私たちは健康な状態にあるときは、ヒューリスティックに判断している

 

 私たちが物を買うとき、よく吟味をしているように見えて、かなりいい加減に検討して購入をしています。

 

たとえば、服を買うとき。

 縫製や生地の網目までしっかり見て決めているか?といえばそうではない。デザインが気に入り、サイズがあって、そしてお気に入りのブランドであれば購入を決定する。

 

高価な車でもそう。
 ドアの素材を分析したり、安全性能を自分で細かくテストして確かめたりはしない。デザインが良く、機能性があり、なにより自分が知るメーカーのものであれば、「大丈夫だろう」と思って購入を決定する。

 

 よく考えてみると、高い買い物であっても大雑把に決定している。「大雑把」といっても悪いことではなく、人間にとっては普通の健康的な行為です。

 そして、その決定は、当初の期待とおおむね合っている。だからそれでよい。

 逐一、詳細に検証していては労力がかかりすぎて意思決定ができなくなってしまいます。

 

 こうした意思決定のスタイルのことを社会心理学の世界では「ヒューリスティック」といいます。ヒューリスティックとは、代表的ないくつかの情報をもとに全体を判断することを言います。

 

 意思決定方略(戦略)といいますが、もし、人間がヒューリスティックに判断できないときはどうなるかといえば、モードが切り替わり、細かい情報を詳細に検討するようになります。そして、そこで納得すれば購買を決定する、ということになります。
 こうしたモードのことを「アルゴリズム」といいます。

 

 外出してウロウロしながら買い物している場合であれば、ヒューリスティックに判断できない段階で、多くの場合、「購入を見送る」という決断をすることになります。
 皆様も、服を買うときに、「良いけども、どこかピンとこない」というときは、結局買わないことが多いのではないかと思います。
 

 

 通常、私たちの意思決定はすべて、「ヒューリスティック」であるとされます。パソコンやスマホなど、スペック重視で、価格コムなどで比較をして買うような場合であってでさえも、品質の検証テストなどを自分でしたりはしないわけですから。レビューの点数や内容などを見て、だいたいのところで決定してしまう。

 

 このように、代表的ないくつかの要素で全体を判断するというのが人間です。それが、スムーズで、健康的な状態であり、細かくチェックしないといけない状態は、「困った状態」といえるのです。

 実際、住宅の建設などで手抜きがあって訴訟を起こしている「困った状態」の方を以前、TVで取り上げていましたが、ご自身で専門家を雇って隅々まで検査して、証拠を集める、ということをされていました。
 ヒューリスティックではないということは、まさにそのようなことをショッピングの都度しないといけない、ということです。

 

 

 トラウマを負っているというのもまさに「困った状態」で安心安全を奪われてヒューリスティックに判断できなくなっている、といえます。
 その結果、対人関係でも、だいたいで判断できなくなる。また、前回も書きましたが、100%の理解を求めるストイックなものになってしまう。
 (参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 健康な状態であれば、「だいたいで」「適当に」関係を結ぶことができます。でもそれができなくなる。
 相手と自分と違う部分を細かく見てしまって「この人はここが違う」「この人はこれがわかっていない」と厳しく見てしまう。

 「安心安全」を奪われてしまっているために、そうせざるを得ない。

 買い物でもそうですが、完全に自分に合う買い物などはそうそうない。既製品ですから。
 でも、「これはダメだ」「自分に合わない」「このメーカーはわかっていない」などといわずに、大体で満足しています。一致しているところだけを見て、合わないところは目をつぶっている。

 

 トラウマを負って(あるいは発達障害や内分泌系の疾患などで)「安心安全」を奪われていると、大同小異といったことができなくなる。

 たしかに、私たちは余裕があるときは細かなことは「よいよい」とおおらかですが、自分が不遇な状態にあるときは、他者やモノを疑ったり、こき下ろしてしまいがち。 

 

 

