「最善手の幻想」のために、スティグマ感や自信のなさが存在している。

 

 前回、意思決定、選択プロセスについて、結果論からマウンティングされると、結果から最善手を求めるようになり、自分の主権が奪われる。

(参考)→「結果から見て最善の手を打とうとすると、自分の主権が奪われる。

 ということを書きました。

 

 その背後には、マウンティングする側が自己を神とするような万能感の錯覚が潜んでいることにも触れました。
 

 

 
 ローカルルール(人格)とは、それ自身がルールを創造する小世界のニセ神のような存在です。
 そのなかでは、あたかも神のように振る舞う(正統性を偽装する)ことでなければ、成立しません。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 その証拠に全体主義の国では指導者や組織は神に擬せられ、神聖化されます。カルト教団の教祖は神のようですし、機能不全家族の親もあたかも自分は全能であるかのように言動します。

 

 

 トラウマを負った人は、

 「私はいつもだめです。判断のおかしさを指摘されてきました。」
 「自分の親や、他人はいつもしっかりしていて、正しい。なぜなら結果がそうだったから」
 

 といいますが、実はそれはニセ神化した他者が、結果論で評論をしていただけだったのではないか。

 自分に自信を持つとは、自分の判断や選択、行動に自信を持つということです。

 

 

 なぜ自信がないか?といえば、その一つに、判断や選択の主権を奪われてきたから。

 自分が選んだことも「これが正しいかわからない」となる。

 では結果から判断しようとしますが、結果が最善手ではないことを取り上げて「やっぱり、自分の考えは信用できない」となって自信を失ってしまう。

 他人からも「もっとこうしておけば」と指摘されて、「ああ、他人のほうが優れている」となって、自信を失う。

 

 

 でもそれは、「結果論で下駄を履かされた他人の意思決定の正しさの幻想」でしかないものです。

 前回も触れましたが、人間は最善手を打つことは絶対にできないのですから、結果から判断することは実は意味がない。
 

 

 求めていることと全く違えばそのプロセスを改善することは意味があるかもしれませんが、次善手であれば万々歳といっていいのです。

 仮に失敗であったとしても、自分の価値基準(フォーム)から意思決定をできたのであれば、それは大いに褒められることです。

 なぜなら、人生は判断の連続です。
 自分の価値基準(フォーム)で生きるしか、主権を持って生きる方法はないのです。

 
 人間は弱く認識能力は限定されており最善手にはアプローチすることはできない。
 世の中には常に次善手しか存在しない、ということを知ることを成熟といいます。

 世の中は、多元的ですから、自分のスタイルに沿った瞬間に、評価の次元が自分軸になりますから、次善手が最善手となります。 
 そして、自分のスタイルに沿った選択の結果を「縁」というのです。

 

 

 一方、人間の能力は高いはずで、そこに向けて努力するべきだ、と考える考えをハラスメントといいます。
 DV、虐待、モラハラ、クレーマーにはすべてこのおかしな人間感が背景にあります。

 そして、幼い子どもが完全な人間(立派な人間)でないことに腹を立てて激しい折檻をしたりして、命を奪ってしまったりするのです。

 クレーマーは、自分の趣向や思考をエスパー(完全な人間、立派な人間)のように汲み取れない店員に腹を立てて、「気が利かない」として怒り出す。 

 

 

 人間の能力が高いはずだと捉えて、最善手を求めるものは、しらずしらずのうちに、人間の判断力を超越した不思議なめぐり合わせや、自分に備わる特別な力を信じるようになります。

 なぜなら、そうでなければ、最善手に達することはありえないからです。

 例えば、株が最高値で売れるかどうか、最安値で買えるかどうかなど予め分かるはずもありませんが、人間の能力は高いはずで、最善手が予め分かるということが成立するためには、自分だけが特別で不思議なめぐり合わせがやってくる、というおかしな考え(トリック)をもってくるしかありません。

 

 

 これは「縁」とは実は全く異なる概念です。「縁」とは人間の力が有限であることを背景に、自分のスタイル、価値基準で得た選択(次善手≒自分軸では最善手)との出会いの中に感じるなんともいえない感覚のことです。

