頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 真の客観とは何か?ということを書きましたが、

 もう少し具体的に言うと、私たちはどこで知るのでしょうか?

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、公的な領域にいるときは、常識や社会通念というものを無意識下で身体で感じ取って生きています。

 それがどこで表面化するのかといえば、「内側から」。とくに腸のあたりから湧いてくる感覚で具体化していきます。

 
 よく「腑に落ちる感じ」といいますが、まさにそんな感覚です。

 英語では、「ガットフィーリング」といいます。
 
 歴史上の王や武将なども、この身体感覚というもので判断してきたようです。 

 

 

 反対に、私たちが判断を誤るときはどんな時かといえば、「頭で考えた」とき。もっといえば、「胸から上の感覚」に頼った時。

 腑に落ちるのとは違い、そわそわ、ざわざわ、して落ち着かない感覚。あるいは、頭に血が上って過活動を起こしている状態。

 こうしたときは、ワールドワイドウェブ(常識や社会通念)とつながっているのではなく、ローカルネットワーク(私的情動)につながっている状態です。

 そのため、判断を誤り、失敗してしまう。

 

 

 

 親と子の絆を指す「愛着」というのも、まさに、この「ガットフィーリング」をはぐくむもの。お腹がすいたとき、眠い時、おしっこがしたいとき、などなど
 内臓感覚への信頼を、親との対話で作り上げていくのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 トラウマを負うようなストレスフルな環境、というのは、「胸から上」の感覚を強制されるような文化。必ず、周囲から一方的に急かされれたり、内蔵感覚を無視されたりといったことが起きています。
 過剰に気をつかい、未来を先回りして、ソワソワとして落ち着くことがありません。

 そのため、社会とつながることができず、孤独に陥り、判断を誤り、自分を責めて、という悪循環に陥ってしまうのです。
 
 

 

 

 現実の世の中は、実は、「のんびりして」「待っていることのほうが多い」ものです。常に何かを判断したり、動いたり、ということは少ない。

 ゆっくり待ちながら、内臓感覚(ガットフィーリング)が湧き上がってくるタイミングを待っている。
 
 それがいわゆるチャンス(機会)というものです。

 

 自分の「胸から上」がざわっとしたり、熱くなっていたらそれは一度ストップしてみる必要があります。そして落ち着いたうえで、腸で考える。ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」ということが私たちの本来の姿のようです。

 

 

 

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真の客観とは何か?

 先日も書きましたが、
 トラウマを負っている人は、過剰な客観性、を持っていることがあります。

(参考)「過剰な客観性」

 

 他人の意見はすべて客観的事実だとして真に受けて、どこまでも、自分を反省して、どこまでも自分を改善していかなければならない、とする姿勢です。

 しかし、やればやるほど、自分の改善すべきポイントは増えていき、決してなくなることはありません。

 改善するために自分の足場の土も掘り崩していくため、知らない間に、自分の自信は失われていき、最後にはエネルギー切れを起こして、調子を崩してしまうようになります。

 

 
 当人にしてみたら、
 「そんなことを言うけど、自分の主観と客観(人の意見)とを比べた時に、自分の主観を採用したら独りよがりになってしまう。独りぼっちになってしまう。できるかぎり、人の意見を採用して、自分を客観的により良くすることしかないじゃないか」
 と感じてしまいます。

 

 この考えには、生育歴の中で内面化された刷り込み(ニセの公的領域)があります。

 それは、「他人の意見を客観だ」としていること。
 

 

これが、その当人を苦しめている。

  これはどこからくるか、といえば、例えば、親や周囲の人たちが自分のエゴ、支配欲のために、自分の私的情動を「正しい客観だ」として強弁してきたことについてまじめさから真に受けさせられてきたことから。

 

 機能不全な親というのはとても多いのですが、その親の気まぐれや、わがままにすぎないものが、「あなたのためだ」など理由をつけられてで、正当化されている場合がある。

 

 「これはしつけだ、教育だ」「私の言うことは正しい、だから従いなさい(≒あなたはダメだ)」といったような形で内面化を強いられる。

 

 これは、ある種のハラスメント(ニセの公的領域)にすぎないのですが、ハラスメントにすぎないがゆえに、自分の考えを「客観的である」強く主張しなくてはならず、さらにそれを維持するために、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」ということが強調される必要が発生する。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 そうして、「他人の意見が客観である」と、すり替えられてしまうのです。

