日常にこそトラウマは存在する

 

 トラウマが身近な生きづらさを説明する概念として、これまで十分に適応されてこなかった理由として、「日常のストレスでは、トラウマになりえない」という専門家の先入観がありました。

 

 トラウマ概念自体が戦争やレイプといった重度のストレスを中心に概念化されていったためということや、概念化を担う医師たちは、一般には重いケースを中心に見ることが多いということも理由としてあげられます。
 (フロイトが日常のトラウマに着目して理論を展開できたのは、フロイトが日常のトラウマに触れる機会のある在野の治療者であったためだと言われています)

 

 しかし、ストレスのダメージとは、“強-弱”ではなく、その対象となる生物の脆弱性にかかわるかどうか?が重要で、実際には生物は強度のストレスには意外な抵抗力を示したりもしています。

 例えば、阪神淡路大震災でPTSDとなった人は被災者全体の1割、ベトナム戦争でも研究によって幅がありますが15%というデータがあります。
 もちろん簡単ではない経験ではありますが、多くの方は自然と正常へと復帰しています。

 

 一方、軽度~中度でも慢性的に脆弱性にかかわるストレスを受けてきたケースというのは、長く生きづらさを抱えることにもなります。

 

 実際に、自衛隊などでメンタルケアをしていた医師も、その著作の中で、軍隊においても、PTSDなどを引き起こすのは、実は劇的な経験ではなく、慢性的なローリスクストレッサーである、ということを指摘しています。
(福間詳『ストレスのはなし』中公新書)
 福間氏はいまだに強度のストレスばかりがPTSDの原因とされる精神医学の現状について違和感を表明しています。

 戦争でも後々まで苦しむケースは、その劇的な経験も影響しますが、その後に社会からのサポートがなかったり、厭戦気分などで生死に関わる事象への意味付けがなかったり、といったような脆弱性にかかわるダメージによってもたらされるようです。

 

 

 ストレス学の権威であるアメリカの心理学者リチャード・S・ラザルスも以下のように指摘しています。
「重大なライフイベンドだけでストレスを定義づけてしまうやり方は、ストレス対処の方法を解明するうえで適切なストラテジー(方略)ではない」
「日常的混乱とは、モラール、社会的機能、そして健康をも害するような、外見的にはささいにみえても、ときに非常にわずらわしさを感じさせる、日常のいらだちのことを言う。そして、驚くべきことに我々は、この日常的混乱のほうが重大なライフイベントよりも、健康障害にとって重要な要因であることを見いだしたのである」(『ストレスと情動の心理学――ナラティブ研究の視点から』実務教育出版)。

 

 

 先入観に加えてやっかいだったのは、研究分野同士の縦割りの壁です。
 
 トラウマ研究と、ストレス研究とは、ほぼ交流がなく進んできたために、ストレス研究では当たり前とされるような知見や成果が、トラウマ研究に十分に取り込まれてきたとはいえず、トラウマ研究の研究者は、全てではありませんが、「トラウマティック・ストレスと、一般のストレスは全く別物」と考えてきたようです。

 一般の私たちの常識からすればとても奇妙な捉え方ですが、こうしたこともトラウマが一般の人達の生きづらさの説明として適応されることを阻んできたといえます。

 

 

 その結果、「一部のタイプの「トラウマ」のみが診断学的に、あるいは治療上、特権的な地位を享受しているようにみえる」(立木康介「トラウマと精神分析」『トラウマ研究1 トラウマを生きる』(京都大学学術出版会))と言われるような状態になりました。

 

 京都大学人文科学研究所の立木教授は「PTSDを特権化する一部の言論によってともすれば忘れられたり、その背後に隠れてしまったりする種類の「心的外傷」に、あらためて光を当てることが重要なのだ」としています。その光を当てる対象とは「日常風景といってもよい外傷」や、「家族の言説のなかにタブーとして存在し続け、間接的に、主体に対して持続的な影響をおよぼすような外傷」としています。

 

 今回の著作では、そんな私たちの日常にこそトラウマは存在していて、それが生きづらさの多くの原因となっている、ということを明らかにしています。

 『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』は、日常にあるトラウマによる生きづらさに苦しむ人にケアが届かない状況に対して、なんとか橋渡しができないか、と思い微力ながら書かせていただきました。 

 

 

 

みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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