 

 自分の価値基準に基づきますから、あたかもフォームができたスポーツ選手がコンスタントに結果が出せるように、また次の「縁」に出会うことができて、縁が積み重なり、人生が拓かれていく。

 

 

 一方、人間の能力が高いはずだ、自分もそうあるべきだ、と捉えて、最善手を求めるものは、自分の価値基準を崩して主権を他者に奪われた状態です。
 主権を奪われた状態にもかかわらず、頭の中でだけ不思議なめぐり合わせを信じていますが、主権が奪われていますから、目の前に来たものが最善かどうか判断することができません。
 常に、判断に迷い選びきれず、選んでも結果論から最善手でないことを悔い、他人の後出しジャンケン批評にマウンティングされ続けることになるのです。

 

 自信はまったくないのですが、心のどこかで「自分は特別だ」と思っている。

 それもそのはず「自分は特別だ」というのは、上でも書きましたように、最善手を求める錯覚が成立するために必要なトリックだからです。

 
 実は、トラウマを負った人がもつ「自分はだめだ」というスティグマ感は、そのコインの裏側です。

 結果論で裁かれることと、予め分かるはず、ということをつなぐのは、自分はだけが特別にだめで、いつも悪い結果が起こる、というローカルルールしかないからです。

 

 最善手が予め分かるはずなのにできないのは、自分は特別にだめらから、ということで、親や他者から裁かれてきたためです。
 「ほら、他の子は出来ている」と、たまたまできている最善手らしき例を後出しで取り上げて、結果論が正統だと真に受けさせられてきた。
 

 トラウマを負った人には、「自分は特別だ」という変な自信と同時に、どんなに学歴やキャリアなど実績があっても拭えないくらい深い自信のなさとが存在するのです。

 

 主権を回復したいけど、どうしていいかわからない。
 わかっていてもできない、という場合は、最善手の幻想(ローカルルール)にかかっています。

 自信がないから主権がない、とか、自分で選べないのではありません。最善手の幻想が成立させるために(それによって)、万能感やスティグマ感、長年苦しめられてきた「自信のなさ」が必要なのです。
 

 

 この不思議な構造が見えてきたということは、「最善手の幻想」を壊すことで、自信のなさや、自他の区別がない、自分はおかしい、ということを変えていくことができるかもしれません。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自分は他者とは違う」と思って落ち込み、「他者は自分と同じ」と思ってイライラし、不安になる。 

 

 先日の記事でも書きましたが、トラウマを負っていると、「自分は他者とは違う(おかしい)」として、自分の感覚を信じられなくなります。

自分が感じる腑に落ちない感覚や、気が乗らない状況を不調、うつ状態であるととらえて、治すべきものだ、と考えてしまう。
そして、ソワソワに巻き込まれて、しなくてもいいことをしてしまう。

 

 

 以前筆者の家の洗濯機の「乾燥モード」が動かなくなったことがありました。操作して動かすと最初は動くのですが、しばらくすると、「ピーピーピー」と止まってしまうのです。
 
 こちらは腹を立てて、「なんだよ、ちゃんと動いてよ」「故障だ」と思っていましたが、よく調べてみると、排気口にホコリがたまって排熱できなくなっていたために、センサーが作動して自動停止していたようなのです。つまり、洗濯機は正しく機能していたわけです。ただし機能して、停止してくれていた。

 正しく機能していたのに、それを「故障だ」と決めつけていた。

 もし動いていたら、熱がたまって本当に壊れてしまっていたことでしょう。
 
 この洗濯機と同じように、私たちも私たち自身の感覚を「異常だ」と思わされて、自分の感覚がわからなくなってしまっています。

 

 

 

 もう一つ、それと対になるように、私たちは「他者は自分と同じだ」として、同じように考えてくれない、動いてくれない相手にイライラしたり、相手の気持ちを考えて不安になったりすることがあります。

 
 

 

 「自分は他者とは違う」と「他者は自分と同じ」ということは矛盾しているようですが、実は、一貫しています。

 

