“社会”は人間をなにもわかっていない

 

 前回、”社会”は、私たち人間のことを実はよくわかっていない、と子どもの例を中心に書きましたが、それは、大人である私たちの根源にあるものですし、さらに、大人になってからも、同様のことは生じます。

(参考)→「私たちは、子どもそして人間のそのままが全然わかっていない。

 ※不全感によって機能不全に陥った状態の社会を本来のものと区別するためにここでは“社会”とします。

 

 例えば、私たちがもつ「できて当たり前」というバイアスはなかなか根強いものがあります。
 

 私たちは、よほど訓練されなければ何かをうまくすることはできません。
 実は経験するものは、仕事でも用事でも、子育てでも、冠婚葬祭などのライフイベントなどでも、はじめての事だらけです。しかし、なぜか私たちは「きちんとできて当たり前だ」という強烈な思い込み、「無知の無知」がはびこっている。そして、はじめての事なのに、過去に経験したことがある、と思いこんでしまう。

 

 会社の事務仕事をしているから、大人なんだから、手続きで訪れた役所で初めて見る書類を正確に書けて当たり前と思いこんでしまう。でも、本当は別のもの、“はじめての事”です。だから、ミスをしたり、書き損じたりすることは当然生じます。 

 頭では自分は何でもできるように、何でもできたように感じていますが、
 それはバイアスでしか無く、たまたま自分が訓練された形式を応用できたか?資質に沿っていただけで、本来はかなりの訓練と意図のすり合わせを何度もしないとうまくすることなどできません。

 プロのスポーツでも、あれだけ運動能力の高い天才たちでも、長年のあいだ、“毎日(毎日ですよ?!)”練習してようやく、気の利くプレーが当たり前にできたりする。

 あんな狭いグラウンドやコートで複雑でもないはずのルールに子どものころから接していてもなお、です。

 

 

 消防、警察、軍隊もそうで、繰り返し訓練してようやくオペレーションを果たすことができる。

 しかし、訓練してもなお、うまく行かないことは多い。
 例えば、軍隊において海から上陸する上陸作戦というのはかなりの困難なことらしく、ノルマンディー上陸作戦などは偶然うまくいったようなもので、実際は失敗してもおかしくない状況だったようです。それだけ難しいことだらけのものを、訓練と犠牲の上になんとか“成功”したように見えているだけ。
 

 しかし、例えば職場などでは、OJT(つまり、無研修、無訓練)という名の下、ろくな訓練も、マニュアルもないままに、未経験の人に仕事を振っては、ミスをする人を指して「そんなこともできないのか!」とこき下ろしたり、しています。

 

 文化の違いも相当なもので、同業であったとしても会社が違えばやり方も全く異なることがあります。ですから、同業他社に転職してギャップに戸惑った、何ていう話はよく聞くことです。

 同じ「営業」「利益」ということばであっても、その理解は100人いれば100人とも違います。
 よほど時間と費用をかけて訓練し、文化をすり合わせなければ、意図通りに相手が動くことなどありえないのです。

 しかし、そんな当たり前のことを私たちはわかっていません。
 トレーニングをしなくても当たり前にできるものだと感じてしまう、自分は当たり前にできたように感じてしまう。

 

 

 家の家事や育児などもそうです。できることが当たり前のように感じてしまう。自分の考える当たり前が正しいと思ってしまう。

 そうして「当たり前でしょう?」「なんでこんな事もできないの!」家族を責めたりする。

 葬儀など、ほぼはじめて遭遇することの段取りを巡って、「段取りが悪い」「作法がなっていない」と叱責してくる親族がいたりすることもかつてはよく耳にした、”あるある”です。
 (冠婚葬祭にそんなに関心があるあなたは葬儀屋か?!といいたくなりますが)

 でも、一生のうちに数えるほどしか経験せず、しかも、何年もブランクのあるものが初見で完璧にできないといけないと思い込んでいる。
 

 何度も訓練してようやくできるものが、できて当たり前に見えるというバイアス。

 さらに、不全感を抱えた人が、自分が正義、正しいと思うことで表面をコーティングして、他人にYou are NOT OK とぶつけて I’m OK にしたくなることもバイアスです(ローカルルール)。これがハラスメントを生みます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 こうして、私たちの周辺にあるローカルなコミュニティが不全感を抱えてルールを騙る状態を“社会”と呼ぶとしたら、“社会”というのはこんな事だらけです。

 “社会”は人間をなにもわかっていないのです。

 

 もっといえば、不全感を解消するために、不全感から見た幻想で人間をとらえているということです。

 通常でも、私たちはわからさなさ(もっといえば、多様性への感度の少なさ)がたくさん抱えています。

 しかし、自他の区別があり、愛着が安定していて、他者を他者として捉えることができる余裕があると、それらは目立ちません。わきまえが働き、“無知の知”を知る状態になります。 
  

