悩みの中にある一日も、解決された後の一日も同じ一日

 

 これまでいろいろと見てきましたたように、トラウマを負ってしまった人が見る世界観と、そうではない人の世界観とは驚くほど違っていたりします。

 

 トラウマを負うと、ストレス応答のリズムが狂い、人とつながりづらくなり、その生きづらさを回避するために、独自のマイルールやファンタジーによってバイパス(迂回)して、世の中を何とかサバイバルしようとするからです。

 

 見えている世界がそうだと思っていたら、実態は全くそうではなかった、ということが起こります。

 

 

 ただ、生身の姿はどうかといえば、トラウマを負った人も、普通の人も違いはありません。同じようなもの。

 同じように弱いものだし、何でもかんでもうまくいくわけではないし、どうしようもないし・・。

 

 ただ、トラウマを負った人から見ると、普通の人はとても充実して素晴らしい人生を歩んでいるように見えてしまいます。

 

 自分が、セラピーを受けた先にある状況もとても素晴らしいものと考えていて悩みの渦中にある今は、受験勉強中の受験生か、減量中のボクサーか、収容所に収監されている捕虜か、といった感覚でとらえています。

 

 とても生きづらい人生を歩んでいますから、そういうファンタジーでも持たなければやっていけない。

 (参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 でも、普通の人から見たら、「いや、別に、あなたも私もそんなに変わらないよ・・」
「すごいと思っているかもしれないけど、そうでもないよ」と返したくなります。

 

 筆者が会社員のころに、求職中の方や、学生と採用で会う機会がありました。
向こうは就職難で苦労していますから、難関を突破した会社やその社員はさぞ立派なモノだろう、職場も素晴らしいものだろう、
とキラキラした目で接してこられます。

 

 こちらからしたら、「いやいや、そうでもないよ」「社員の中でも困った人もいっぱいいるよ」「あなたと私にそんなに差はないよ」と感じたものです。

 

 私たちは日本で暮らしていて、その中でも生きづらさを感じることがありますが、発展途上国の貧しい人たちからしたら、天国の住人のように見えるかもしれません。
でも、やはり「いやいや、そうでもないよ」と応じてしまいそうです。

 

 別に下を見て安心しろ、とか、悩みなんてたいしたことないなんて、俗な言い分ではありません。

 

 例えば、以前も紹介した、仏陀の「からしだね」のエピソード

 夫や子供を亡くした未亡人が、ゴータマ(仏陀)に相談したら、
「一度も死者が出ていない家から、からしだねをもらってきなさい」といわれます。
村の家々を尋ねてみたら、
「(実は隠しているだけで)ウチでも不幸が・・・」となって、どこに行っても、不幸のない家は見つかりません。
家々を回るうちに、未亡人の悩みは晴れていった、というものです。

 

 他人の不幸で安心した、というのではなく、ありのままの現実(ニュートラル、中庸)を見て、幻想(暗示)が解けていった、ということです。

 

 解決は、先にあるのではなく、そこにある。

 

 トラウマが解消されていくと、そういうニュアンスが肌で分かるようになってきます。

 

 そして、気が付いていきます。

 悩みの中にある一日も、解決された後の一日も同じ一日であることを。

 

 悩みが解決しなかったら何にも始まらない、といって今日の一日が未来の準備になることはとてももったいないこと。


 悩みの中にある時はカウンセリングなど適切なサポートを受けることも大事ですが、おそらく将来、歳をとってから「なんで自分は、あの時、もっと楽しんでおかなかったんだろう?」ときっと感じてしまうでしょう。

 

 セラピーに割く時間とお金を、趣味や旅行といった、その時の“今”に割いておけばと思うに違いありません。

 

 〝今”を将来の準備期間とするというのは、今の自分にダメ出ししているようなもので、どこまでいっても終わりがなく、やがて、努力は反転してこちらに崩れかかってきます。

 

 ただ、今を楽しむ、といっても、エキサイティングなことをしよう、ということではありません。〝リア充”といって皮肉られるような、無理やりなものではなくて、とても平凡なものです。

