「免責」の“条件”

 

 本当に自分らしく生きるためには、「ニセの責任」を降ろさないといけない。

 ただ、なかなか抜けない。
 特にローカルルール(私的領域)の世界にいるうちは本当に難しい。

 村の掟からすると、その責任は絶対で、どうやっても外れない、と思わされているから。

 強固なようでいて、それらはふとしたことではずれることもある。

 

 

 例えば、日常の多忙さの中で煮詰まっているとき、悩みの中にあるとき、街中で買い物をするために立ち寄った店で出会った気楽なおじさんとやり取りする中で、癒されるという経験が筆者にもあります。
 

 おそらく、そのおじさんの中に、自分が属するローカルルールの世界とは違う感覚を感じ取り、おじさんを通じて、公的な環境と一時的にでもつながることができたから。

 
 もう一つは、犬や猫などの動物と接したときの感覚。とても癒さる、という方も多いのではないでしょうか。

 

 なぜかといえば、彼らはこちらに関心はあっても、余計なことはしかけてこない。また、彼らが属する自然の世界にこちらが触れることで、ローカルルールの呪縛がはずれるから。

 イルカなどでセラピーを行いますが、なぜ効果が高いかといえば、同様のことがあるのではないかと思われます。

 別の例で言えば自然とのふれあい。
 キャンプをしたり、海を見たり、自然の中で過ごすことも癒しの効果があります。
 

 

 このように、 「公的な環境」には、ニセの責任を免責する強い力がある。

 ローカルな環境というには、私的な情動など個人的なものが「公的なもの」という化けの皮をかぶっている状態なので、多くの人は、「これが社会だ」「これが世の中だ」と思い込んでいるけれども、全然違う。

 本当の「公的な環境」とは、もっと奥が深いし、私たちをもっと自由にしてくれる力がある。「公的な環境」には、いわゆるニセの責任がない。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 

 以前、あるカウンセリングの勉強会で、ナラティブセラピーについて、実習を経験することがありました。

 

 3人一組で、1人はクライアント役、2人は治療者 ということです。

 クライアント役の方は題材として悩みを示します。
 それについて2人の治療者は、どうするかといえば、クライアント役の目の前で「あ~だ、こ~だ」と相談します。クライアント役はそれをずっと聞いているのです。

 

 途中疑問があったらクライアント役に確認、質問することもできます。

 

 最初は真面目に相談していますが、あまりうまくいきません。
 だんだんとほぐれてきて自由にアイデアが出せるようになってくると、うまくいくようになってきます。
 

 途中、ある意味、失礼なこと、適当な意見もあるかもしれませんが、どんどんとアイデアを出していきます。そして適宜、クライアント役の方にも確認をしていきます。
 

 一通り終わった後に、クライアント役に「今悩みはどうですか?」と聞くと、
 「すっきりしています」と、不思議なことに、悩みが解消しているのです。

 

 もっと感想を聞いていると、
 「自分の悩みが扱われて、向こう側で考えられていることが心地よい」といったような感想。

 適当にアイデアが出されることに腹が立つ、なんてことはない。
 違和感を持つことがあっても、ちょっとおかしな方向に行っても、途中確認を取って修正される。そうすることで、だんだんとすっきりしてくる。

 中には、長年解消しなかった悩みが取れた、というような方もいました。
 

 

 実際に、これを活用して、「オープンダイアローグ」という北欧で開発された手法があり、日本でも紹介されていますが、それによると、統合失調症でも平均2週間程度で解決する、とされている。オープンダイアローグでは、医師や心理士が患者を交えて相談して方針を決める。
 何事も患者の意向に反しては決められない。
 方針そのものもありますが、患者もときに参加して議論されることが劇的な効果があるようです。

 統合失調症とは、どうやら脳の器質的な疾患というよりも、社会的なつながりが関係する病であることが見えてくる。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 

 なぜこのようなことが起きるのでしょうか?

