登記されない自分の経験

 

 近年、所有者不明の土地が増えて問題になっているそうです。

 持ち主が登記しないままに相続などが行われて権利が分割されていってさらに権利関係が複雑になっていって、といったようなことも背景にあるようです。
 
 
 国土の2割位が不明な土地とも言われています。

 そもそも税金にしても土地にしても行政がすべて把握できるということはありません。なかなか難しいことです。

 土地というのは物理的に存在しているものですが、登記されていないと誰のものかわかりませんし、もし自分の土地だとしてもはっきりと自分のものと示すことができなくなってしまいます。

 土地というと大切なものだと思いますが、それでも多くの土地が持ち主がわからないままになってしまっているようです。

 

 

 これと似たものとして、トラウマを負った人にとっての「経験」があります。

 トラウマを負うと、経験が積み上がらない、という感覚にさいなまれることになります。

 
 しかし、当然ですが、物理的には経験をしています。

 仕事もそうですし、勉強もそうです、趣味もそうです。
 
 物理的には経験していても積み上がっている感覚がない。

 

 
 以前の記事では、この原因を自分のIDでログインしていないからだ、というふうにお伝えいたしました。

(参考)→「積み上がらないのではなく、「自分」が経験していない。

 

 経験に名前をつける(登記する)ということと、自分のIDでログインするということとは密接に結びついています。

 自分のIDでログインしていないと、自分の経験した物事について、登記できない。  

 自分の名前をそこに書くことができない。

 本当は自分の経験なのに、「これ、自分の経験じゃない」とスルーしてしまう。

 よほどの大成功でなければ、自分の経験として名前を書かない。

 ちょっとでも失敗があるとそれを恥じて書かない。

 大成功でも、謙虚でいたいと理想的になり、名前を書かない。
 

 どんなに学歴があっても、どんなにキャリアがあっても、そこに名前を書かない。自信がない。
   

 

 筆者も似た経験があります。
昔、自分の結婚式に、結婚式の定番として、自分のプロフィールを紹介したのですが、「(学歴や社歴はすごいのに)えらく、あっさりしてたな」と友人に驚かれたことがありました。

 普通の感覚からすればそこは誇っていいところ、だったのです(しかも、自分が主役の席だし)。

 筆者にすれば、自慢するのはかっこ悪いし、上手く行かなかったことも多かった(と感じている)自分の人生を大したことないと思ってサラッといい加減に流していたのです。

 「あっ、自分を大事にしていないな、経験に名前を書けていないんだな」と感じた出来事でした。
 

 

 謙虚と言うのは、自我を満たした上で次に来る「応用技」であって、自我を脇においた謙虚なんていうのは人間としてどこかおかしいのです。

 誇っていいものは堂々と誇るのが普通のことです。 少々過去に失敗があっても、過度に恥じることはない。

 そんな調子ですから、自分には名前がついていない経験がたくさんあることにも気がついたのです。

 これでは、せっかく経験しても、積み上がるわけがありません。
 

 

 
 
 クライアントさんでもこうしたケースはとても多いです。
 
 治療者の立場になると「そこは自信を持っていい経験ですよ」とお伝えしますが、本人は全くそう思っていない。

 

 人間関係でも、ちょっとでもうまく振る舞えなかったと感じると、関係をリセットしたくなる、というケースもよくあります。
 すべての関係を消し去りたくなる。 
 
 過去の経験もそうで、ちょっと恥ずかしいと感じることがあると、その経験は「黒歴史」としてすべてないものとしたくなる。
 
 なぜなら、自分がおかしいし、劣っているし、汚れていると思わされているから。

 
 経験が工場の製品なのだとしたら、検品の基準がシビアすぎてどれも「出荷」されない。

 ちょっとでも傷、瑕疵があるとはじいてしまう。

 
 “検閲”にエネルギーを取られているために、個々の経験をそのまま捉えてそこからコツや教訓を抽出することができない。

 

 
 そうこうしているうちに、名前をつけないまま経験は流れていき、自分の人生は何も積み上がらずに、経験がないように感じられていってしまうのです。

 

 

 

 では、今まではそうだったので、「人生は失われた」「もう今の年齢からは取り返しがつかない」かといえばそうではありません。

 

 どうすればよいかといえば、自分の経験にあらためて自分の名前をつける。登記しなおせばよいのです。

 完璧な経験以外は登記しないという基準をあらためて、瑕疵があっても登記する。

 恥ずかしいと感じた経験でも登記する。経験に自分の名前をつける。

 

 