 一日は、今も平凡で何もないし、悩みが解決した後も平凡で何もありません。

 徐々にそんなことが見えてきます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「学校スキーム」を捨てる

 

 学校とは、文字通り、社会に出るために必要なことを学ぶ場所の一つです。

 そこでは、教科教育から始まり、美術、音楽、体育、道徳、進路選びなど様々なことを学びます。

 

 一番大きなことは集団での生活、人間関係になれることです。クラスの仲間との付き合いは、その後の社会に出るためには必要なことです。

 

 ただし、多様な人間をクラス単位で特定のルールでまとめ上げることについては、弊害も指摘されています。

 社会学者の内藤朝雄氏は、中間集団全体主義と呼んでいます。

(参考)「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」

 

 合わないタイプの友達とも仲良くしなければいけないとされます。学校という空間の過度な密着がいいじめにつながるのです。教科ごとにクラスを変えるなどの解決策が学者から提案されています。

 

 もう一つ学校で学ぶこととしては、特定の環境・ルートで挫折を乗り越えて頑張る、ということです。様々な紆余曲折はありますが、その中で苦手なことにも取り組んで小学校‐中学-高校-専門学校・大学と進学していく。真っ直ぐレールが引かれていてその中を忍耐と努力で通っていくというスキーム(枠組み)です。

 

 

 さらに、表向きは、とても道徳的できれいな善の価値観のスキームです。正直で、ずるをするよりも真向努力することなどが優等生として、奨励されます。
(実際、容量の良い子や、不良っぽい子は、ずるやショートカットを身に着けますが)

 

 こうしたことは社会に出ていくうえで、役に立つとされていて、だから教育で教えられますが、実は社会に出ると、全く真逆の環境が待っています。

 

 社会では、360度選択肢がある中で、自分がどの方向に進むかを選ばなくてはなりません。一か所でかんばっていればよいわけではなく、その場所がダメならば、場所を変えなくてはいけない。頑張るべき時と、他へ移るべき時とを見極める目が必要です。

 

 また、社会で出会う人たち、上司や先輩、配偶者、もそうですが、彼らは「先生」ではありません。彼らは、私たちを必ずしも庇護してくれるわけではありませんし、実はその義務もありません。

 

 上下の権力関係にあり、パワハラ、モラハラもしばしば受けます。ダメなら関係を切られることもあります。単に業績や出世のために、社員を利用する、といったことは珍しくありません。
(もちろん学校でも良くない先生がいたり、会社でも良い上司はいますが、「教育」現場と社会とは違います。)

 

 

 「学校スキーム」を真に受けたままに社会に出ると、特に相手が年上だと、先生-生徒の関係のように面倒をみてもらえるのかな、とか、理不尽なことをされても、厳しい中にも教育的な意味があるのかな、と思ったりして、ずっとその場にい続けてしまいます。

 

 

 また、人間関係についても、学校と社会とは異なります。
合わないお友達とも仲良く、ではなく、合わなければ適度な距離を取ったり、関係性も変わっていったりということは当たり前ですし、そうしたほうが良い。社会的なネットワークは日々変わりゆくものです。

 

 「学校スキーム」の過度な密着のまま、対人関係をとらえていると、社会ではうまくいかなくなってしまいます。

 

 さらに、社会は清濁併せのむ二階建ての世界です。悪もあるし、嫌なこともあって、それをうまくいなさないといけないし、世の中にある見えない仕組みやコツを盗むことも必要になります。まじめにやっていてはそうしたことはなかなか見えなかったり、見えていても利用できなかったりします。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 トラウマを負っている人に多いのは、「学校スキーム」をそのまま引きずってまじめに世の中を歩いてしまうことです。「学校スキーム」と社会人になってからの景色は全く異なります。進路の選び方も人間関係も、社会への向き合い方も。

 

 比較的安定している普通の人は、「学校スキーム」と社会人のスキームとは異なることを育つ中で薄々感じて、スタイルをチェンジしていきます。

 

 例えば、会社があまりに変(ブラック)だな、と感じたら、極端に言えば、入社式の段階でも会社を辞めてしまいます。そして、次の環境へと移っていきます。とてもさっぱり、あっさりしています。

