“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 
 
 「理屈」を一度否定して、自分の感情を感じることの大切さをお伝えしてきました。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 自分の感情、考えから発したことについては、「ただ自分がそう思う」「そう感じている」ということですから、基本的に他人を侵害しないし、他人からも侵害されることはない。

 自分の感情、たとえば、「私はそれは嫌い」「私はそれが好きだ」「それが怖い」といったことは、その人が感じていることで、他人が「そんなふうに思うんじゃない!」とか、「それはおかしい!」とは言えないものです。そんな謂れはない。
 
 
 「ふーん、そうおもうんだね」というふうに本来しかならない。

(おかしいというのは、因縁をつけないとできません。)

 

 一方、「理屈」がついた場合は違います。

 「それは、~~だからおかしい」とか、「それは、~~するべきだから、なくさないといけない」といったことについては、「理屈」を通じて他人を侵害し、その「理屈」に反論されたりして、侵害されるおそれがあります。

 なぜなら、「理屈」によって、人間一般のことに話題が持ち上げられているから。「自分は人間一般(という架空の概念)から見て正しい存在だ。反対にあなたはおかしい」という争いになってしまうのです。

 

 自分の感情から発しているだけであれば、「人はそれぞれ違う」という前提があり、各人が独立した領域を保った状態で互いに越境し合うことがありません。

 ※国と国とが互いに異なる文化があり、どっちがいいとは言えないのと似ています。どちらが優れているというためには一般化する理屈が必要で、たとえば昔であれば「中華思想(華夷の別)」であったり、近代以降であれば「啓蒙思想」「人種主義」であったり。

 

 

 感情から発しているように見えても、言語化されていないだけで、暗に「理屈」がついている場合もあります。たとえば、相手を攻撃するために、「私はそれが嫌い」という場合。言葉には出していませんが、「私はそれが嫌い」ということのあとに、(あなたはおかしい)という言葉がついていたりする。

 この場合も、相手を侵害し、さらに相手から反撃される余地があります。なぜなら一般化してこき下ろそうとする「理屈」がついているから。

 

 

 相手を侵害する、あるいは、相手から侵害される ことを分けるポイントはなにかといえば、それは、“自分の”ということであるかどうか、ということがあります。
 
 相手を侵害する感情、あるいは理屈とは、ほぼ他者の感情や理屈をそのままにしている、ということがあります。

 それはなにかといえば、生きてきた中で受けた他者からの理屈や感情(≒ローカルルール)です。親や兄弟や友人など。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 しかもその理屈、感情は不全感によるものであるために、「You’r NOT OK」や「I’m OK」を得るために、比較するなどして他者を巻きこまざるを得ず、越境を引き起こします。

 それが、他者への支配、干渉といったかたちであらわれるのです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」「「You are Not OK」 の発作」 

 

 

 

 セラピーを受けたり、「理屈」を切り離し、自分の感情を感じるトレーニングなどをしていると、「自分のものと思っていた価値観は、実は親のものだったんだ?!」ということをしばしば経験します。

 “他者の”価値観、理屈、あるいは感情は、自他の別を越境し、他者を侵害していく。越境しているために反対に他者からの干渉、支配も呼び込みやすくなります。

 

 反対に、 “自分の”価値観、感情、は、他者を侵害する根拠(因縁)がそもそもありません。

 なぜなら、それらが成立するために「Im OK」と自己で完結しているためです。外に求める必要がないのです。

 

 

 アサーションのトレーニングでは、「Iメッセージ」で伝えましょう、というものがあります。「私は~ 」といった形で始める伝え方です。

 「Iメッセージ」だと、伝えにくいことも伝えられたり、相手の同意や共感を得やすくなったりするとされます。   

 

 自他の区別が保たれて、越境しないからです。
さながら、アイデンティティや基本的な物資が自足している国同士のように。

 それぞれ、「私は私」「あなたはあなた」といったかたちで、自他の別が保たれていることは、安心安全を生みます。

 安全が保たれた中でのコミュニケーションですから、安心して意見を交わすことができるのです。 

 
 多くの場合、相手が反対したり、同意しないのは、意見の内容についてではなく、自分の安全が脅かされるからです。同意すれば侵害される、と感じている。

 

 

 自分の中にある、直訳された他人の理屈や感情 を一旦すべて否定する。必要なものは自分で翻訳し直す。
 
 そして、常に、自分の「感情」からスタートする。自分の考えというときも、「好き嫌い」からスタートする。「理屈」からスタートしない。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 理屈で考えるとされる職業でも、実は「好き嫌い」からスタートしていたりします。

 将棋や囲碁の棋士も、最初に「直感」が降りてきて、後で検証するそうです。
 
 ビジネスの現場でも、コンサルタントや経営者なども、「ピンとくる」かどうかで判断していたりする。「理屈」はそれを検証するための道具でしかなかったりする。

 「理屈」からスタートすると多くの人を巻き込めなかったり、「理屈」に溺れたりするものです。

 自分の感情から発すれば、自然と「自他の区別」がついてきて、他者との関わりも侵害されない安全なものになってきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールは幼児性の表れでしかない~真に大人になるとはどういうことか?