 対人関係でも、ヒューリスティックに関係を構築できないために、人とうまくつながることができなくなってしまうのです。

 

 対人関係においては、ヒューリスティックな判断をささえるものは、「身体的な感覚の一致」です。身体的とは、大きくは「ストレスホルモンの調整」によってなされます。テンションコントロールが自動的にされて、「ウマが合う」「気が合う」という状態にしてくれている。

 
 トラウマはストレス応答系(自律神経、免疫、ホルモン)を乱すため、身体が自動で一致をもたらしてくれず、頭でアルゴリズムに判断して、「この人はどうなんだろうか?」「どのように話せばいいんだろうか?」となってしまって、気持ちの良い関係が作れなくなってしまいます。

 

 前回も書きましたように、もし身体的な感覚の一致が作れなくても、「仕事」「用事」があれば、人間同士は付き合えます。「仕事」や「用事」がヒューリスティックなコミュニケーションの媒介(コネクタ)となるからです。電化製品などがない時代は、「仕事」や「用事」がそこらここらにあり、生きづらさは目立たなかった。
 芸人のように巧みな話術がなくても、人同士はそれなりに付き合えたようです。
 

 現代は「消費社会」ですから、付き合いの媒介となるものがなく(SNSでは代わりにならない)、実は人同士が構造的に付き合いづらい社会であるようです。

 

 

100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 親友と思っていた友人から裏切られたり、
 「あれ?」と思うような意外な言葉をかけられて傷ついたり、久しぶりに会った知人からかけられる自分への評が、自分の思っていることと違って違和感を感じたり、 筆者にもそんな経験があります。 

 

 若いころはとても傷ついたり、人間関係のめんどくささばかりに目が行き、「人っていうのはとてもめんどくさいし、ややこしい」と億劫になっていました。

 人との関係を断ち、自分単体で高潔に生きていくすべはないかと模索してみたり・・
 でも、いろいろと経験を重ねると、よく考えたら人同士の理解なんてそんなものかもしれないな、と思うようにもなってきます。また、それでも人は人同士のかかわりをうまく回復しないと十全には生きれない、ことも見えてきます。

 

 

 人間は、ある程度成熟してくると本当に理解(する)される、ということはなかなか難しいということを知ります。血のつながった家族でさえ、完全には理解し合えない。必ずズレが生じる。

 相思相愛の恋人同士でも、実は完全に理解しあえているのではなくて、それぞれの頭の中にある幻想を見ているだけ。そのため、恋愛ホルモンが緩むにつれて、その幻覚が薄まってきて、理解しあえていない実態が明らかになってくる。

 親友同士でもそうです。最初は良くても、環境が変わると、ズレを感じて、「あれあれ?」と思うことは珍しくない。

 

 

 芥川賞作家の平野 啓一郎さんが書いた
 「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」という本があります。

 

 人間というのは、固定された一つの人格ではなく、著者が「分人」と呼ぶような、いろいろな人格要素の束になっている、ということです。
  

 心理学的にもまさに的を得た内容で、人間というのは、そもそもが解離性人格のように、複数の人格的要素が集まってできていて、健康な時は、一つの人格として、統合できていると感じられて(錯覚されて)、生きています。 

 だから、場面や人によっても、性格は現れ方が異なる。 
 さらに、スケッチの際に、裏側は決して同時には描写できないのと同じで、その裏にある人格要素は見えなくなる。
 

 ある場面に、ある人格要素が現れるかどうかは、環境条件によります。

 そのため、時間が動き、環境が変わり、条件が変わると私たちに感じられる「人格」は変わります。

 友人、知人、恋人でもズレ、違和感となってくるのです。

 

 細かなズレを感知しては生きていけませんから、健康な状態にあるときの私たちはある程度、「安心安全」という健全な幻想によって、ズレを見ないこと、互いは理解しあえていることにして、人との「関係」は保たれます。
 その「安心安全」をパッケージで提供するものが、これまでもお伝えしている愛着というものです。
 

