相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 皆様もご経験がおありと思いますが、
目の前の相手が急に機嫌が悪くなった時に、単に相手が機嫌が悪い、というだけではなく、何かそこに闇が発生したような感覚になって、そこに自分も吸い込まれるようになるような感覚を受けることがあります。

 

 例えば、家族の機嫌が悪くなった、というときに、そこが深い闇のようで、そこに引っ張られるような感覚。

 自分も同じようにいらいらしてきたりして、喧嘩になったり。あるいは、自分が罪深いような感じがして、申し訳ない気持ちになったり。相手の悩みを延々と聞いてしまったり。
 

 会社の上司や、お客さんで気難しい方がいた場合にも、その方が生み出すネガティブな雰囲気によってこちらも汚染、呪縛されてしまいそうな気がしたりすることがあります。

 

 これらは、自分の中の「私的な領域」を適切に昇華して「公的な環境」を構築できていないために起こる現象です。

 

 しかも、ただえさえ、人間というのは発作を起こしてやすく、すぐに解離してしまう生き物。

特に公私があいまいな、私的な空間にいると、容易におかしくなってしまう。
(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 公的な人づきあいの場所で「私的な領域」が漏洩してしまった人にトラウマを負っている人が反応して、おろおろしてしまう、という構図はしばしば起こります。

 本来、人間は、私的な存在である状態から、公的な存在へと適応、成熟していく生き物です。
  

 この世に生まれてきて“私的な状態”の人間に「愛着」という土台・安全基地を作り、そこから公的な表現ができるようにする、これが子育て、教育というものです。
 「愛着」があることで、私たちは「公的な領域」を安定して築くことができます。

 

 愛着が不安定である、というのは、自己の内外で公的な環境を維持することができない、ということ。

 

 

 例えば、パーソナリティ障害というのは、年相応の人であればしないであろう状況で、感情を爆発したり、児戯のような行動をしてしまう。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 安心安全の土台がないために、「公的な環境」をキープできない。

 

 

 逆に言えば、どんなに不安定な人でも、温かな「公的環境」にいれば、感情的になることはない。

 自分を理解してくれる人とともにいる、というような場合はとても落ち着き、冷静でいられます。

 これは、その方とのプライベートな空間にいて安心できる、のではなく、安定した人がそばにいることで、その方から醸し出される常識や社会通念といったものを感じ取って、それが「公的な環境」を作り出してくれるから安心できるのです。

 

 

 例えば、学校でいじめられている子でも、保健室に入った時にとても落ち着くことがある。
 これは、保健室という環境だけではなく、そこから感じられる落ち着いた「社会の香り」によって、教室での歪んだ(絶対と思わされていた)ローカルルールが相対化されるから。

 

 別の例では、ギスギスした会社に勤めている方が高いストレスにまいっていると、たまたま街中で出会った方ののんびりした雰囲気に触れて何やら癒されることがある。
これも、その方個人の魅力だけではなく、その方が持つ「多元性」「常識(の雰囲気)」によって、偏った会社の(私的な)文化が是正されるから。

 

 「公的な領域」に触れると、人は癒される。

 

 逆に、特定の人の「私的な領域」に依拠してしまうことを「依存」あるいは、「支配」といいます。

 逆に、そうしたメカニズムがわからずに、人間関係において「私的な領域」(例えば、馴れ馴れしい関係)を作り出してしまうと、人は問題行動を起こすようになってしまいます。

 

 パーソナリティ障害とまではいかなくても、日常で接している人が、嫉妬とか、情緒のブレによって、おかしくなってしまうこともあります。

 

 そうしたとき、これに対してどのように対処するか、といえば、

 「取り合わない」ということ。

 相手の「私的な領域」には深追いしていかない。

 取り合わない、深追いしない、というのはどういうことかといえば、なぜ、相手がおかしくなったのかは考えない。相手の内面を想像したりしない。

 

 「公的な場で表現される言動がすべて」だとして、それ以上は取り合わない。

 

 せいぜい、「今日は体調がお悪いようですね」という程度にとどめる。

 