 一方でそのわからなさが極端に出るのが、繰り返しになりますが、不全感を抱えたときです。不全感+バイアスの組み合わせで他者にハラスメントを仕掛けるという形になります。

 こうしたことをを、一番弱い人が引き受けた果に起きることが生きづらさ、であり、幼少期にそうしたストレスを受けて生じることは、発達性トラウマの大きな原因の1つとなります。 

 

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私たちは、子どもそして人間のそのままが全然わかっていない。

 

 世の中には子育てについてなど様々な本が出ています。ネット、動画、SNSなど、たくさんの情報が溢れています。
  
ですが、

 子どもというのは、正味、どんな存在なのか? ということについて私たちはいまいちよくわかっていません。

 子どもは、私たちの想像以上にわけがわからなくなりますし、手がつけられなくなります。

 わがままもいうし、ギャーッと泣いてどうしようもなくなることもしばしば。
どんなお母さんでもうんざりしてしまいます。

 個人差も大きいです。発達の差も想像以上にあります。

 しかし、そういう子どもの正味の姿を私たちはよくわからない。

 

 専門家も、そのことを発信しているのかもしれないですが、うまく伝わっていない。
 本だと、なにかきれいごと(≒つまり、あなたのやり方が間違ってますよ)を突きつけられるような気がして、読むのが億劫という方も少なくありません。
 

 

 私は、子どもを持つ方からのご相談も多くいただきますが、お悩みの当事者はそうした子育て本や愛着や発達の本を読んだりしていても、都合の良いところだけ(あるいは、悪いところだけ)を切り取って吸収していたりします。

 つまり、「子どもが発達障害である」という情報や、「~~依存症という項目にチェックが当てはまる」といった情報であったり。
 ただ、「自分の子どもはおかしい」という不安を確定させてひとまず安心したいという欲求からか、都合よく見ていたり、ということがあります。
 (もちろん、本の側にも問題はあります)

 カウンセラーという第三者の立場から見ると、「~~障害なんて言葉をつけなくても、子どもって単にそういうものではないですか?」
 あるいは、「何か不安な要素があるから、お子さんがそうなっているのでは?」ということが本当によくあります。

 

 親御さん、とくに母親は、社会からのプレッシャーや過度な責任を負わされていますから、子育ては不安だらけです。
  
 さらにそこに、自身の愛着不安などが重なると、不安につけ込んだ情報だけが入り込んで、正味の子どもの姿が見えなくなってしまいます。

 

 

 例えば、幼稚園や小学校低学年でどこまでの勉強ができるのが当たり前か?どこまで運動ができるのが当たり前か?といったことさえ、私たちはよくわかっていません。

 子どもは抽象的な概念などはよくわかりませんし、勉強も親が思う以上にできません。
 

 しかし、自分に不安を持つ親は、そうした子どもの姿に自分の不安を投影して、イライラしてしまい、子どもにぶつけてしまう。「こんな事もできないのか?!」とか、「こんなことくらいで」なんてやってしまう。

 実は、それは子どもの平均的な姿でしかないのですが、それがわからない。

 他の子どもは勉強ができているように見える。

 東大に子どものを入れたママの話を見ては自分は親としてはだめなのかも?と不安になる。
 (単なる幻想でしかありません)

 

 

 子どもはかなり怖がりですし、ちょっとしたことで嫌にもなります。
 特に問題はなくても学校に行きたくな~い、何ていうのもしょっちゅうです。
 (でも、子どもは言語化する力はありませんので理由を聞いても何も出てきません)
 

 気の強い子もいれば優しい子もいますが、気の強い子が素晴らしく、そうではない我が子は劣っていると捉えてしまう。 

 
 他の家は見栄を張っていて、グズグズぶりは隠して世間体を良くしているだけなのに、それがわからない。見えない。

 さらに、親である自分は苦労して頑張ってやってきた、同じ年齢のことはできていたという考え(思い込み)も根強く、実際に過去の自分がどうだったか、できていたとしてもどういう環境の後押しのゆえにそれが可能だったか?が見えなくなっている。

 

 先にも書きましたが、これだけ教育や発達についての研究がされているにも関わらず、私たちはいまいち子どもの実態がわからない。専門家も本当にわかっているのかも怪しい場合もありますし、本当にいい情報はきちんと届いていなかったりもします。

 もしかしたら、発達障害やHSPといった概念も、そんなわからなさの果てにでてきた徒花(あだばな)でしかないのかもしれません。

 

 

