私を大事にしてくれる?

 

 「私を大事にしてくれる?」

 というのは、恋愛マンガや恋愛ドラマで聞く、よくあるセリフです。

 主に女性が男性にそう問いかけて、真剣な目で見つめられると自信がない男性は怯んで「お、おぉ、も、もちろんだよ!」なんて、答えたりします。

 そんなセリフを聞くと押しが強そうなイメージがありますが、でも、よく考えてみたら、お付き合いしてて「相手を大事にする」というのは当り前のこと。

 その点がどうも怪しい、と感じたら確認するというのはおかしなことではありません。
 

 

 筆者は会社員時代に、企業向けに製品やサービスを提案をする仕事をしてましたけど、コストであったり、メリットであったりをロジカルに説明するのですが、そうした理屈の先に、最後は「責任を持ってやりぬく覚悟がありますか?」「本当に我社のことを真剣に考えてくれていますか?(大事にしてくれますか)」ということが問われます。
 

 個人でも、家を買うとか高額な買い物ではとくに「本当に私のことを大事にしてくれますか?」ということが気になります。
 
 だから、CMなどでも、セールスパーソンや店員が顧客を思う、大事にする、といったシーンがでてきます。
 

 結婚の際に、何十万もする婚約指輪を贈るとか、給料何ヶ月分の貯金をしてくれないと奥さんが結婚を承知してくれなかった、なんていう話を耳にすることがありますが、それも、「大事にしてくれるか?」を確認する手段なのかもしれません。

 

 
 さて、この「私を大事にしてくれる?」という当り前の意識ですが、トラウマを負っている人には、とても希薄です。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 「私なんて大切にされる価値がない」ということを前提にしている。

 相手から暴言を言われる、とか、暴力を受けても、それが当然としていたりします。

 「私を大事にしてくれる?」なんて問うことは思いもしない。
 そんながめついことをいいたくない、とか、押しが強い人は嫌だから自分も押しを強くすることはしたくない、みたいに思っていたりします。

 しかし、実際に言葉にするかどうかは別にして、常に、言下に「私を大事にしてくれる?」という言葉を秘めていることは人として当然のことです。

 言下にある「私を大事にしてくれる?」のことを「愛着」、あるいは「自尊心」といいます。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 
 会社で働く際も同様です。

 会社側は「ちゃんと働いて貢献してくれますか?」と問いますが、働く側も「私を大事にしてくれますか?」と問うことは普通のことです。

 昔の労働者たちがストライキなどを通じて「私たちを大事にしろ!」と運動してくれたおかげで、全体的にはかなり環境は整ってきました。
  

 そんな現代でも、ブラック企業では「私を大事にしてくれる?」とは問わない/問えない自責的な人たち、あるいは依存的な人たちを集めて、「お前が悪いからだ」と刷り込んで、悪条件で働かせています。

 

 

 トラウマを解消する、愛着の問題を解決するというのは、「私を大事にしてくれる?」という意識が自明のものになることでもあります。

 
 愛着が回復した結果、自然と「私を大事にしてくれる?」という言葉が出てくるようになればベストですが、その回復の途上においては、呼び水のように、自分で意識することはとても有効です。
(参考)→「愛着障害を治療、克服するために必要な5+4つのポイント

 

 職場や家庭で、人と出会う際に、頭の中で「私を大事にしてくれる?」と言ってみてください。

 そうすると、もしそれまでの歪な関係がゲームチェンジする感覚を感じことが出来ます。

 今までは、「ダメな自分が努力して、人から認められるゲーム」をしていたとしたら、「相手が、自分を大事にすることを示すゲーム」にガラッと変わる。
 

 「私を大事にしてくれる?」と心のなかで問うと、相手の言動のおかしさも明確になります。

 「あれっ?その言葉、態度。私を大事にしていたら出てくるはずがないよね?」と。

 

 

 「大事にしないのは、お前に価値がないからだ。」「お前がやることをやっていないからだ」という圧も考えられますが、ゲームチェンジしているので、不思議と出てくる感覚がしない。野球にサッカーのボールやゴールが登場しないのが当り前のように。

 「いやいや、今は、「あなたが私を大事にすることを示すゲーム」をしているんでしょ?別のゲームの話をしないでよ」と。

 
 相手が大事にしてくれないとわかったら、その場を去る(相手を振る)ことが出来ます。
 「私には、あなたじゃないと思うの」と。
 
 