 これから経験することについてもそうですが、今までの自分の経験も棚卸ししてみる。

 すこし恥ずかしいと思うような経験も含めて、リストアップしてみる。

 そして、そこに頭の中で、自分の名前を書くことをイメージしてみる。

 
 そのときには葛藤が湧いてきますが、今までと違うのは、その葛藤が「邪魔」だとわかっているので、巻き込まれることが少なくなります。

 
 実は、恥ずかしいと感じるのは、名前を書いていないからでもあります。
 名前を書いていないと、他人の物になり、他人の基準で裁かれてしまう。文字通り、他人の「植民地」になってしまう。

(参考)→「自我が強い力を持ち、ためらいなく“自分”という国の秩序を維持する大切さ

 しかし、自分の経験として登記すると、失敗と思うようなことも含めて、全体をエネルギーに変えることが出来ます。

 
 栄養が回復してきて、自分の歴史や経験の見え方が変わってきます。
 

 

 

 

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私を大事にしてくれる?

 

 「私を大事にしてくれる?」

 というのは、恋愛マンガや恋愛ドラマで聞く、よくあるセリフです。

 主に女性が男性にそう問いかけて、真剣な目で見つめられると自信がない男性は怯んで「お、おぉ、も、もちろんだよ!」なんて、答えたりします。

 そんなセリフを聞くと押しが強そうなイメージがありますが、でも、よく考えてみたら、お付き合いしてて「相手を大事にする」というのは当り前のこと。

 その点がどうも怪しい、と感じたら確認するというのはおかしなことではありません。
 

 

 筆者は会社員時代に、企業向けに製品やサービスを提案をする仕事をしてましたけど、コストであったり、メリットであったりをロジカルに説明するのですが、そうした理屈の先に、最後は「責任を持ってやりぬく覚悟がありますか?」「本当に我社のことを真剣に考えてくれていますか?(大事にしてくれますか)」ということが問われます。
 

 個人でも、家を買うとか高額な買い物ではとくに「本当に私のことを大事にしてくれますか?」ということが気になります。
 
 だから、CMなどでも、セールスパーソンや店員が顧客を思う、大事にする、といったシーンがでてきます。
 

 結婚の際に、何十万もする婚約指輪を贈るとか、給料何ヶ月分の貯金をしてくれないと奥さんが結婚を承知してくれなかった、なんていう話を耳にすることがありますが、それも、「大事にしてくれるか?」を確認する手段なのかもしれません。

 

 
 さて、この「私を大事にしてくれる?」という当り前の意識ですが、トラウマを負っている人には、とても希薄です。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 「私なんて大切にされる価値がない」ということを前提にしている。

 相手から暴言を言われる、とか、暴力を受けても、それが当然としていたりします。

 「私を大事にしてくれる?」なんて問うことは思いもしない。
 そんながめついことをいいたくない、とか、押しが強い人は嫌だから自分も押しを強くすることはしたくない、みたいに思っていたりします。

 しかし、実際に言葉にするかどうかは別にして、常に、言下に「私を大事にしてくれる?」という言葉を秘めていることは人として当然のことです。

 言下にある「私を大事にしてくれる?」のことを「愛着」、あるいは「自尊心」といいます。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 
 会社で働く際も同様です。

 会社側は「ちゃんと働いて貢献してくれますか?」と問いますが、働く側も「私を大事にしてくれますか?」と問うことは普通のことです。

 昔の労働者たちがストライキなどを通じて「私たちを大事にしろ!」と運動してくれたおかげで、全体的にはかなり環境は整ってきました。
  

 そんな現代でも、ブラック企業では「私を大事にしてくれる?」とは問わない/問えない自責的な人たち、あるいは依存的な人たちを集めて、「お前が悪いからだ」と刷り込んで、悪条件で働かせています。

 

 

 トラウマを解消する、愛着の問題を解決するというのは、「私を大事にしてくれる?」という意識が自明のものになることでもあります。

 
 愛着が回復した結果、自然と「私を大事にしてくれる?」という言葉が出てくるようになればベストですが、その回復の途上においては、呼び水のように、自分で意識することはとても有効です。
(参考)→「愛着障害を治療、克服するために必要な5+4つのポイント

 

 職場や家庭で、人と出会う際に、頭の中で「私を大事にしてくれる?」と言ってみてください。

 そうすると、もしそれまでの歪な関係がゲームチェンジする感覚を感じことが出来ます。

 今までは、「ダメな自分が努力して、人から認められるゲーム」をしていたとしたら、「相手が、自分を大事にすることを示すゲーム」にガラッと変わる。
 

 「私を大事にしてくれる?」と心のなかで問うと、相手の言動のおかしさも明確になります。

 「あれっ?その言葉、態度。私を大事にしていたら出てくるはずがないよね?」と。

 