 

 

 これはホンモノの客観ではありません。

 人間の社会は、あらかじめ客観があるのではなく、主観の集まりにすぎません。そして、その主観はとても多元、多様です。
 

 もっと言えば、人間というお猿さんが、嫉妬や支配欲から、互いをけん制し合っているような状態が、それが社会のすがた。
 もちろんそれではだめなので、信頼などを醸成して、社会を築いていくわけですが、お猿さん同士の主観のぶつかり合いであることには変わりがない。

 それなのに、過剰な客観性があると、猿の鳴き声の集まりを「客観」だとしてありがたがって、自分を否定するようなことが起きてしまう。

 

 

 では、真の客観性とは何でしょうか?

 

 それは、他者の主観を真に受けることではありません。

 

 真の客観とは、安心安全を土台にして、「自分の主観」から出発すること
 (安心安全がない時、主観は歪み、関係念慮(妄想)に落ちていきます。)
 

 次に、身体を支えにして、ノイズをキャンセルしていくことです。
 
 
 すると、腑に落ちる(ガットフィーリングに合う)感覚を得ることができます。

 それが、真に客観的なことです。

 

 

 「自分の主観からスタートしたら、独善的になるのでは?」という不安があるかもしれませんが、安心安全を土台にしていて、身体が健康なときの主観というのは社会のネットワーク(社会通念、常識)とつながっていますので、多元的でバランスが取れていて、基本的におおむね誤ることがありません。

 

 人間というのはクラウド的な生き物、個人であると同時に、社会の表象でもある。だから、社会とつながる一人の芸術家が時代を代表する芸術を創造することができたり、 作家や哲学者が時代精神をカタチにすることができたりする。凡人でも、アンケート調査、統計などを通じて、輿論が明らかになったりする。

 

 

 一方、意固地、独善的、妄想的になってしまうのはどういったときかというと
安心安全の支えがない時や、身体が健康ではないとき。その際は、社会的なネットワークとつながることができず、原家族やハラスメントを負った過去とつながってしまい、独善や疑心暗鬼、関係念慮(妄想)におちいったりする。
 意固地な人を見ると、その人は明らかに、別の何かと戦って、自分を必死で守っていることが外から見てもわかります。

 

 主観からスタートするためには、「安心安全」がキーポイント。

(参考)→「「安心安全」と「関係」

 

 そのためには、心身を健康にしている必要が勿論あります。

 

 過去の記憶によって、「安心安全」を感じることができない場合は、カウンセリングの出番となりますが、その前に、食事、運動、睡眠、というのはとても大切だったりします。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「安心安全」(愛着と健康)を土台に自分の主観を出発点として社会のネットワークとつながり、真の客観を捉えることができるようになるのです。

 

 

 

 

 

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「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 私たちが悩みとすることは、自分にとっては、動かしようもない事実であり、それはとてつもない恥として感じられています。

 

 ある人は、幼いころに負った記憶。家庭の中での出来事。

 ある人は、親から言われた言葉。

 ある人は、学校での出来事。いじめや、おもらししたといった失敗や。
 

 
 
 常識や、本当の意味での公的な感覚でとらえれば、
 「(親の言動や、環境は)それは常識に反する。おかしい。あなたは悪くない」となりますし、

 

 過去の出来事も、
 「そんなことはだれにでもある。何も気にしなくていい」
 という風にとらえられます。

 

 人間というものは、だれしも弱くて、どうしようもないもので、表向きはそう見えない人も、ただそれを見栄で隠し通しているだけで、内状は大差がないもの。

 人生はミスや失敗もたくさんあるもので、そういうもの。

 (失敗がない、と思っている人は、自分の失敗が目に入っていないだけ。あるいは、失敗しないために得た援助や犠牲を理解していないだけ)

 

 
 現実をありのままにとらえれば、自分が負ったどんな悩みも消化されていきます。

 

 

 しかし、私たちのまわりには、ローカルなコミュニティがたくさんあり、その中では、人々の私的な情動が渦巻いている。 嫉妬とか、支配欲とか。
  
 沸き起こる嫉妬から、自分の私的な情動を、あたかも公的なルールであるかのように偽装して、それをもとに相手を支配しようとすることが起きます。

 