 トラウマがまだ重い場合は、すぐには実感できないケースもあります。
 ただ、大事にしてくれる人や環境にいることが当然なのだということを表す「私を大事にしてくれる?」という言葉によって健康な自尊心の基準を知ることが出来ます。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 

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自然は真空を嫌う

 

 子どものころ、筆者は学校でおしゃべりでした。
 クラスでも冗談を言って笑わせていました。

 授業中も私語をして怒られたり。
 (まあ、子どもですからそんなものですが)

 ただ、そんな当時でも、なぜか、無口で落ち着いた人に憧れて、黙って静かにしようと努力をしたりしようとしたことがありました。

 すました顔でクールにしていようと頑張っていたことがあります。
 ただ、3日くらいするとそれもだんだん崩れてきてもとに戻ってしまうのですが・・

 

 中学の時に、人間不信になるようなショックがあって、それからは、さらに自分を抑えようとして、良い人間になろうとするようになります。おしゃべりが原因だから、おしゃべりをなくそうとしたのです。

 
 

 大学生の後半になると就職にむけて、我流の認知行動療法みたいなものを実践するようになっていました。

 
 自分の間違った考えや信念を修正していくことで自分が変わっていくのではないか?弱点をどんどんなくしていけば、ということで様々に取り組んでみます。

 
 以前にも書いたことがありますが、途中まではうまくいくのです。

 まあまあいい感じになります。でも、結局自分を否定してジェンガのように自分の足元を掘り崩しているために、効果は反転してきます。

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」 

 

 

 そうした取組の中で、特に邪魔だと感じるのは「感情」。

 筆者は子供の頃、大人の諍いを見ていたために「あんな感情的な大人になりたくない」という思いも働きます。

 理想的な人間を目指しているのですから、どんな時も冷静に対応できる人間を目指そうとする。

 人から嫌なことを言われても、湧いてくる不快感を抑えよう、殺そうと努力する。

 驚くようなことがあってもポーカーフェイスでやり過ごす。
 

 社会人になると自己啓発の本などを読んでみたりするようにもなります。
 自分の我を捨てて、さらに良い人間になろうとがんばります。
 

 どんどんと、自分を捨てて、「無」になろうと取り組んでいったのです。

 

 しかし、生きづらさはどんどん増していきました。

 

 なぜか?
 
 自然な法則に反しているから、だと今ではわかります。
 

 

 

 私たちは、「無」になるとどうなるか?といえば、そこには他人の価値観が入り込んでくるようになるからです。

 私たちが生きる俗世では、自然は真空(無)を嫌う。

 なければ、そこは別のものが埋めるだけです。

 多くの場合、そこを埋めるのは、他人の価値観になります。

 

 いわゆる「無の境地」といったものは、自分の自我で自分を埋めた果てにある感情であって、自我を無くして自分を空っぽにするということではおそらくないのだと思います。

 

 私たちはもっともっと自分というものを「自我」とか「自分の感情」とか「自分の欲」といったもので埋めなければならない。

 そんなことをしたら暴走するのでは?とおもうかもしれませんが、私たちは、健康な状態であれば、満たされたら飽きます。 有限に循環していくものです。

 反対に不健康な状態は、無限。きりがないくらいに求めようとします。
 
 「無」を求めるというのも、ある種の不健康な状態。無限に乾き、無限に求めるようになってしまいます。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 私たち人間は、生まれてから発達する過程で、自分を自我で健全に満たして、反抗期などでは親の価値観を相対化し、自分のものにすることを学ぶ。

 自我で満たす・他人の価値観を相対化するとは、自分の資質に気づく・感じるということでもあります。

 さらに、社会で自分の資質に沿った「位置と役割」を得ることで、自我が公的に昇華されていきます。
 自分の中が公的な自我で健全に満たされていきます。それではじめて“人間”になることができる。

 “人間”になるステップを昔の人は、「道」とか「教え」、「礼」といいました。

 ここまでの一連の流れが完結することで、私たち人間は充足されます。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 どこかに瑕疵があると、生きづらさに苦しむことになります。
 自分の中で私的なドロドロとしたものがとぐろを巻いているような状態。