 こちらに対して理不尽な行動をしてきたら、

 おちついて(「公的な環境」を維持しながら)、

 「どうされましたか?」
 「今の振る舞いは失礼に感じますが、いかがですか?」 

 というと、相手が我に返ることもあります。

 あっさりしすぎているように感じるかもしれませんが、その程度が標準。

 

 トラウマを負った人は、ついつい相手の「私的な領域」にお付き合いしてしまう。

 なぜなら、もともと親が理不尽だったりすることが多いため。

急に怒り出す父親、不安定な母親。

 そうした機能不全な人たちについて、

 「なぜ怒ったんだろう?」
 「どうして、機嫌が悪くなったのか?」

 などと考えさせられてきたために、「私的な領域」に立ち入ることが習慣になっているのです。

 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 親からは、「(機嫌が悪くなったのは)お前のせいだ」「私たちの気持ちを察しろ」といわれるものだから、
それが当たり前になってしまっている。

 本当はそれらは全くのデタラメであり、真に受けてはいけない。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 自分は常に、「公的な環境」に身を置く。

 相手の気持ち(私的な領域)のことは考えない。
 公の振る舞いに現れたことについてだけ対応する。

 相手が何かおかしなふるまいをしたら構わない。

 光が当たる道を進み、闇には深くかかわらない。

 こうしたことを心がけていると、自他の区別がつき、自然と距離が取れ、自分の中でも安心、安全が育ってきます。
公的な領域を築き、維持することができるようになります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自分らしく生きるためには、「公的な環境」を築き、維持することが大事

 
 世の中にはDV(ドメスティック・バイオレンス)を行う男性がいます。家では暴力をふるい、ひどい暴言を吐く異常なふるまいを行いますが、職場や世間では、「いい人」だったりします。
 自分が悪くないということを紳士的に説くために、駆けつけたお巡りさんも騙されたりすることもある。
(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 ある評論家が、家で奥さんに暴力をふるい、それがエスカレートして警察に逮捕されてしまったそうです。
その方は、たくさん本を出して社会からは評価されていたわけですが、家ではとんでもないことをしていたようです。

 アインシュタインも奥さんに暴力をふるっていたというのを耳にしたことがあります。
 公的な業績とプライベートとは関係ない、といえばそうなのですが、なぜそのようなことをしてしまうのでしょうか?
 
 養育環境などはもちろん影響しますが、現在おかれた環境も強く関係します。

 

 

 以前の記事にも書きましたが、人間は公私があいまいな環境、もっと言えば私的な環境では容易におかしくなるのです。

 

(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 家でのふるまいだけを見たら、おかしなことをする人を止めることは難しいように思います。
実際、DVを行う人を治療するのは専門家でもなかなか大変な作業です。うまくいかないケースもあるようです。

 しかし、そのような人でさえ、職場や世間では紳士的なふるまいをする。

 ここには、私たちがハラスメントを防ぎ、自分が望むような関係を作り生きていくためのヒントが詰まっているようです。

 

 

 

 つまり、わたしたちが自分らしく生きていくためには、「公的な環境」を築き、うまく維持していく必要がある、ということ。

 

 「私的な環境」が本来であり、自然体である、というのは実は大きな間違い。

 トラウマを負っている人、生きづらさを抱えている人は、「私的な環境」を本来のものと考え、そこに陥ってしまいやすい。

 

 なぜかといえば、原家族が機能不全を起こしていているケースが多いから。

 “機能している”とは、公的役割をそれぞれが果たすということにほかなりません。

 父という役割、母という役割、兄、姉という役割、祖母、祖父という役割。社会通念に照らして適切な役割を果たす必要があります。

 “機能している家族”は緩やかにそれがうまくできている。 

 

 一方、“機能不全”な家族は、それがうまくできていない。それぞれが未昇華(消化)の私的な情動で動いている。

 父が父らしくなく、子供っぽい。気ままにふるまい、自分勝手なルールを家族に強いている。

 母は、気分のアップダウンが激しく、急に機嫌が悪くなったり、急に愛情深くなったりする。

 家族の中に秘密がある。

 家族の内面にずけずけと立ち入ってくる。

 などなど
 

 そうした環境で育つと子どもは健全に自我が芽生えず、常に自信がない状態になります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 会社の仕事で考えたらそうしたことは本来はあり得ない。「店員」は「店員」らしく振舞わないといけない。感情ままにふるまうことはできない。少々イライラしても我慢して、役割に殉じます。