 

 一番は、「家庭」、次に「学校」、「友人関係」、そして「会社」

 親も当たり前のように子供に嫉妬をします。えこひいきもします。支配もします。それらは、私的な情動からなされます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ただ、まさか「自分の個人的な感情によるものです」とは言わず、本人も気が付かず、「お前のためだ」「お前がおかしいのだ」「お前の言っていることは屁理屈だ。理屈っぽい」「どこに行っても通用しない」といって、自分の私的な情動を隠して、子どもや家族を非難して強弁するようになります。

 

 

 それが家の常識となり、子供にとっては、あたかも社会のルールのように感じられて、「自分はおかしい」という自己否定、自信のなさが大人になってもぬぐえずに続くようになります。
  

 
 「親が言うのだから、それは常識に違いない」と思っていますが、それは単なる親の嫉妬や支配欲でしかなかったりします。

 

 

 学校のいじめもそうで、最初は、家庭などほかの場所で不全感を負った子供が始めることが多いです。これも嫉妬や支配欲が関係します。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 誰でもよいのですが、標的を見つけて、いじめを開始する。

 「くさい」とか、「空気が読めない」でも何でもよいのですが、もっともらしい理屈をつけて正当化する。

 さらに、同級生や先生も周りを巻き込んで、リアリティを形成する。

 いじめられたほうは、「これだけみんなに否定されるのだから、自分は本当に空気が読めず、おかしいに違いない」として、自分を責めるようになる。

 もちろん、直感的には周りがおかしいとは感じていますが、どうしてもぬぐえない。

 なぜなら、自分を責める理屈や人々が「公的な領域」に見えるから。

 (「自分の直感と世の中を比べたら、世の中の意見のほうが正しいに違いない」という感覚)

 

 

 いじめる側も、「これは自分の不全感や嫉妬からのものですよ」といってくれればよいですが、「公」を詐称するために、「私的な領域」にすぎないものが、あたかも「公的な領域」であるかのように移り、その「ニセの公的領域」は被害者を長期間呪縛することになります。

 おとなになっても、いじめの記憶がじわじわ影響しているという方は多いです。
 

 

 

 会社もそうです。

 単に社長や上司のコンプレックスからくる偏った常識でしかないものが、あたかも公的なルールであるかのように偽装されて、そして、それに基づいてハラスメントが行われている。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 ハラスメントは、仕掛ける側が、「これは自分の嫉妬によるものです」なんていうわけがありませんから、もっともな理屈をつけて正当化します。
 「ノルマが達成できていない」「ミスをした」、「スタンスが悪い」「積極さが見えない」といったような言いがかりをつけたりすることはよくあります。

 

 

 とても学歴が高い方が、それゆえにいじめられるということも珍しくありません。例えば「東大を出ているのに、そんなこともできないのか」といったようにいびる上司は実際にいたりします。

 

 これも、たんなる嫉妬によるハラスメントにすぎないのですが、もっともな理屈をつけて行うために、受けた側はずっと呪縛されるのです。

 
 こうした「ニセの公的領域」とは、セラピーでは、ドミナントストーリーと呼ばれますが、あくまでそれらはニセモノにすぎません。

 

 

 自分の頭の中を触っていても、なかなか解消することは難しい。
 
 本当の「公的な領域」につながり、ニセの領域から移行することによって、ニセの公的領域によってもたらされた悩みは解決されていきます。

 

 

 

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ニセの公的領域

 

 インターネットでは、偽のサイトに誘導して情報を盗んだり、という犯罪があります。銀行とかECサイトとか、「公的な」会社を偽装して、「パスワードを変更してください」といったようなメールを送ってきて信用した人がログインすると情報を取られる、というようなことです。

 よく、会社のホームページには「当社を騙るメールにご用心ください」といったような注意書きがされています。
 

 世の中には、使い人を陥れるために、ニセの公を騙る行為が存在します。

  

 これまで「公的な領域」の大切さ、についてお話してきましたが、私たちにとっての「公的な領域」にも「ニセの公的領域」というものが存在します。

 

