愚痴を言わないと発散できない

 

 理不尽な目にあった際に、さっと言い返したり、反応できればよいですが、社会的な状況で、それが出来ない場合も多いものです。

 

 例えば、失礼な店員さんがいたとか、会社で嫌なことを言われた、とか。

 そうしたことを、「自分はそんなことでは動じない強い、高尚な精神の持ち主ですよ」「まさか、愚痴なんか言いませんよ」といっていると、精神的な免疫が下がってきます。

 

 さらに、相手の理不尽な振る舞いを、「秘密」として自分が抱えてしまうことになります。他人の秘密を抱える構造は精神的にとても良くありません。

 ファミリー・シークレットと言って、家族の秘密を抱えることがアダルトチルドレンといった状態の特徴とされますが、家族以外の人でも同様です。

(参考)→「他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 

 驚くようなおかしな目にあったら、それを知人や同僚に言う。愚痴を言う。

 これは自然なことです。

 陰口を言っているとか、そうしたものではありません。

 

 その際は、できたら1人称で言う。お互い弱い人間同士、「どうしちゃったんでしょうね?」「こんな目にあっちゃってさあ」という感じでいう。

 落語の枕や漫談みたいに話をする。

 「いや~、このあいだ、ひどい目に会いましてね~。お店の店員がいきなり僕に睨みつけてくるんですわ~。殺されるかと思いましたわ~」と。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすると、人間関係がおそろしく、おっくうなものとなる。

 

 

 反対に、「なんでなんだろう?」と理由を考えたりというのは一番良くない。

 なぜ?と考えているときは必ず巻き込まれているときです。
生半可な知識で心理分析などしていれば、もっと巻き込まれています。

 

 理不尽の理由を知る必要なんてありません。
 「寂しいのかな」「かまってほしいのかな」「おかしいな」とバッサリ切り捨てて十分。
 
 理由を考えるのは、報酬を頂いた精神科医やカウンセラーがする仕事。
(参考)→「理由を考えてはいけない。

 

 

 さらに、相手の秘密を抱えて、さも不可解な行動をする人を取り繕う”マネージャー”のようにならない。
 
 いつのまにか、相手の頭の中を覗いて、忖度して、おかしさがバレなように、その秘密を自分で抱えてしまう。

 そんなことをしているうちに、自他の区別が曖昧になり、自分の輪郭がわからなくなり、自尊心が失われてしまうのです。

(参考)→「理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 
 自分は常に陽の当たる明るい常識の側に立っていることが必要。

 相手に引き込まれて、暗いジメジメした影に入っていかない。

 そのための暗いエネルギーの発散(排泄)手段の一つが愚痴です。

(参考)→「愚痴はどんどん言って良い

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自分のIDでログインするために必要な環境とは

 

 前回の記事では、「私」を出すと否定されると思わされてきたこと、そのことでログインとは真反対の方向に努力させられてきたことを見てきました。

本当は「私」を出して、自分のIDでログインすれば愛着的世界で生きることができるのに、回避することでどんどん生きづらくなっていることがわかります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 では、「自分のIDでログインしよう!」と気合を入れるだけでできるか?といえば、なかなか難しいものです。 

 なぜなら、私たちが、自分のIDでログインして生きていくためには環境が必要になるからです。

 

 では、環境というものはどの様に整えられていくのでしょうか?

 その参考になるものということで、先日NHKの番組取り上げられていました、大阪の西成高校で行われている「反貧困学習」について見てみたいと思います。

 

 生活保護の受給者が多い大阪・西成ですが、西成にある西成高校も非行や中退が多い教育困難校として知られていました。

 子どもの問題の裏には必ず家庭の問題があるとされますが、西成高校でも教師が家庭訪問をしてみると、家庭の問題が見えてきました。

 例えば、親が精神疾患で働くことができない、子どもを養育することができない。食事も十分に提供されない。
 親が出ていって不在、育児放棄されてきた、という場合もあります。
 子ども自身が家事をする、食事を作らないといけず、学校に行く余裕がない、といったことも。

