に、一貫しない応対というのは、不安の温床となります。

 境界性パーソナリティ障害の背景にも、養育環境での一貫性のなさの影響、あるいは自身や養育者の発達障害傾向等の身体的失調による情動の不安定さがあるのはそのためです。

 

 

 

 「私的な情動」というのは、私たちにとってはエネルギーの元となるもので大切なものです。ただ、加工されていない生の資源はそのまま用いることはできないように加工される必要があります。不純物も混じっています。
 加工され、磨かれて「公的な表現」となって初めて、社会で通用するものになるのです。

 プライベートとは、私たちの内面のことです。特に大人の場合、同居者がいれば、家庭の中でも本当の意味でのプライベートはありません。公的な機能を果たすことが求められます。
 (もちろん、家ではくつろいだり、休養したり、気楽に過ごしたりすることは大いにしなければなりませんが、そこにもマナーが必要になります。)
 そこを勘違いしてしまって、親の機能を果たさずに生の私的情動を発散させ、自分の価値観を押し付け、ハラスメントや虐待となってしまいます。
 

 

 

 私たち人間は一貫し、安定した、公的な環境に照らされることで成長し、社会の中で位置と役割を得て、「社会人(市民)」として成熟することができます。
 自分の内面でさえ、内省を経て磨かれて初めて意味のあるものになります。瞑想や禅などはそうした役割があります。

 

 

 社会が混乱したり、あるいは当人の内的環境(健康状態)が不安定なるなどして、公私の区別があいまいになってしまうと、私的情動が適切に昇華されず、自己や他者に対する攻撃や支配となって向けられられるようになります。
 カルト集団内部とか、ナチズムが生まれた社会環境はまさにそうです。

 

 

 私たちは、公私の区別があいまいな環境ではおかしくなってしまう。

 

 ここに、私たちが「関係」を再構築するための大きなヒントがあります。

 

 

 「親しき中にも礼儀あり」とはよく言ったもので、私たちが、心地よい「関係」を築くためには、「公的な環境」をどう作るか?維持するか? 公私の区別をあいまいにしない、ということがとても大事だ、ということです。

 

 ハラスメントを受けやすい方、バカにされやすい方、というのは、対人関係において公私の区別があいまいになってしまっていると考えられます。

 それは、もともとの養育環境が公私の区別があいまいでローカルルールがはびこる中で、混乱した状況を生きてきたために起きます。
 親がそうだったために、対人関係であいまいな対応、私的な対応をしてしまうことが当たり前となっているのです。

 

 例えば、人間関係で大切とされるような「気をつかう」「へりくだる」「相手の内面に立ち入る」といったことは、公私の区別をあいまいにしてしまうもので、実は本来は安易に使ってはいけないものなのです。

 

 

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幻想の構造~「心に聞く」やセラピーも現実を知るためにある

 人間というのは、おそらくは動物の中で唯一、抽象的な概念や、想像を用いる生き物です。
そのために、高度な社会を築くことができました。

 概念や想像を共有することで、共同体の枠組み、規範や帰属意識が醸成されて社会が形成されています。
科学でも概念を操作することで、発展してきました。

 さらに、ミラーニューロンを介して人同士がつながり、抽象的な価値観が内面化されている、とも考えられています。

 抽象的な概念を用いることは大いなるメリットをもたらしましたが、同時にデメリットももたらしました。現実を回避することで、問題が大きくなってしまうこと、幻想の中に逃避してしまうことが起きることです。

 

 もともとの私たちは単なる自然物であって、そこには罪も何もないわけです。

 ただ、安心安全が脅かされて、閉鎖的な共同体が持つローカルルールを内面化したりすることで、呪縛とも呼べる幻想(「自分はダメだ」といったこと)を強く持たされてしまう。
 

 

 安定した環境で育っても、ある程度は幻想が入るのですが、安定した環境で内面化したものは、安心安全が確保されているため、多様性があり、変化可能であり、不要ならば循環して「排泄」されていきます。そして、新しい環境に合うものを獲得していくことができます。