 

 

 まず一つは、意識が背後に下がり、無意識の世界に入るという側面。

 
 もう一つのメカニズムは、治療者が複数人(2人)いて、相談することで、そこに「公的な環境」が生まれる、ということ。公的な環境が生まれて、そこで自分の悩みが扱われることで、社会とのつながりが回復する、ということ。

 

 最後に、これが一番のポイントですが、

 そうしたつながりを通じて、「ニセの責任」が免責されて、ローカルルールの呪縛が解けてくる、ということ。 
 
 それによって、統合失調症のような難しい問題でも、短い時間で悩みが解決されていく。
 
 

 ここで疑問に思うのは、
 一対一ではダメなのか?クライアントが一人、治療者が一人で、治療者がアイデアをポンポン出すのでもよいのではないか?
 うまくやればいいんじゃないか、とおもいますが、それだとうまくいかない。
 

 

 なぜなのか?といえば、それは、治療者側にかかる「責任(ニセの責任?)」が邪魔をするから。
 
 相談されたからには結果を出さないといけない、とか。
 治療者が治療者然としていないといけない、とか。
 失敗できない、とか。
 
 治療者が、そういう意識から自由になることは難しい。

 

 

 一対一だと、どうしても、その関係に呪縛されてしまう。「責任」から自由になれない。

 一対複数でも、治療者サイドが、結果への責任などにとらわれていると、うまく機能しなくなる。

 驚くことですが、実は、治療者も適当な方がいい。

 どうやら、クライアントが「ニセの責任」から免責されるためには、治療者側も免責されないといけないようです。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、「ニセの責任」が免責されると、ありのままの現実がみえてくる。

 

 私たちは、「ニセの責任」を背負わされすぎて、「過責任」状態になっている。それによって、自分を守ることに労力を注がざるを得なくなって、本当に大切なことに責任が取れなくなる。主体的になれなくなる。

 「ニセの責任」からいかに自由になるかが、生きづらさから抜け出すポイントになる。

 

 本当を言えば、「機能している家族」「愛着」、というのは、免罪の装置として働きます。親が「安全基地」として存在し、「あなたは大丈夫よ」という態度、言葉で接してくれることで、免罪(代謝)が機能します。
 そして、成長する中で愛着が内面化し、自分の中でニセの責任を免責することができる。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 ただ、多くの場合、愛着に不安があり、免責が機能しなくなる。 
 親が親の機能を果たせず、親自身が「ニセの責任」発生装置になってしまい、子供を苦しめることになる。

 「ニセの責任」を免責する機能が内面化されていないため、「ニセの責任」がどんどん蓄積していってしまい、大変な苦労をすることになる。

 
 これが生きづらさや、トラウマ、であると考えられる。

 ※生きづらさとのメカニズムとは、社会学者によれば、「関係性の個人化」とされます。「関係性の個人化」とは、環境の影響などをすべて自分のせいだとしてしまうこと、です。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 

 依存症の世界でも指摘されていますが、「底をつかない」と治療が機能しない、ということがある。つまり、依存症とはそれまでに背負ったさまざまな生きづらさを癒すための自己治療である、ということ。

 元プロ野球選手の清原さんなど、依存症に陥った人を見てもわかるように、とても繊細で強いストレスや生きづらさを抱えていたことがわかる。
 それを癒すために依存が必要であった。

 

 それを、周りが本人の責任のようにお世話をすると(イネーブリング)、周囲から「ニセの責任」が流れ込んできて、本人は余計に問題行動を起こすようになる。

 自助会など様々な場を通じて「ああ、自分には何もないんだな、もう神様、仏様にでも任せるしかない。」「結局、自分は自分だ」と底をついたときに、本当の回復が始まる。

 つまり、「底をつく」とは、「ニセの責任に気づき、免責される」ということだと考えられます。 

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 

 トラウマも同様です。

 トラウマの主要症状にフラッシュバックというものがありますが、まさに、自分にとってつらい体験が繰り返される。
ふつうは睡眠をとることで、徐々に薄れていって「免責」されていきます。

 しかし、トラウマの場合は、自分にとって過去のつらい経験、嫌な経験が、ずっと反復される。

 「自分は何も悪くないけども、嫌ない経験だったんです」という風にはならず、
 ほぼすべてのケースで、「自分が悪かった。迂闊だった」という恥や罪悪感が伴っている。

 もちろん、トラウマとは、外からやってきたイベントにすぎないのですから、「自分は何も悪くない」でいいわけですけども、自分の中に免責機能が十分に機能していない場合、あるいは周囲がおかしな理屈で、「あなたにも問題がある」といったように責めてきた場合などは、処理できずトラウマになってしまう。

 

