ニセの公的領域

 

 インターネットでは、偽のサイトに誘導して情報を盗んだり、という犯罪があります。銀行とかECサイトとか、「公的な」会社を偽装して、「パスワードを変更してください」といったようなメールを送ってきて信用した人がログインすると情報を取られる、というようなことです。

 よく、会社のホームページには「当社を騙るメールにご用心ください」といったような注意書きがされています。
 

 世の中には、使い人を陥れるために、ニセの公を騙る行為が存在します。

  

 これまで「公的な領域」の大切さ、についてお話してきましたが、私たちにとっての「公的な領域」にも「ニセの公的領域」というものが存在します。

 

 例えば、クライアント様からのご相談でしばしば「“世間の目”がこわい」というケースに出会います。世間が常に私を見ている、気になって外出できない、といったことです。

 私たちも世間の目というものを感じることはあります。世間の目というものがあたかも事実であるかのように、自分を圧迫し、厳しく評価し、行動をしばるように体感されることがあります。

 

 その世間の目に合わせて自分の行動を抑制したりしなければならない、自分を品行方正に変えなければならない、と思って苦しくなります。
 

 ただ、これは実は「ニセの公的領域」に当たります。

 実際には“世間”なるものは存在しませんが、あたかも存在するかのように思わされ、そこに接続されることで、呪縛されてしまっている状態です。

 

 このニセの“世間の目”とは何からくるかといえば、しばしば親や祖父母など家族の価値観からくるものだったりする。

 親や祖父母がなかば妄想的に世間をとらえていて、家族を「巻き込み」、ニセのリアリティを形成する。

 
 「家族価値」といって家族の中でのローカルな価値観が縛ることもあります。
「~~でなければならない」「~~といった人間はダメだ」といったようなことです。

 
 家族の呪縛はとても強いのですが、一方で、単なるニセモノですから、本当の公的領域とつながってニセモノと気が付けば、容易に離れていってもくれます。

 

 別のケースでは、例えば、私たちが過去について「恥ずかしい」「思い出したくない」といった嫌な記憶を持っていて頭から離れずに困っていることがあります。あまりに強いとトラウマと呼ばれたりもしますが。

 これも実は、「ニセの公的領域」です。

 

 

 記憶の中で、自分の行為を評価するニセの規範が存在していて、自分の行為を縛っている。現実には当時の記憶は他の当事者たちも覚えていないことも多いですが、本人の中ではクリアに反復されている。
 

 

 筆者も経験がありますが、例えば同窓会などで、昔の仲間と再開する。
自分の中でははっきりしているような記憶でも、同じ仲間は全く覚えていないことはとても多く戸惑うことがあります。
 人間の記憶というのはこのように移り変わっていくものなのだ、と実感します。

 自分の中でいつまでも消えないような恥ずかしい記憶も、実は自分の中だけのもので、それはある種の「ニセの公的領域」なのだということを痛感するのです。
 本人には「クリアすぎて、偽物とはどうして思えない」かもしれませんが、ほかの当事者も忘れているようなことがホンモノなわけがありません。

 

 

 さらにいうと、当時いた環境が非常に生きづらかった場合。家庭、学校や会社などが典型ですが、それは、その環境が「機能不全」を起こしていた、ということです。

 本来は、本当の「公的な環境」へと仲介するはずなのですが、その環境のローカルルールをあたかも「公的な環境」であるかのように装って、メンバーの「私的な情動」を解消するために、ほかのメンバーにハラスメントを仕掛けるようになるのです。

 それがいじめなどという形で現れます。

 

 いじめは、私情を常識とすり替えて「ニセの公的領域」を作り出して、そこにメンバーを巻き込みます。それによってハラスメントを正当化する。
 被害者は、大人になっても、当時の「ニセの公的領域」につながったまま、離れることができず、それに適応できない自分を責め続けたり、自分を委縮させるということが起きていたりします。

 これも「ニセの公的領域」です。

 

 

 私たちは、誰もがどこか「ニセの公的領域」とのつながりがあり、苦しみを感じていたりする。
 「つらい過去の記憶」も実は「ニセの公的領域」です。

 なぜなら、つらい過去の中には必ず“世間”があり、“社会”、人の目というものがあるからです。

 