 「私的」というのは字義通り「私のもの」というものではなく、実際は多くの場合、内面化した他人の感情や他人の価値観、考えのこと。非常に混沌としてネガティブなものです。

 これを統御できないでいる状態が不全感というものです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 「充足感」とか、「満たされた」という表現があるように、私たちが求めているのは自分を自我によって十分に満たすことにほかなりません。

 最近だと、無意識を活用して「無」になるというものもありますが、、
 「無」になれるのは一瞬で、すぐにぐるぐるとネガティブな意識が渦巻くことになります。

 なぜそうなるかといえば、それは、「無」になろうとするから。

 繰り返しになりますが、自然は真空を嫌うから。何も無ければ、そこに外からの雑念が入り込んでくる。

 俗世では「無」の状態でいることは出来ない。
 スポーツ選手等がいう「ゾーン」なども、勝利への欲の果てにある境地ですから。

(参考)→「俗にまみれる

 

 だから、自分の中は常に「自我」で満たしておく。

(もちろん、他人の価値観や他人を理想とするのでもない。)

 自我で満たしているから、外からくる余計なものも跳ね返せるし、その内側は安心安全でいられるのです。

 

 

(参考)→「本来の自分の資質に沿って生きる。

 

 

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本来の自分の資質に沿って生きる

 

 精神科医の神田橋條治が、ある本の中でこんなエピソードを語っています。

 
 なかなか良くならずに他の病院から紹介されてきた遷延性のうつ病の患者さんについてです。

 その方は18,9歳くらいのときに賭け玉(お金をかけて行うビリヤード)を打ったりして、チンピラみたいなことをしていたそうですが、一念発起して大学に入り公務員になりました。

 しかし、係長になったころにうつ病になり、ベテランの医師が治療してもなかなか良くならなかったそうです。

 

 そこで紹介されてやってきたその患者さんに神田橋氏は「あんた、一番輝いていたのはどの時期?」と尋ね、患者さんが「賭け玉を打っていたころだ」といいます。

 そこで、「じゃあ、賭け麻雀をしなさい」と伝えて、実際にそのようにすると、それまでは薬を飲んでもなかなか良くならなかったうつ病が治ったそうです。
 

 

 

 先日の記事では、ログイン、ログアウトという表現で、悩みからほんとうの意味で回復すためのポイントはなにか?について考えてみましたが、このエピソードはとても示唆的です。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 エピソードにあるうつ病を患った公務員の方は、頑張って大学に入り、公務員になったわけですが、それは仮のIDでしかなく、本来の自分からはログアウトしたままの状態だった。

 でも、常識的に考えれば大学に入って、公務員で頑張ってということは良いことです。出世もして係長にもなっていた。
 しかし、本来の自分からログアウトしている状態のストレスには長く耐えられず、その事によってうつにまでなった。

 うつは、「ログアウトしたままではだめですよ」というサインですから、ある意味心身は正しく反応している。

 

 
 しかし、医学としては、そのうつ状態を治そうとします。薬を出してみたり、もしかしたらカウンセリングを受けてみたり、と取り組んでみる。

 解決の方向も公務員の方がうつ状態で休職ということですから、当然、公務員として復帰できるように。また真面目に働けるようにという方向になる。

 ただ、結局それはログアウトの方向だった。
 
 それで、いつまでも良くならないでうつ状態が続いた、ということです。

 

 

 神田橋氏が「あんた、一番輝いていたのはどの時期?」と尋ねたのは、ログインの方向はどっち?本来のあなたのIDはどれ?っていう問いだったのでしょう。  

 その方は、それがたまたま賭け事だった。

 さすがに、賭け事だけで生きていくことは難しいですから、社会的に問題にならない範囲で賭け麻雀を勧めて、ログインして生きていくことができるようになった。

 というメカニズムと考えられます。

 

 このように、実際に失われた人生のポイントを探って、その要素を現在の生活に取り入れると、難治のケースが良くなることが珍しくないそうです。
 
 
 このことを「失われた人生の回復」と神田橋氏は呼んでいます。
 

 

  
 トラウマのケアを行っていても、必ずこの「自分がない」「ログインしていない」という問題は出てきます。それが治療の核心といってもいいくらいに。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 