 一貫しているトラウマティックな人間観、社会観が背後にあります。

 それは、「社会、人間というものは一元的で一つの基準でできている」と考えています。それを自他に当てはめてる。そして、次に、「その基準から見て、自分は劣っている」というもの。

 

 ただ、現実には人間は多様、多元的ですから、他者はその基準に従って必ずしも動くわけではありません。こちらが思っているようには、社会や他者は動いていないのでズレが生じます。

 そのずれは、「他人は自分が思う通りには動いてくれない」というイライラ、不安につながります。

 さらに「自他の区別」が弱いために、相手のことを考えすぎて振り回されてしまうのです。

 

 

 

 なぜ、「相手は自分と同じだ」となるか、といえば、不適切な環境(親など)がそれを強いていたからでもある。

 自他の区別がついていない未熟な自分の理不尽な言動を正当化するために、「私の気持ちを考えろ」と親が子供に強いたりすることがある。

(参考)→「トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう

 

 

 あるいは、他者の理不尽の原因について、「お前がいい子ではないからだ」と本人に原因帰属をさせる。

 

 理不尽な人や物ほど、「相手の身になれ」「私のことを理解しろ」と巻き込んでくるものです。でも、それは相手を支配する手段だったりする。

 

 そうすると段々と「自他の区別をつける」という大事なことがわからなくなってしまう。

(参考)→「「自他未分」

 

 

 大人になってもそれが習性になってしまう。

 大人になると、そのおかしなことを言う人が、恋人や上司となって現れる。 
 

 パートナーは、「私の気持ちを考えろ」「このイライラはお前のせいだ」といって、自分の不安定な情動に一体化させようとする。
  

 
 上司は、「顧客の気持ちを考えろ」とか、「上司や同僚の身になって考えろ」といってくる。もっともらしく見えますが、実は相手の身になって考えると、うまくいかなくなる。

 

 

 TV番組で、「帰れま10」という番組があります。
 その飲食店で人気10位以内のメニューを当てるまで帰れない、という番組ですが、
 出演者は、
 「やっぱり、レストランといえば、〇〇でしょ」
 「女性が多い店だから、△△が受けるはず」
 とか、顧客の身になって、人気メニューを想定するのですが、なかなかうまくいかない。

 絶対これは当たるはず、というメニューでも、30位代なんて言うこともザラ。

 つまり、身になって考えたことは当たらない。それではわからない。

 (撮影が長時間になり、疲れて頭(意識)が働かなくなってどうでもよくなった時に、うまく距離が取れて、当たったりする。)

 

 

 母子が密着した親が、私は子供のことがわかっていると考え、「子どものために」といったことは、大抵がずれている。子どもは渋々、着たくない服を着たり、進みたくない進路に進んだり、陰鬱な顔をしている。

 

 マーケティングが進んだ会社では、相手の身になってなど考えず、統計データなどで自他の距離をとって、感覚ではわからない解を見出す。

 大学の研究室でも、対象物から距離をとった研究者が客観的な結論を導き出す。

 

 

 本来、相手を理解する、というのは、相手も自分と同じだ、として相手の気持ちを考える、ことではない。

 「相手は自分とはまったく違う、異文化である」として、まずはしっかりと距離を取って、“外形的”に理解する。
 
 さながら、自然科学者が生物を研究するかの如く、社会科学者が異文化を研究するかの如く、相手を見ます。
 
 私たちは、生物とか、外国の文化などに接したときに、容易には感情移入することはありません。

 もちろん、頭で「擬人化(自分に擬して)」すると、理解の助けとすることはありますが、同一化して、という感覚ではない。

 ある意味ドライに見えるかもしれないが、そうしたほうが本当に理解ができる。これが、本来的な自他の関係、ということ。

(参考)→「カエサルのものはカエサルに

 

 他者を理解するためには一度十分に距離を取らないと、相手の身になることもできない。身になったつもりでいると、それは単なる陶酔であったりする。
 (相手に距離を詰めた理解を求めれば求めるほど相手は自分を理解できなくなる。)

 