 

 一方、悩みにあるとき、トラウマを負っているときは、
 「安心安全」がないために、健全な幻想を持つことができません。
 

 健全な幻想がないとどうなるかといえば、100%の理解と0%の理解(無理解)との間で極端に振れてしまいます。
 「この人は私のことを分かってくれる」というかと思えば、ちょっとした会話のずれで「この人は私のことを全くわかってくれない」とこき下ろしてしまったりします。

 そうして、次々と人を変えていきますが、人間の原則として、100%理解し合えるものはどこにもいないことは変わりませんから、どこまでいっても理解しあえる人には出会えない。

 

 

 代わりに、理解されている幻想を比較的長く維持できるものは「依存」です。
 「依存」によって放出されるホルモンは、愛着の代替として幻想を見せてくれます。
 ただし、健康を害したり、経済的な損失をもたらします。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 もう一つ、本当の理解の代替になるものは「支配」です。
 カリスマめいた人にであったり、支配的な人に出会うと、「すべてをわかってくれそう」と思い、引き寄せられます。でも、それは、天性の人たらしのような性質を持つ人が「理解してもらえている」と感じさせるツボを心得ているだけで、本当の理解とは異なります。気が付いたら支配されていて、失礼なことも平気で言われるような状態でボロボロになって抜け出せなくなっていたりする。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 本来、健全な人間の理解の土台となるものがあります。
 その一つは、「仕事」です。

 「仕事」を介することで、人間同士は理解し合えることができます。
 医師やカウンセラーがクライアントさんを理解するのは、条件が限定された「仕事」を通じてです。
 
 臨床医学でも、理解するのは「悩み」「症状」という限定された領域です。
 もちろん、その背後にある養育環境や人柄も丹念に見ます。医師によっては、生まれた家の間取りを書かせたり、写真をもらったりといったこともして、理解を深めようとする。でも、それもあくまで「症状」を理解するため。
 無条件に100%その人を理解することなど世界一の名医でもできない。

 

 名医やカウンセラーは、うまく条件を絞って、「理解」を作り出している。良い治療関係(治療同盟)とは、限定された「仕事」と、身体からくる疑似的な愛着を土台にした健全な幻想を条件としているのかもしれません。

 

 仕事においても、「この人はわかってくれている」というのは、じつは条件が限定されているから。
 電化製品を買いに行って、店員さんが「わかってくれている」と思うのは、「仕事」のなかで「電化製品」というカテゴリでやり取りしているから。
 

 最近はやりですが、パーソナルトレーニングなどで、トレーナーが「自分のことを分かってくれている」と感じるのは、「トレーニング」という限られた領域でのやり取りだから。

 全然、別の環境で、店員やトレーナーと出会ったら「あれれ?」となってしまう。

 

「仕事」には、役割があり、場や要件の限定があり、そこで行われる技術があり、やり取りの必然があります。そのことが私たちの健全な理解を支える。案外、消費的な趣味の場所などでは友達を作るのは難しいことがある。

 

 シェークスピアの翻訳で知られる福田恒存の有名なテーゼ
 「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」というものは、こうしたことを差しています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 親子の理解でさえ、それを支えるのも、おむつを替えたり、ご飯を用意したり、「仕事」があるから。

 「仕事」や「役割」といったモノを持たない真っ白な状態では、人間はかかわりを持てないし、理解し合えることもない。当事者は、コミュニケーション能力のなさ、性格のせいだと思っていますが、そうではなく、環境や構造的な問題によるもの。

 
 

 人間関係でも、気が合う、と思えるのは、実は、「学校」「職場」や過ごした時間などそれを支える共通の条件があるから、その条件がずれてくると、理解はし合えなくなってくるもの。
 友人関係が壊れるときの原因の一つは、どちらがわるいのではなく関係を支える「条件」が変わったため。

