自分の弱さ、わけのわからなさ~他者向けの説明、理屈から自由になる

 

 私は、ある休日に日帰りで地方の都市に旅行に行って、そこで、タクシーを拾いさらに観光地へと移動していました。

 行きの移動の際にタクシーの運転手に「その観光地では、帰りはタクシー拾えますかね?」と尋ねると「その町には1,2台しかタクシーがないから拾えないかも」ということで、名刺をもらって、帰りも電話をして来てもらうことになりました。

 もちろんタクシーとして他も回っているので、電話をしてからおそらく30分程度かかります、とのことでした。
 

 で、観光して回って、もうそろそろ帰りの時間かな、ということくらいで、タクシーを呼びました。
 しかし、その時に立ち寄っていた飲食店で思いのほか時間がかかり、タクシーに連絡したところ、時間がかかるなら他のお客さんに対応します、ということで、そのタクシーは一旦その場を離れるということになりました。

 ようやく飲食店から出て、別の観光スポットに向けて歩きながら、もう一度タクシーに連絡をしてみたところ、意外に近いところにいるとのことでしたので、
 その飲食店まで行きますとのことだったのですが、わかりやすいように、途中通りかかった別のお店の名前伝えました。

 さらに言えば、こちらの想定ではタクシーは別のお客さんに対応して、もっと時間がかかると想定していたので、やや予定が狂ってしまったところもありました。

 しかし、またタクシーをリリースすると時間がかかるので、待ち合わせできる場所につく時間についてはよくわからないと、少しぼかして伝えていました。

 もう一つの観光スポットもそれほど時間がかからないという見込みがあったためです。

 そんなこんなで、急いで、その観光スポットを回って、到着してみたら、タクシーはすでにその店の前にいて待っている状態でした。

 運転手さんは、その店の中から出てくるものと思っていたところ、私は外から来たので、「あれ?」という感じで、私も自分の行動をうまく説明できず、ややしどろもどろになってしまいました。
 (なんか、変な人と思われているかも、と)
 

 

 自分としては、自分なりの“都合”や“想定”を元に動いているだけなのですが、対他者に対しての理屈や説明を、となると、その理屈に自分が拘束されるような窮屈さを感じて、妙な違和感を感じてしまいました。

 

 

 同じようなことは、子どものときにもありました。

 子どもなりの気分で、何かを選んだり、迷ったりしているところに、親などに「こっちか?」「どっちや?!」と理屈で詰められて、「はっきりせい!」と怒られるような場面。

 そんな事言われても自分の感覚で感じたとおりにしているだけなのに。。。

 とひどく自尊心を傷つけられるような、惨めな感覚になってしまった記憶があります。 

 それだけなら良いですが、そのうち、親などの大人が「~~だから、こっちにしておきなさい」と自分が感覚的に良いと思ったのとは違うものを選ばされたり、ということが起きたり。
 
 確かに、大人の理屈では、「こちらのほうが長持ちするし」「こちらのほうが色々使えるし」と合理的です。

 しかし、子どもが本人の感覚で決定するということは置き去りにされ、他者向けに理屈がつくような“合理的”とされる決定を本来とされるようになってしまいます。

 そうすると、本来の自分の意向は自分で殺して、外向けの理屈に沿った形で自分の行動を人工的に矯正してくようになります。

 
 本来は、わけがわからない、とされるような衝動や情動をこそ大切にして、そのうえで決定したり、選択していくのが常です。
(参考)→「自分の情けなさ、わけのわからなさ」

 

 実はビジネスで用いられる、ロジカルシンキング、というのも、間違って使うととても危険で、表層的な理屈で相手を詰めてやり込める「ロジカルマッチョ」になってしまうこともよくあります。

 世にいう論破なんていうのも、実はムリクリねじ込んでいるだけだったりします。

 本当のロジカルシンキングとは、わけのわからなさ・情動(≒直感)と、論理とを行ったり来たりできる能力を指します。

 仕事でも怖いのは、それまでの労力(サンクコスト)や、一貫性に縛られてしまうこと、これまで検討を重ねてきた時間や労力を無にしたら相手に悪いから、と決めてしまうのが一番良くないことです。

 本当のロジカルとは、ロジカルに検討が進んでいても、違和感を感じたら、論理を壊して、そこから離れてしまえること。

 洋服屋さんで、あれこれ検討しているうちに、「店員さんの時間を取ってしまったのに、何も買わないわけには・・・」といって必要のないものを買ってしまうなんてとても非論理的ですが、やってしまいかねません。