 特に反抗期では顕著に「排泄」が行われて、親の価値観はいったん捨ててしまい、再解釈をされることになります。

 その経験があるため、社会に出ても、価値観を真に受けずに、ある程度自分で選択できるようになります。

 

 抽象的な考え、感情は、外部からもたらされます。そのために「関係」はとても重要で、私たちの判断も関係のネットワークによって支えられます。できるだけ多様で、緩やかな関係を多く持てると、安定は増しますし、安心安全があることでより良い関係を持つこともできます。

 

 もちろん、健康な成熟を見せる人も、誰しもほどほどに「幻想」を持っています。ただ、安心安全が担保されているため、多様で柔軟で選択可能性があるのです。
 意図的に、幻想と戯れたり、「ふり」をしたり、また現実に戻ってきたりすることができます。

 

 反対に、トラウマを負っていたりして不安定な場合は、安心安全がなく、さらに関係が少ないため多様性がなく、
「幻想」が信仰のようになってしまいます。
 あたかも「幻想」が、現実をふさいで窒息させてしまうような形になってしまうこともあります。

 

 さらに、「幻想」から抜けるために、さらに別の幻想を持ってこうとそして、屋上屋を重ねる、といったことになります。ますます解決から遠ざかってしまう。
 (先日の記事で書いた、「愛」「全体性」とか無限の観念をもって対抗しようとすることはこうしたことを指します。)
 実際、壮大な理想を唱えた人たちが最後は嫉妬の塊となって仲間を殺したり、テロリストになったりすることは過去の歴史的事件を特集したTV番組を見ればしばしば出てきます。

 図にすると、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛) ← 別の幻想
       

 ますます本来の自分が分からなくなる・・・

 本当は、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛)
            ↑
      これを除いて“現実=本来の自分”に触れるのがセラピーの役割。

 

 「心に聞く」も“幻想”を聞くのではなく、“現実”を知るためにある。
 (参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 

 ここで、「“現実を知る”っていうと、今の自分で我慢しろ、とか」「自分は結局ダメだ、と告げられるのでは?」と思うかもしれませんが、そうではありません。

 心に聞くと、「あなたは力があるよ」「あなたは大丈夫だよ」って言ってくれます。 

 でも、多くの場合は、「自分で勝手に考えた慰めにすぎない」として無視してしまうのです。

 例えば、イルカや、犬、自然に触れるようなセラピーがありますけど、そうしたものが教えてくれるのも、やっぱり「あなたは大丈夫」ということです。
 (人間のカウンセラーが言っても、なかなか信じてもらえませんけども・・)

 

 「心」が告げてくれるみたいに、〝現実”のほうが面白いし、楽しいし、優しいし、美しい。

 人間が頭でこしらえた「自然」と、「本物の自然」とを比較すればわかりますが、当然、実際のほうがはるかによいものです。
 私たちは、セラピーを通じてそこに還っていく取り組みをしているわけです。

 

 仏教の「覚る(さとる)」というのも、あたかも学者のように世の中や自分をありのままに見る、というだそうです。(だから、仏教には、いわゆる神といった概念はなく、まるで唯物論みたい、といわれます。)
でも、そちらのほうが、悩みからは抜けやすいと、お釈迦さまは発見した。

 

 理屈はそうだけど、やっぱり幻想が欲しい・・
 
 という場合は、“戯れ(たわむれ)”として利用すればいいかもしれません。すこしすっきりしたら、また現実に戻ってきたらよいのではないでしょうか。

 本当に苦しい時は、幻想を希望に変えてでもしなければ立ち向かえないくらいに、生きづらいものですから。

 でも、幻想を希望にしたままでは、生きづらさからはなかなか抜けれません。だんだん「幻想」に嫌気がさしてきて、飽きてきて、「なんだ、結局、引き寄せとかなんとかいっても、そんなもの当たらないじゃないか!やめた!」「自分は自分だ」と思った瞬間からうまくいったりもするのです。

 そうしたことを、依存症治療の世界では、「底をつく」というそうです。底をついて現実に触れると、幻想がパーッと晴れて、「あれ?自分って本当は能力あるんじゃんか!?」って気がつけるようになります。
  

 

 

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