 苦の原因というのは、「ニセの責任」にある。
 人間が持つ過剰な意味づけなどが誤った原因帰属がさらに「ニセの責任」を重くしてしまう。

 

 

 こうした側面について、「ニセの責任」から抜け出す方法を提示したもう一人の巨人は、ブッダです。

 ブッダの悟りというのは、要は、世界の仕組みをありのままに真に客観的に捉えることができれば、苦から逃れられるということ。  

 私たちは、嫉妬や支配など、様々なローカルルールに縛られて「ニセの責任」でがんじがらめになっている。ローカルルールの中で、それを解決しようとあくせくしているけども、新たな苦を生み出すだけ。

 

 さらに、過剰な意味づけが働いて、何気ないことにも「自分だけに」とか、「何か良いこと(悪いこと)が起こるに違いない」と思ってしまっている。

(参考)→「過剰な合理性や意味づけ

 

 でも、客観的に見たら、自分だけに、ということはない。

 自分の子供が死んだ婦人が、ブッダに相談した際に、「一度も死者が出たことがない家からカラシダネをもらってきなさい」といわれて、家々を訪問してみたら、「実は、私の家でも・・・」とか、「数年前に、子供が・・」となって、婦人が客観的な事実に目覚め、「ニセの責任(私の落ち度で子供が死んだ。私だけがおかしい)」が免責され、苦から解放されていった。 

 

 通常の人間というの、見栄など、軽い幻想を持って生きている。
 また、嫉妬や支配、あとは、精神障害などさまざまなノイズが飛び交っている。その処理をするために、因縁(ニセの責任)を他人にふっかけて何とか自尊心を保っている人たちもいる。それが社会ですが、裏ルールがわからない状態だと、真に受けてしまって「ニセの責任」を強化する材料とされてしまう。

 

 実際は、「自分だけが・・」とか、「自分が悪い・・」なんてことはない。

 

 そのありのままを捉える方法を「悟り」としてブッダは発見した。「因縁(ニセの責任)」から逃れるのが「解脱」ということなのかもしれません。
   

 実は、客観的に見れば見るほど、迷妄は取れてきて、本来の自分になってくる。

 

 「事実、現実」というと恐ろしいように見えていますが、

実際は、
 「(ニセの現実を回避するための)幻想」-「ニセの現実」-「ありのままの現実」と3層になっている。

 

 私たちが恐れる「現実」とは、「ニセの現実」。
「幻想」と「ニセの現実」の間にも、ニセの責任からもたらされるものすごい恐怖があるので、見れなくなりますし、「ニセの現実」とありのままの現実との間にもさらにものすごい恐怖があります。

 ですから、容易にそこをクリアすることができない。

 

 でも、「ニセの現実」は「ニセの責任」による罪まみれで、みじめで苦しいもの。「ニセの責任」が免責されてくると、ありのままの現実がちゃんとみえてくる。

 

 ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、
 「ニセの責任」が免責されてさらにありのままに客観的に現実が見える。

 そうするなかで生きづらさは徐々に無くなっていきます。
 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ

 

 悩みの根源としてあるのは、「安心安全」の欠如、ということでしたが、
安心安全を得ることを阻む最大のものがあります。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」の回復は問題解決の中核」 

 

 それは、「責任」というものの存在です。

 責任とは、人間の自由意思に基づく主体的な行動を前提として、その影響(原因)について、道徳的、法的に応答する義務、といったものです。「responsibility」 というように、応答する、反応する能力とも言い換えられます。

 

 愛着障害/不安定型愛着に「回避型」という類型があるように、私たちは、責任を取ることを極度に恐れます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 誰かのせいにしたり、ウソをついてしまったり、謝るけども腑に落ちないまま、といったことが生じます。
 応答する能力、ということでいえば、人とコミュニケーションをとる際は、正中と正中同士が向き合って接するというよりも、半身の姿勢で、いつでも逃げれるように接してしまいます。

 

 

 回避、防衛をすることに人間は膨大な労力を使っていて、それが、真にその人が力を発揮することを妨げています。

 「安心安全」に生きたいのですけども、社会で過ごしているとどこからか不意に「責任」を押し付けられて、それで身動きが取れなくなることを私たちは極度に恐れています。

 
 回避するために、問題行動を起こしてしまったり、うつや不安、依存、といった心身の症状に悩むようなことも生じる。

 

