「待つ」ことができない~世の中のありのままが感じられなくなる

 今年は、明治維新150年の年だそうです。江戸時代のころから、今のようにスマホを駆使したり、仮想通貨やドローンや、IPS細胞などといった技術や高い水準の生活になるのに、わずか150年でここまで来たことになります。

 

 ちなみに、何かの広告で目にしましたが、きんさん、ぎんさんの娘さんたちも今年で100歳だそうです。きんさん、ぎんさんが生きていれば126歳だそうですから、一人の人間の一生分の時間の中でも様々なことが起きることが分かります。

 

 日本でも、日清戦争、日露戦争、一次大戦、関東大震災に、第二次世界大戦があり、占領後の復興後があり、また震災などがあり。静かに何もなく過ごすことが難しいくらいです。

 たった150年くらいの間に、これだけのことが詰まっているのはなぜか不思議な感覚があります。

 

 実はこれは、時間の感覚に対する「錯誤」といいます。
 錯誤とは、例えば、計画や予定などで、時間の感覚を読み違えたりすることです。
 思ったよりも早く仕事が終わったり、思ったよりも時間がかかったりということはしばしば体験することです。
 「時間」というのは不思議なもので、それだけで哲学や心理学、脳科学などの研究となるものです。

 

 私たちは主観的で、時間をかなりゆがめてみてしまいます。

 

 特にトラウマを負ったり、うつ状態などになると、「時間」はかなり歪んでしまう。
 人生がお先真っ暗に見えてしまい、世の中がつまらなく思えるようになります。もう楽しいことは何も起こらないように思えます。
 (“精神的焦燥”は、気分障害、不安障害などでしばしば見られる症状です。)

 

 でも、実際は、それは歪み(錯誤)でしかなく、恐れているようなかたちで平凡で生きることのほうが難しいかもしれません。

 

 心理学者の河合隼雄が、作家・村上春樹との対談の中で
 村上春樹が、読者から小説のような都合の良い偶然は起きない、と言われたということに対して河合隼雄が、世の中には面白い偶然がいっぱいあるのに、それを書くと、小説みたいな都合の良い偶然はそうそう起きない、といわれてしまう。
 皆が「現実はこうあるべきだ(偶然など起こらない)」と信じてしまっている、と嘆きます。
 そして、悩みを直すためには「偶然を待つ力」が必要なのに、何か必然的な方法で治そうとしてみんな失敗する、とおっしゃっています。

 

 「偶然を待つ」というのは、哲学的な美談や、道徳的な心構えではありません。私たちが生きる上で実際的なことではないかと思います。

 

 事実、明治維新後、150年でこれだけ社会は変わるし、世の中も二転三転する。きんさん、ぎんさんの人生分の時間の間に、全体主義や社会主義国は隆盛して、衰退してしまうほどです。信じられないような偶然というのも珍しいものではありません。

 

 

 偶然を待てない、というのはトラウマを負ったり、精神的に不調にある時に特徴的な症状です。漠然と将来が不安になり、なんとか未来を確定させたいとして、繰り返し占いを受けたり、引き寄せの法則にはまったり、といったことが起こる。

 

 面白い逆説ですが、
 引き寄せなど、スピリチュアルなものは「反近代」「癒し」のような顔をしながら、とても「近代的(現代的)」で「トラウマティック」なのです。
 
 なぜかと言えば、偶然を待てず、とてもせっかちで、実は将来が不安で、未来を確定させようと躍起だからです。
 そして、多様性がなく、最後はすべては個人の責任だ、となってしまうのですから。
 (スピード重視(≒何かしていないと落ち着かない)、成長パラノイア(≒今の自分ではだめ)、個人主義(≒自責)など近代、そしてトラウマの特徴そのままです)

 

 河合隼雄が指摘するように、必然的な方法でなんとかしようとして、結局、失敗してしまっています。

 