 人同士の理解を支えているのは実は「人柄」とかではないのかもしれません。

 かかわりを支えている「用事」や「仕事」「役割」がなくなると、徐々に疎遠になるものなのです。

 

 まったくの無条件に、完全な理解を、ということを求めると、あらゆる人間関係は破綻してしまいます。

 無条件で、完全な理解を、と求めるの典型を「境界性パーソナリティ障害」といいます。自他の区別がついておらず、それをささえる「仕事」「役割」を持てていない。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 トラウマを負う、自己愛が傷つく、とは、互いに理解(という健全な幻想)し合うための条件を維持できなくなってしまうこととも言えます。そして、細かな差は捨てて、代表的な要素をとらえて「理解しあえている」と感じる力が失われてしまっている状態。

 

 ものすごく他者や自分にも厳しくなり、「あれも合わない、これも合わない、どれも合わない」「世の中って俗でつまらない。自分の高いレベルに叶うものがない」となってしまいます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

一つのモノや人、コトからはすべては得られない。

 トラウマを負っていると、人や物が極端につまらなく感じたりします。

いつのまにか評論家のようになって、「こんなもの~だ」とか、「あの人は~だ」とこき下ろすようになったりします。

 たとえば、自分の友達がつまらない、夫(妻)がつまらない、仕事がつまらない、遊びがつまらない、といったこと。

 

 どうしてそう感じるかといえば、それだけ生きづらい、苦しいから。
 
 人や物事を全体的に把握することが難しくなっているから。

 世の中が安心安全ではないために虚無的、厭世的になっているから。

 また、怒りなどで側頭葉に血流がたまっている場合も、人や物に対して厳しくなったり、批判的になりやすくなります。

 

 
 もう一つの理由としては、世の中では一つのモノや人からはすべては得られない、ということも挙げられます。
 
 一つのものや人からすべてのものが得られる、ということは誰にとってもありません。

 どんな良い商品、良いサービス、良い人であっても、得られる価値は自分の求めるもののごく一部にすぎません。
必ず不満はある。

 

 私たちは健康な状態にあるときは、ヒューリスティックな感覚というものがあるために、代表的な要素を全体に拡大させて満足を感じることができます。ヒューリスティックとは、心理学の用語で、代表的ないくつかの要素を持って、対象を判断する、ということです。

 

 なぜかといえば、人間は情報収集力に限界がありますから、すべてを調べて判断するわけにはいきません。
 なので、2,3の情報から「ここは安全」「この商品は買ってもよい」など、直感的に判断できるようにしているわけです。
 たいていの場合はそれでよいのですが、バイアスがかかったり、2,3の情報をコントロールされて意図的に騙されたりすることがあります。

 ※その反対はアルゴリズムといわれるもので、まさにデジタルに細かいすべての情報から判断するような形です。
「森を見ずに、すべての木を調べて判断する」という感じの感覚です。コンピューターなどはそういう判断の仕方が得意です。
 発達障害、自閉症の方などもアルゴリズム的です。そのため、傍から見ると融通が利かない、という風にとられてしまいます。

(参考)→「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 トラウマを負った人は、部分(フェッチ)でしかとらえられないためか、相手を過大によいと思ったり、悪くこき下ろしたりしがちです。
 あと、一つのことからすべて望むものが得られないと納得できない、という感覚にもなりがち。ヒューリスティックに特定の要素から全体を感じることも苦手。

 

 

 そのために、満足が得られずに、「つまらない。つまらない。」となります。

 

 「ファンタジー」によって、一気にすべてを得ようという場合もあります。特定の事、物や人をカリスマ視したり、そうした人を求めたり、といったようなことも起きます。
 
 周りはつまらないのは、つまらない人や物のせいで、理想的な人やもの、こと(仕事)などが現れたら、すべてが得られて解決する、というような感覚です。

 医師やカウンセラーを褒めたり、こき下ろしたり、というような場合は、こうしたことも影響しています。
 (「最初はいいかもと思って期待していたけど、なんでこの人は、一人ですべてを提供してくれないんだ!無能!役立たず!」というような感じです)