 そうした背景から、学校に行こうにもいけない、行っても仕方がない、希望がない、と思い非行や退学といったことにつながっていることがわかったそうです。
 

  
 
 退学しても就ける仕事は非正規や安い賃金、過酷な環境の仕事で、そこでも不当な扱いをされて泣き寝入りといったことになりがちです。そうして貧困が連鎖していく、という結果になっていました。

 
 そこで、西成高校の教師たちが取り組んだのは「反貧困学習」という名の取り組みです。
 「反貧困学習」とは、生徒を取り巻く貧困とは一体どういうものか?何が背景にあるのかを教え、バイトなどで不当な扱いをされた場合は労基署に相談させる。親がいない場合は生活保護を受けさせる、といったように、具体的に貧困に立ち向かうための学習を提供していったのです。
 

 もちろん、日常でも家庭訪問を続けるなど地道な努力も合わせて行われています。

 そうするなかで、生徒たちは、世の中に関わる力、貧困の連鎖から抜け出す自信をつけていったのです。
 

  
 ここで興味深いのは、問題を抱える生徒に対して「本人のせいだとして叱責する」のでもなく、本人の心の問題だとして「カウンセリングを受けさせよう」ではなく、「反貧困学習を提供しよう」となった点です。

 人間は環境の影響で成り立っている生き物、環境のサポートがなければ、生きていけない存在です。

 子どもも大人の問題、社会の問題をとても敏感に受けていて、心身の不調や問題行動となって現れます。

 不調や問題行動を当人の責任とすることを「関係性の個人化」といいます。
環境の問題であるはずのものを、「個人のせいだ」としてしまうのことをいいます。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 そうすると、問題はかえって悪くなる恐れがあります。なぜなら、問題はその人のせいではないから。環境の問題を個人のせいにするというのは、まさに、“ニセの責任”を背負わされているということです。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる

 「カエサルのものはカエサルに」とはキリストの言葉ですが、「環境の問題は環境に」が本来です。原因は正しく返さなければいけません。

 

 西成高校でも、個人のせいにされがちな非行や退学を「貧困」という問題として「社会化(外部化)」したことで、責任が本来あるべき環境へと返されたのです。それが効果を上げていきました。

 さらに、観念的に責任の所在を整理するだけで終わるのではなく、公的機関への働きかけなど具体的な行動でそのことを実現していきます。
 労基署に相談したり、といった個別の具体的な取り組みによって社会とのつながり、
「働きかけたら、必要なときに助けてもらえる」という効力感が生徒にも身につきます。

 貧困といった具体的な問題、物理的な問題に個別の物理的なサポートをおこなった。その中で社会とのつながりや、適切な距離感が作られていった、ということです。

 そうして、自分に主権、自尊心が戻っていった。

(参考)→「主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 

 「ヤル気の問題」「本人の問題」とされていたことを、学習を通じて、「ああ、環境のせいなんだ」「問題を解決する物理的手段があるんだ」と知っていくことで問題がもとのところへと返っていく。
  個人化されたニセの責任が、ドバーッと社会に戻されて行って解放されるようなイメージです。

 具体的な取り組みを通じて、社会人としての人格形成(成熟)も後押しされていきます。

 まさに、みにくいアヒルの子が 「あれ?環境のせいで、そう思わされていただけだったんだ?」と気がついたような感覚。

 

 
 こうした取り組みは私たちが自分のIDでログインしようとする際にも、とても参考になります。

 悩みというのは、基本的には、自分の問題ではないもの、ニセの責任を引き受けてしまってるような状態。 
 その結果、自他の区別がつかなくなり、主権を奪われて、力を発揮できなくなっている状態のことです。

 例えば、養育環境での親の対応によって愛着が不安定になっている、というのは子どもには責任はありません。
 そのことで大人になってから生きづらさを抱えていることについても本人に責任を求められても困るものです。
 これらはニセの責任です。

 

