人間の“実際”とはなにか?

 

・自分をつくるスルースキル
 ~「人間」と「言葉」の実際を知ると、人生が変わる~

・「人間」と「言葉」はすべてザレゴトである

・言葉をスルーすれば、<世界>が変わる

 

 これは、自分で考えていた本のタイトル案の一部です。

 

 本の内容を端的に表し、かつ、手にとってもらえるタイトルを、と思って休みの日も本屋を回りながら、アイデアをひねり出そうとしていたんですが、結果を言えば、これだ!ということには至りませんでした・・・・

 
 ネーミングとか、タイトルを考えるっていうのは、あらためてなかなか難しいですね。

 ただ、ひねり出したタイトル案には、本のテーマは現れています。

 

 

 「人間」と「言葉」の実際を知る となっていますように、まずは、等身大な“人間”っていうのはどんな存在なの?っていうことを明らかにしたかった、ということがあります。

 対人関係の悩みのほとんどといっていいのが、人間が怖い、ということに関係するのではないか、と思います。

 他人が過度に大きく見えてしまっている。

 

 とても立派なものに見えていて、反対に、自分は幼く、弱く、おかしくて、ダメなものと捉えている。

 頭ではそうではないとわかっていても、どうしても、そうではないと思えない。

 他人はとてもしっかりしてて、何かの真実を捉えていて、それを自分に気になる言葉として“予言”してくる。

そして、その予言に縛られるような感覚がして、身動きが取れなくなる。

 さらに、余計に他人が怖くなる、というような悪循環。

 

 

 一方、自分の言葉は他人には届かない。

 なぜなら、自分を取り巻く他人の言葉たちを正しく捉えられているという自信がなく、正確に、客観的にとらえられているとは思えていないので、
 自分が自信を持って何かをいうことが出来ないのです。

 
 まさに、自分の「言葉」が奪われているような状態。
 

 こういう状態を破るためには、まず、人間ってどんなものか、どんな条件で成り立っているのか?というのを、一度整理してお伝えしたい、ということがありました。

 

 カウンセリングでは、セッションの中でこうしたことを個別に打ち破っていくことをしているのですが、各個撃破では及ぶ範囲に限りがありますから、臨床の経験からわかったことは集合知として、あたかも集団免疫となるように書籍にしてお伝えしたいということがありました。

 もちろん、私の見解でしかなく、仮説なのですが、それを臨床心理はもちろん、歴史学や社会学などの知見の力も借りて、わかりやすく、皆様が抵抗できる視点を提示しようというのが、今回の本の狙いの一つです。

 

 簡単に言えば、人間っていうのは、偉人も人格者もすべての人が弱いもので、エヴァンゲリオンの機体ではありませんが、まともでいられるのはごく限られた条件のもとでしかない。ちょっと条件が狂うとおかしくなってしまうもの。

 そんな人間が言葉を発しているわけですから、そんな言葉をそのまま受け取っていいわけがない。

 

 おかしくなるから怖い、というのではなく、それがわかれば、「ああ、そんなものだったのか」と怖さが下がってくる。

 怖いというよりは、面倒、という感じにスライドしていく。
  
 その面倒さに愛着がブレンドされると、人間が好き、という感覚がなんとなく分かるようになってくる。

 

 ここには、よくあるヒューマニズムなどにある「人間って素晴らしいものなんだ、本来ひとつなんだ」といったような理想はどこにもありません。

 (そんな理想から入っても、なんの結果も得られず、結局自分がしんどくなって終わるだけです。)

 

 みんな違う、みんな弱い、いろいろと面倒くさい、でもそれもご愛嬌かな、というような、ただ現実だけがある。

 

 以前も書きましたが、現実の力はとても強く、一度積み上がれば、容易には崩れることがありません。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「防御壁」

 

 “実際”(現実)を知るというのは、私たちが悩みから抜け出し自分を作るための土台となってくれるものです。
 
 
 そんな、人間の“実際”について書いてみました。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自分は不法滞在者」という感覚