 私たちはクラウド的生き物で、どこかにつながっていないと生きていくことができない存在です。そのため、ニセ物にも接続してしまう。トラウマとは、それが更新されないこと。

 健全な状態であれば、真の「公的な領域」の支えを感じ、ニセモノのおかしさに気づき、学習し、関係が更新されていき、健康さを維持、成熟することができます。

 十分な支えがない時には、「ニセの公的領域」から抜け出すことが難しい。
あたかも映画「マトリクス」の住人のようにそれを本物ととらえ続けてしまう。
 

 カウンセリングのゴール、目的というのは、「ニセの公的な領域」から抜け出して、本当の「公的な領域」とつながっていくためのお手伝いをする、というところにあるのかもしれません。

 

 

 

相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 皆様もご経験がおありと思いますが、
目の前の相手が急に機嫌が悪くなった時に、単に相手が機嫌が悪い、というだけではなく、何かそこに闇が発生したような感覚になって、そこに自分も吸い込まれるようになるような感覚を受けることがあります。

 

 例えば、家族の機嫌が悪くなった、というときに、そこが深い闇のようで、そこに引っ張られるような感覚。

 自分も同じようにいらいらしてきたりして、喧嘩になったり。あるいは、自分が罪深いような感じがして、申し訳ない気持ちになったり。相手の悩みを延々と聞いてしまったり。
 

 会社の上司や、お客さんで気難しい方がいた場合にも、その方が生み出すネガティブな雰囲気によってこちらも汚染、呪縛されてしまいそうな気がしたりすることがあります。

 

 これらは、自分の中の「私的な領域」を適切に昇華して「公的な環境」を構築できていないために起こる現象です。

 

 しかも、ただえさえ、人間というのは発作を起こしてやすく、すぐに解離してしまう生き物。

特に公私があいまいな、私的な空間にいると、容易におかしくなってしまう。
(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 公的な人づきあいの場所で「私的な領域」が漏洩してしまった人にトラウマを負っている人が反応して、おろおろしてしまう、という構図はしばしば起こります。

 本来、人間は、私的な存在である状態から、公的な存在へと適応、成熟していく生き物です。
  

 この世に生まれてきて“私的な状態”の人間に「愛着」という土台・安全基地を作り、そこから公的な表現ができるようにする、これが子育て、教育というものです。
 「愛着」があることで、私たちは「公的な領域」を安定して築くことができます。

 

 愛着が不安定である、というのは、自己の内外で公的な環境を維持することができない、ということ。

 

 

 例えば、パーソナリティ障害というのは、年相応の人であればしないであろう状況で、感情を爆発したり、児戯のような行動をしてしまう。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 安心安全の土台がないために、「公的な環境」をキープできない。

 

 

 逆に言えば、どんなに不安定な人でも、温かな「公的環境」にいれば、感情的になることはない。

 自分を理解してくれる人とともにいる、というような場合はとても落ち着き、冷静でいられます。

 これは、その方とのプライベートな空間にいて安心できる、のではなく、安定した人がそばにいることで、その方から醸し出される常識や社会通念といったものを感じ取って、それが「公的な環境」を作り出してくれるから安心できるのです。

 

 

 例えば、学校でいじめられている子でも、保健室に入った時にとても落ち着くことがある。
 これは、保健室という環境だけではなく、そこから感じられる落ち着いた「社会の香り」によって、教室での歪んだ(絶対と思わされていた)ローカルルールが相対化されるから。

 

 別の例では、ギスギスした会社に勤めている方が高いストレスにまいっていると、たまたま街中で出会った方ののんびりした雰囲気に触れて何やら癒されることがある。
これも、その方個人の魅力だけではなく、その方が持つ「多元性」「常識(の雰囲気)」によって、偏った会社の(私的な)文化が是正されるから。

 

 「公的な領域」に触れると、人は癒される。

 

 逆に、特定の人の「私的な領域」に依拠してしまうことを「依存」あるいは、「支配」といいます。

 逆に、そうしたメカニズムがわからずに、人間関係において「私的な領域」(例えば、馴れ馴れしい関係)を作り出してしまうと、人は問題行動を起こすようになってしまいます。

 