 
 「自分は他者と同じく健全」であり、同時に「他者は自分とは異なる」という感覚、

 これが本来的な感覚といえそうです。
 (負の暗示が入ると、これができなくなります)

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

悩みの中にある一日も、解決された後の一日も同じ一日

 

 これまでいろいろと見てきましたたように、トラウマを負ってしまった人が見る世界観と、そうではない人の世界観とは驚くほど違っていたりします。

 

 トラウマを負うと、ストレス応答のリズムが狂い、人とつながりづらくなり、その生きづらさを回避するために、独自のマイルールやファンタジーによってバイパス(迂回)して、世の中を何とかサバイバルしようとするからです。

 

 見えている世界がそうだと思っていたら、実態は全くそうではなかった、ということが起こります。

 

 

 ただ、生身の姿はどうかといえば、トラウマを負った人も、普通の人も違いはありません。同じようなもの。

 同じように弱いものだし、何でもかんでもうまくいくわけではないし、どうしようもないし・・。

 

 ただ、トラウマを負った人から見ると、普通の人はとても充実して素晴らしい人生を歩んでいるように見えてしまいます。

 

 自分が、セラピーを受けた先にある状況もとても素晴らしいものと考えていて悩みの渦中にある今は、受験勉強中の受験生か、減量中のボクサーか、収容所に収監されている捕虜か、といった感覚でとらえています。

 

 とても生きづらい人生を歩んでいますから、そういうファンタジーでも持たなければやっていけない。

 (参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 でも、普通の人から見たら、「いや、別に、あなたも私もそんなに変わらないよ・・」
「すごいと思っているかもしれないけど、そうでもないよ」と返したくなります。

 

 筆者が会社員のころに、求職中の方や、学生と採用で会う機会がありました。
向こうは就職難で苦労していますから、難関を突破した会社やその社員はさぞ立派なモノだろう、職場も素晴らしいものだろう、
とキラキラした目で接してこられます。

 

 こちらからしたら、「いやいや、そうでもないよ」「社員の中でも困った人もいっぱいいるよ」「あなたと私にそんなに差はないよ」と感じたものです。

 

 私たちは日本で暮らしていて、その中でも生きづらさを感じることがありますが、発展途上国の貧しい人たちからしたら、天国の住人のように見えるかもしれません。
でも、やはり「いやいや、そうでもないよ」と応じてしまいそうです。

 

 別に下を見て安心しろ、とか、悩みなんてたいしたことないなんて、俗な言い分ではありません。

 

 例えば、以前も紹介した、仏陀の「からしだね」のエピソード

 夫や子供を亡くした未亡人が、ゴータマ(仏陀)に相談したら、
「一度も死者が出ていない家から、からしだねをもらってきなさい」といわれます。
村の家々を尋ねてみたら、
「(実は隠しているだけで)ウチでも不幸が・・・」となって、どこに行っても、不幸のない家は見つかりません。
家々を回るうちに、未亡人の悩みは晴れていった、というものです。

 

 他人の不幸で安心した、というのではなく、ありのままの現実(ニュートラル、中庸)を見て、幻想(暗示)が解けていった、ということです。

 

 解決は、先にあるのではなく、そこにある。

 

 トラウマが解消されていくと、そういうニュアンスが肌で分かるようになってきます。

 

 そして、気が付いていきます。

 悩みの中にある一日も、解決された後の一日も同じ一日であることを。

 

 悩みが解決しなかったら何にも始まらない、といって今日の一日が未来の準備になることはとてももったいないこと。


 悩みの中にある時はカウンセリングなど適切なサポートを受けることも大事ですが、おそらく将来、歳をとってから「なんで自分は、あの時、もっと楽しんでおかなかったんだろう?」ときっと感じてしまうでしょう。

 

 セラピーに割く時間とお金を、趣味や旅行といった、その時の“今”に割いておけばと思うに違いありません。

 

 〝今”を将来の準備期間とするというのは、今の自分にダメ出ししているようなもので、どこまでいっても終わりがなく、やがて、努力は反転してこちらに崩れかかってきます。

 

