ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ

 

 悩みの根源としてあるのは、「安心安全」の欠如、ということでしたが、
安心安全を得ることを阻む最大のものがあります。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」の回復は問題解決の中核」 

 

 それは、「責任」というものの存在です。

 責任とは、人間の自由意思に基づく主体的な行動を前提として、その影響(原因)について、道徳的、法的に応答する義務、といったものです。「responsibility」 というように、応答する、反応する能力とも言い換えられます。

 

 愛着障害/不安定型愛着に「回避型」という類型があるように、私たちは、責任を取ることを極度に恐れます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 誰かのせいにしたり、ウソをついてしまったり、謝るけども腑に落ちないまま、といったことが生じます。
 応答する能力、ということでいえば、人とコミュニケーションをとる際は、正中と正中同士が向き合って接するというよりも、半身の姿勢で、いつでも逃げれるように接してしまいます。

 

 

 回避、防衛をすることに人間は膨大な労力を使っていて、それが、真にその人が力を発揮することを妨げています。

 「安心安全」に生きたいのですけども、社会で過ごしているとどこからか不意に「責任」を押し付けられて、それで身動きが取れなくなることを私たちは極度に恐れています。

 
 回避するために、問題行動を起こしてしまったり、うつや不安、依存、といった心身の症状に悩むようなことも生じる。

 

 結果どうなるかといえば、人生の主導権というか、主体性を失ってしまう。

 人間が自分の主体性を発揮していて、「責任」を取っていると感じられるときは生き生きしています。

 

 ですから、責任をとれるようになろう、ということで認知行動療法とか、自己啓発などで、自分の回避癖、防衛を取りましょう、という趣旨のセミナーとか、セラピー、ワークなどがあったります。
 しかしながら、うまくいくことはありません。
 やればやるだけ、反対に身動きが取れなくなります。

 

 なぜかといえば、それは、「防衛」「回避」している人は、責任を取っていない、取りたがらない、取れない、のではなく、責任を取りすぎている(取らされすぎてきた)からです。

 実は、ふつうの人以上に過剰に責任を負わされてきている。表面的には回避して頼りなく見えるかもしれませんが、責任感がとても強いのです。過剰に責任を取らされてきて、「もうこれ以上、責任は負えないよ!どうすればいいの!」という状態だからです(過責任)。

 

 しかも、その責任とは、実は本人の責任ではなく、「ニセの責任」や「他人の責任」を負わされてきているのです。
 

 「ニセの責任」とはどういうことかというと、例えば子供のころ、親がイライラしている、親が単に機能不全であるのですけども、そのイライラというのは、親の情緒不安定さ、であるわけですが、その責任を子供になすり付ける。

 「お前がいい子にしないから、私がイライラする(イライラするのはお前の責任だ)」

 親同士がけんかするのも「お前の責任だ」とされる。

 

 カウンセリングをしていてよく耳にするのは、
 子供が親から「お前は(仲の悪いほうの親と)顔や態度が似ている(お前はだからダメだ。その責任をとれ)」、というような暴言を浴びせられること。
 (「お前は、父に似ている」「お前は母に似ている」といった言い方です。)

 まさに、親という役割を放棄して(機能不全)、自分の感情や嫉妬といったことから「因縁」をつけているだけ。子供の責任をねつ造して、自分を優位に立たせたり、パートナーとの関係での不満の腹いせをしているだけ。何ら合理的な意味がない。

 

 

 別のケースでは、いじめがある。
 いじめはまさに、「責任のねつ造(因縁)」の典型。
 「空気が読めない」だの「ぶさいく」だの「くさい」だの、
 無いこと、無いことをでっち上げていけにえを作り出して、ローカルルールの私情を満たそうとする。

 いじめの被害者は、負わされた「ニセの責任」でその後も苦しむことになります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 さらに、いじめという集団といったケースを取らなくても
 1対1でも同様のことは生じます。
 
 自分の嫉妬や支配欲といった、私情でしかないものを、公的なことだとすり替えて、「あなたは~~だ」「これは常識だ」と相手に因縁を吹っかけて、責任をねつ造して、呪縛する。
 (例えば、「~~さんって、××だよね」といった失礼なことをいきなり言われたり)