 偶然を待てなくなる状態の究極が「依存症」です。
 報酬系が狂ってしまうために、今が生きづらすぎて、未来に来るはずの結果を待てない。
 実は、依存症の方たちは、我慢強い人たちで、自分で何とかしようとしすぎて、必然的な方法(お酒や薬物とか)に頼ってしまう。
 偶然を待ちましょう、というアドバイスはどうにも不確かで、他力本願過ぎるように感じてしまうのです。

 

 思えば、仕事でも趣味でもなんでも、人生は待っている時間のほうが多いのですが、世の中では、何かをしなさい、速くしなさい、という人や本はたくさんありますが、
 待ち方、を教えてくれることはほとんどありません。 

 

 むしろ現代では、待っていてはいけない(急げ)、という主張が圧倒的ですし、未来はつまらない、と負の暗示を家族や周囲の人がいれてくることも多いです。
 意識してそれらを外すことをしなければいけないのかもしれません。

 

 

 偶然を待つ、というのは世の中の裏ルール(2階建ての1階部分)の一つではないかと思います。心身が健康な状態であれば、直観的にも感じ取れるものでもあります。何となく世の中で身に着けていくものです。
 トラウマが取れていくと自然と肌で分かってくる感じがあります。

 

 

 「待つ」といっても、つまらないものではなく、明治維新150年でこれだけになったように、“環境”には「偶然」が満ち満ちている。私たちの残り何十年の人生でも、様々なことはたくさん起こってくる。つまらないなんて言っていられないくらいに。

 

 
 おそらくですが、ありのままの世の中は、トラウマに苛まれている時に見るような不安な姿ではないし、つまらないものでもないし、かといって、スピリチュアルとか自己啓発、ポップ心理学の主催者たちが主張するような姿ともまったく異なる。

 

 ありのままの世の中とは、トラウマの影響がなく、健全で成熟した状態にあるときに肌で感じるような、それは当然、個人に属しているのではなく、“環境に”広がっているもの。ありのままに見ようとすれば、あちらこちらにあると感じ取れる。

 

 なかなか言葉にしにくく、言葉にすると「偶然を待つ」といったようなもの、不安になって、必然を求めて個人に引き寄せ確定させようとすると陳腐に歪んでしまう、
 そんなものではないかと感じます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 機能不全にある家族、夫婦、恋愛に関することでしばしば起こることとして、「恩」とか「愛」とか、「義務」が無限に続くように思わされてしまうことです。

 

 どうしようもない親やパートナーなのはわかっているのに、離れられない。離れようとすると罪悪感を強く感じてしまう。どこまでも面倒を見ないといけない、どこまでも義務を果たさないといけない、と思わされて、離れたほうがいいとわかりながらも関係を続けさせられてしまうのです。

 こうしたケースはとても多いです。

 

 これは、無限の愛は美しい、他の関係と異なり、家族(恋愛)だから当然だ、といったことではありません。

 

 実は、「無限」という感覚は要注意で、ストレス障害(トラウマ)で、報酬系、算数機能が失調して生じる症状の一つです。「恩」とか「愛」とか、「義務」に対する見積もりが狂っているために起こるのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 

 

 無限の「恩」「愛」などは、少なくとも人間には存在しません。

 人間にとってものごとは常に有限であって、適切に見積りされて、「貸し-借り」がまわりまわってバランスされるものです。

 

 もちろん、家族はほかの関係とは違って、貸し借りの総量は大きいわけですが、たとえ家族の同士であっても、目に見えない「貸し-借り」で本来やり取りしています。
(それは2者間だけではなく、世代間で申し送りのようになっているとも考えられます。今、子どもの面倒を見るのは、それを前の世代がしてくれていたりしていたものを次の世代返している、というところがあります。しかし、それも「無限」ではありません。)

 

 もし、無限のものが存在してしまうと危険なことです。
人間には代謝、更新が必要ですが、無限なものは代謝がなく、常に縛られてしまいます。

 