 ただ、今を楽しむ、といっても、エキサイティングなことをしよう、ということではありません。〝リア充”といって皮肉られるような、無理やりなものではなくて、とても平凡なものです。

 一日は、今も平凡で何もないし、悩みが解決した後も平凡で何もありません。

 徐々にそんなことが見えてきます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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素直さと生意気さ

 

 トラウマを負った人は、純粋で、とても素直です。理想が高く、本質を求めようとします。

 これまでの記事でも書きましたが、形式よりも心を大事にします。

(参考)→「トラウマを負った人たちの独特な人間観

 

 汚れた大人への反発も手伝って、純粋でありたい、素直でありたい、と思っていることがあります。そうした理想を完成させることが、真に大人になることであり、成熟であるととらえています。

 自分を高めようと努力しています。

 特に弱い人については、理解し、本来のその人はそんなことはない、力が制限されているからだ、と捉えようとします。

 素直であるために、人の話も真に受けやすいです。

 真に受けやすいために、傷つきやすく、人を恐れてもいます。

 

 一方、独特の生意気さも持ち合わせています。

 しばしば人を上から見ているような時があると自分でも気が付いています。素直で理想が高いために、意識の上では、現実にいる人たちよりも一歩先にいる感覚や、人間とは立派なものという感覚などがあるためです。

 

 特に、感情的な人や世の中でスレてしまった人、ずるいことをする人、自分の限界を低く見積もった人などを低レベルとして嫌悪します。

 

 会合で人と話をしていて、盛り上がると、つい上からわかったことを伝えるような、どこか馴れ馴れしいような生意気なしゃべり方をしてしまうことがあります。
 本人も調子に乗りすぎた、浮ついた感じがある、として後で自己嫌悪してしまうことがあります。

 

 「なんか、上からだよね」と人から指摘されると、とても落ち込んでしまいます。
 本人は、そういう人間にはなりたくない、常に謙虚でいたい、という理想があるからです。

 でも、ついついやってしまいます。

 

 言葉では出さなくても、頭の中で、レベルの低いと感じる人を人を評価したり、こき下ろしたりしている場合もあります。

 

 トラウマを負うと過剰適応になりやすいため、謙虚でいるとへりくだりすぎてしまったり、前に出れなくなることがあります。

 逆に自然体でいようと努力すると、なぜか上からの態度になってしまい、生意気という印象を与えてしまいます。

 極端に下から、極端に上からとなりがちで、ニュートラルでいることが難しいのです。  

 

 コフートがまとめている考えですが、
 人間の自我というのは、生まれたときは自分は何でもできる、親(他者)は神のようにとらえていますが、 成長する中で他者や自己のイメージは適切なサイズになっていきます。


 しかし、不適切な養育環境(ストレスフルな環境)に置かれると、他者や自己のイメージは誇大になったままで残り、それがいわゆるパーソナリティの歪み、となって、尊大になったり、他者をあがめて依存的になったりします。
 (パーソナリティ障害のメカニズム)

 

 トラウマを負った人の、他者観、自己観はまさにそうで、素直でありたいという純粋さと人間は立派なものだ、との理想をもち、自己観が誇大なままなのです。

 さらに自分(だけ)は高い意識に触れることができた、という直感があるため、上からの印象に拍車をかけます。

 

 他者観も、じつは誇大です。
 だから、へりくだりすぎたりする一方で、その誇大な他者観に適合しない人は、徹底的にこき下ろしてしまいます。人間はすべていなくなるべきと考えていることもあります。

 

 自分の親などはまさにそうで、立派なはずの人間から堕落した軽蔑すべき存在、という風に見ていることがあります。

 

 世間の大人たちがするような一階部分の現実的なやり取りは嫌悪します。  

 

 自分を研鑽して理想を求めますが、実現するどころか、
他人は怖くなるし、ついつい相手をこき下ろしたくなって自己嫌悪してしまいます。人からは批判されるなど、得たい評価は得られず、ますます生きづらさを感じていってしまいます。

 

 心の中では、「自分はただ本来の自分で素直に生きたいだけ。他者とも心からつながりたい。生意気だなんて言わないで」と泣いていたりします。

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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