 結果どうなるかといえば、人生の主導権というか、主体性を失ってしまう。

 人間が自分の主体性を発揮していて、「責任」を取っていると感じられるときは生き生きしています。

 

 ですから、責任をとれるようになろう、ということで認知行動療法とか、自己啓発などで、自分の回避癖、防衛を取りましょう、という趣旨のセミナーとか、セラピー、ワークなどがあったります。
 しかしながら、うまくいくことはありません。
 やればやるだけ、反対に身動きが取れなくなります。

 

 なぜかといえば、それは、「防衛」「回避」している人は、責任を取っていない、取りたがらない、取れない、のではなく、責任を取りすぎている(取らされすぎてきた)からです。

 実は、ふつうの人以上に過剰に責任を負わされてきている。表面的には回避して頼りなく見えるかもしれませんが、責任感がとても強いのです。過剰に責任を取らされてきて、「もうこれ以上、責任は負えないよ!どうすればいいの!」という状態だからです(過責任)。

 

 しかも、その責任とは、実は本人の責任ではなく、「ニセの責任」や「他人の責任」を負わされてきているのです。
 

 「ニセの責任」とはどういうことかというと、例えば子供のころ、親がイライラしている、親が単に機能不全であるのですけども、そのイライラというのは、親の情緒不安定さ、であるわけですが、その責任を子供になすり付ける。

 「お前がいい子にしないから、私がイライラする(イライラするのはお前の責任だ)」

 親同士がけんかするのも「お前の責任だ」とされる。

 

 カウンセリングをしていてよく耳にするのは、
 子供が親から「お前は(仲の悪いほうの親と)顔や態度が似ている(お前はだからダメだ。その責任をとれ)」、というような暴言を浴びせられること。
 (「お前は、父に似ている」「お前は母に似ている」といった言い方です。)

 まさに、親という役割を放棄して(機能不全)、自分の感情や嫉妬といったことから「因縁」をつけているだけ。子供の責任をねつ造して、自分を優位に立たせたり、パートナーとの関係での不満の腹いせをしているだけ。何ら合理的な意味がない。

 

 

 別のケースでは、いじめがある。
 いじめはまさに、「責任のねつ造(因縁)」の典型。
 「空気が読めない」だの「ぶさいく」だの「くさい」だの、
 無いこと、無いことをでっち上げていけにえを作り出して、ローカルルールの私情を満たそうとする。

 いじめの被害者は、負わされた「ニセの責任」でその後も苦しむことになります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 さらに、いじめという集団といったケースを取らなくても
 1対1でも同様のことは生じます。
 
 自分の嫉妬や支配欲といった、私情でしかないものを、公的なことだとすり替えて、「あなたは~~だ」「これは常識だ」と相手に因縁を吹っかけて、責任をねつ造して、呪縛する。
 (例えば、「~~さんって、××だよね」といった失礼なことをいきなり言われたり)

 呪縛している間は、その相手は動きが鈍りますから、それを見て留飲を下げる。
 

 

 

 「責任」というのは、実はかなり怪しい概念です。実は個人の責任であることはほぼ存在しない。

 会社でも失敗の責任は、担当者の責任にされますが、例えば、売り上げがノルマに達しない場合も、
  ・ノルマが現実的ではない
  ・そもそも商品、サービスが悪い
  ・販売を支援する仕組みが整っていない。
  ・会社のブランド力が低い

 など様々な要因があって、商品が売れる売れないは、一番最後の話。仕事とは総合力。
 
 さらに、日本経済の成長率や、人口動態も大きく影響する。成長というのは近代資本主義の神話でしかありません。常に成長することなどは約束されていない。

 現場でできる工夫などはかなり限られている。
 戦術的成功は戦略を越えられない、というのは軍事上の常識ですが、戦略のないままに、「戦術的に大成功をおさめろ、それが担当者の自己責任だ」といわれているケースはとても多い。

 

 ミスにおいても、同様です。会社自体にミスを防ぐ仕組みがない。仕組み、書類がそもそもミスを誘発しやすい、といったこともある。

 サッカー解説者の戸田和幸さんが本で書いていましたが、サッカーでは、最後にキーパーが脇を抜かれてゴールを決められる、その前にはDFがミスをしたように見えるのでそこだけ切り取られると、キーパーやDFのミスのように見えるけども、そもそも、ボールを失ったときの失い方、あるいはその前の攻撃の時に攻め込みすぎていないか、といったことでゴールは決まってしまっている、といいます。