 

 アメリカでは、永住権は「グリーンカード」と呼ばれています。

取得することで、合法的に居住できる権利が手に入るわけです。

 それがないまま暮らすというのは、十分に権利をえられないまま過ごすことになったり、トランプ政権みたいな、移民に厳しい政権ができると検挙されるかもしれないというリスクにさらされます。

 トラブルに巻き込まれたときも、永住権があれば、堂々と訴えることが出来ますが、不法滞在者であると、それができず泣き寝入りとなったり、後ろめたさの中で問題に対処しないといけなくなります。

 トラウマを負っている人というのは、まさに、この世に永住権がないまま滞在しているという感覚、不法滞在者という感覚があったりします。

 自分がその場に居る資格がないにもかかわらず居る感覚。

 だから、誰かにダメ出しをされたら反論できない、つねに何かを駄目だしされる感覚でビクビクしている。

 
 不法に露天商をやっているような感じですから、腰を据えて仕事や経験も積み上げることが出来ない。指摘されたらさ―っと逃げ出せるようにいつも準備していないといけない。

 

 

 他人の言葉にも敏感に反応しやすい。

 のんびりゆっくりとまどろっこしいことがとても苦手。常に早く早くと急いている感覚がある。

「私は不法に滞在しているのだから、そんなのんびりしていたら誰かに指されるかもしれない。できるだけ、段取り良くパパッとやりたい。
 周りの人も、空気読めよ!」って感覚があったりする。

 だから、家族や友人がのんびりもたもたしていると、イライラしたり、ヒステリックに叱ったりしてしまう。

 どこか、余裕がない。 
 でも、余裕のなさは自分の器の小ささのせいだと思っていたりする。
 それで自分を責めて、自分は不法入国者だという感覚を一層強化して、また自分が追い込まれたりします。

 

 
 愛着不安や、トラウマがあるというのは、グリーンカードがないような状態です。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服」「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、メカニズム

 

 もちろん、それは精神的な思い込まされ、でもありますが、身体的にも刻まれていて、中から湧いてくるかのように、所在のなさ、後ろめたさ、ビビリ、がわいてきます。

 

 不法滞在しているグレーな領域ではヤクザを頼りにしないといけなくなるように、ハラスメントを行う人に従ってしまう。
 ハラスメントを行う人が強く見えて、秩序を維持してくれるように錯覚してしまうのです。

 パブリックルールに守られないと感じるので、ローカルルールを必要としてしまうわけです(人間は社会的な動物ですから)。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 
 なぜ、私たちがハラスメントやローカルルールを受け入れてしまうのか?という原因の一端は、「不法滞在者」という感覚にあるのかもしれません。

 

 
 以前書いたような、ログアウト志向というのは、
 「永住権なんかないほうがいいんだ」
 「無国籍のコスモポリタンとして生きていく方法を教えますよ」というような誘いです。

 無意識に生きる、とか、ワンネス、なんていうのはまさにそのログアウト志向の典型。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 

 最初は義務(家族からの呪縛)がなくなって自由になれた、と思ってスッキリしますが、実際は、主唱する自己啓発のグルが、さながら仲介業者のように、私たちのパスポートやビザを取り上げてしまいます。
 結果、永住権者としての安心感がえられず、生き辛さの中で放浪してしまうことになるのです。

 

 さらに、永住権を持つと、税金や徴兵など義務も発生するから危ない、やられる、みたいに思わされたりもしている。
 だったら、永住権なんかな方がいい(危ないからログインしたくない)、ずっと旅行者のままでいい、と感じている。
 それでいつまでたっても、不法滞在者の身分から抜け出せなくなってしまう。

 
 本当に大切なことはログインすること。
 私も永住権者だよ、そのように扱ってよ、と堂々と訴えることです。

(参考)→「世界はあなたがログインすることを歓迎している。

 