 トラウマによって起こる症状の一つがパーソナリティ障害です。自己愛性パーソナリティ障害の特徴に「限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想へのとらわれ」といったことがあるように、トラウマを負うと、「無限(限りない)のもの」を求めるようになってしまいます。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 トラウマによっておこる別の症状に依存症があります。
ご存じのように、依存症には限りがなく、アルコールや薬物、ギャンブルを身が破綻するまで「無限に」行います。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 もう一つ、摂食障害も同様です。
必要を越えてどこまでも(無限に)痩せようとしたり、飽くことなく(無限に)食べ続けたりしてしまいます。

(参考)→「摂食障害とは何か?拒食、過食の原因と治療に大切な7つのこと

 

 

 このように、「無限」というのは生物にとっては異常なことです。

 

 家族(やパートナー関係)の「機能」も有限であり、常に更新、変化し続けるものです。そして、機能不全な状態が長く続けば、貸し借りのバランスが崩れて、最後は「愛想が尽き」て当然です。そうすることで、支配を避け、別の環境を選択できるようになります。

 

 最近話題になっている、介護問題などは、有限な貸し借りのバランスが大きく崩れたところに起きる問題といえます。(あまりにも負担が大きく、家族だけではその収支を背負えないので、外部のサービスを活用する)

 

 無限の「恩」「愛」「義務」などはありませんし、罪悪感を持つ必要もありません。親しい関係ほど、距離を取ったほうが関係は続くものであったりもします。

 

 無限とは、ニセ成熟の感覚で、本来の成熟とは有限を知ることにあります。

 

 もし、ご自身の中に「無限(と思わされているもの)」があるならば要注意。それは不自然なものではないか?見積もりが狂っていないか?とチェックしてみるとよいかもしれません。何かそこに歪なものが隠れています。

(参考)→「更新されない人間関係

 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

トラウマとは、“長期のストレス”のことである

 

 スタンフォード大学のサポルスキーが書いた本に
 「なぜシマウマは胃潰瘍にならないか」というタイトルの本があります。

 

 タイトルのように、ライオンに襲われるような経験をするシマウマは不思議なことに胃潰瘍にならず、なぜ、平和な環境に住む人間に胃潰瘍が見られるのか?といったことなど、ストレスについてかかれた本です。

 

 

 ストレスに関する研究で分かっていることですが、動物は、単発のアクシデントには案外強い。ストレスホルモンが急上昇して対応し、アクシデントのあとは体を震わせるなどして負荷を除けば、普通に生活することができます(できるようになっています)。

 

 しかし、そのシマウマも、狭いゲージに長い期間に閉じ込めるなどのストレスでは不調をきたしてしまう。
 動物にとってストレス応答システムは、長期間のストレスには対応するようには作られていない、ということです。

 

 これはシマウマに限らず人間も同様です。
 人間のストレス応答システムも、長期のストレスに対応するようにはできていない。胃潰瘍になるのは、長期のストレスを浴びてしまうからです。

 

 トラウマに関連する本でもあまり触れられておらず、意外なことですが、単発のアクシデントには人間も比較的強いものです。

 

 シェルショックなどトラウマが注目されるようになったのは、第一次世界大戦ですが、それまでの戦争と違って第一次大戦では、長期の間、塹壕の中で砲弾の音やライフル、マシンガンに怯えながら過ごすことを余儀なくされました。

 

 人間はそれまでも戦争がありましたが、トラウマがさほどクローズアップされてこなかったのは、ストレス応答システムの特徴もその原因の一つではないか、と考えられます。

 

 もちろん、鉄道事故など大きなハプニングで、ストレスホルモンの閾値を超えるような大惨事はPTSDになりますし、レイプなどの単発の惨事を甘く見ることはできません。

 第一次大戦ごろから一つの兵器の破壊力が大幅に増して、単発であっても閾値を超えるストレスレベルであることも要因として見逃せません。

 

 