 呪縛している間は、その相手は動きが鈍りますから、それを見て留飲を下げる。
 

 

 

 「責任」というのは、実はかなり怪しい概念です。実は個人の責任であることはほぼ存在しない。

 会社でも失敗の責任は、担当者の責任にされますが、例えば、売り上げがノルマに達しない場合も、
  ・ノルマが現実的ではない
  ・そもそも商品、サービスが悪い
  ・販売を支援する仕組みが整っていない。
  ・会社のブランド力が低い

 など様々な要因があって、商品が売れる売れないは、一番最後の話。仕事とは総合力。
 
 さらに、日本経済の成長率や、人口動態も大きく影響する。成長というのは近代資本主義の神話でしかありません。常に成長することなどは約束されていない。

 現場でできる工夫などはかなり限られている。
 戦術的成功は戦略を越えられない、というのは軍事上の常識ですが、戦略のないままに、「戦術的に大成功をおさめろ、それが担当者の自己責任だ」といわれているケースはとても多い。

 

 ミスにおいても、同様です。会社自体にミスを防ぐ仕組みがない。仕組み、書類がそもそもミスを誘発しやすい、といったこともある。

 サッカー解説者の戸田和幸さんが本で書いていましたが、サッカーでは、最後にキーパーが脇を抜かれてゴールを決められる、その前にはDFがミスをしたように見えるのでそこだけ切り取られると、キーパーやDFのミスのように見えるけども、そもそも、ボールを失ったときの失い方、あるいはその前の攻撃の時に攻め込みすぎていないか、といったことでゴールは決まってしまっている、といいます。

 

 テニスでも同様で、ポイントを取られる、2,3個前のプレーで決まってしまっている。ダブルスだったら、自分がミスしているように見えて、パートナーのプレーによって、決まってしまっていたりもする。

 

 などなどと考えると、仕事においても、責任とは何? ということはとても難しい、多くの場合、その人の責任ではないものを、無理矢理責任にされてしまっている。

 トラウマを負っている人というのは、しばしばこうした、自他の行動の範囲があいまいな環境、責任がねつ造される環境に置かれています。

 

 健康な状態であれば、ストレス処理の仕組みによって、ガードされて、愛着が安定していれば自他の区別もつきますが、長年のストレスでストレス応答系が失調し、愛着不安で自他の区別がつきにくいために、「自分の責任ではありません」とは言えなくなって、あいまいな中、すべて自分の責任だと思わされてしまう。

 

 そうしていると、「ゴミ拾い」をしているかのように、他人の行為についても先回りして気をもんで、自分の責任ではないものまで自分のものとするようになる。(過剰適応)
 
 常に気をつかってへとへとになる。

 

 本当は主体性からでもなく、自由意志でもなく、ねつ造された他人の責任を取らされているだけ、なので、責任を取っていても腑に落ちないのです。

 さらにいえば、もっと遠回りに環境の影響の積み重ねで追い込まれて、不本意ながら問題行動をおこしてしまうこともある。

 例えば、以前も紹介しました『反省させると犯罪者になります』という本で描かれていることはそうで、犯罪というのは当人が行っているわけですが、でもその背後には、貧困や教育の欠如、養育環境の問題、などさまざまなことがあり、
 追い込まれて追い込まれて、最後に、当人は犯罪を行ってしまう。

 

 最後の瞬間だけを見れば、その人の責任でしかないようにみえるのですが、
 実は長い長い背景がある。追い込まれて追い込まれて、私たちは最後に行動をしてしまう存在です。

 だから、反省させても腑に落ちない。直感的に、自分の責任ではない、おかしいと感取している。

 

 このように、私たちは、ねつ造されたニセの責任によって、責任過多となり、主体性を奪われてしまっている。

 そのうえさらに、「自分の人生という責任に向き合いなさい」といわれても、パンクしてしまうだけ。

 「もうこれ以上どうすればいいの!!」といいたくなります。

 
 場合によっては、医師やカウンセラーからも、「さらに責任をとれ」といわれているような気がして、治療自体が嫌になることもあります。現代は、近代個人主義の時代で、人間は主体的な存在だ、というドグマは根強いものがあるからです。
 