 そうしてみると、何が自分の足を引っ張る問題なのかが浮かび上がってくるのです。
 

 

 

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忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。

 

 たまたま、TVのバラエティ番組で、女優さんに整形したようなメイクをしてもらって芸人に見せて、それを指摘するか、指摘しづらいか、みたいなことをドッキリみたいに試す、というのを目にしました。

 

 整形というと、その方の自己意識とかコンプレックス、プライドとか、そういう様々なものを背景にして行われる行為です。

 ですから、単に行動だけにとどまらず、そんなもろもろの感情や動機もそこには重なって、余計に指摘しづらい状況と言えます。

 ただ、芸人さんは、その場ではズバリは言いませんが、笑いを堪えられなくなったり、あとでロケバスの中では相方やスタッフとそのことに触れて忌憚なく考えを伝え合ったりしていました。

 

 

 これが、トラウマを負っている人ならどうなっているだろうか? というと、

 その場で指摘できないことはもちろんですが、相手のコンプレックスといった負の世界を丸ごと飲み込むかのようにしてしまう。
 相手の頭の中や、その背景も忖度して、察して、それを自分の中に取り込んでしまう。
 
 そして、相手の負の世界に縛られてしまう感じになってしまう。相手の秘密を自分が抱えてしまう。

(参考)→「他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 さらに、相手がいなくなった場面でも、そのことについて話題に出したり、言葉としてアウトプットすることができない。
 そんなことをするのは陰口を叩くことであると思っていたり、陰でその人のことを言うことが悪いことであるかのように考えている。

 すると、言葉が重くなって、自分の中にある相手の負の世界を吐き出すことができなくなってしまう。

 以前にも書きましたが、これが家族の場合であれば、「ファミリー・シークレット」といって、相手の秘密を自分のものとすることは心理的にはものすごくダメージがあるとされます。
 いわゆるアダルトチルドレンと呼ばれる状態を作り出してしまうのです。

(参考)→「秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 
 この一連の流れは癖になっているので、意識で止めようとしても、ほぼ自動的に起きてしまっています。 

 そして、それが「人を思いやること」「優しさ」であると錯覚させられている。

 これが「忖度」というもののわかりやすい状況です。

 

 

 「常識」や「社会通念」からみて相手に違和感があったら、まずは遠慮なく頭の中で距離を取る、突っ込む。

 これが健康な反応で、決して、程度の低いものでも、悪意でもありません。

 そうしないと、心の免疫が保てないのです。

 優しさや思いやりは、その次のステップでも十分発揮することができます。

(参考)→「アウトプットする習慣をつける

 

 

 

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自然は真空を嫌う

 

 子どものころ、筆者は学校でおしゃべりでした。
 クラスでも冗談を言って笑わせていました。

 授業中も私語をして怒られたり。
 (まあ、子どもですからそんなものですが)

 ただ、そんな当時でも、なぜか、無口で落ち着いた人に憧れて、黙って静かにしようと努力をしたりしようとしたことがありました。

 すました顔でクールにしていようと頑張っていたことがあります。
 ただ、3日くらいするとそれもだんだん崩れてきてもとに戻ってしまうのですが・・

 

 中学の時に、人間不信になるようなショックがあって、それからは、さらに自分を抑えようとして、良い人間になろうとするようになります。おしゃべりが原因だから、おしゃべりをなくそうとしたのです。

 
 

 大学生の後半になると就職にむけて、我流の認知行動療法みたいなものを実践するようになっていました。

 
 自分の間違った考えや信念を修正していくことで自分が変わっていくのではないか?弱点をどんどんなくしていけば、ということで様々に取り組んでみます。

 
 以前にも書いたことがありますが、途中まではうまくいくのです。

 まあまあいい感じになります。でも、結局自分を否定してジェンガのように自分の足元を掘り崩しているために、効果は反転してきます。

(参考)→「自分に問題があるという前提の取り組みは、最後に振出しに戻されてしまう」 

 