 ただ、上に書いた動物のストレス応答システムの知見からすると、もしかしたら、単発の大惨事の影響は、その出来事によるものよりも、周囲の無理解などその後のケアが不足して、長期にストレスを反芻し続けることでもたらされることなのかも?と思考を巡らせることができます。

 

 

 現代の私たちの多くにとってトラウマとは、「長期のストレスによるストレス応答系の失調」、のことを指します。「母親にぶたれた」とか、何か特定の出来事のことではありません。

(参考)→「トラウマの多くは、単発よりも長期間のストレスによってもたらされる

 

 

 ストレス応答系とは、自律神経系、免疫系、内分泌(ホルモン)系の3系のことを指します。

 

 長期のストレスを浴びて、ストレス応答系が失調することで、

  記憶に障害が出たり、
  テンションを合わせることができず対人関係を築き、維持できなくなったり
  緊張しすぎたり
  仕事がうまくいかなくなったり
  眠れなくなったり、
  体に不調が出たり
  など
 様々な機能障害が生まれるのです。

 

 トラウマとは長期のストレスのことですから、特定しようとしても意味はありませんし、治療にはつながりません。

(参考)→「トラウマを特定する必要はない。

 

 例えば、
 カウンセリングでは
 トラウマによると考えられる症状が出ているのに、
 過去について詳しくお話を聞いていても、特に顕著な問題がないことがよくあります。

 

 そのクライアントさんたちにとっては、家庭や学校は緊張の高いストレスフルな環境であった。一日だけであれば大したことがないけども、365日何年も続いてストレス応答系は失調をきたした、ということが考えられます。

 

 これが多くの方(ケース)にとってのトラウマです。

 

 そのため、子どもの前での激しい夫婦げんかなどは一発レッドカード(間違いなくトラウマになる)になります。最近では、こうした子どもの目の前で不適切なことを行うことを「面前虐待」というそうです。

(参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード

 

 

 トラウマが単発のアクシデントととらえてしまうと、問題のありかは見えず、「単発のアクシデントはあったに違いない。忘れているだけだ」とされてしまいます。それをカウンセリングや催眠などで無理に掘り起こそうとすると、フォルスメモリー(過誤記憶)といって、偽の記憶が脳ででっち上げられてしまうことが起こります。

 

 実際海外では過去に、「私は親から性的虐待を受けた」とカウンセリングで掘り起こされても、証拠が見つからずに、大問題になって、逆に治療者側が裁判で訴えられた、ということがありました。


 これも、トラウマとはなにか?を誤解したことによるものと考えられます。
 (もちろん、実際に性的虐待があって、ごまかされているケースもありますからケース毎に慎重に見ていく必要があります)

 

 

 現代はストレス社会といわれます。
 長期のストレスを浴びる環境はそこここにあります。

 

 また、「それほどひどい家庭ではなかったけどなあ」「トラウマといわれてもこれといって・・」
 といった方でも、過去を振り返って、ストレスフルな環境が続いていた、としたら、トラウマを負っているということは考えられます。※極端に言えば、実は現代でトラウマを負っていない人はいないともいえます。程度の差です。  

 

 

 トラウマとは、長期のストレスとそれによるストレス応答系の失調のことである、との視点を持つと、自己理解や解決の助けになります。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる

 

 社会に出ると、いろいろなフィードバックをもらいます。

「君は、こうしたほうがいい」
「君は、こういうところがある」

などなど、

仕事であれば、
そうしたことを承って、仕事の仕方を修正したり、ということが必要になります。

ただ難しいのは、当たり前ですが、世の中に絶対客観的な評価などない、ということです。

 

 嫉妬、やっかみ、支配欲など
いろいろな濁りが混ざって、フィードバックは飛んできます。人間の社会では避けられない。

 

 建前上は公正で、部下を指導、教育するはずの上司、先輩からやっかみも含んだ評価や指導が飛んでくるなんてことは、日常茶飯事。

 