 ただ、自分の責任に向き合えれば好転する、ということは経験的には事実です。確かにその通り。

 
 でも、そこに至るためには、必要なことがあります。

 それは、まずは、ねつ造されたニセの責任をすべて降ろす作業が必要なのです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「0階部分(安心安全)」

 

 以前、「関係」がどのように成立するのかについてまとめました。

 「関係は1階、2階、3階といった階層構造になっている」
 また、「私的領域では人間はおかしくなる、公的な領域こそが本来の居場所である」ということを見てきました。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 実は、これまで明らかにした関係や公的領域にはそれが成立する前提があります。

 それが、今回お伝えする「0階部分」ともいうものの存在です。

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、「関係」によって成立しています。
 そしてその「関係」とは、公的領域でなければ正しく機能せず、私的領域(個人の情動やローカルルール)にとどまった場合、嫉妬や支配といったおかしなものに堕してしまうようになります。

 

 ただ、こうしたメカニズムの以前に、カウンセリングをしていると、「関係念慮(妄想)」といった状況に陥って、周囲への不信や被害感情に苦しんでいる方に多く出会います。

 

 関係念慮というのは、特別に病的な人がなるものではありません。
 誰でも、体調が崩れたり、睡眠不足になったり、あるいは人間関係のストレスにさいなまれると、容易にそのような状態に陥ります。

 

 「周りの人が私のことをネガティブにとらえている。悪口を言われている気がする」
 「周囲がひどい人ばかり」

 といったようなことです。
 

 そのために、クラウド的な存在であるにもかかわらず、「関係」を構築できず、周囲とつながることができず、代わりに、家の中で嫌な家族やつらい過去の記憶とつながるしかなく、余計に苦しくなってしまう、ということが起きます。

 

 これは、トラウマを負っている方に多い傾向があります。
 (内分泌の疾患、発達障害の方などでも同じような問題が生じます)

 なぜ、そうした方に多く見られるかというと、それはトラウマを負っている方は「安心安全」が脅かされやすいためです。

 「安心安全」の欠如とは、身体的な不調、心理的には不安定型愛着に起因します。

 

 
 人間というのは、免疫やホルモン、自律神経によって、外的なストレスに対処しています。ホルモンなどが国境の壁や軍隊の役割をしていて、防御が利いている間は、その内側は平和でいられます。
 

 ボクシングでいえば、ガードしている状態。
 極端に言えば、どんなにパンチがきつくても、ガードしている間は、安全でいられますし、むしろ、打ってくる相手とガードのタイミングが合い、さながらダンスを踊っているかのように、心地よくさえあります。

 

 これが健康な人間の状態で、健康な人から見れば、
 「人間というものは信頼できる。社会とは安全なものだ」と感じられています。ストレスさえも、どこか心地よく感じられる。
 

 

 

 しかし、防壁が壊されたり、ガードのテンポが合わなくなると、ストレスをもろに浴びるようになります。

 物理的には同じ環境にいながら、途端に「人間とは信頼できない。社会とは危険なものだ」と感じられるようになります。

 これがストレス障害(トラウマ)というものです。 

 

 ※出産を基準にして、出産前にお母さんの中でお腹の中でのストレスでその防壁が壊されてしまうことを「発達障害」といい、出産後、環境のストレスで壊されてしまうことを「トラウマ」といいます。そのため両者の症状は瓜二つになるのですが、それはどちらもストレス障害だからです。ホルモンの失調でも似た状況になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

    →「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 
 同じコミュニケーションでも、防壁があるときは、肯定的なメッセージは、そのまま「肯定的なメッセージ」としてとらえれます。
 しかし、防壁がないとむき出しであるために、肯定的なメッセージも「否定的なメッセージ」として捉えられるようになります。

 

 むき出しですから、「周りはひどい人ばかり」となります。
 (臨床心理の世界では、「周りはひどい人ばかり」と訴えているケースは、強いストレス障害(発達障害)による記憶の断片化が疑われます。)
 

 