 

 テニスでも同様で、ポイントを取られる、2,3個前のプレーで決まってしまっている。ダブルスだったら、自分がミスしているように見えて、パートナーのプレーによって、決まってしまっていたりもする。

 

 などなどと考えると、仕事においても、責任とは何? ということはとても難しい、多くの場合、その人の責任ではないものを、無理矢理責任にされてしまっている。

 トラウマを負っている人というのは、しばしばこうした、自他の行動の範囲があいまいな環境、責任がねつ造される環境に置かれています。

 

 健康な状態であれば、ストレス処理の仕組みによって、ガードされて、愛着が安定していれば自他の区別もつきますが、長年のストレスでストレス応答系が失調し、愛着不安で自他の区別がつきにくいために、「自分の責任ではありません」とは言えなくなって、あいまいな中、すべて自分の責任だと思わされてしまう。

 

 そうしていると、「ゴミ拾い」をしているかのように、他人の行為についても先回りして気をもんで、自分の責任ではないものまで自分のものとするようになる。(過剰適応)
 
 常に気をつかってへとへとになる。

 

 本当は主体性からでもなく、自由意志でもなく、ねつ造された他人の責任を取らされているだけ、なので、責任を取っていても腑に落ちないのです。

 さらにいえば、もっと遠回りに環境の影響の積み重ねで追い込まれて、不本意ながら問題行動をおこしてしまうこともある。

 例えば、以前も紹介しました『反省させると犯罪者になります』という本で描かれていることはそうで、犯罪というのは当人が行っているわけですが、でもその背後には、貧困や教育の欠如、養育環境の問題、などさまざまなことがあり、
 追い込まれて追い込まれて、最後に、当人は犯罪を行ってしまう。

 

 最後の瞬間だけを見れば、その人の責任でしかないようにみえるのですが、
 実は長い長い背景がある。追い込まれて追い込まれて、私たちは最後に行動をしてしまう存在です。

 だから、反省させても腑に落ちない。直感的に、自分の責任ではない、おかしいと感取している。

 

 このように、私たちは、ねつ造されたニセの責任によって、責任過多となり、主体性を奪われてしまっている。

 そのうえさらに、「自分の人生という責任に向き合いなさい」といわれても、パンクしてしまうだけ。

 「もうこれ以上どうすればいいの!!」といいたくなります。

 
 場合によっては、医師やカウンセラーからも、「さらに責任をとれ」といわれているような気がして、治療自体が嫌になることもあります。現代は、近代個人主義の時代で、人間は主体的な存在だ、というドグマは根強いものがあるからです。
 

 ただ、自分の責任に向き合えれば好転する、ということは経験的には事実です。確かにその通り。

 
 でも、そこに至るためには、必要なことがあります。

 それは、まずは、ねつ造されたニセの責任をすべて降ろす作業が必要なのです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「0階部分(安心安全)」

 

 以前、「関係」がどのように成立するのかについてまとめました。

 「関係は1階、2階、3階といった階層構造になっている」
 また、「私的領域では人間はおかしくなる、公的な領域こそが本来の居場所である」ということを見てきました。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 実は、これまで明らかにした関係や公的領域にはそれが成立する前提があります。

 それが、今回お伝えする「0階部分」ともいうものの存在です。

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、「関係」によって成立しています。
 そしてその「関係」とは、公的領域でなければ正しく機能せず、私的領域(個人の情動やローカルルール)にとどまった場合、嫉妬や支配といったおかしなものに堕してしまうようになります。

 

 ただ、こうしたメカニズムの以前に、カウンセリングをしていると、「関係念慮(妄想)」といった状況に陥って、周囲への不信や被害感情に苦しんでいる方に多く出会います。

 

 関係念慮というのは、特別に病的な人がなるものではありません。
 誰でも、体調が崩れたり、睡眠不足になったり、あるいは人間関係のストレスにさいなまれると、容易にそのような状態に陥ります。

 

 「周りの人が私のことをネガティブにとらえている。悪口を言われている気がする」
 「周囲がひどい人ばかり」

 といったようなことです。
 

 そのために、クラウド的な存在であるにもかかわらず、「関係」を構築できず、周囲とつながることができず、代わりに、家の中で嫌な家族やつらい過去の記憶とつながるしかなく、余計に苦しくなってしまう、ということが起きます。