 家族や配偶者同士でもそう。たとえば、オリンピックがありましたが、スポーツ選手同士、兄弟間でもどちらかが活躍すれば嫉妬や葛藤は避けられない。

 「あなたは~~人間ね」ということが的を得ておらず、無意識に相手をコントロールしたい、という欲求からのものであることもしばしば。

 

 ですから、人から言われたことはあくまで意見として承って、反映させるかどうかを吟味する必要があります。

 

 

いわゆる、「愛着」が安定していれば、
支持してくれる親や友人などの存在を内面化しているので、それらが参照元になって、真偽のほどを吟味する作業を支えてくれます。

 

 トラウマを負ったりして、それらがないと、他人の意見に流されたり、あたかも、それらが客観的な事実であるかのように真に受けてしまいます。

(参考)「「過剰な客観性」」

 

 また、トラウマを負った人は、向上心(問題解決意欲が)が高い傾向があります。見た目はかたくなに思われたりもしますが、基本的には「素直でありたい」と願っているので、他人の意見は素直に聞こうとします。それが裏目に出てしまって、まともに影響され、心が傷つき、ダメージを負ってしまいます。

 

 筆者が担当させていただいているクライアントさんたちが、よくおっしゃられるのは、
「人の意見を聞かずにかたくなに自分の態度を変えないような、(意識の低い)人間にはなりたくない」
ということです。

 

 もしかしたら、わからずやの親への違和感も手伝っているのかもしれません。(「ああは、なりたくない」)

 

ただ、「学校スキーム」と違い、
社会に出たら、“素直”さの中身が違うのです。

(参考)→「「学校スキーム」を捨てる」

 

 

 “素直”とは、真に受けることではありません。

理想を言えば、あたかも、自然科学者が自然を見るように、意見と事実はわけて、ありのままに見ようとする姿勢のこと。

 

 ただ、普通の人はさすがにそこまでの姿勢は難しいので、
適度にペンディング(保留)したり、おかしいなと思ったら、「なによ、あの上司!失礼なことを言ってきて!」と愚痴を言ったりして、バランスを保ちます。

 また、“太鼓持ち”として、うまくおべっかをつかって、先輩、上司に合わせることもします。それは悪いことではありません。必要なことです。

 

 人材が集まり、制度も整った大企業(中央官庁)でも客観的な評価など難しいですし、さらに中小企業、零細となれば、会社の体制、人材の充実度もどうしても下がります。荒っぽい職場もあります。そこで、客観的で素晴らしいフィードバックを期待するのは、幻想といえるかもしれません。

 

 筆者も子供のころを思い返すと、
悪ガキたちは、大人のいうことなんて、真には受けていなかった。適度に合わせますが、「それはそれ」として流したり、聞いているふりをしたりしていました。

でも、世の中ではそういう人のほうが、素直と評価され、
真面目に相手をしようとするとつぶれてしまう。

 

 本屋に並ぶビジネス関連の書籍ではよく、「社員は素直なほうがいい」と書いてありますが、あれは著者たちが主に経営者たちだからです。経営者から見て都合の良いことが書いてあります。経営者から見たら、社員は素直なほうがいいに決まっています。

 

 しかし、その経営者自身が素直か?といえば、はなはだ疑わしい。経営者は自己愛性パーソナリティ傾向の強い人が多いとされますが、他人に厳しく、自分にはどこか甘い人たちが書いた本だったりするのです。

 でも、真面目な人は、それを真に受けてしまう。

 

 

 以前も紹介しましたが、東大教授が書いた
「できる社員はやり過ごす」という本がありましたが、
活気のある職場は、やり過ごす文化がある、というものです。適当に流したり、やり過ごしたりすることは、ズルでも何でもない。

 

 結局、トラウマを負った人が見る“素直さ”と、実際の世の中のありのままの“素直さ”の実態とは違うようです。

 

 知っている人からすると当たり前のことなのかもしれませんが、これも、世の中の1階部分の裏ルールといえそうです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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