 相手が普通に送ってくるメッセージが正しく受け取れないわけですから、通常のやり取りができなくなる。「1階、2階、3階」とフィルタをかけながら積みあがていくように「関係」を構築できなくなってしまう。

 (参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 積み上げ=フィルタ式ではなくて、すべてを警戒するか(回避)、すべてを受け入れるか(接近)、といった極端な形になってしまう。

 

 このように、「0階部分」とは、心身の「安心安全」のことを差します。
 「0階部分」が関係を土台となって、私たちを支えてくれています。

 

 トラウマとまではいかなくても、睡眠、食事、運動が不足すると、私たちは容易に土台が崩れてしまいます。

 
  かつての警察の取り調べや、カルトの洗脳などでは、
  ・睡眠時間を少なくし
  ・食事を制限し
  ・自由に運動ができないようにする

 ということがセオリーです。そうすると、正気を維持できなくなるからです。

 小さなお子さんをお持ちの方はご経験がありますが、
 眠たくなると子供はわけがわからなくなる。
 特に、睡眠不足は容易に人間をおかしくするものです。

 

 

 身体的な健康が脅かされると、人間はだれでも妄想的になります。

  
 そのために、「0階部分」では、「身体」的な健康、安心安全が確保されていることがとても大切です。

 

 

 「0階部分」を整えるためには理屈よりも何よりも、まずは、睡眠、食事、運動から入る。

 睡眠をしっかりとり、栄養を整える。
 
 最近は、鉄分などの不足が精神の不調に大きく影響している、ということが指摘されるようになってきています。

 
 また、たとえばうつ病でも「運動」によって9割が回復するというエビデンスがすでにある(抗うつ剤では2割しか治らない)。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 それほどに「0階部分」は大切です。  

※いわゆる「愛着」というのは、「0階部分」のOS(オペレーションシステム)ともいうべきもので、ソフト面から「0階部分」の機能をサポートしてくれています。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 「0階部分」によって、わたしたちの「公的領域」、「関係」というものは支えられています。

 

 

 

 

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ニセの公的領域

 

 インターネットでは、偽のサイトに誘導して情報を盗んだり、という犯罪があります。銀行とかECサイトとか、「公的な」会社を偽装して、「パスワードを変更してください」といったようなメールを送ってきて信用した人がログインすると情報を取られる、というようなことです。

 よく、会社のホームページには「当社を騙るメールにご用心ください」といったような注意書きがされています。
 

 世の中には、使い人を陥れるために、ニセの公を騙る行為が存在します。

  

 これまで「公的な領域」の大切さ、についてお話してきましたが、私たちにとっての「公的な領域」にも「ニセの公的領域」というものが存在します。

 

 例えば、クライアント様からのご相談でしばしば「“世間の目”がこわい」というケースに出会います。世間が常に私を見ている、気になって外出できない、といったことです。

 私たちも世間の目というものを感じることはあります。世間の目というものがあたかも事実であるかのように、自分を圧迫し、厳しく評価し、行動をしばるように体感されることがあります。

 

 その世間の目に合わせて自分の行動を抑制したりしなければならない、自分を品行方正に変えなければならない、と思って苦しくなります。
 

 ただ、これは実は「ニセの公的領域」に当たります。

 実際には“世間”なるものは存在しませんが、あたかも存在するかのように思わされ、そこに接続されることで、呪縛されてしまっている状態です。

 

 このニセの“世間の目”とは何からくるかといえば、しばしば親や祖父母など家族の価値観からくるものだったりする。

 親や祖父母がなかば妄想的に世間をとらえていて、家族を「巻き込み」、ニセのリアリティを形成する。

 
 「家族価値」といって家族の中でのローカルな価値観が縛ることもあります。
「~~でなければならない」「~~といった人間はダメだ」といったようなことです。

 
 家族の呪縛はとても強いのですが、一方で、単なるニセモノですから、本当の公的領域とつながってニセモノと気が付けば、容易に離れていってもくれます。

 

 別のケースでは、例えば、私たちが過去について「恥ずかしい」「思い出したくない」といった嫌な記憶を持っていて頭から離れずに困っていることがあります。あまりに強いとトラウマと呼ばれたりもしますが。

 これも実は、「ニセの公的領域」です。

 