 実態がわからないままに、わがままをいう子どもや本来の姿を示す子どもを受け入れられずに、「あなたは~~だ」と否定をしていってしまうことも起きてしまう。

 普通の事象でしかないにも関わらず、あるいはストレスが掛かっておかしくなっているだけなのに、「感覚過敏だ」「発達の問題だ」「ゲーム依存だ」としてしまう。
 

 

 

 これらは親の例ですが、学校でも同様です。
 少し前までは、給食では「完食」が当たり前で、完食するように指導されていました。

 しかし、最近は、子どもの発達の個人差などが認識されるようになり、完食の弊害も多いことがわかってきました。

 そのため、完食は求めず、残しても良いことは当たり前となってきました。

 

 こんなことでさえ、社会はよくわかっていない。  
 おそらく、現時点でも同じようなことはあるのでしょう。

 
 そんなこんなで、人間にとって普通にある弱さ、情けなさ、どうしようもなさが十分に受け止められないまま、「自分はおかしい」という前提が隠されて刷り込まれていく。

 

 ”みにくいアヒルの子”の完成です。

 
 以前、機能不全な親は子どもの素の状態を異常として恐れる、と書きましたが、子どもの素の状態に異常としてしまうのは、まさに社会が機能不全に陥っていると言えます。

(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準5~親バカになれない

 その裏には、大人たちが抱える不全感があります。

 ※不全感によって機能不全に陥った状態の社会を本来のものと区別するためにここでは“社会”とします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 子どもとは、つまり私たち自身のことです。

 こうした機能不全は、本来ではない意味での“社会”の中で生じてきました。

 ”社会”自体が、私たち人間のことを実はよくわかっていないのです。
 

 生きづらさや心の悩みとは個人の頭や心の中で生じているのではなく、実は、これが生きづらさの根源にあるのです。

 

(参考)→「自分の取り巻く世界はおかしい、とわかって欲しい

 

 

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同じ環境でも問題が出ているのは自分だけだから自分に問題がある? おかしな環境は優等生を必要とする。

 

 トラウマによって自分を失っている人が自分を取り戻すためには、過去現在の環境の影響で苦しんでいることを自覚する必要がありますが、それを妨げるのが、同じ環境でうまくいっている人(優等生)の存在です。

 よくあるのが、家庭の中での兄弟(姉妹)の存在です。

 本当にひどい環境で育ったのに、症状が出ているのは自分だけ、弟や妹(姉、兄)などは元気にしている、あるいは、親に可愛がられている、というようなケースはとても多いです。

 すると、同じような状況でうまくいっている人がいるのだから、やはり自分はおかしいんだ、と思っている当事者は珍しくありません。

 

 
 もちろん、これらの結論(推定)は、ローカルルールに影響された思考によるもので、自分がおかしいという理由には全くなりません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

「でも、同じ環境で大丈夫な人がいるなら、自分に問題があるのでは?」とどうしても感じてしまうかもしれません。

 そんなことはありません。

 まず、兄弟で待遇に差があったり、長子の存在が風よけになり第二子以降のストレスが緩和されることはよくあります。
 別の例では、いじめの横行する学校やクラスでも比較的被害の少ない生徒がいることや、ブラック会社でも比較的ストレスが少ないという社員はいます。

 「同じ環境だから~」というのは、実は、かなり無理な結論だと言えます。同じ環境ではないのです。

 

 

 さらに、です。
 実は、待遇差は、ブラックな環境、ローカルルールの世界を成り立たせるために意図的に作られているということがあるのです。
 もっと言えば、ローカルルールが支配する環境が成立するためには、その中でうまくいっている人が必要なのです。 

 

 

 例えば、最近でも新興宗教に関連して、元首相の暗殺事件が生じるなどしましたが、その際に会見に登場した代表や幹部の方たちは、その組織の中で「エリート(優等生)」とされる人です。

 かつてのオウム真理教でも、幹部、エリートが存在しました。

 その組織の中で活躍している人たちもいたわけですが、では、その組織は問題なく、被害を受けた人が問題なのでしょうか?
 活躍している人たちはそんな環境でも克己して成果を上げれる優れた人なのでしょうか?