 「課長」は「課長」の役割を果たさないと、減給や降格になるかもしれません。
 ※もちろん会社でも機能不全はしばしばあって、感情的にふるまう人がいますが(≒パワーハラスメント)。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちの多くがしばしばおちいっているのは、家庭は「私的な環境」であるという誤解です。

 
 「家庭」というのは、夫婦という血のつながらない他人同士と、社会から養育の責任を負わされた親と被養育者である子が営む共同生活の場であり、そこは立派な「公的な環境」であるということです。

 

 成人していない子供はまだ私的にふるまうことはやむをえませんが、成人のしたあとは、「私的な環境」というのは基本的には本来どこにも存在しません。あっても自分の部屋の中くらい。
 
 あとはどこにいても、「公的な環境」。

 

 だからといって、窮屈で、居場所がないということではありません。

 人間の本来の居場所は「公的な環境」だからです。

 大人になる、成長する、成熟するというのは、「私的な環境」を徐々に整えて「公的な環境」へと変えていくということ。
 “私的な情動”を公的に表現する手段を学び、獲得していくということ。
 公的な活動の場を得ていくということ。社会の中で「位置と役割」を持てるということ。
 社会というクラウドにつながる、ということ。
 
 それが本来の姿。

 

 
 「精神障害」というのは、何らかの原因で公的な環境が乱れて、公私の区別があいまいになっている状態、社会というクラウドにうまくつながれていない状態、を言います。
 

 自分の部屋にひきこもっている状態が快適か、自然体か、といえばまったくそうではありません。苦しんでいるわけですから。あくまで一時的な避難場所としてそうしているだけ。

 

 私たちは、「公的な環境」を築き、維持していく必要があります。

 

 「公的な環境」とはどんな状態か?といえば、

 自他の区別がついていることですし、距離が取れていること、
 相手へのリスペクトがありながらも、対等な関係を持てていること。
 礼儀はあるけど気をつかわないこと、
 公的な行動から逸脱した他者の振る舞いは取り合わないこと。

 

 「愛着」というOSがあれば、ワンパッケージでそれらを備えられますが、愛着が不安定である場合は意識して身に着けていく必要があります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 重いトラウマがあったとしても、公的環境を築く、ということ、それが自分を守ってくれるのだということを意識しているだけで普段の生きづらさは変わってきます。

 

 自分が生きてきた家とか学校とかおかしなローカルルールが占めていたところは私的な闇の環境だとして、そこに呪縛されていると自分も闇の側にいるような感覚に陥ります。

 そこから脱して、自分は闇の側にいるのではなく、常に明るい公の光の側にいる、という感覚。

 今までは、例えば親の闇(私的な)の部分を背負わされていて、闇の暗示をかけられていただけ。
 

「公的な環境」を築くには、いろいろな方法がありますし、条件がありますが、暗示の言葉の力を借りるのであれば、 

 「公の光(おおやけのひかり)」

   あるいは、

 「公の力(おおやけのちから)」

 
と普段、唱えてみるのはけっこう良いです。

「公的な環境」を築き、守るのに役立ちます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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物理的な現実への信頼

 

 数年前、科学の論文の不正事件が世間を騒がせたことがありました。週刊誌やワイドショーでも取り上げられていました。
 世紀の大発見であったものが、単なる不正、トリックではないか、ということでその落差もあってか、世間から大バッシングとなりました。

 その論文にかかわった、とても優秀な研究者が、事件のさなかにあえなく首を吊って自殺されたことを覚えています。非常に実績があって、論文の作成では天才的ともいえる能力があったそうです。

 

 客観的に見れば、「一流大学を出て」「頭もよくて」「科学の世界で実績があって」ということです。
 事件に巻き込まれたとしても、十分立ち直ることはできます。自殺する必要はないように思います。