 

 記憶の中で、自分の行為を評価するニセの規範が存在していて、自分の行為を縛っている。現実には当時の記憶は他の当事者たちも覚えていないことも多いですが、本人の中ではクリアに反復されている。
 

 

 筆者も経験がありますが、例えば同窓会などで、昔の仲間と再開する。
自分の中でははっきりしているような記憶でも、同じ仲間は全く覚えていないことはとても多く戸惑うことがあります。
 人間の記憶というのはこのように移り変わっていくものなのだ、と実感します。

 自分の中でいつまでも消えないような恥ずかしい記憶も、実は自分の中だけのもので、それはある種の「ニセの公的領域」なのだということを痛感するのです。
 本人には「クリアすぎて、偽物とはどうして思えない」かもしれませんが、ほかの当事者も忘れているようなことがホンモノなわけがありません。

 

 

 さらにいうと、当時いた環境が非常に生きづらかった場合。家庭、学校や会社などが典型ですが、それは、その環境が「機能不全」を起こしていた、ということです。

 本来は、本当の「公的な環境」へと仲介するはずなのですが、その環境のローカルルールをあたかも「公的な環境」であるかのように装って、メンバーの「私的な情動」を解消するために、ほかのメンバーにハラスメントを仕掛けるようになるのです。

 それがいじめなどという形で現れます。

 

 いじめは、私情を常識とすり替えて「ニセの公的領域」を作り出して、そこにメンバーを巻き込みます。それによってハラスメントを正当化する。
 被害者は、大人になっても、当時の「ニセの公的領域」につながったまま、離れることができず、それに適応できない自分を責め続けたり、自分を委縮させるということが起きていたりします。

 これも「ニセの公的領域」です。

 

 

 私たちは、誰もがどこか「ニセの公的領域」とのつながりがあり、苦しみを感じていたりする。
 「つらい過去の記憶」も実は「ニセの公的領域」です。

 なぜなら、つらい過去の中には必ず“世間”があり、“社会”、人の目というものがあるからです。

 

 私たちはクラウド的生き物で、どこかにつながっていないと生きていくことができない存在です。そのため、ニセ物にも接続してしまう。トラウマとは、それが更新されないこと。

 健全な状態であれば、真の「公的な領域」の支えを感じ、ニセモノのおかしさに気づき、学習し、関係が更新されていき、健康さを維持、成熟することができます。

 十分な支えがない時には、「ニセの公的領域」から抜け出すことが難しい。
あたかも映画「マトリクス」の住人のようにそれを本物ととらえ続けてしまう。
 

 カウンセリングのゴール、目的というのは、「ニセの公的な領域」から抜け出して、本当の「公的な領域」とつながっていくためのお手伝いをする、というところにあるのかもしれません。

 

 

 

相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 皆様もご経験がおありと思いますが、
目の前の相手が急に機嫌が悪くなった時に、単に相手が機嫌が悪い、というだけではなく、何かそこに闇が発生したような感覚になって、そこに自分も吸い込まれるようになるような感覚を受けることがあります。

 

 例えば、家族の機嫌が悪くなった、というときに、そこが深い闇のようで、そこに引っ張られるような感覚。

 自分も同じようにいらいらしてきたりして、喧嘩になったり。あるいは、自分が罪深いような感じがして、申し訳ない気持ちになったり。相手の悩みを延々と聞いてしまったり。
 

 会社の上司や、お客さんで気難しい方がいた場合にも、その方が生み出すネガティブな雰囲気によってこちらも汚染、呪縛されてしまいそうな気がしたりすることがあります。

 

 これらは、自分の中の「私的な領域」を適切に昇華して「公的な環境」を構築できていないために起こる現象です。

 

 しかも、ただえさえ、人間というのは発作を起こしてやすく、すぐに解離してしまう生き物。

特に公私があいまいな、私的な空間にいると、容易におかしくなってしまう。
(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 公的な人づきあいの場所で「私的な領域」が漏洩してしまった人にトラウマを負っている人が反応して、おろおろしてしまう、という構図はしばしば起こります。