 パーソナリティ障害とまではいかなくても、日常で接している人が、嫉妬とか、情緒のブレによって、おかしくなってしまうこともあります。

 

 そうしたとき、これに対してどのように対処するか、といえば、

 「取り合わない」ということ。

 相手の「私的な領域」には深追いしていかない。

 取り合わない、深追いしない、というのはどういうことかといえば、なぜ、相手がおかしくなったのかは考えない。相手の内面を想像したりしない。

 

 「公的な場で表現される言動がすべて」だとして、それ以上は取り合わない。

 

 せいぜい、「今日は体調がお悪いようですね」という程度にとどめる。

 

 こちらに対して理不尽な行動をしてきたら、

 おちついて(「公的な環境」を維持しながら)、

 「どうされましたか?」
 「今の振る舞いは失礼に感じますが、いかがですか?」 

 というと、相手が我に返ることもあります。

 あっさりしすぎているように感じるかもしれませんが、その程度が標準。

 

 トラウマを負った人は、ついつい相手の「私的な領域」にお付き合いしてしまう。

 なぜなら、もともと親が理不尽だったりすることが多いため。

急に怒り出す父親、不安定な母親。

 そうした機能不全な人たちについて、

 「なぜ怒ったんだろう?」
 「どうして、機嫌が悪くなったのか?」

 などと考えさせられてきたために、「私的な領域」に立ち入ることが習慣になっているのです。

 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 親からは、「(機嫌が悪くなったのは)お前のせいだ」「私たちの気持ちを察しろ」といわれるものだから、
それが当たり前になってしまっている。

 本当はそれらは全くのデタラメであり、真に受けてはいけない。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 自分は常に、「公的な環境」に身を置く。

 相手の気持ち(私的な領域)のことは考えない。
 公の振る舞いに現れたことについてだけ対応する。

 相手が何かおかしなふるまいをしたら構わない。

 光が当たる道を進み、闇には深くかかわらない。

 こうしたことを心がけていると、自他の区別がつき、自然と距離が取れ、自分の中でも安心、安全が育ってきます。
公的な領域を築き、維持することができるようになります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

自分らしく生きるためには、「公的な環境」を築き、維持することが大事

 
 世の中にはDV(ドメスティック・バイオレンス)を行う男性がいます。家では暴力をふるい、ひどい暴言を吐く異常なふるまいを行いますが、職場や世間では、「いい人」だったりします。
 自分が悪くないということを紳士的に説くために、駆けつけたお巡りさんも騙されたりすることもある。
(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 ある評論家が、家で奥さんに暴力をふるい、それがエスカレートして警察に逮捕されてしまったそうです。
その方は、たくさん本を出して社会からは評価されていたわけですが、家ではとんでもないことをしていたようです。

 アインシュタインも奥さんに暴力をふるっていたというのを耳にしたことがあります。
 公的な業績とプライベートとは関係ない、といえばそうなのですが、なぜそのようなことをしてしまうのでしょうか?
 
 養育環境などはもちろん影響しますが、現在おかれた環境も強く関係します。

 

 

 以前の記事にも書きましたが、人間は公私があいまいな環境、もっと言えば私的な環境では容易におかしくなるのです。

 

(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 家でのふるまいだけを見たら、おかしなことをする人を止めることは難しいように思います。
実際、DVを行う人を治療するのは専門家でもなかなか大変な作業です。うまくいかないケースもあるようです。

 しかし、そのような人でさえ、職場や世間では紳士的なふるまいをする。

 ここには、私たちがハラスメントを防ぎ、自分が望むような関係を作り生きていくためのヒントが詰まっているようです。

 

 

 

 つまり、わたしたちが自分らしく生きていくためには、「公的な環境」を築き、うまく維持していく必要がある、ということ。

 

 「私的な環境」が本来であり、自然体である、というのは実は大きな間違い。

 トラウマを負っている人、生きづらさを抱えている人は、「私的な環境」を本来のものと考え、そこに陥ってしまいやすい。

 

 なぜかといえば、原家族が機能不全を起こしていているケースが多いから。

 “機能している”とは、公的役割をそれぞれが果たすということにほかなりません。

 父という役割、母という役割、兄、姉という役割、祖母、祖父という役割。社会通念に照らして適切な役割を果たす必要があります。

 “機能している家族”は緩やかにそれがうまくできている。 

 