 以前も、「おかしな連立方程式」として記事を書いたことがありますが、ニセの責任との複雑な連立状態になって解が出ずに疲弊している。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 西成高校の貧困学習とは、おかしな連立方程式を解体して、個別の式として離して解決していったといえます。
 しかも、具体的な社会的な手段によって。

 そこは、物理的な現実に根ざし、主権が自分にあることを知らせる取り組みです。

 それらが、ニセの事実やおかしな連立方程式などをねじ伏せるように壊していってくれる。

(参考)→「「物理的な現実」は、言葉やイメージをねじ伏せる

 

 

 「反貧困」というは、そのためのとても明確なキーワードです。

 一方、私たちの悩みの多くは原因の所在が一見して曖昧です(曖昧にみえるから長く悩まされるわけですが)。
 なので、「反貧困」というようにスパッと還元しにくいのですが、その構造は同じです。
 
 ニセの責任をほぐしながら、原因の所在を明確にしていく。
 多くの場合は、身近な人に巻き込まれているので、自他の区別(人格構造)を確立していく必要があります。

(参考)→「自尊心とは、自分の役割の範囲(なわばり)が明確であること~トラウマを負った人はなわばり(私)がない

 

 

 そこで大切なのは「主権」という意識。
 いいかえると、自分のIDでログインするということなのです。

 

 

 主権(「私」)を持とうとすると、理不尽な目に合う、責任を取らされるという恐怖心も湧いてきます。

 そこでカウンセリング、セラピーの出番。
 その恐怖心を解決しながら、自他の区別を確立していきます。
 (その際のカウンセリング、セラピーは、問題の責任はその方にはないということを前提にする必要があります。)
 

 

 具体的な場面での対処についても徐々に再学習されていく。

 自分に主権があって、自他の区別があれば、理不尽な言動する相手に理がないことは明らかです。  
 その明確な区別が「この人は犯し難い」という雰囲気となって伝わり始めるようになります。

 
 場合によっては、言葉で「やめてください」と伝えることもあります。
 以前だと伝えられなかった言葉がすっと出てきたりするようになる。

 そこで醸し出される雰囲気が「公的環境」です。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 相手も自分も解離せず、本来の人格同士の関わりになります。

(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 そうすると、他者から愛着を受け取ることもできるようになります。
 特定の一人ではなく、多くの人から少しずつ愛着を集められるようになります。
 それがメッシュ状のゆるやかな絆のネットワークです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 ネットワークの中で、「位置と役割」もよりはっきりを感じられるようになります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 
 なにか自分がミスをしたり、他者から感情をぶつけられても、
 「本質的に自分はおかしいからだ」という暗闇に落ち込むことはなく、少し凹んでもすっと立ち直ることができるようになります。

 自分と他人は別なんだ、責任は限定されている、という感覚。
 
 人間関係における基本と例外を分けて考えられるようになる。

(参考)→「人間関係に介在する「魔術的なもの」の構造

 

 物理的な現実というものに基礎をおいて、1+1=2というように理屈が通ることが肌でわかる。 
 自分でログインしているから積み上げを感じることができる。

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 こうしたことを繰り返しながら、人格も成熟していきます。

 
 自分のIDでログインする、自分をもって生きる、とはこういう環境に基づいた取り組みです。

 

 

 

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他人の秘密を持たされる対人関係スタイル

 

 自分の責任の範囲が肥大化したり、ニセの責任を持たされたりすると他者から干渉されたり、生きづらさを生んだりします。

 そのことに関係するケースとして、よくあるのが「他人の秘密を持たされる」という現象です。 

 「あの人は、実は裏では人のことを悪く言っている」とか、
 「あの人は、他人を支配する人で、私のことを探っている」とか、

 
 家族についても
 「自分の母親は、自分に愚痴をいうのが当たり前だと思っている」といったようなこと

 自分の周りにはひどい人たちがいて、そのことに苦しめられている、と感じているわけですが、よく見ると、「他人の秘密を自分が持たされている」という構造であることがわかります。