 

 そうした取組の中で、特に邪魔だと感じるのは「感情」。

 筆者は子供の頃、大人の諍いを見ていたために「あんな感情的な大人になりたくない」という思いも働きます。

 理想的な人間を目指しているのですから、どんな時も冷静に対応できる人間を目指そうとする。

 人から嫌なことを言われても、湧いてくる不快感を抑えよう、殺そうと努力する。

 驚くようなことがあってもポーカーフェイスでやり過ごす。
 

 社会人になると自己啓発の本などを読んでみたりするようにもなります。
 自分の我を捨てて、さらに良い人間になろうとがんばります。
 

 どんどんと、自分を捨てて、「無」になろうと取り組んでいったのです。

 

 しかし、生きづらさはどんどん増していきました。

 

 なぜか?
 
 自然な法則に反しているから、だと今ではわかります。
 

 

 

 私たちは、「無」になるとどうなるか?といえば、そこには他人の価値観が入り込んでくるようになるからです。

 私たちが生きる俗世では、自然は真空(無)を嫌う。

 なければ、そこは別のものが埋めるだけです。

 多くの場合、そこを埋めるのは、他人の価値観になります。

 

 いわゆる「無の境地」といったものは、自分の自我で自分を埋めた果てにある感情であって、自我を無くして自分を空っぽにするということではおそらくないのだと思います。

 

 私たちはもっともっと自分というものを「自我」とか「自分の感情」とか「自分の欲」といったもので埋めなければならない。

 そんなことをしたら暴走するのでは?とおもうかもしれませんが、私たちは、健康な状態であれば、満たされたら飽きます。 有限に循環していくものです。

 反対に不健康な状態は、無限。きりがないくらいに求めようとします。
 
 「無」を求めるというのも、ある種の不健康な状態。無限に乾き、無限に求めるようになってしまいます。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 私たち人間は、生まれてから発達する過程で、自分を自我で健全に満たして、反抗期などでは親の価値観を相対化し、自分のものにすることを学ぶ。

 自我で満たす・他人の価値観を相対化するとは、自分の資質に気づく・感じるということでもあります。

 さらに、社会で自分の資質に沿った「位置と役割」を得ることで、自我が公的に昇華されていきます。
 自分の中が公的な自我で健全に満たされていきます。それではじめて“人間”になることができる。

 “人間”になるステップを昔の人は、「道」とか「教え」、「礼」といいました。

 ここまでの一連の流れが完結することで、私たち人間は充足されます。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 どこかに瑕疵があると、生きづらさに苦しむことになります。
 自分の中で私的なドロドロとしたものがとぐろを巻いているような状態。

 「私的」というのは字義通り「私のもの」というものではなく、実際は多くの場合、内面化した他人の感情や他人の価値観、考えのこと。非常に混沌としてネガティブなものです。

 これを統御できないでいる状態が不全感というものです。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 「充足感」とか、「満たされた」という表現があるように、私たちが求めているのは自分を自我によって十分に満たすことにほかなりません。

 最近だと、無意識を活用して「無」になるというものもありますが、、
 「無」になれるのは一瞬で、すぐにぐるぐるとネガティブな意識が渦巻くことになります。

 なぜそうなるかといえば、それは、「無」になろうとするから。

 繰り返しになりますが、自然は真空を嫌うから。何も無ければ、そこに外からの雑念が入り込んでくる。

 俗世では「無」の状態でいることは出来ない。
 スポーツ選手等がいう「ゾーン」なども、勝利への欲の果てにある境地ですから。

(参考)→「俗にまみれる

 

 だから、自分の中は常に「自我」で満たしておく。

(もちろん、他人の価値観や他人を理想とするのでもない。)

 自我で満たしているから、外からくる余計なものも跳ね返せるし、その内側は安心安全でいられるのです。

 

 

(参考)→「本来の自分の資質に沿って生きる。

 

 

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