 本来、人間は、私的な存在である状態から、公的な存在へと適応、成熟していく生き物です。
  

 この世に生まれてきて“私的な状態”の人間に「愛着」という土台・安全基地を作り、そこから公的な表現ができるようにする、これが子育て、教育というものです。
 「愛着」があることで、私たちは「公的な領域」を安定して築くことができます。

 

 愛着が不安定である、というのは、自己の内外で公的な環境を維持することができない、ということ。

 

 

 例えば、パーソナリティ障害というのは、年相応の人であればしないであろう状況で、感情を爆発したり、児戯のような行動をしてしまう。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 安心安全の土台がないために、「公的な環境」をキープできない。

 

 

 逆に言えば、どんなに不安定な人でも、温かな「公的環境」にいれば、感情的になることはない。

 自分を理解してくれる人とともにいる、というような場合はとても落ち着き、冷静でいられます。

 これは、その方とのプライベートな空間にいて安心できる、のではなく、安定した人がそばにいることで、その方から醸し出される常識や社会通念といったものを感じ取って、それが「公的な環境」を作り出してくれるから安心できるのです。

 

 

 例えば、学校でいじめられている子でも、保健室に入った時にとても落ち着くことがある。
 これは、保健室という環境だけではなく、そこから感じられる落ち着いた「社会の香り」によって、教室での歪んだ(絶対と思わされていた)ローカルルールが相対化されるから。

 

 別の例では、ギスギスした会社に勤めている方が高いストレスにまいっていると、たまたま街中で出会った方ののんびりした雰囲気に触れて何やら癒されることがある。
これも、その方個人の魅力だけではなく、その方が持つ「多元性」「常識(の雰囲気)」によって、偏った会社の(私的な)文化が是正されるから。

 

 「公的な領域」に触れると、人は癒される。

 

 逆に、特定の人の「私的な領域」に依拠してしまうことを「依存」あるいは、「支配」といいます。

 逆に、そうしたメカニズムがわからずに、人間関係において「私的な領域」(例えば、馴れ馴れしい関係)を作り出してしまうと、人は問題行動を起こすようになってしまいます。

 

 パーソナリティ障害とまではいかなくても、日常で接している人が、嫉妬とか、情緒のブレによって、おかしくなってしまうこともあります。

 

 そうしたとき、これに対してどのように対処するか、といえば、

 「取り合わない」ということ。

 相手の「私的な領域」には深追いしていかない。

 取り合わない、深追いしない、というのはどういうことかといえば、なぜ、相手がおかしくなったのかは考えない。相手の内面を想像したりしない。

 

 「公的な場で表現される言動がすべて」だとして、それ以上は取り合わない。

 

 せいぜい、「今日は体調がお悪いようですね」という程度にとどめる。

 

 こちらに対して理不尽な行動をしてきたら、

 おちついて(「公的な環境」を維持しながら)、

 「どうされましたか?」
 「今の振る舞いは失礼に感じますが、いかがですか?」 

 というと、相手が我に返ることもあります。

 あっさりしすぎているように感じるかもしれませんが、その程度が標準。

 

 トラウマを負った人は、ついつい相手の「私的な領域」にお付き合いしてしまう。

 なぜなら、もともと親が理不尽だったりすることが多いため。

急に怒り出す父親、不安定な母親。

 そうした機能不全な人たちについて、

 「なぜ怒ったんだろう?」
 「どうして、機嫌が悪くなったのか?」

 などと考えさせられてきたために、「私的な領域」に立ち入ることが習慣になっているのです。

 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 親からは、「(機嫌が悪くなったのは)お前のせいだ」「私たちの気持ちを察しろ」といわれるものだから、
それが当たり前になってしまっている。

 本当はそれらは全くのデタラメであり、真に受けてはいけない。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 自分は常に、「公的な環境」に身を置く。

 相手の気持ち(私的な領域)のことは考えない。
 公の振る舞いに現れたことについてだけ対応する。

 相手が何かおかしなふるまいをしたら構わない。

 光が当たる道を進み、闇には深くかかわらない。

 こうしたことを心がけていると、自他の区別がつき、自然と距離が取れ、自分の中でも安心、安全が育ってきます。
公的な領域を築き、維持することができるようになります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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