 

 「理屈」と「感情」を分けるトレーニングのお話をしていましたら、5月1日付の日本経済新聞で、一橋大学教授の楠木健さんのコラムが載っていました。楠木教授は経営学の先生です。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

そのコラムでは、「大人の幼児化」が取り上げれられいました。

 簡単にご紹介しますと、

近年よく使われるようになった言葉に「イラッとする」というものがあり、
 それは、大人の幼児化を象徴する言葉だとしています。

 楠木教授は、幼児性には3つあるといいます。

 1つ目は、「世の中は思い通りになる」と思ってしまっていること。

 2つ目は、独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと
 
 3つ目が、他人のことに関心をもちすぎるということ。

 

 楠木教授は、子供がイラっとするのは、本来比較する必要のない他人に興味を向けて、嫉妬であることが少なくない、としています。

 さらに、その他人への興味も本当に関心があるわけではなく、自分の不満や不足感の埋め合わせという面が多いのでは、としています。
 (まさに、ローカルルールですね)

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 本来人はそれぞれの自分の価値基準で生きているわけで、他人と比較しないのが大人である、ということであり、自分は全てに優れるわけでもない。社会は相互補完しあってできている。
 
 これが社会の実態だから、全て自分の思い通りに、ということはなく、「他人を気にせず自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。」としています。   

 

 たまたま、拝見した記事ですが、まさにこのブログでもお伝えしている「ローカルルール」「自他の区別」そのものといってもよいかと思います。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 

 2つ目に上げた「独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良し悪し」にすり替えてわあわあ言うこと」は、自分の「感情」だけを感じて「自他の区別を」つけるトレーニングにも関係する話と言えます。

 
 私たちは、子供は「好き嫌い」をいい、大人は「良し悪し」という理屈を言う、と思っていますが、実はそうではありません。

 大人になるというのは、生育の過程で得た親や周囲の大人の「良し悪し」を一旦否定、相対化して、自分の形に翻訳し、自分の基準で「好き嫌い」を言えるようになることです。

 

 「好き嫌い」は、自分を超えて越境することがありません。
 
 あくまで、「自分の好き嫌い」でしかなく、他人に押し付けようとしても押し付ける根拠がないからです。

 反対に、「良し悪し」は、自分を超えて越境する誘引があります(帝国主義的と表現してもよいかもしれません)。

 「良し悪し」という理屈で語ることに慣れていると、越境すること=されることが当たり前になりますから、他者の振る舞いに気持ちを奪われたり、反対に、「良し悪し」というニセの土台に上に他者も越境してきて、自分の行為も支配しようとしてきます。

 
 楠木教授に言わせればこれは「幼児性」の現れなのです。

 

  
 筆者は、ローカルルール人格そのものと対峙したことがありますが、
  
 まさに上記の3点そのものでした。

  1.目の前の人が自分の思い通りに動いてくれないと癇癪を起こす。

  2.自分の好き嫌いをそのまま表現できず、他者に因縁(良し悪し)をつけてわあわあ言う。

  3.他人に関心をもちすぎる。嫉妬などにとらわれる。

 など

 

 

 ローカルルールとは、おそろしい大人の支配ではなく、幼児の振る舞いといったほうが適切なのかもしれません。
 (だからこそ、難しく見えて、その内実はスカスカで、もろく、それに気がつけば変えられる)

 トラウマを負っていると、「大人」というものに嫌悪感があって、永遠に若いことがなにか良いように感じる心性もあったりします。

 あるいは、妙に大人びた感じになって、人並み以上に気を使って、しっかりしなきゃ、という感覚を持っていたりする。
 さらに同時に、周りの人が自分よりもずっと成熟していて、いつも自分が未熟で自信がない、という感覚も持っていたりする。

 実はそれはトラウマ特有のもので、本来の自分の感覚ではない。
 これらは「ニセ成熟」と呼んでいる現象です。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”」「ニセ成熟は「感情」が苦手

 

 
 

 真に「大人」となるためにはどうすればよいか、といえば、頭で意識するような「大人」になることではありません。それはニセモノの大人。

 

 他人と比較し、羨んだり、いつも自信がなくおどおどしたり、反対にちょっと調子が出ると見下したり、他人の行為にすぐにイライラしたりという風になってしまう。
 
 (最近報じられているように、自粛しない人に怒りをぶつけたり、他人のSNSを炎上させたり、というのは、まさにニセの大人、幼児性によるものと言えます。)

 

 

   
 大人になるというのは、実は「無邪気さ」といったほんとうの意味で人間の根源的な要素(エネルギー)を陶冶し、自分のものとしていることであったりする。(交流分析では、フリーチャイルド といったりする要素)

 

 一見子どもに見えることが「真の大人」に通じ、一見大人に見えることが醜い「幼児性」に陥るという逆説。

 

 