 その時にロジカルな行動とは、いらないものはいらないとすることですが、

 対店員さん向けには、それだけ検討して、途中良さそうな反応をしておきながら断るという、「わけのわからない」行動を一旦取らなければ、ほんとうの意味でロジカルにはたどり着くことにはなりません。

 

 自分の訳のわからなさに一旦立ち返ることができること、相手に説明できるかどうか?なんていうことに囚われないことです。
  
 
 
 よい幹事やリーダーもそういうところがあります。
 ミスしないように、とか、段取りを間違わないように、という感じではなく、自分の衝動や、わけのわからなさという土台がちゃんとある。

 論理的に組み立てられているかと思ったら、「これ何?」と他人に聞かれたら「単に、自分がしてみたかったんで」と衒いなく答えられる。わけのわからなさと、論理をいったり来たりできる。

 
 そうすることで、変なことに拘束されずに、リセットしてまた組み替えることができる。

 すべてをロジカルに、しかも、他者に説明できるように段取りを組み上げていくと、とても窮屈な構造物になって、他者に説明できるようにするために、無理やり現実を曲げたりするようにすらなってしまうのです。
 
 そして、この拘束こそが、精神障害を生むダブルバインドであるということができます。

 トラウマというのは、まさにそんな経験、体験の束である、というとわかりやすいかもしれません。

 
 他者の都合や間違った論理から抜けるためには、自分のわけのわからなさ、情けなさ、衝動、情動に受け入れ、承認する(される)必要があります。

 

 

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自分の情けなさ、わけのわからなさ

 

 私たち人間というのは本来は非合理的なものです。
 
 というより、生き物ですから、社会的に見た合理非合理の以前に、生物としての衝動であったり、情動であったりそうしたものでできています。

 幼児などはまさに、そんな衝動や情動の塊のような存在です。

 大人から見たら、理由のわからない、ときに理不尽に思えるようなことで成り立っています。

 そうしたものが社会化されて整っていくことで「自分」になるの、というのはこれまでも書いてまいりました。

 しかし、適切に社会化されるためには、理由の分からなさや衝動、情動というものがしっかりと受容されなければなりません。

それが「愛着」というもので、安心安全である、という感覚を生みます。

 
 私たちは、一貫性ということを重んじます。

 それを利用したものが、例えば、営業や販売などで、「Yes、Yes」と言わせていって、だんだんと断りにくくさせていくようなテクニックがあります。

 理屈では買うしかないような理屈で固めていくわけですが、一方で私達の中には、わけのわからない感覚があって、「理由は説明できないけど、断ろう」という気持ちもあるわけです。

 悪い意味での社会的な体面、面子を優先して自分の衝動を殺してしまうと、断れなくなってしまう。

 体面上の、「一貫性」「合理性」「理由がわかる言動」ということを優先すると、相手の理屈や都合に拘束されてしまうわけです。

 

 理屈で動くのも人間ですが、それはあくまで一面であって、状況に応じて、わけがわからないもの、情けないもの、といったそれ以前の状態と行ったり来たりできる事が必要です。

 愛着がある、ということは、自分の情けなさ、わけのわからなさ、といったものが受容される感覚がある、ということです。

 わけのわからなさ、情なさが受容されないと、他者の都合や偽の責任、役割に拘束されてしまう。

 極端になると、その都合や、役割、立場に人生を拘束されてしまい、そうするしか仕方がないとして、息苦しいまま生き続ける、あるいは、立場からずれて情けなさを露呈した自分を消すために、命を絶ったりということも生じます。

 対人関係でも、こうした情けなさ、わけのわからなさ、ということが土台になります。

 内部では、情けなさと、わけのわからなさ、をエネルギーとしながら、社会的な規範によって、整えられたコミュニケーションをアウトプットしていく。

 ですから、とても柔軟ですし、自分中心でいることができます。

 
 遺伝子の世界でも、従来は、遺伝子こそ生物の情報決める本体で、それ以外のものは、不要なゴミのようなものとして扱われてきたとされます。
 しかし、不要とされた領域こそ重要な役割と果たしていることが最近わかってきています。

 同様に、私たち人間も、わけのわからなさ、情けなさ、どうしようもない情動の部分こそが大切で、そここそが、本来の自分を形成するリソースが含まれています。

 精神分析の世界では、そうした領域を「特異性」と読んだりします。
 自由連想で、思いついたわけのわからない連想は、その「特異性」に光を当てるために行われたりするわけです。
  