 

 「大事にしないのは、お前に価値がないからだ。」「お前がやることをやっていないからだ」という圧も考えられますが、ゲームチェンジしているので、不思議と出てくる感覚がしない。野球にサッカーのボールやゴールが登場しないのが当り前のように。

 「いやいや、今は、「あなたが私を大事にすることを示すゲーム」をしているんでしょ?別のゲームの話をしないでよ」と。

 
 相手が大事にしてくれないとわかったら、その場を去る(相手を振る)ことが出来ます。
 「私には、あなたじゃないと思うの」と。
 
 

 トラウマがまだ重い場合は、すぐには実感できないケースもあります。
 ただ、大事にしてくれる人や環境にいることが当然なのだということを表す「私を大事にしてくれる?」という言葉によって健康な自尊心の基準を知ることが出来ます。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 

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自我が強い力を持ち、ためらいなく“自分”という国の秩序を維持する大切さ

 

 最近、アフガニスタンで、米国が支援していた政権が崩壊して、タリバンが政権を掌握する見通しだ、というニュースを耳にします。

 アフガニスタンだけではなくイラクや、あと北アフリカなど、欧米が介入した地域の安定政権、民主主義体制の樹立はうまくいってはいないようです。

 もともとそれぞれに地域の特性を考慮せずに欧米のものさしで介入を押し進めてしまったことが原因であるようです。もちろん、かつての植民地支配もその前段階として大きな影響があります。

 王族であったり権威主義的なリーダーが問題はありながらも秩序を保っていましたが、それらを排除してしまったことで無秩序になり、さらに問題のあるテロ組織を生むことになったと言われています。

 

 リアルな政治の世界では、理想の前に、いかにそこの地域で安定した秩序を形成できるか?というのは何よりも大事なようですね。
 

 

 

 私たちが住む日本の歴史においても同様です。
 統一した政権が弱くなると、各地で勢力が割拠して争いが増えることは歴史の教科書などで教えられてきました。

 戦国時代などは一番わかりやすい時代ですね。
各地で戦がさかんになり、国盗り合戦の様相を呈していました。

 戦国時代の後に徳川政権が誕生して、平和な時代が300年ほど続くことになりますが、徳川幕府がガッチリと他の勢力を抑えて、正統性も含めて承服させている状態が続いたためです。

 当時は、貿易の権益を求めて海外からも日本に進出しようという勢力がありましたが、当時は日本の力も十分に強く、出島での取引に制限したりしていました。

 全国にひろく秩序が行き渡った状態です。

 

 

 
 例として国を取り上げましたが、秩序が整うことで安定する、というのは、私たちの人格構造においても同じことが言えます。

 私たちは幼いときは、大人の助けを得て成長していくわけですが、全く白紙からというわけではありません。
 「資質」と呼ばれるその子の性格や特性は生まれた時点で存在するといわれています。
 

 愛着を土台に、自分の中心となる自我が尊重され、自他の区別を学び、免疫のように外からのストレスから身を守るすべを身につけ、習い事・学業などでの成功体験も重ねていき、自尊心が育っていきます。

 成長する過程で内面化した他者の価値観はその役目を終え、反抗期などで相対化されていきます。

 私たちの中で、自分の中の秩序を保つに十分な力と正統性をもった人格が出来上がっていきます。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 以前もお伝えしたことがありますが、私たちはモジュールといって、いくつもの人格でなりたっています。作家の平野啓一郎さんは「分人」とよんでいますが、私たちは状況によって人格を使い分けています。

 さながら様々なプログラムやアプリで動くパソコンやスマートフォンのような状態が私たちなのです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 いくつもの人格で成り立っているからと言ってもたちまち多重人格者というわけではありません。

 健康な状態では分裂した状態であるとかを意識することはありません。

 なぜなら、主の人格(自我)が十分な力を持って全体を統制しているからです。

 その統制の力や正統性のことを「自己同一性」「自尊心」というのだと思います。

 

 