 しかし、おそらくその方にとっては、自分の評判、イメージが崩れたことが死に相当するようなことであり、自殺するしかなくなってしまったのかもしれません。

 

 カウンセリングを行っていても、非常に学歴も高くて、良い会社に勤めていて、という方が、自信がなくてお悩みであることは珍しくありません。

 傍から見れば、「大丈夫ですよ」と思いますが、ご本人からするとそうは思えない。
 「~~もダメで、~~もダメで」という風に本人は思わされてしまっている。
 

 カウンセラーに言わせれば、養育環境で刷り込まれた「負の暗示」の影響、ということになります。負の暗示のせいで、自分がおかしいと思わされている。
 悩みを解決するためにはそれらを変えればいい、ということでそのお手伝いをするのがカウンセラーの仕事、ということになっています。

 

 ただ、うまくいかないことも多い。なぜでしょうか?
 

 昔から、精神の力で現実を変えよう、変えることができないか、という取り組みはなされてきました。願望実現などもその一つでしょうか。

 ただ、いくらポジティブに考えても現実は思うようには変わってくれない、ということで、その試みは敗れてしまいます。

 カウンセリングでも、考え方を変えよう、と取り組んでみますが、なかなか容易には変えられず、「やっぱり駄目でした・・」ということも珍しくありません。

 

 

 人間にとって現実とは何か?ということについては古代から研究されてきています。

 

 その中で20世紀に哲学者フッサールが始めた現象学という哲学があります。

 現象学とは、人間にとっての認識の構造を明らかにしようとしていて、主観と客観とを統合してそのしくみを理解しようとします。世界は、最初から客観としてあるというよりは、主観が持つ志向によって現われてくるものとします。

 ただ、主観的であればなんでも自分の思い通りに現実を構成できるか、といえば、そうではなく、物理的な現実は主観を「ねじ伏せるように」立ち現れるとします。

 

 簡単に言えば、目の前に壁があった時に、いくら「壁はない」と思っても、すり抜けることはできず、その思いをあたかも「ねじ伏せるように」私たちに立ちふさがってきます。
 ただ、それによって、主観は修正されて、「ここには壁がある」というように現実をありのままにとらえることができます。

 物理的な存在は主観が暴走して妄想のような状態になることを防いでくれます。

 

 こうしたことを繰り返して、私たち人間は現実をうまく認識して、適応していくことができるようになります。

 

 悩みを持つ人にとって「物理的な現実」というのは、「容易に変わらない冷酷なもの」というイメージがあるかと思います。

「物理的現実」というのは、「冷たい」「見たくないもの」というイメージかもしれません。

 

 悩みの原因は、やはり「物理的な現実」なのだ、と思ってしまいます。

 だから考え方を変えて、その現実の解釈を変えたり、不思議な力で現実そのものを変えるのだ、と。

 セラピーもそのためにあるのだ、と。

 

 でも、それは間違っているのかもしれない。

 

 

 実は、負の暗示を良い暗示に変えようとする営み自体が私たちの悩みの根幹を生み出している、ということが見えてきます。

 

 

 例えば、子どものに対して否定的な親がいるとします。

 本来であれば、無垢でかわいい子供に対して、ありのままをみずに、「お前は~~だ」「お前のこういうところが嫌いだ」「ダメだ」といって 接します。
 
 そうしたことが繰り返されることで、子どもは負の暗示を背負います。

 
 認知療法などでは、負の暗示を正の暗示に変えようとする。

 
 ただ、「悪いイメージ」→「良いイメージ」に、というように、いわゆる「観念、空想の世界」の中でのやりとりになるので、また、何かの拍子で自信が失われることもある。

 認知を変えると確かに感覚は軽くなるし、効果は確かめられているのですが、根本的なところの自信は今一歩、という感覚になることがある。

 それは、「観念、空想の世界」での改善だから。

 イメージ、観念を変えただけだからまた、心無い言葉をかけられると、オセロのように簡単に変わってしまうことがある。結果、良くなるんだけど、なかなか良くなりきらない、ということが起こる。