 

 人間関係でも、おかしいなと思ったら、さっと距離を取ります。

 建前で語られるきれいごとと、裏の仕組みとを切り分けて感じ取ったりします。

 

 しかし、トラウマを負っている人は、「学校スキーム」を守って、妙に耐強く、義理堅いので、そのまま変な会社に居続けてしまい、ボロボロになるまでやめないで頑張るようなことが起こります。人間関係でもおかしな関係を続けてしまい、支配されてしまったり。表のきれいごとを真に受けて信じたり。心身共に疲れ果てて、自信も喪失させられてしまうようになります。

 

 

 筆者も昔、モラハラ環境で働いていたことがありますが、そこに入ってきた後輩たちは学歴もあり素直で優秀な社員たちでした。彼らは、職場に違和感を感じるや否やあっさりと辞めていったのが印象的でした。

 

 ある後輩は大学の応援団出身でしたが、忍耐強く理不尽な環境になれていそうなその後輩でさえ、ブラックな職場だと見るや、サッとやめていったのは驚きました。一方、筆者は頑張らねば、とストレスを浴びながら耐えていたのはトラウマを負ったものによくある態度だったのかもしれません。

 

 実は、親も、学校スキームをカーボンコピーしたような教育方針を取っていることもあります。相談をしてみると、「一か所で頑張れ」「人間関係がうまくいかないのはお前が悪い」といった間違った後押しをして、環境を変えることを妨げてしまいます。

 

 もし、ひどい環境であるにもかかわらず、「そこから逃げたらだめだ」とか、「自分にも原因があるかも」といった考えがよぎったら、自分は「学校スキーム」で目の前の問題を捉えていないか?と考えてみる必要があります。

 

 「学校スキーム」は、正常な発達ルートに鎮座しながら、とても特殊なものであり、社会に出た後は、スタイルチェンジをして、あらたなスキームを獲得しなければなりません。

 

 「学校スキーム」を捨てる、というのも、二階建ての社会の一階部分に相当するものであり、わざわざ教えてくれない世の中の“裏ルール”の一つといえます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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素直さと生意気さ

 

 トラウマを負った人は、純粋で、とても素直です。理想が高く、本質を求めようとします。

 これまでの記事でも書きましたが、形式よりも心を大事にします。

(参考)→「トラウマを負った人たちの独特な人間観

 

 汚れた大人への反発も手伝って、純粋でありたい、素直でありたい、と思っていることがあります。そうした理想を完成させることが、真に大人になることであり、成熟であるととらえています。

 自分を高めようと努力しています。

 特に弱い人については、理解し、本来のその人はそんなことはない、力が制限されているからだ、と捉えようとします。

 素直であるために、人の話も真に受けやすいです。

 真に受けやすいために、傷つきやすく、人を恐れてもいます。

 

 一方、独特の生意気さも持ち合わせています。

 しばしば人を上から見ているような時があると自分でも気が付いています。素直で理想が高いために、意識の上では、現実にいる人たちよりも一歩先にいる感覚や、人間とは立派なものという感覚などがあるためです。

 

 特に、感情的な人や世の中でスレてしまった人、ずるいことをする人、自分の限界を低く見積もった人などを低レベルとして嫌悪します。

 

 会合で人と話をしていて、盛り上がると、つい上からわかったことを伝えるような、どこか馴れ馴れしいような生意気なしゃべり方をしてしまうことがあります。
 本人も調子に乗りすぎた、浮ついた感じがある、として後で自己嫌悪してしまうことがあります。

 

 「なんか、上からだよね」と人から指摘されると、とても落ち込んでしまいます。
 本人は、そういう人間にはなりたくない、常に謙虚でいたい、という理想があるからです。

 でも、ついついやってしまいます。

 

 言葉では出さなくても、頭の中で、レベルの低いと感じる人を人を評価したり、こき下ろしたりしている場合もあります。

 