 例えば、クライアント様からのご相談でしばしば「“世間の目”がこわい」というケースに出会います。世間が常に私を見ている、気になって外出できない、といったことです。

 私たちも世間の目というものを感じることはあります。世間の目というものがあたかも事実であるかのように、自分を圧迫し、厳しく評価し、行動をしばるように体感されることがあります。

 

 その世間の目に合わせて自分の行動を抑制したりしなければならない、自分を品行方正に変えなければならない、と思って苦しくなります。
 

 ただ、これは実は「ニセの公的領域」に当たります。

 実際には“世間”なるものは存在しませんが、あたかも存在するかのように思わされ、そこに接続されることで、呪縛されてしまっている状態です。

 

 このニセの“世間の目”とは何からくるかといえば、しばしば親や祖父母など家族の価値観からくるものだったりする。

 親や祖父母がなかば妄想的に世間をとらえていて、家族を「巻き込み」、ニセのリアリティを形成する。

 
 「家族価値」といって家族の中でのローカルな価値観が縛ることもあります。
「~~でなければならない」「~~といった人間はダメだ」といったようなことです。

 
 家族の呪縛はとても強いのですが、一方で、単なるニセモノですから、本当の公的領域とつながってニセモノと気が付けば、容易に離れていってもくれます。

 

 別のケースでは、例えば、私たちが過去について「恥ずかしい」「思い出したくない」といった嫌な記憶を持っていて頭から離れずに困っていることがあります。あまりに強いとトラウマと呼ばれたりもしますが。

 これも実は、「ニセの公的領域」です。

 

 

 記憶の中で、自分の行為を評価するニセの規範が存在していて、自分の行為を縛っている。現実には当時の記憶は他の当事者たちも覚えていないことも多いですが、本人の中ではクリアに反復されている。
 

 

 筆者も経験がありますが、例えば同窓会などで、昔の仲間と再開する。
自分の中でははっきりしているような記憶でも、同じ仲間は全く覚えていないことはとても多く戸惑うことがあります。
 人間の記憶というのはこのように移り変わっていくものなのだ、と実感します。

 自分の中でいつまでも消えないような恥ずかしい記憶も、実は自分の中だけのもので、それはある種の「ニセの公的領域」なのだということを痛感するのです。
 本人には「クリアすぎて、偽物とはどうして思えない」かもしれませんが、ほかの当事者も忘れているようなことがホンモノなわけがありません。

 

 

 さらにいうと、当時いた環境が非常に生きづらかった場合。家庭、学校や会社などが典型ですが、それは、その環境が「機能不全」を起こしていた、ということです。

 本来は、本当の「公的な環境」へと仲介するはずなのですが、その環境のローカルルールをあたかも「公的な環境」であるかのように装って、メンバーの「私的な情動」を解消するために、ほかのメンバーにハラスメントを仕掛けるようになるのです。

 それがいじめなどという形で現れます。

 

 いじめは、私情を常識とすり替えて「ニセの公的領域」を作り出して、そこにメンバーを巻き込みます。それによってハラスメントを正当化する。
 被害者は、大人になっても、当時の「ニセの公的領域」につながったまま、離れることができず、それに適応できない自分を責め続けたり、自分を委縮させるということが起きていたりします。

 これも「ニセの公的領域」です。

 

 

 私たちは、誰もがどこか「ニセの公的領域」とのつながりがあり、苦しみを感じていたりする。
 「つらい過去の記憶」も実は「ニセの公的領域」です。

 なぜなら、つらい過去の中には必ず“世間”があり、“社会”、人の目というものがあるからです。

 

 私たちはクラウド的生き物で、どこかにつながっていないと生きていくことができない存在です。そのため、ニセ物にも接続してしまう。トラウマとは、それが更新されないこと。

 健全な状態であれば、真の「公的な領域」の支えを感じ、ニセモノのおかしさに気づき、学習し、関係が更新されていき、健康さを維持、成熟することができます。

 十分な支えがない時には、「ニセの公的領域」から抜け出すことが難しい。
あたかも映画「マトリクス」の住人のようにそれを本物ととらえ続けてしまう。
 

 カウンセリングのゴール、目的というのは、「ニセの公的な領域」から抜け出して、本当の「公的な領域」とつながっていくためのお手伝いをする、というところにあるのかもしれません。