 悩みから抜けて、本来の自分に立ち返るという場合に、邪魔になるのは、他者の評価や意図、規範の圧力です。
 

 意識で想定される「立派な自分」「本来の自分」に立ち返ろうとすると、結局は、社会における俗な立派さ、本来さ、に影響されてしまいます。

 
 そうではなく、否定(排除)しさろうとしてきた、情けなさ、わけのわからなさ、ということにこそ、「本来の自分」のリソースがふんだんにあるのです。

 

 

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”壊れたラジオ”のように

 

 トラウマやハラスメントから来る自己の喪失が重いケースの場合に多いですが、話が止まらず、ずーっと話をする、という状態になることがあります。

 カウンセリング中も、対話にならず、カウンセラーが方向を変えようと、あるいは制止しようとしても、うまくいきません。
 

 ずっと、問わず語りで、一方的に話を続けるようになる。

 単に躁的になって話をしている、という場合もありますが、ずーっと話が止まらずにという方には特徴があります。それは、自我の統制が非常に弱い状態にある、ということです。

 人間は、他者の言葉を取り込んで、それを内面化している、といわれています(多声的、ポリフォニー)。私たちの思考は、他者の思考の集積でできている。

 

 健康な状態は、内面化した声(規範)について、

・吟味、相対化されている
・多様性がある
・中心となる自我によって統制されている

という特徴があります。スマホにもたくさんアプリがありますが、アンドロイドやiOSなどOSによって制御されていますが、それと同じです。

 

 一方、不全な状態にある場合は、内面化した声(規範)について

・相対化されていない
・多様性が低い
・中心となる自我の統制が弱い

 もっといえば、内面化した声が「超自我化」「人格化」していて、自我の統制を離れて勝手に動き足すような状態です。これが極まれば、「解離性同一性障害(多重人格)」ということになります。

(参考)→「解離性障害、解離性同一性障害とは何か?その原因」

 しかし、多重人格とまではいかなくても、声だけがずっと発せられる、ということはあります。それが、話が止まらずに、ずっと話を続く、という状態です。

 本人が悪いわけではなく、トラウマによる自己の喪失が弱い状態に生じる事象です。

 

 

 あるクライアントさんが、その状態を指して「壊れたラジオのようですね」とおっしゃっていましたが、まさにそんな状態です。意識して、オフにできなくなる。
 

対話ができなくなりますので、当然、カウンセリングが成り立たなくなります。

 最初は、カウンセラーも、「傾聴」していますが、クライアント本人にとっても、それは自身の言葉ではなく内面化した他者の言葉ですから、内容に意味がありません。

 ですから、聞いている側にとっても、意義のあるものとしては伝わってきません。極端になると「聞いていられない」状態になってきます。聞いていられない、というのは人間にとっては、実は、健康的な反応です。発している当人にとっても、その人の言葉ではなく、保持していられない内側の声が漏れているような状態だからです。

 

 では、排泄物のように、聞いていれば収まるか、といえばそうではありません。自分という主体がないと、何十時間話し続けたとしても、発散されないのです。発散とは、主体によって解釈され直されるということを伴って初めて発散となるからです。まさにトラウマ的な無限の世界です。
(統合失調症などは典型ですが、統合失調症の方の話すことを徹底して共感、傾聴するとどうなるか?という実験があったそうですが、改善が見られなかったことが知られています。)

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”」

 

 依存症傾向の方が、くだを巻くような話を延々とすることがありますが、それも同様だと考えられます。あれは当人の言葉ではない。

 トラウマ由来で、自我の統制が弱い状態で発せられる、「他者の言葉」あるいは、「ローカルルールを忖度した言葉」は、当人にとっても改善をもたらすことはありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 そこで、カウンセラーもそれを制止しようとしたり、なんとかしようとしますが、うまくいきません。

 言葉が止まらなくなっている状態のために、どうしてもカウンセリングが成り立たない場合は、まずは、ウォーキングなどの有酸素運動で、心身のコンディションを整えたり、あるいは、自助会などに参加するなどして、ある程度まで自我の統制を回復する必要があります。

 そうして、コンディションが整えば、ようやく解決に向けて取り組んで、ということになります。

 

 

 「壊れたラジオのよう」というのは、機能不全な家族との会話でもよくみられます。

 そうした中では、対話が成立しないために、会話が一方的に投げつけられる、あるいは、こちらの言葉も届かない、理解してもらえない、という関係があります。

 また、家族から自分が理解してもらえないということでもあるために、言葉を多く尽くすことにもなります。

 それでも理解してもらえないので、強迫的になり、言葉が無限に湧き出るような状態になるのです。

 