 とても行動力があって、努力もしている人が、「自分がない」「自分が空っぽである」ことに気づく。

 本人にしてもまさか自分がないなんて思ってもみません。なぜなら、こんなに考えて、努力して、行動しているんだから。

 でも、その「考えて」というのは、なによりまず他人の頭の中を考えている。もっといえば、親の頭の中を考えて、親の価値観で生きている。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響」 

 

 

 結局、活発な行動があるだけで自分というものはない。
 その証拠にいくら行動しても、積み上がる感覚はない。自分で経験している感じがしない。

 

 クライアントさん自身が無意識に治療に抵抗しているという考えは筆者はあまり好きではないのですが(治療者側の都合のいい言い訳としてや、ゴミ箱診断的に長年使われてきたから)、内面化した規範や価値観などからくる抵抗や葛藤というものは確実に存在します。

 

 たとえば、ログインしたいのに、そうではない方向で生きなければならない、という心の中の圧力。

 サンクコストのように、いままでログインしない方向で頑張ってきたのに、今更自分のIDでログインする方向に進むのはできない。かつての自分の努力は意味がなかったのか、という感覚。
 

 

 あと、「自分がおかしい」というローカルルールの前提が根底に入っていることが多くのケースにありますから、自分のIDでログインしましょう、自分の資質に沿ってといわれても、おかしい自分のままで生きるなんてできない、と感じたりする。
(参考)→「自分は本質的におかしな人間だ、と思わされる。」 

 自分の資質で生きるという提案について「あ、この先生は私に才能がないと思っている。この中途半端な状態が私なんだといいたいんだ?」と勘違いしてしまうことも起きてしまいます。

 

 

 また、自分のIDでログインしたらひどい目に合う、という恐怖心ももっていますから、ログインすることはとてもこわい。

(参考)→「ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 できれば、このログアウトしたままで、セラピーの力で都合よく悩みを解消し、ニセのIDででもいいから社会から期待される姿で生きていきたい、と思っている。

 

 なかなか良くならないケースでは、社会からの期待に沿って、という枠組みが強固な場合が多いです。ものすごく周りを忖度して、忖度した価値観で生きている。たとえば、会社でも出世して結果も出してきている。だから、その期待から外れることはできない。
 でも、そのことが悩みがしつこく続く原因となっている。

 社会的なのぞましさとか世間体、あるべき生き方といったもの圧力がものすごくあって本来の自分の戻ることが出来ず、そのためになかなか変化が起きない、ということが見られます。

 

 かんたんに変わるケースもありますが、手強いケースも多い。本当に良くなるためには避けては通れない。
 ニセのIDのままでいいから悩みだけ取りたい、と思っているとそのことがネックになって悩みが取れないということが起きてくる。

 

 
 冒頭に挙げました神田橋條治氏は「鵜は鵜のように、烏は烏のように」(資質に沿って生きる)ということを治療の要諦として語っています。

 

 筆者も昔は、「そんなのつまらない」「もっと、自分ではないなにかすごいものにならないと生きている意味がない」と思っていました。
 セラピーについても何やら“デキる人”になるための道具のように捉えていたりしていました。
 しかし、そう思っていると、自分の人生は全然うまく行かない。空回りしてとても苦しむことになります。セラピーでも単発では良くなった気がしても“デキる人”にはならず、となる。

 

 自分がみにくいアヒルの子の白鳥や、ライオンキングのライオンであることに気がつくまでには、色々と痛い目にあって、まわりまわる必要があるのかもしれません。

 狼に憧れるけど、自信がなく。でも他人には優越感を持っている。
 「あなたは、ライオンなのよ」といわれたら「イヤイヤ野良犬なんです」と過剰に卑下する。
 野良犬であることを前提にして狼になろうと努力するけど空回り。やっと、ライオンであることに気づくと運命の主権は自分のものになる。

 

 まわりまわったその果てに、やっぱり自分のIDでログインしよう!と思うとうまく回り始めて「もっと早くやっておけばよかった」となったりするのです。

 

 

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心理学、精神医学の由来にも内在するログアウト志向

 

 先日の記事では、セラピーの創始者や治療者の回避傾向、ログアウト志向が、セラピーの効果のいま一歩感の原因となっているのではないか?ということを見てまいりました。

 ログアウト志向のままでは、短期的には効果があっても、結局は解決しきれない、本来の自分として生きていく実感が十分に持てないままにになっている恐れがある。

 そして、自分のIDでログインしていくということがこれからのセラピーにおいては必要になってくるのではないか?ということでした。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 他の記事でも見ましたが、自分のIDでログインしていると、他者は干渉することが非常に難しい。
 かなり強引に因縁をつけてでもしなければ、干渉する筋合いがない。