 

 他人がひどい人である、という秘密を自分が持って悶々としたり、
 他人がほかでは吐き出せない愚痴を自分が持たされたり、ということ。

 「他人の秘密を持たされる」と、人間は呪縛にかかったように生きづらさを感じることがわかっています。

(参考)→「理不尽さを「秘密」とすると、人間関係がおそろしく、おっくうなものとなる。

 人間は、本来は自分で自分の秘密を持つことが大切とされ、それが自分と他人の境界を作り出します。成長に伴って、嘘をついたり、秘密をもつことで自己が確立されてくるわけです。

(参考)→「ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる」「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 それに対して、他人の秘密というのは、人間の自己の確立のメカニズムを狂わせます。

 
 かつてはやったアダルトチルドレンは、依存症の親の子どもという意味ですが、親が酩酊したり、くだを巻いている姿、問題があることを隠したり、尻拭いをしたりするなど、親の秘密、問題を子どもが持たされてしまい、表面的には大人びていますが自他の区別がつかない状態のことです。
 子どもはしっかりしているようにみられますが、実は生きづらさを抱えるようになります。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 

 「他人の秘密、問題」というのは毒のようなもので、とても大きな影響があるのです。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。」 

 いつしか、他人の秘密や問題を自分が抱えることが人間関係のスタイルになってしまいます。

 ただ、上で見たように、当人は、他人の秘密を抱えている、ということに気がついていないことがほとんどです。

 なぜなら、見た目は、他の人がいかにひどい人かについて恐れや嫌悪感を感じていたり、他人の愚痴を聞かされている、と捉えているだけだからです。

 
 実はそうしたことは現象であって、問題の本体は「他人の秘密を抱えさせられるスタイル」にあるのです。

 

 他人の秘密とは、言い換えれば「他人の責任(ニセの責任)」です。

 他人の責任を抱えること、かまうことが当たり前になっていると、主権(私)が奪われます。

 ハラスメント、虐待というのは、実は、他人の秘密(ニセの責任)を抱えることに問題の核心の一つがあります。

(参考)→「ニセの責任で主権が奪われる」

 

 いじめでは、いじめられた子はそのことを親に言えないということがよくあります。いじめのことを伝えると家まで汚染されてしまうような感覚があって、いじめられているという秘密を抱えてしまう。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」 
 
 性的虐待といったこともそうですが、その秘密は加害者がもたらしたものですがその秘密を被害者が抱える、という構図があります。
 
 職場でのハラスメントなども、自分に責任があるから試練として抱えて耐えることが自分の力であり、美徳であると感じていたりする。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か」  

 

 

 健康な感覚からすればおかしいとわかりますが、当事者になるとわからなくなってしまう。

 私たちも抱えている不全感について、「他人の秘密を抱えさせられるスタイル」が潜んでいないかチェックをしてみると、固まっていた問題が大きく動く感覚が感じられます。

 「自分の悩みとは、実は他人の秘密(責任)を抱えていただけだったんだ!?」と。

 
 ご自身の悩みも「他人の秘密(責任)を抱えていないか?」とチェックしてみると面白いことがわかってきます。

 

 

 

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自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム

 

 所有(私は~)を宣言したほうが、恐れに反して、干渉は止まる、と前回の記事でお伝えしました。

(参考)→「自分のもの(私が~)と言えないから、他人に干渉される。

 

 ここでさらに疑問がわきます。

 あくまで上のはたとえ話として展開した話ですが、実際の場面で、自分の持ち物を「センスが悪い」だとか言われて嫌な思いをしたことがある、と。

 

 「わたしの」ということで本当に干渉されにくくなるのか?