 

 一方、本当によくなるケースもある。
 その場合、無理によいイメージに変える、というよりは、素直にシンプルに自分の良さを知るようになるようなイメージ。本質的に改善されて、生きづらさがなくなって、楽になる。

 

 両者の違いは何か?といえば
 

  「負の暗示」から「正の暗示」ではなく、
  「負の暗示」から「物理的な現実への信頼」へ ということであるということです。

 

 上の例でいえば、無垢でかわいい子供、であるという「物理的な現実」は親がいくらひどい言葉でゆがめようとしても、結局は変わらないわけで、そのことを知る、感じる、信頼するということ。

 学歴も能力もあるのに、なぜか自信がない、という人がいれば、「物理的な現実」を信頼する、ということ。

 

 実際に、「物理的な現実への信頼」は、難ケースを解決していくことが知られています。

 

 依存症などの回復プロセスとして有名な「底をつき体験」というものがあります。

 アルコールなどに依存して、会社にも行けなくなって、家族からもバカにされて、というようなボロボロの状態になっていて、通常のカウンセリングでは太刀打ちできない。

 「ボロボロの自分」を、「良いイメージの自分」に変えようとしてもダメで、またすぐに元に戻ってしまう。

 お酒やお金を隠したり、周りからサポートされてもうまくいかない。また依存行為を繰り返して、見放されてしまう。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 でも、ダメな自分をすべて出していって、うけいれていくと、あるとき、

 「あれ?これ、自分でどうのこうのしようとしてもダメじゃないか。もう何かわからないけど任せるしかない」と感じるようになり、
「ああ、そうか、結局、自分は自分でしかないんじゃないか」と感じるようになる(底をつく)。
 

 ひどい負の暗示に巻き込まれていた子供が、結局、何を言っても「無垢でかわいい子供」でしかない現実があるように、依存症という手ごわい症状にさいなまれていて、社会的な名誉を失うほどになったとしても、「生命体としての自分」という現実は変わらない。

 
 社会的に何かを為した人とそうではない人とではもちろん名声は異なりますが、ふとしたことで誰でも転落するし、大きな病気をしてあっという間に命を落とすかもしれない、裸になれば結局だれでも一緒。

 
 自分は自分でしかないんじゃないか。

 

 社会の中でひどいことを言ってくる相手は、結局、嫉妬や不安をこちらにぶつけてきただけで、そこから発せられる言葉は、神の言葉のように思っていたけど、単なる一個体の鳴き声でしかないのではないか、と気がついてくる。

 

 これまでは、本などを読んで「良い自己イメージ」を持とう、持たなければ、と思っていたけど、そんなことは必要ない。

「物理的な現実」である自分は自分でしかなく、そこを信頼すればいいだけだ、と思えるようになる。

 
 「物理的な現実」は自分にとって願望実現の邪魔者ではなくて、世の中を生きる中で浴びるノイズやハラスメントの防波堤となってくれる。

 

 白鳥に向かって「お前はアヒルだ」といわれても、現実の白鳥は「現実には白鳥なんですけど、あなたはなんでそんなこと言うのですか?」

と一言いえば、ハラスメントを仕掛けてくる相手は何も言えなくなる。

 現象学もいうように、現実は観念をねじ伏せるように立ちはだかる、からです。

 

 会社で「お前はクズだ」といわれても、物理的な現実はクズではなく対等な人間なのですから、現実を信頼すると、物理的な現実がその言葉をねじ伏せてくれます。
(さらに、その後押しをしてくれるものが「愛着」というなのOSなのですが)

 

 仏陀も、肉体を滅却するような荒行を否定したのもそういうことかもしれません。
 気功とか瞑想においては、身体は邪魔なものではなくて、アンカーとなる必要なものとされます。

 

 心理療法においても、観念を操作するようなセラピーは結局、弱い。

 

 実際に、物理的な現実をありのままに見れると、しばしば自分の本当に願うものが向こうからやってきます。

 「物理的な現実」を信頼することの自然さ、シンプルさ、そして強さ
 

 トラウマが取れてくると、そんな景色が見えてきます。

 