 自分のIDでログインして生きていくことが、人格が成熟していくということです。

 

 反対に、ログインしないままでいると、「ログインしていないのだから、あなたはあなたものではないでしょ?だったら、私が口出すよ」と、他人から干渉され続けてしまうのです。
 
 さらに、自分の感覚がなにかもよくわからなくなっていってしまう。

 このような自分のIDでログインしないままでいる、ログアウト志向の状態にとどまっている方は非常に多いのです。
(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン」 

 

 ※ここで整理すると、ログインというのは、「自分として社会の中で生きる」という意味です。ログアウトというのは反対に、「自分じゃないもので社会の中で生きる」あるいは、「社会から自分が排除される」ということです。

 

 

 

 さらに、検討をすすめると、実は、このログアウト志向というのは、心理学や精神医学の起こり自体にもその要因があります。

 それは、フランスの哲学者、心理学者のフーコーが「狂気の歴史」という本で書いていますが、心理学や精神医学が対象とする狂気というのは、もともとは社会の中でそれなりに役割があったり、神の現れとして敬意さえ示されていたものが、近代化する中で、病気という扱いを受けて区別されていきました。

 通常の理解では、科学が進歩したから狂気の原因が解明されて病気として扱えるようになった、ということですが、フーコーによれはこれはそうではありません。

 科学の進歩で病気として扱えるようになったのではなく、狂気を病気として区別する(社会からログアウトさせる)ことによって心理学や精神医学自体が科学として成立してきた、というのです。

 上の定義でいえば、まさにもともと社会にログインしていた狂気を、隔離してログアウトさせることで、生まれてきたのが心理学や精神医学である、ということです。

 

 単にこれは、論理の遊びではありません。
 実際に臨床現場の治療においても、このことを証明するかのようなエピソードがいくつもあるのです。

 
 たとえば、18世紀末の精神医学では統合失調症の治療として、フランス人のピネルがそれまでは鎖に繋がれていることが当たり前だった療養所の患者たちを鎖から解放したことがありました。

 鎖から解放するかわりに暴れないと約束させ、患者に仮の役割、たとえば「下士官」とか「召使い」とかを与えて患者の症状が安定した、ということがありました。
 それまでは、怒り狂って看守を殴り殺してしまうような患者もすっかり落ち着いて、その役割を生きるようになったのです。

 

 

 それまでの概念とは全く異なる対応で、その後の精神医療の出発点となる出来事でした。

 現代の臨床現場でもこうしたことは受け継がれていて、腕のある精神科医は、患者の中の本来の自分が機能するように働きかけることをしています。

 近年、統合失調症の治療での目覚ましい効果で注目されているオープンダイアローグも、患者の目の前で、治療者や家族が話し合い、患者自身が意思決定するという形を取ります。

 

 このように、自分や社会からログアウトされるように扱われると悩みは解決にはつながらず、ログインするような環境が与えられると重いケースでも軽快していく、ということから、フーコーが発見した「狂気を病気として区別する(社会からログアウトさせる)ことによって心理学や精神医学自体が科学として成立してきた」というのは、核心をついているといえそうです。

 

 さらにフーコーは、フランス人のピネルがおこなった鎖からの解放はまだ本物のログインではない、ということも指摘をしています。
 
 ピネルが与えた仮の役割とは、あくまでピネルの道徳的価値観に基づいたものですから、いわば仮のIDでしかなく、患者本来のIDではない、として、精神医学に潜むログアウト志向の一例として批判的に取り上げているのです。

 

 ピネルがおこなった仮のIDを与えるという解決策は、私たちが日常で触れるセラピーにおいても同じ構造が見られます。
 

 以前の記事で、筆者がたまたま見た「私を消す」という言葉を唱えて悩みを解決しようとする、というのもそうかもしれません。
 鎖からは解放されるかもしれませんが、創始者が作った価値観の世界(仮のID)にとどまり、自分のIDではログインできずに、ログアウトしたままになるのです。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 このように、精神医学や心理学自体もその内に、ログアウト志向を内在させているのです。

 

 

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