 しかし、慢性的なストレスや虐待、ハラスメントなどで、主の人格の力が弱まってしまうと、秩序を維持することができなくなります。

 すると、アフガニスタンのように、テロ組織が割拠して力を持ったり、果ては政権を取られたりしてしまうようになります。

 テロ組織が割拠した状態とは、自分の中で自分を責める、否定する人格がいてどう仕様もなかったり、世の中に対して恨みを抱く人格がいたり、猜疑心が強い人格がいたり、あとは、他者の価値観に染まって真に受けた人格がいたりして、それを主の人格が抑えるのに苦労している状態です。

 

 自分を責める動きが強くて、それと対抗するためにへとへとになってしまっている。

 あと、政権は握っているつもりだけども、結局は他者の価値観を持つ人格の傀儡政権となっていることもよくあります。
 本当の実験は他者に握られているような状態です。自分が自分らしく生きることが出来ていない。

 

 

 主の人格(自我)が自意識を保てている場合は良いですが、その力も弱くなり、統一政権が破綻した状態が、解離性同一性障害、多重人格の状態になります。
(参考)→「解離性障害とは何か?本当の原因と治療のために大切な8つのこと(上)」 

 

 解離性同一性障害というと、人格が別れたことばかりが注目されますが、問題は主となる人格の統制力の弱さです。自我の山、自尊心の山(力)が低い。

 その状態では、人格同士が話し合って人格を統合しましょう、なんていうことはできない。

 弱小政党の連立政権みたいにすぐに破綻してしまいます。

 
 大事なのは、中心となる自我の構造を再建し、自尊心を育てること。

 その過程では、ローカルルール人格というような、国内テロ組織と戦って壊滅しないといけないということもあるかもしれません。
(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 実際に自分の中で自分のことを責め続ける、否定し続ける人格が存在していて、この人格の力を弱めるということがトラウマケアのポイントとなることは多いのです。
  

 

 「自尊心とはどういうものか?」という記事をかつて書きましたが、自分という内部においても、いろんな人格に気をつかって、民主的に対等な関係で、というようなことは成り立ちません。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 自分が自分として自立するためには、中心となる自我がある意味わがままに、唯我独尊になることがどうしても必要なのです。
 

 十分な力がなければ、内部を統制することが出来ません。

 トラウマの弊害は、自分の内部でさえ自我の力で他の人格たちを否定する、従わせることをためらってしまうこと。
   
 理想主義的な“いい人”でい続けてしまって内部で勢力が割拠してしまうこと。無秩序状態になってしまうことです。
 結局、内面化したローカルルールの人格が力を持ってのさばってしまう状態です。

 本来は、ボス猿のように、自分に従え、という状態にならないといけない。

 

 自分のIDでログインするとは、自分の中で政権を握るということでもあります。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 無意識や直感は、「王子(王女)、そろそろ国に復帰して、王座にお座りください(ログインしてください)」と告げられているのですが、怖いからと尻込みしてしまって、なかなかそれが出来ないでいる。
 

 自分が自分の国の王であることについては正統性はもとより備わっています。あとは、力への意志だけ。

 
 外から見たら平和主義で穏やかな人たちも、健康な人は皆自分の中では国内を制する強いリーダーであるのです。

 

 

 

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自尊心とはどういうものか?

 

 先日テレビのバラエティ番組を見ていました。

 その番組では、ドッキリで、マネージャーがある芸人のケンカネタのマネをして、ケンカのフリをして、仲裁に入った仕掛けられた芸能人に失礼なことを言って反応を見る、という内容のものでした。

 いくつかのタレントにそれを試して放送していましたが、その中の一人にイタリア人タレントのパンツェッタ・ジローラモさんがいました。

 

 ジローラモさんが、仕掛け人のマネージャー2人がケンカをしているところに止めに入ったところ、仕掛け人のマネージャーが「うるせえなぁ! お前、日本でのイタリア人のイメージめちゃくちゃ下げてるぞ」と暴言を吐きます。
 すると、ジローラモさんが、「殴ろうか?」と一歩前に踏み出して詰め寄ったのです。

 視聴者も、大丈夫か?とドキッとする場面ですよね。

 

 筆者はそれを見てて、「なるほど。自尊心っていうのはこういうものだよね」と思いました。

 

 

 もし、トラウマを負った人ならどう反応したでしょうか?