 そのことについて続けて考えてみたいと思います。

 

前回の記事で見たように、

 「その派手なエンピツ誰の?」と尋ねられて、

 「わたしのです」と答えると、

 ↑相手との距離感にもよりますが、普通はここで止まります。
 

 

  ただし、相手が踏み込んできたとします。
 

 「なんか趣味が悪いんじゃない?」

 「そう、わたしは気に入っているの」

 「そうなんだ・・」

 で終わります。

 

 趣味が悪いと考えるのは、「相手の考え」です。

 気に入っているとか、それを選んだのは、「わたしの考え」です。

 所有権がはっきりしているので、それ以上は突っ込めなくなってくるのです。

 

 その上で「いじってくること」はあります。
これは、互いに所有権はわかった上で、「戯れ」ている、じゃれあっているということです。

 

 一方、

 「なんか趣味が悪いんじゃない?」という際に

 恐れが湧いて
 「そう? 趣味悪いのかな~?」

 といった答え方をした場合はどうでしょうか?

 それは、「わたしの考え」を曖昧にしてしまっています。

 すると、話が「一般的なセンスやルール」の話にすり替わってしまいます。

もちろん「一般的」とはほんとうの意味での一般的ではなく、架空の一般です。

 だから、
 「一般的なセンスやルール」はどうか?という話になり、相手にも干渉する権利があるようになってしまい、一般的なセンスから見て、「趣味悪いよ~」とさらに、相手は干渉してくることになります。

 架空の常識を持ち出すのは、まさにローカルルールの構造そのものです。

(参考)→「ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す

 

 

 権利の所在が明確なものには踏み込めませんが、おそれから権利を離してしまうと、誰のものかわからないのだから、あるいは一般のものだから「では、わたしのものでもあるのね」として踏み込まれてしまう。

 「わたしが~」「わたしの~」と堂々と主張している方が、結局は嫌な目には合いにくいのです。

 

 もちろん、それでも、不全感が強い人は、因縁をつけて巻き込もうとしてくる場合はあります。しかし、それは、干渉する権利がない状態で、なんとか巻き込もうとしているだけです。

 「わたしの~」ということを明確にしていると、「踏み込む筋合いがない」状態で因縁をつけていることは明らかですから、巻き込まれずにしばらくいれば、次第に相手は引き下がっていきます。人間は社会的な動物です。関与する筋合いのないものには優位性を持って関われないのです。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 

 もともと、「私の~」と主張することに恐れを抱いている場合はなぜか?といえば、それは、機能不全で私的領域のままの家庭環境で、親が子どもを支配しようとしたり、尊重しない環境、ストレスの高い環境などにいたから。

 私的領域の中でやり取りして、相手から干渉されることが当たり前になってしまっている。そこで恐れが条件付けられてしまった。
(参考)→「個人の部屋(私的領域)に上がるようなおかしなコミュニケーション」  

 

 自分の考えを放棄しても、社会で生きていく上では考えや価値観が必要になります。いつの間にか、親などの他者の考え、価値観を自分のものとして、頭を乗っ取られるようになってしまいます。

 他人を乗っ取るような価値観というのは、単なる個人の私的情動であるにも関わらず、あたかも常識であることように振る舞っています。

 

 

 真に受けるといつの間にか自分もローカルルールを代表するようになり、他者の干渉も受けやすくなります。

 「あなたが主張していることは“一般的なルール”と言いたいわけね?
  あなたのものではない一般的なルールなんだから、私が口を出してなにが悪いわけ?」

 「あなたはそれを誰にでも当てはまる“常識”といいいたいのでしょう? 私にも影響するから、おかしなところについては反論させてもらうよ」

 というわけです。

 

 批判されないように、一般的な常識(実はローカルルールなのですが)を持ち出していると、結局は干渉されやすくなります。

(参考)→自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。

 

 「自分の考え」で話をしている方が、相手は干渉しにくい。なぜなら、その人のものだから。

 なぜか自分だけが、他者から批判されやすかったり、なぜか人から賛同されない、文句を言われて嫌な目に会いやすい、ということの裏にはこうしたメカニズムがあると考えられます。

 反対に、ワガママに自分の考えを言っている人が、なぜ人から受け入れられているのか?かも同様の背景からだと考えられるのです。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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