 一方、“機能不全”な家族は、それがうまくできていない。それぞれが未昇華(消化)の私的な情動で動いている。

 父が父らしくなく、子供っぽい。気ままにふるまい、自分勝手なルールを家族に強いている。

 母は、気分のアップダウンが激しく、急に機嫌が悪くなったり、急に愛情深くなったりする。

 家族の中に秘密がある。

 家族の内面にずけずけと立ち入ってくる。

 などなど
 

 そうした環境で育つと子どもは健全に自我が芽生えず、常に自信がない状態になります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 会社の仕事で考えたらそうしたことは本来はあり得ない。「店員」は「店員」らしく振舞わないといけない。感情ままにふるまうことはできない。少々イライラしても我慢して、役割に殉じます。

 「課長」は「課長」の役割を果たさないと、減給や降格になるかもしれません。
 ※もちろん会社でも機能不全はしばしばあって、感情的にふるまう人がいますが(≒パワーハラスメント)。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちの多くがしばしばおちいっているのは、家庭は「私的な環境」であるという誤解です。

 
 「家庭」というのは、夫婦という血のつながらない他人同士と、社会から養育の責任を負わされた親と被養育者である子が営む共同生活の場であり、そこは立派な「公的な環境」であるということです。

 

 成人していない子供はまだ私的にふるまうことはやむをえませんが、成人のしたあとは、「私的な環境」というのは基本的には本来どこにも存在しません。あっても自分の部屋の中くらい。
 
 あとはどこにいても、「公的な環境」。

 

 だからといって、窮屈で、居場所がないということではありません。

 人間の本来の居場所は「公的な環境」だからです。

 大人になる、成長する、成熟するというのは、「私的な環境」を徐々に整えて「公的な環境」へと変えていくということ。
 “私的な情動”を公的に表現する手段を学び、獲得していくということ。
 公的な活動の場を得ていくということ。社会の中で「位置と役割」を持てるということ。
 社会というクラウドにつながる、ということ。
 
 それが本来の姿。

 

 
 「精神障害」というのは、何らかの原因で公的な環境が乱れて、公私の区別があいまいになっている状態、社会というクラウドにうまくつながれていない状態、を言います。
 

 自分の部屋にひきこもっている状態が快適か、自然体か、といえばまったくそうではありません。苦しんでいるわけですから。あくまで一時的な避難場所としてそうしているだけ。

 

 私たちは、「公的な環境」を築き、維持していく必要があります。

 

 「公的な環境」とはどんな状態か?といえば、

 自他の区別がついていることですし、距離が取れていること、
 相手へのリスペクトがありながらも、対等な関係を持てていること。
 礼儀はあるけど気をつかわないこと、
 公的な行動から逸脱した他者の振る舞いは取り合わないこと。

 

 「愛着」というOSがあれば、ワンパッケージでそれらを備えられますが、愛着が不安定である場合は意識して身に着けていく必要があります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 重いトラウマがあったとしても、公的環境を築く、ということ、それが自分を守ってくれるのだということを意識しているだけで普段の生きづらさは変わってきます。

 

 自分が生きてきた家とか学校とかおかしなローカルルールが占めていたところは私的な闇の環境だとして、そこに呪縛されていると自分も闇の側にいるような感覚に陥ります。

 そこから脱して、自分は闇の側にいるのではなく、常に明るい公の光の側にいる、という感覚。

 今までは、例えば親の闇(私的な)の部分を背負わされていて、闇の暗示をかけられていただけ。
 

「公的な環境」を築くには、いろいろな方法がありますし、条件がありますが、暗示の言葉の力を借りるのであれば、 

 「公の光(おおやけのひかり)」

   あるいは、

 「公の力(おおやけのちから)」

 
と普段、唱えてみるのはけっこう良いです。

「公的な環境」を築き、守るのに役立ちます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

適応するとはルール無用になることではない~自分にとっての“正義”の感覚を身に着ける

 

