機能不全な家族・親などの特徴として、異文化や変化への対応の弱さ、があります。
自分たちと異なる価値観や多様性に対する対応の仕方がわからない。十分に対応できない。
その背景には、その家族や親が育った家庭や親族、地域などの環境自体が機能不全であったという問題、 慢性的なストレスへの暴露、愛着不安、そうしたことを背景に自身が不安や不全感を負うようになったということがあります。
そのために、異文化にどう対応していいかがわからない。
対応の仕方がわからないことと、不全感や不安も相まって、眼の前に現れる「異文化」を恐れの対象として認識し、不安、恐れを投影して、一元的価値観から異物、異常だと捉えてしまう。
そうした家族に現れる一番の異文化は何かというと「子ども」です。
皆様も、普段接していないと子どもをどのように扱っていいか戸惑った経験をお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。
子どもは、大人とは異なる態度や動きをしますし、一日の中でもコロコロと態度や、体調も変化します。
異文化、変化の塊のような存在です。
そんな子どもに対して、対応できず、異物として恐れの対象として対した結果、虐待であったり、虐待に至らずとも一元的な価値観を強いるような不適切な態度となってしまう。
子どもが成長する過程でも、子どもが発する「こうしたい」「ああしたい」ということが、単なる、自分が考える正しい道、秩序からの逸脱としか思えずに受け止めることができない。
以前の記事にも書きましたような、誤配や偶発性を利用できず、ただ、「ダメ!」ということしかできない。
そこにためらいや柔軟さが全くない。
本来は異文化として尊重した上で、社会への適応の手助けをしていくのが親の役割です。
異文化として対応できないということは、子どもが、「他者」として尊重されないということです。
結局、同化か排除か、という選択になってしまいます。
さらに、もっと厄介なのは、それが、ローカルルールの偽装を元にあいまいな同化や、あいまいな排除という形で現れた場合です。
本人も、なぜ自分が生きづらさを抱えているのかが言語化できず、過去を振り返っても、特段の虐待があるわけでもない、でも、なぜか自分が悪い、おかしい、苦しい、という形で現れてしまいます。
例えば、
「虐待されたとか、強いストレスという経験はないけど、なんとなく変」「なんとなく生きづらい」というときには、背景には、異文化や変化への対応の弱さ そして、不安や恐れからくる一元的な価値観という家庭の文化というものがないか?をチェックして見る必要があります。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」
(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準3~感情の受容と交わり」
(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準2~ストレスへの対処」
(参考)→「親や家族が機能しているか否かの基準~失敗(ハプニング)を捉え方、処理の仕方」
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