 トラウマを負うと過剰適応になりやすいため、謙虚でいるとへりくだりすぎてしまったり、前に出れなくなることがあります。

 逆に自然体でいようと努力すると、なぜか上からの態度になってしまい、生意気という印象を与えてしまいます。

 極端に下から、極端に上からとなりがちで、ニュートラルでいることが難しいのです。  

 

 コフートがまとめている考えですが、
 人間の自我というのは、生まれたときは自分は何でもできる、親(他者)は神のようにとらえていますが、 成長する中で他者や自己のイメージは適切なサイズになっていきます。


 しかし、不適切な養育環境(ストレスフルな環境)に置かれると、他者や自己のイメージは誇大になったままで残り、それがいわゆるパーソナリティの歪み、となって、尊大になったり、他者をあがめて依存的になったりします。
 (パーソナリティ障害のメカニズム)

 

 トラウマを負った人の、他者観、自己観はまさにそうで、素直でありたいという純粋さと人間は立派なものだ、との理想をもち、自己観が誇大なままなのです。

 さらに自分(だけ)は高い意識に触れることができた、という直感があるため、上からの印象に拍車をかけます。

 

 他者観も、じつは誇大です。
 だから、へりくだりすぎたりする一方で、その誇大な他者観に適合しない人は、徹底的にこき下ろしてしまいます。人間はすべていなくなるべきと考えていることもあります。

 

 自分の親などはまさにそうで、立派なはずの人間から堕落した軽蔑すべき存在、という風に見ていることがあります。

 

 世間の大人たちがするような一階部分の現実的なやり取りは嫌悪します。  

 

 自分を研鑽して理想を求めますが、実現するどころか、
他人は怖くなるし、ついつい相手をこき下ろしたくなって自己嫌悪してしまいます。人からは批判されるなど、得たい評価は得られず、ますます生きづらさを感じていってしまいます。

 

 心の中では、「自分はただ本来の自分で素直に生きたいだけ。他者とも心からつながりたい。生意気だなんて言わないで」と泣いていたりします。

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 トラウマを負った人は、「人との付き合いは、形よりも心が大事」だと思っています。

 

 心でいかに相手を思うか、
 純粋に愛情を持てるか、
ということを大切にします。

 

 建前やうわべ、社交辞令には嫌悪感を持ちます。
嘘のように思えて嫌なのです。
本当に心からのものではないのに、なぜそのようなことを言わなければいけないのかがわかりません。

 

 純粋な関係を持ちたい、そうあることが本来の在り方だ、という“理想(≒マイルール)”があります。

なので、どこかいつも腰が入りきらない感じで社交辞令を仕方なく使うので、それが相手に伝わってうまくいかなくなる原因にもなります。

 

 普通の人たちが大切に思う「形式」を踏まずトラブルになることがあります。「形式」を踏んでいないために、逆に「心がない」と非難されてしまい、誤解されものすごく傷つきます。そして、「非難してくる相手のほうが、よほど心がゆがんでいる。おかしい」と頭の中でこき下ろして、罰してしまいます。

 

 「人との付き合いは、形よりも心が~」と聞くと良いことのように聞こえますが、やはり、それは難しい。

 

 なぜなら、同じ日本人同士であっても文化や価値観は全く異なるから。そして、私たちはテレパシーは使えないから。異文化同士が分かりあうためには、外交の形式はものすごく大切。

 

 普通の人たちは、その形式(プロトコル)でやり取りしていますから、プロトコル通りでないと違和感を感じます。

 

 また、形式の中には、「“貸し借り”の収支」も含まれます。“貸し借り”とは、互いに何かをしてあげた=してもらった、という互恵のことです。通常はこれを無意識に収支計算をしあっていて、してもらったことはお返しをしたり、気遣いをしたりして、貸し借りがオーバーになりすぎないようにしています。

 

 貸し借りの収支が合わないと、割に合わない不満を感じます。

 

 だから、普通の人たちは、
「私ばっかり~!!」と愚痴をこぼします。

 

 トラウマを負った人はそれを見て、嫌悪感を感じます。
「人間というのは本来立派なもの。愚痴なんて言ってはいけない。愚痴を言う人は低レベルの人」
「この人は人間の本質というものに気付いていない。なぜ、もっと人間を高める努力をしないのか?」
「こんな人と一緒にいたら、自分も汚される気がする」
と感じます。