 

 恋愛で熱しやすく冷めやすい、というのも同様かもしれません。「この人と結ばれたらすべてが得られるはず」というような感覚。

 

 

 さらには、関係のネットワークの密度が乏しいことも影響します。多くのものから少しずつ満足を得るということができないために、特定のものに頼らざるを得ません。
そのために、対象に課題に期待しすぎてしまうのです。

 どうしても特定のものや人にしか頼れない場合は、量に頼ることになります。

 過度な飲酒、過度なギャンブル、過度な恋愛関係、過度な支配・被支配関係。。。といったように、得られない満足を「量」で無理矢理に補おうとしてしまう。これが「依存症」と呼ばれる状態です。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 
 「量」で補おうとしても、補いきれませんから、どこか怒り(不満)が漂っています。
 

 

 そこから抜け出すためには、
 一つのモノや人からはすべては得られない、と知ることが大切です。特定のものに依存しすぎず、人やモノとの多様でゆるやかな「関係」を再構築していく必要があります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。

 人間が呪縛にかかってしまうもう一つの理由は、
人間がクラウド的存在である※ということがあります。
 ※スマホのように、ネットワークを前提に設計されていて、ネットワークが切れたら十分に機能しない、ということです。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 

 人間は関係の中で生きています。

 よく指摘されますが、
 「自分探し」というものは、自分をいくら探しても、自分は見つからない。

なぜかと言えば、自分とはそれ自体単独で存在しているのではなく、“関係”でできているため。

 もっと具体的に言えば、社会の中での「位置と役割」があってはじめて「自分」というのは成り立つものだということです。公的な存在が社会の中での自分です。その「位置と役割」は他者からの承認で成り立っているからです。

 

 10、20代のころに「自分とは何か?」という問題にぶつかりやすいのは、知恵や社会性が急速に高まる一方で、社会の中での「位置と役割」があいまいだから。
 同じ年頃に活躍する芸能人やスポーツマンたちが妙に立派に見えるのは、「位置と役割」が早くに与えられているため。

 社会の中での「位置や役割」というものは、自分でというよりは、本来外からやってくるもの。
 いくら能力があっても周りが認めなければ、「位置と役割」は満たされない。

社会からの承認には3層あります。
 Having(報酬、称賛など)
 Doing(社会的な職業、役割など)
 Being(存在の承認)

です。

 下から上へと満たされていくのが本来です。

 Being は主として家族から承認されることで満たされます。「愛着」がその代表です。
 Doing は社会的な仕事をすることです。もちろん主婦業も含まれますが日本社会ではまだまだその承認度は十分ではありません。
 Having は収入といったことですが、これも近年は、労働の過酷さに対してリターンが十分ではなかったり、成果主義がうまくいかずにかえって報酬が不本意なモノとなっていたりもします。

 「私」そのものが周囲から承認されることを必要としていて、悩みがあるという方は、どれかの層に瑕疵があります。
 また相互にも関係していて、Beingがなければ、Doingは得にくい、Doingがなければ、Havingも得にくい。Havingなければ、Doing,Havingがなければ、Beingがうまく維持できない。

 発達障害の方が生きづらいのは、育てにくさや、養育環境の不十分さから愛着(Being)を形成しづらい。職業に就く際に多くの困難を抱える(Doing,Having)といったことがあるためです。

 周囲からの得られるものが「承認」だけであればよいのですが、「呪縛」も同時に入ってくることがある。

 呪縛になるのはどういった場合かといえば、関係が閉鎖的な場合や、少ない筋からの承認に頼らざるを得ない場合です。依存症も一つのことにしか頼れない場合に生じますがそれと似ています。承認先が少ない場合、多元的であることが担保されずに、呪縛的な関係になってしまいやすいのです。

本来であれば、できるだけ、メッシュ(網の目)のように複数の緩やかな関係からの承認であることが望ましい。

 