 「いや、もしかしたらそういうところがあるかも?」とか、
 「自分でもうすうす思っていたことがバレた」とか、

 

 あと、
 「こういう時でも、優しい人、理性的な人でいなければならない」

 などと考えて、
 絶句(フリーズ)して、反応できないかもしれません。
 言葉が出てこなかったりする。
 
 というか、言葉の内容を真に受けて、反省したりしてしまうのです。

 さらに、以前の記事でも見たような「加害強迫」みたいなものもあり、怒って相手を傷つけることを恐れたりすることもあります。

(参考)→「加害恐怖(強迫)

 

 しかし、ジローラモさんは、「殴ろうか?(なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ?)」と詰め寄ったのです。

 これは“正しい(ふさわしい)”反応です。

 

 

 「自尊心」っていうと、自己啓発や心理の本などを読めば、スマートに、理性的に返す方法が書かれていますが、おそらく、そんなことでは自尊心は身につかない。

 相手の言い分にも耳を傾けて、それに対して、理性的に応対して、なんていうことは生き物の姿としておかしい。

 

 例えば、免疫システムなどはわかりやすいですが、外から入ってきたバイキンは、免疫細胞が戦って排除しにいきます。

 まずは、バイキンを受け取って・・・なんていうことはしない。
 そんなことをしていたらやられてしまうかもしれません。

 スマートに理性的に、となると発せられた戯言に巻き込まれやすくなりますし、自分には反撃する資格があるのか?といった余計なことを考えて、反応できなくなる。

 

 被害を受けた側が「自分に訴える資格があるのか?」なんて通常考えない。
 加害者の罪と、被害者の側の資格とは全く関係しない。 
 こちらがどんな人間であっても、相手がおかしなことをしたら「おかしいだろ!」というのが本来です。

 自尊心に根拠や資格など要らない。

 「自尊心」というのは本来はこうしたもののはずなのです。

 

 

 もちろん、実際の現場では、例えば会社であれば相手が上司、お客さんであることがありますから、「殴ろうか!」とは言えない場面のほうが多いものです。当然、やんわりとした言い方になります。
 しかし、内心では、「なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ?」という気持ちを持っていることが自然です。
 
 その内心が醸す雰囲気が、「この人は無碍にできないな?」とか、「侵し難いな」と相手に思わせ、それが相手のローカルルールを冷やして、まともに戻す作用があるのです。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 いわゆる理性的な対応というのは、2階以上の「応用技」。
 基本は、その土台に「殴ろうか?」といったような意識が必要です。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 それがあるから、応用技にも魂が入ってくる。

 

 冷静にスマートに返せる人、人格者と言われるような人も、それは表面のことで、土台には、「殴ろうか?(なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ?)」というものが必ずあります。

 だから世の中で人望のある人、まとめ役の人ほど、怒りっぽかったり、怖さも持っているものです。

 

 

 その上でなら、具体的な反応の仕方は無数にあります。
 「わ、ひどいこといいますね」といったような反応をしたり、表面的には「そうですよね~」と自虐的になりながら内心では全くそんなこと思ってない、とか。

 

 

 トラウマを負っているということは、こうしたアタリマエのことに対して、因縁をつけられている状態。
 ある意味マインドコントロールを受けている状態。
 「あなたなんかにそんな事を言う権利があるはずがない」とか、
 「良い子ならば反撃する権利があるが、根本的に悪い子だからそれはできない」といったもの。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 トラウマで苦しんでいる人は、ものすごい一生懸命、頭の中で複雑な連立方程式を解き明かすがごとく、戯言でしかない相手の言葉、理屈を何年もかけて考え続けていたりします。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 健康な人から見たら、「なんでそんな事考えないといけないの?」と言われてしまうような状態です。
 (「嫌だ!って言ってもう会わなければいのに」「もう縁を切ればいいんじゃない?」と)

  
 さらに、そうした因縁を土台にした上で、“反面教師”“解決策”“理想”みたいものでニセ成熟になっていたりする。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 

 

 「自尊心を高める方法」みたいな心理の本、自己啓発の本というのは、そのニセ成熟の上に、さらにニセの成熟をかさねるようなものになってしまうために、真に自尊心を回復させることにならないのです。
 人工的なテクニックで1階部分を仮設にしておいて、ログインしないままになんとか相手をコントロールできないか?というものだからです。それをしているといつまでたってもログインできない。

(参考)→「ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 

 今回取り上げた、ジローラモさんの反応っていうのは、(もちろんバラエティ番組のちょっと極端な例ではありますが、)自尊心ってどんなものかを知る上ではわかりやすいものかと思います。
  
  
 自尊心とは、根拠のないものです。
 ただ、存在Beingとしてあること自体が、根拠になります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 だから、免疫システムのように、内心が理由もなくサッと反撃の体制になるのが正しい。
 

 ちなみに、番組では、ジローラモさんが、殴ることなく、マネージャーをフォローして、種明かしをされて事なきを得ていました。
 

 

 

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