(参考)→「トラウマを負った人たちの独特な人間観

 

 人間のありのままの姿が分からない。
「貸し借りの収支なんてセコイことを考えるのはおかしい」と思っています。
「与えれば与えるほど人間は幸せになれる」といういった考えも後押しし、さらに加速します。

 

 そのような理想を持っているために、人がしてくれたことへのレスポンスが遅れるようになります。返礼の形式(プロトコル)を軽んじてしまいます。
その結果、普通の人からすると、「なんだ、この人は?!」となってしまう。

 

 そして相手から非難されると恐怖を感じ、「見返りを求めて私に近寄ってきたの?!私は心で感謝しているのだからそれで十分じゃないの?非難するほうが、心が汚れている」とこき下ろします。最終的には、人間とのかかわりが嫌になってきます。

 

 

 トラウマを負った人は、たとえ割を食っても我慢して、飲み込んでしまいます。「それこそが大人のふるまい」であると錯覚しています。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 場合によっては厚かましい相手に支配されてしまう。
本当であれば、反発して、割を食った分収支をトントンに戻さないといけない。そうしないと人間関係のバランスが崩れてしまうのです。成熟とはそのバランスをうまくとれるようになることで、あって我慢することではありません。

 

 それが本来の世界なのにどうしても嫌悪や反発を感じてしまう。特に、裏表のある人、世渡りのうまい人が大嫌いです。

 

 

 では、そうした理想を持つトラウマを負った人は、形式のない本当の心を感じ取れるか?といえば、残念ながらそうではありません。むしろ、普通の人以上に、形式が伴わないコミュニケーションを取られると、強い恐怖を感じます。

 

 例えば、相手が何かの手違いでお礼を言ってくれなかったり、ちょっとした想定外のしぐさをされると、「私は嫌われているのかも?」「私は責められているのかも?」と恐れやイライラを感じてしまいます。相手には厳しいけど、自分は理想通りにはできない。

 

 理想は高いのですが、いくらセラピーを受けたりして努力してもその通りにならない自分を「器が小さい」「自分はおかしい」と責めてしまいます。

 

 

 また、形式よりも心だ、としてしまうことで、自分の本音もよくわからなくなってしまいます。
「本当の“好き”とは何か?」
「本当の“愛”とはなにか」と考えると、よくわからなくなるのです。
「心から好きではないと、それは表現してはいけない」と考えてしまうばかりに、自分の本心がかえって見えなくなる。そして相手に対してもうまく表現できない。

 

 普通の人なら、6割程度の感覚でも「ありがとう」「好きだよ」と言葉や態度で示すのに、トラウマを負った人は、10割の完全な感覚を感じ取れないと表現することができない。

 

 他者から見たら、何を考えているのかが分からなくなり、
「何を考えているのかわかりにくい」といわれて、さらに落ち込んでしまいます。

 

 一年に一回だけ本音のコミュニケーションをするよりも、
形式的でも毎日挨拶をする方が、人間関係ははるかに良くなるものです。それがうまくできない。

 

 形式(身体)が実質を連れてくる、ということもあります。ふるまいや所作を身に着けることで、心がついてくることがしばしばある。実際、運動など行動しないとやる気などの感情は形にならない、と研究では指摘されています。

 

 形式がないことを「形なし」というそうですが、フレームがないところには人間は住めない。

 形式(プロトコル)がないと、他人のみならず、自分の心ともやり取りができなくなってしまうのです。

 

 

 では、トラウマを負った人の理想は達成できないのか?といえばそうではありません。そのためには、本来の世界(1階部分)を回避して、理想(2階部分)へと迂回せず、まずは、めんどくさいことが多くても1階部分を通る必要があります。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 めんどくさい1階部分をめんどくさくないものにするのが、「形式」だったりするのです。一階部分を十分にケアして、二階に上がった後に理想は実現されるものです。

そのことに気づくと、生きづらさを解決する糸口が見えてきます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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