 あるいは、ずっと愚痴や暴言を吐き続ける、なんていうのもある意味そうかもしれません。

 あるいは、頭の中でぐるぐる渦巻く自分を責める声や、思考というのも、まさに、「壊れたラジオのよう」です。

 実は、それらはOSに統制されていない他者の言葉です。

 そんなふうに見ていくと、自身の状態を客観的に捉えて、解決の足場を作っていくことができます。

 

 

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“詐欺師”に相談してしまう ~実は、相談には環境の支援や構造が必要~

 

 ローカルルールにかかってしまうと、ハラスメントを仕掛けてきている人、支配してきている人に相談しようとする、関わろうとするという悪循環に陥ることがあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ハラスメントを仕掛けてきている相手ですから、嫌なことを言われるに決まっているのですが、何故かその人に相談してしまう。
「私は大丈夫かどうか?」「これはどうしたらいいの?」と尋ねてしまう。

 親や家族などが典型ですが、特に問題が起きると、そのハラスメントの加害者に相談する。

 
 傍から見ていると「なぜ、問題の原因になっている人に、自分を苦しめている人に声をかけるの??」と思ってしまいます。

 

 詐欺に引っかかった被害者の方が、詐欺だとわかったあとに、加害者である営業マン(詐欺師)を呼んで、「これはどうしたらいいですか?」と相談するようなことが起こりますが、まさに同様の事象です。
 相談するなら消費者センターとか、弁護士とか、警察であるはずですが、なぜかそこには相談しようとしない。
 

 なぜか外の人を警戒し、家(内)を守ろうとしてしまう。
外の専門家に相談したらいいのに、身内に相談してしまう。

 あるいは、外の専門家に相談するのも先延ばしにして、自分の頭の中でもやもやと考えて時間を浪費する。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」

 どうしてこのような事象が生じるのでしょうか?

 色々と要因はありますが、一つには、尋ねる相手が自分の存在を承認してくれると期待しているためです。
 あるいは、自分が関与を続けないといけないと思っているためです。なにか自分の不安から逃れるためです。

 

 もう一つは、ニセの公的領域(≒私的領域)に絡め取られていて、本当の公的領域にアクセスすることができていないためです。

(参考)→「ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた」

 

 まさに依存関係にあるということです。これは頭では切り替えることができない。体験や経験を偽装されているので、身体レベルでニセの公的領域が現実であると思わされています。
 

 

 最後には、コミュニティや社会自体の力も十分ではないということもあります。
 これは、日本の近代社会、現代社会の特徴でもありますが、コミュニティの力が弱く、行政の目も粗いために、私たちの側にそれを利用する能力やリテラシーがないと、社会の中で自分を位置づけること、社会の資源の利用が難しい、ということがあります。
 いろいろな問題はありながらも、うまくアクセスができれば何とか生きていけるだけの資源が社会にはあります。しかし、そこにたどり着けないままこぼれ落ちることも多い。
 上の例でしたら、行政や警察などに相談したってどうせ良い対応が返ってこない、カウンセラーに相談しても理解してもらえない、頼りない、という経験をしてしまっている。

 

 実は、「相談」や「探索」という行為自体が飛び込み営業、新規開拓にも似て、とてもエネルギーがいることです。
 こちらに自尊心が一定以上ないとくじけてしまうことでもあります。
 ですから、自尊心のエネルギー残量が一定以上に低下したり、相談や情報収集のスキルが十分ではないと、よい資源にアクセスできる前にくじけてしまう。

 本来の社会、コミュニティはそうした人でも包摂するように設計されなければならないのですが、現時点の日本社会はそうはなっていません。能動的にアクセス、探索が必要な段階の社会です
 (もっと言えば、”家族”という社会の最小単位足りえないものを基礎として設計してしまったおかしな社会。だから、まずは「家族」に相談してしまうのです)。

(参考)→「自分のIDでログインするために必要な環境とは」

 

 本来、生きづらさとは社会からもらされるものですが、トラウマを負うと、社会の仕組みの不十分な点を内面化してしまい、抱えてしまうようになります。

 その結果、特に「家族」という脆弱なものに頼らざるを得なくなり、家族の機能不全や依存関係の影響にからめとられて行ってしまうのです。

 その結果、ハラスメントの加害者、あるいは、機能不全の家族に”相談する”なんていう滑稽な現象が生じるのです。
 
 詐欺師に相談することをもって、本人のせいだ、というのも実はかなり酷なことなのです。本当は構造の問題です。

 
 トラウマの特徴の一つはハラスメント(心理的な支配)、なのですが、トラウマを負わされていると、このような構造が生じます。

 

 

 

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