 

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関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 私たちが海外旅行に行った際にしばしば経験することですが、飲食店の人が日本のように愛想がありません。

 笑顔がなく、ムスッとした表情で注文を訪ねてくる。飛行機の機内のフライトアテンダントでさえ、無表情だったり。

 よほど高級店で高額なお金を払うのでもなければ、笑顔で気の利いたサービスは得られないことも多い。

 

 そんなことを経験すると、「ああ、日本はいいな」と思うわけです。日本でも、小さな店でも、笑顔で愛想よくしてくれますので。

 ただ、「関係」の基本を考えていくと、どうも外国のほうが普通なのかも?と思えてきます。

 日本は世間の延長でできているためか、ご近所に愛想をするような感覚で、サービス業でも笑顔で接客してくれますが、それは当たり前ではありません。

 

 

 本来の“当たり前”とは何かというと、実は「気づかい」とは信用を得たものにのみ与えられる特別サービスであり、無料で当たり前に提供しあうものではない、ということです。

 

 

 

 私たちのコミュニケーションというのは階層状になっています。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 世界は、混とんとしていますから、すべてを信用しては危ない。また、人間も動物ですから、支配欲、攻撃欲、嫉妬、様々な私的情動にまみれてもいます。

 

 1階部分では、そのネガティブな感情も入り混じる世界で、私的情動といったノイズをキャンセルする場所です。関係する相手を選別するところです。
 自分に合わない相手、関係するタイミングではない相手とは関係を持たずさよならします。
 関係を持つにふさわしい相手であれば、1階のチェックが終わり2階に上がることができます。

 

 

 2階部分とは、公的な環境が整えられた場でそこで初めて信頼のコミュニケーションを交わすことができます。
 安心してやり取りができます。
 
 通常のコミュニケーションとは、2階部分で行います。

 さらに、その上、3階部分があります。実は、「気づかい」というのは、その3階部分で提供されるものです。

 

 

 
 3階部分では、本当に気心が知れた者同士が相手の内面(私的領域)に立ち入ることが許され、互いに気づかいをしあう場所です。
 気づかいは誰もが得られるものではありません。本当に信頼できるもの同士でなければ得られません。

 

図にすると、

 1階部分    2階部分  3階部分
 公私混沌  →  公的  → 私的 という 構造になっています。

 

 

 3階部分で交わされる、本当に気心が知れた親友同士のような「関係」というのは、特別なものです。
 それは、2階部分の公的な環境に支えられています。

 関係が停滞(腐れ縁)すると、2階の公的な環境が失われて、3階部分の私的なやり取りが悪く作用し、「相手から失礼なことを言われた」「もたれられてしんどい」というようなことになってしまいます。

 

 長く続く良い関係というのは、相手へのリスペクト(2階部分の公的環境)が土台となっていて、うまく更新、循環をしているものです。

 

 関係作りがうまい人というのは、1階での選別がしっかりしていること、1階→2階→3階 へと駆け上がるのがスムーズであるということと、なにより、2階の公的な環境を維持することが上手であるということだと思います。

 

 

 会員制の、心地の良いラウンジや、高級店を想像すればわかりやすいかと思います。

 
1階部分 会員証のチェック(入会)

      ↓

2階部分 安定した心地よいサービスの提供

      ↓

3階部分  VIPのみの特別サービス
 
 といった感じでしょうか?

 

 「人を信頼して、裏切られた!もう人と付き合いは嫌だ」「気づかいばかりでヘトヘト」となっているのは、いきなり3階部分からスタートしたり、会員制度(階層構造)がうまく機能していないお店のようなもの。

 

 

 私たちが、大人になる、大人の付き合いができる、というのは、こうした1階-2階-3階 という階層(会員制)構造を築くことだといえます。

 

 

 「そんなことしたら、高飛車になって、堅苦しくてツンツンしそう」というかもしれません。

 そんなことはありません。ツンツンにはなりません。

なぜなら、1階部分では、社交辞令(儀礼)を大事にします。
 それは具体的には、「挨拶」です。

 