 もちろんそんな事はありません。

 なぜ、そんなおかしな組織でも活躍する人、高待遇な人達がいるのか?といえば、組織というのは、正統性を維持するためにはそれを証する要素、たとえば優等生が必要なのです。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 もし、すべての構成員全員がうまくいっておらず、不幸であるならば、その組織の存続に関わるからです。

 構成員を従わせるためにも「ほら、~~さんはうまくいっていますよ(あなたも疑問を持たず、従いましょう。苦しいのはあなたの問題です)」という見本が必要になるからです。
 

 

 かなり以前の記事にも書きましたが、
(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 実際に、かつての中国の文化大革命などの時期には、「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」といって、共産主義社会の成功例をされていた地域がありました。もちろん、捏造です。

 あるいは、世界恐慌の頃は、ソ連は成功しているとされていました。
実際は、映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』に描かれているように、ウクライナなどから穀物を収奪し、繁栄を演出していただけだったのです。
(ホロモドールと呼ばれ、ウクライナの人口の2割!が餓死したとされます)

 しかし、当時のソ連は、世界恐慌に陥る資本主義と尻目に成長する成功事例とされていて、イギリスのバーナード・ショーなど、ソ連の宣伝を信じてしまう欧米や日本の知識人は大勢いたのです。

 

 
 トラウマにおいては、過剰な客観性、自己責任意識や罪悪感から自分にも問題がある、と捉えがちです。
(「親のせいにばかりしていいのだろうか?」といった感覚。喧嘩両成敗といった誤った認識など)

(参考)→「過剰な客観性」「「喧嘩両成敗」というローカルルール」「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 「確かに環境にも問題があったが、自分にもやりようがあった」などというのは、公平に状況を見れていると本人は考えていますが、そうではありません。
トラウマに影響されて歪んで状況を見ているということです。

 トラウマをケアする、トラウマから抜け出して自分を取り戻すためには、こうした知恵(常識、教養)もあらためて身につけていくことも必要なのです。

 

 

 

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みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

自分のメールアドレスもない、SNSなどのサービスが怖い

 

 トラウマの症状の中核は”自己の喪失”であると『発達性トラウマ 生きづらさの正体』の中で書かせていただきました。

 
 そして、このブログでも、そうしたことを「自分のIDでログインしていないスマホのよう」と表現してきました(それを本にも書かせていただきました)。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 自分のIDとは、自己の主体性や、アイデンティティということの譬えです。

 興味深いことに、トラウマが重いケース、機能不全家庭の子どもだったというケースの場合に、自分のメールアドレスを持っていない、最近であればLINEのアカウントを持っていない、というようなケースがまれにあります。

 そうした場合、ご家族のメールアドレスを利用されている、あるいはご家族が連絡してくる、ということになります。

 冒頭の、自分のIDというのは譬えだったわけですが、譬えにとどまらずに、文字通り自分のID、アドレスを持っていない、ということに気が付きます。

 これだけIT化した社会で、メールアドレスがないとECなどサービスサイトでアカウントの作成もできませんし、LINEなどはある種のサービスインフラともなっていますから、それを持たないということは様々な制約になります。

 「メールアドレスなんて単に手続き的なこと」「持つ持たないは個人の嗜好」とは言えず、そこには、まさに自己の喪失が具体的に表れているととらえられるかもしれません。

 

 上記とは少し角度が違いますが、SNSのアカウントをとるのが怖い、というケースもあります。理由を聞くと情報漏洩のリスクを気にして、ということです。

 もちろん、情報漏洩のリスクはありますし、実際に生じています。
しかし、私たちはその辺をどこかで割り切って無料でサービスを使っています。

 そのリスクの見積もりや判断のころ合いや適度さは、社会性の指標とも言えます。

 たとえば、街を歩いていても、交通事故のリスク、通り魔などの犯罪被害、女性などは性被害にあうリスクはあります。
 ショッピングモールで刺されたなんて事件もニュースで見たことがあります。

 
 家にいたほうが絶対に安全です。
 しかし、私たちは社会に出ます。リスクを見る目からすれば、「あまりにもリスクに甘すぎる」といえるかもしれませんが、どこかでその時はその時だと割り切っています。それは、決しておかしな判断ではありません。

 もし、リスクを過大視して家に引きこもってしまうなんていうことがあれば、
 臨床的に言えば「社会恐怖」「社交不安障害」といった名前が付けられてしまうような状態になってしまいます。

 SNSも同様で割り切って使うことになりますが、過大に恐れるといった場合、たとえば、身近な家族が過度に不安が強かったり、というケースが見られます。
 そうした言説や文化の中で、外を過剰に疑い、内に撤退してしまう、ということが生じるのです。

 以前にも書きました「外を疑い、内を守る」というようなことの表れと考えられます。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 では、内が安全かといえば、そうではなく、そこはローカルルールの世界です。 社会的動物であるはずに自分が、社会から寸断され、自分というものが徐々にぼやけて失われていってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もし、自分や家族が一般的に社会で用いられているようなサービスのID、アカウント、アドレスなどを持っていないなんていうことがあれば、それは、機能不全な環境の影響から来ていないか? と点検してみるとよいかもしれません。自己の回復の具体的な一歩となります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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