 核家族や、成人してからも親と同居していたり、介護での世話や、特定の職場に依存してしまうような環境も呪縛を生みやすい。あと、経済的に追い込まれた場合も同様です。

 人とのかかわりが切れてしまうと誰でも容易に足場や自信を失い、路上生活者や生活困窮者に追い込まれますが、まさにこれもある種の呪縛といえそうです。

 

 このようにしてみるとよくわかるのは、私たちの悩みは「心理」の問題ではないということです。
 ほとんどは、家族の問題であり、社会の問題であり、経済の問題である。つまり、「関係」や「社会」の問題であるということです。
 

 関係の問題であるのは、冒頭にも書きましたように、そもそも人間がクラウド的な存在であるからです。

 

 例えば、職場や学校などは、それ自身自分を傷つける場所にもなりますが、「しごと」というネットワークに接続しなければ「私」は確立されず、悩みは抜けません。
 
 生きづらさや悩みを抱えていながらずっと家にいる、といった場合は、公的な支援を受けて、働きに出たほうが悩みは解決しやすい。これは、構造的な問題ゆえです。

 

 一方、「ひきこもる」というのも実は解決のための手段で、仏陀が出家して覚ったように、いったんクラウドを遮断して、リトリート(退却)して、そこで心身を整えて、社会に復帰するために有効な手段であることもあります。
 精神科医の中には、ひきこもる、ということを統合失調症の治療の手段として積極的に評価している方もいます。

 ただ、ひきこもる先がしがらみの多い実家であった場合に、汚言、罵倒、無理解、憐みや非難のまなざしに呪縛されて、さらに抜け出しにくくなります。

 できれば、身体がある程度回復したら、家族外の人たちと多くかかわり、回復の足場としていく必要があります。

 人間はクラウド的な存在で、クラウドによって存在しますが、うまくつながれないとネットワークは呪縛となって苦しめることになります。

 

 もし、仮に、スマホがクラウドになっていることを知らない人がいて、ネットワークにつながっていないスマホをなんとか機能するよう修理しようとしても、いつまでたってもうまく動かない、ということが起こりえます。「あれ?なんで表示されないんだろう?」と。

 

 私たちも同様で、悩みにある時に、自分がスタンドアロン(自分だけで存在している)だと錯覚していると、外部からの影響を切断することばかり考えて、結果、なかなか良くならない。
 ウイルス(呪縛)が入ってくることを恐れて、ネットワークを切断していてはスマホ(人間)は機能しません。

 自分はクラウトだと知り、ウイルスも入ってくる前提で対処することを考える。
 呪縛を防御、キャンセルし、「位置と役割」(承認)を得なおすためにはどうすればよいのか?を考える必要があります。

 

 ポイントは、人間の場合のウイルス(呪縛)とは、ネットワークの接続先が少数で、閉鎖的な環境でないとうまく作用しない、という事です。

 ネットワークがたくさんつながっている多元的な環境では呪縛の効果は弱くなる。逆に、閉鎖的で、ごく少数のネットワークにしかつながれない環境において、人間関係は呪縛や支配となって作用する。
 家族以外に全く知人や友達がいない環境ではどうなるかといえば、想像上の家族が唯一のネットワークとなって呪縛的に作用することになります。
 (参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 できるだけ、しがらみのない緩い関係をたくさん持つ。趣味でもいいですし、仕事でもよいです。

 どうしても、知人や友達もいない環境で家族からの呪縛からも逃れたいのであれば、自然が豊かな環境や動物などと暮らすと良いのかもしれません。自然や動物がもたらす安心安全感が私たちの足場を作ってくれます。そこで一時リトリート(退却)して、足場ができたら、社会の中で承認が回復していくように徐々に取り組んでいく。
 

 

 私たちはクラウド的存在であるために
 悩みは心の外からやってくるし、解決の足掛かりも心の外からやってくるのです。