 

 これは、トラウマを負っている方に多い傾向があります。
 (内分泌の疾患、発達障害の方などでも同じような問題が生じます)

 なぜ、そうした方に多く見られるかというと、それはトラウマを負っている方は「安心安全」が脅かされやすいためです。

 「安心安全」の欠如とは、身体的な不調、心理的には不安定型愛着に起因します。

 

 
 人間というのは、免疫やホルモン、自律神経によって、外的なストレスに対処しています。ホルモンなどが国境の壁や軍隊の役割をしていて、防御が利いている間は、その内側は平和でいられます。
 

 ボクシングでいえば、ガードしている状態。
 極端に言えば、どんなにパンチがきつくても、ガードしている間は、安全でいられますし、むしろ、打ってくる相手とガードのタイミングが合い、さながらダンスを踊っているかのように、心地よくさえあります。

 

 これが健康な人間の状態で、健康な人から見れば、
 「人間というものは信頼できる。社会とは安全なものだ」と感じられています。ストレスさえも、どこか心地よく感じられる。
 

 

 

 しかし、防壁が壊されたり、ガードのテンポが合わなくなると、ストレスをもろに浴びるようになります。

 物理的には同じ環境にいながら、途端に「人間とは信頼できない。社会とは危険なものだ」と感じられるようになります。

 これがストレス障害(トラウマ)というものです。 

 

 ※出産を基準にして、出産前にお母さんの中でお腹の中でのストレスでその防壁が壊されてしまうことを「発達障害」といい、出産後、環境のストレスで壊されてしまうことを「トラウマ」といいます。そのため両者の症状は瓜二つになるのですが、それはどちらもストレス障害だからです。ホルモンの失調でも似た状況になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

    →「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 
 同じコミュニケーションでも、防壁があるときは、肯定的なメッセージは、そのまま「肯定的なメッセージ」としてとらえれます。
 しかし、防壁がないとむき出しであるために、肯定的なメッセージも「否定的なメッセージ」として捉えられるようになります。

 

 むき出しですから、「周りはひどい人ばかり」となります。
 (臨床心理の世界では、「周りはひどい人ばかり」と訴えているケースは、強いストレス障害(発達障害)による記憶の断片化が疑われます。)
 

 

 相手が普通に送ってくるメッセージが正しく受け取れないわけですから、通常のやり取りができなくなる。「1階、2階、3階」とフィルタをかけながら積みあがていくように「関係」を構築できなくなってしまう。

 (参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 積み上げ=フィルタ式ではなくて、すべてを警戒するか(回避)、すべてを受け入れるか(接近)、といった極端な形になってしまう。

 

 このように、「0階部分」とは、心身の「安心安全」のことを差します。
 「0階部分」が関係を土台となって、私たちを支えてくれています。

 

 トラウマとまではいかなくても、睡眠、食事、運動が不足すると、私たちは容易に土台が崩れてしまいます。

 
  かつての警察の取り調べや、カルトの洗脳などでは、
  ・睡眠時間を少なくし
  ・食事を制限し
  ・自由に運動ができないようにする

 ということがセオリーです。そうすると、正気を維持できなくなるからです。

 小さなお子さんをお持ちの方はご経験がありますが、
 眠たくなると子供はわけがわからなくなる。
 特に、睡眠不足は容易に人間をおかしくするものです。

 

 

 身体的な健康が脅かされると、人間はだれでも妄想的になります。

  
 そのために、「0階部分」では、「身体」的な健康、安心安全が確保されていることがとても大切です。

 

 

 「0階部分」を整えるためには理屈よりも何よりも、まずは、睡眠、食事、運動から入る。

 睡眠をしっかりとり、栄養を整える。
 
 最近は、鉄分などの不足が精神の不調に大きく影響している、ということが指摘されるようになってきています。

 
 また、たとえばうつ病でも「運動」によって9割が回復するというエビデンスがすでにある(抗うつ剤では2割しか治らない)。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 それほどに「0階部分」は大切です。  

※いわゆる「愛着」というのは、「0階部分」のOS(オペレーションシステム)ともいうべきもので、ソフト面から「0階部分」の機能をサポートしてくれています。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 「0階部分」によって、わたしたちの「公的領域」、「関係」というものは支えられています。

 

 

 

 

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