 人間というのは、クラウド的な存在で、内的外的に環境からの影響で生きている生き物です。理性的な存在ではない。

 そのため、「公私の区別があいまいな環境」に陥ると、すぐに解離しておかしな言動をとり始めます。

 例えば、イライラ。

 イライラの原因はいろいろです。

 ただ、多くの場合、環境からやってくるものを自分のものと錯覚してしまう。他者が感じているイライラを自分のものと思ってしまう。

 あるいは、内面化している父母のイライラを自分のものとしていることもあります。

 

 安定型愛着の場合、イライラを公的な表現へと昇華したり、キャンセルしたりすることが比較的上手ですので、イライラに巻き込まれにくいのですが、不安定型(トラウマを追っている)の場合、簡単に巻き込まれてしまいます。

 

 人間の素朴な信念に、「原因があるから結果がある」ということがあるためにこのイライラは、自分のせいではなく、目の前の人間のせいだ、ということで「因縁(原因帰属)をつけたくなります」

 そこで、「あなたの仕事ぶりが気に入らないのよ」とイライラを相手のせいにする。

 解離した意識の上ではそれはいかにももっともなため、因縁をつけている本人も自分がおかしいとは気が付きません。

 

 人間の行う原因帰属の大半は間違っています。
 特に自分のイライラの原因は他者にはありません。

 ただ、もっともらしく、因縁をつけているだけ。

(参考)→因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 先日の記事でも書きましたが、本来、健康な状態の人というのは、コミュニケーションはシンプル。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

 

 

 明らかにだれが見てもイライラして当然という際にはイライラしますが、おかしな因縁をつけることは少ない。

 それは、うれしい時にはうれしい、悲しい時には悲しい、怒るときには怒る、というように公的な表現への消化が適切になされてきた(愛着)ために、おかしな状況で起こるイライラに巻き込まれにくいのです。

 

 おかしな状況で起こるイライラは、「ここはイライラするところではない。」

 因縁をつけられても、「私には関係ない」と直感することができます。

 
 
 一方、トラウマを負っている人は、すべての責任は自分にあるとしていますから、
 (個人主義的な心理主義も共犯関係にありますが)
 「相手のイライラもすべて自分のせい」
 「理不尽な因縁もすべて自分のせい」
 としてしまい、何が正しいか、正しくないかがわからなくなってしまっています。

 全方位のゲリラ戦を戦っているような感覚で、すべてに備えて、へとへとです。
 

 

 それは、例えば、子供のころに母親が自身のイライラを「あなたのせいよ!」と子供(本人)のせいにしてきたり
 など理不尽な環境で自他の区別、善悪の区分けが混乱させられてきたためでもあります。

 理不尽なことが渦巻く現実の環境に適応する、とは、ルール無用になることではありません。

 適応とは、何が健康なルールで、何がそうではないか、を見極められることで、あとは、そのルールを持って、「これはおかしい(と感じる)」「これは正しい(と感じる)」と自分で見極められることです。

 

 自分の中で、自分にとっての“正義”の感覚が身につくことも、自分らしく生きていくための条件といえます。

 

 そのためには、ルール無用で適応するのではなく、まずは健康な状態に人間のルールとは何かを明確にすること。
そして、そこに当てはまらないものはキャンセルすること(敬して遠ざける)。

 

 
 健康な状態の人間のルールというのは、先日の記事にも書きましたように、

 ・コミュニケーションはシンプルである、ということ、
 ・成熟した人間とは公的な存在であること(公的な環境を維持する大切さ)
 ・関係の階層構造(階層で構造化する)
 といったようなことです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 こうした原則を破ってくるケースは、どこかおかしい。要注意して対応する。
 

 ナチスとかカルトとかもそうでしたが、巧妙に善悪の基準が分からなくしてしまいます。
 機能不全家族もまさにそうで、厳格なローカルルールで、公的な善悪の基準を壊してしまう。
 

 そこに育った人は、善悪の基準がないために、自分というものがなかったり、反対に妙に頑固になったり、何でもかんでも気を使って、適応してしまうために不適応を起こしてしまうのです。

 

 そうした状況では、いくらコミュニケーションの本を読んだり研修を受けてもダメで、まずは、親からの価値観や、理不尽な状況で受けたトラウマを捨てて、原則に還ること。

 そこから、スタートして、もう一度、自分にとっての正義の感覚を回復させていくことが必要になります。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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