 昔、筆者が会社に入って、新人研修に来たベテラン社員が、挨拶の大切さを説いた際に印象に残っている話があります。
それは、

「ニュースで、犯人が捕まった際に、近所の人が『いつもちゃんと挨拶をしてくれていい人でしたけどねぇ・・』というでしょう?捕まるくらいだから本当にいい人かどうかはわからないわけだけども、犯罪を犯したとしても、挨拶しているだけで『いい人』といわれる。そのくらい挨拶には力があります。」

ということでした。

 

 

 筆者もそうなのですが、人が苦手、挨拶が苦手だ、という人は、挨拶に、3階部分で行うような「気遣い」「相手の内面に立ち入る」といったことを盛り込んでいるからではないかと思います。だから疲れて嫌になってくる。

 挨拶というのは、「気づかい」などは盛り込まず(心もこめず)、形式的に、でもたくさん、しっかり行う。

 外交儀礼ですから、心を込めなくてもいい。形こそが大事。

 

 
 子どものころ、大人を見て、外面ばかりで嫌だな、と思っていましたが、でも悔しいけれども、儀礼は大事。

 
 トラウマを負った人の多くは、「心こそが大事」ととらえ、どちらかというと形を軽んじ、さらに、1階-2階-3階 という構造がなく、いきなり、3階部分の「気づかい」を1階部分に持ち込んで、人と接しようと思います。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 でも、人間世界はそのようにはできていないため、冷たくあしらわれて、心がへとへとになって、傷つくのです。

 例えていうなら、外国の税関や大使館に、形式を踏まないまま、「真心」だけで「入国させてください」とおしかけるようなもの。
「誠に申し訳ございませんが、正式な手続きを踏んでからお越しください。」といわれてしまいます。

 

 

 人間関係においてであれば、まずは挨拶からスタートして、信頼関係ができれば親しくやり取りをする。さらに、仲良くなったら、内面に立ち入る、ということです。これを実際は早いスピードで行っています。

 

 
 どうして、トラウマを負った人は、この階層構造が転倒してしまうか?といえば、一つには、養育環境(家族)において階層構造が機能不全を起こしていた、ということです。それによって本来の構造がわからなくなってしまっている、ということ。
 もうひとつ重要な点としては、社会においては、しばしばそれを「気づかいが足りない」という言い方で表現されるため、勘違いしてしまう、ということです。

 

 実は、ここでいう「気づかい」とは、3階部分の「気づかい」ではなく、1階部分の「形式(挨拶、儀礼)」を求められているということ。

 

 
 それを、「気づかいをしないといけない(心を込めないと)」と真に受けて、本当に親しい人だけの特別サービスであるはずの「気づかい(3階部分)」を1階部分に持ってきてしまうのです。

 

 

 その結果どうなるかといえば、過剰適応でへとへとになってしまう。
 「気づかいをしているのに、なぜか認めてもらえない」。
 それどころか1階部分の形式を欠いているために「気をつかえない奴」と否定されてしまう。
 
 訳が分からなくなってしまうのです。

 

 

 本来、1階部分で大事なのは、心を込めず、軽い気持ちで形式的に挨拶。形式こそが大事。

 

 先日の記事で紹介しました外国では、もしかしたら、そういう構造がしっかりできているのかもしれません。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 皆、1階部分だ、と割り切って気軽に儀礼を交わしている。だから、人々が気楽に付き合えている。電車の中で隣り合った人が雑談をしたりする。
 (日本は〝世間”や〝空気”の社会なので、3階部分がいきなり1階に来るような転倒を起こしやすい。階層構造の転倒の果てに、恐怖症を引き起こしていることが、「対人恐怖症」の本質といえるかもしれません。)

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 1階-2階-3階という「関係」の構造が再度整理されて、慣れてくれば、1階部分から2階部分までは、かなり早いスピードで駆け上がることができます。(3階部分については、特別な人だけ、ですが。)

 

 「関係」の再構築のためには、階層構造を理解することがとても大事です。理解するだけでも、人間関係はかなり楽になります。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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