 トラウマというのは、人間の根源的な要素を、他者の理屈(ローカルルール)で押さえつけられている状態、といってもよい。
 人間の根源的な要素を見た、たとえば親などが、それを羨み、おそれ、あるいは不全感をぶつけて、潰してきた。
 さらに、理屈をこねて、人間の根源的な要素を抑えることが「大人」なのだとしてきた、ということ。

 その理屈は、単なる親の幼児性(ローカルルール)の表れでしかないために、真に受けた当人も、大人になったら他人に「理屈」をつけてイライラする事が止まらなくなったりするのです。

 

 

 真に「大人」なるためには、「理屈」はつけず、「感情」だけを感じることを意識すること。先日お伝えしたトレーニングを繰り返す。 

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 なにか頭の中で、「そうはいっても、これは常識でしょ」というものがあっても、実は単なる親の価値観(親の幼児性、理屈)に過ぎなかったりする。

 それは一旦否定して、本当に必要なものがあれば自分で翻訳し直す。

 それは、楠木教授が言うように「好き、嫌い」で判断する、といったこと。
 

 

 そうすることが、「自他の区別」を生み、他者と比較せず自分の価値観で生きるということができるようになる。他者に無用に越境(支配)するようなことをしない、支配もされない、という真の成熟を生むのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「理屈」をつけるとローカルルールに支配される~「認知」と「思考」も分けて、さらに自他の区別をつけるトレーニング

 

 人に対するイライラで、頭がぐるぐるすることがあります。

 「もっとこうするべきでしょ!」とか、
 「本来は、~~であるはず!」とか、

 その「理屈」は、自分の中では完璧で、それが通らない相手は極端に言えば人間として認められない、くらいに相手を否定したくなります。

 

 さらに、「理屈」を重ね、頭の中でシミュレーションを走らせてしまいます。

 

 でも、いくらそうしても、イライラはさらに増すばかりで解消されることがありません。

 

 実際に、相手に怒りをぶつける場合もあります。
 説教のようにくどくどと相手に「理屈」を伝えますが、イライラはエスカレートしていきます。

 

 さらに、相手はそれで「理屈」を理解して、同じ行動を取らないのか、といえばそうではなく、逆にまた同じくこちらの神経を逆なでするようなことをする。

 「同じ行動をするなんて、どういうこと!?」とまたイライラして怒りをぶつける。
 
 
 こういう繰り返しに陥っている、というケースはよくあります。

 

 

 いくら「理屈」を展開して、相手をねじ伏せようとしても、相手に伝わることはありません。

 なぜなら、その「理屈」はイライラしている本人のものではないから。

 ほとんどの場合は、自分の両親や生まれてきた中で出会った他者の価値観を内面化(直訳)したもので、自分のものではありません。

 目の前の刺激をきっかけに解離して、「理屈」の世界に頭が持っていかれている状態。

 イライラ自身も、生育歴で得たストレスの投影なので、実は現在のものではなく、過去からくるイライラだったりする。

 そのため、イライラされている相手も、無意識にそのことをキャッチしていますから、

 「イライラされていて怖いけど、よくみたらそれは自分の責任ではないし・・」と感じています。

 

 

 展開される「理屈」も
 
 「正しそうに見えるけど、状況にマッチしていないし、言っている本人のものになっていないし・・」と直感しているのです。

 だから、イライラと「理屈」をぶつけられても、行動を変化させる謂れはないのです。

 

 

 イライラしている本人は、実は、生育歴で得たストレスと、親などのローカルルール(「理屈」)に巻き込まれていて、自他の区別を失っている状態です。

 本人は全くの正論を展開しているように見えて、実はそれは自分のものではなく、状況にマッチしたものではなかった。

 「理屈」を考えれば考えるほど、自他の区別を失い、自分の感情と価値観で生きることからは離れていってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 さらに、「理屈」で頭が持っていかれて自他の区別を失っていると、他人が展開した「理屈」(ローカルルール)にも巻き込まれやすくなります。  

 不全感を解消するために他者に因縁(「理屈」)をつけて、その「理屈」の世界でごちゃごちゃとやり取りするようなことに慣れてしまう。
 

 「理屈」で考えることが当たり前になりますから、「物理的な現実」からも離れやすくなる。ありのままにある現実に立脚することが自然とできなくなるのです。  
(参考)→「“作られた現実”を分解する。」 

 

 「物理的な現実」としての自分ではなく、「理屈」で作られて自分で生きることになるため、他人が作ったイメージや評価、言葉にも振り回されやすくなります。

 
 まさに、ブッダが悩みの原因とした「執着」の世界です。 
 
 

 

 こうした状況から逃れ、自他の区別をつけ、ローカルルールではなく、物理的な現実の世界に立ち戻るためにはどうしたらいいのか?

 それが、前回お伝えした「理屈」をつけず「感情」をそのまま感じるトレーニングです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 「理屈」は被せずに、ただ、自分の感情を感じて、それを表現する。

 それをずっと繰り返します。

 すると、自分がいかに自分のものではないものに支配されてきたかが、明確になってきます。

 徐々に自他の区別がついてくる。

 「理屈」に頭が持っていかれて、ぐるぐるとすることが減ってきます。

 

 

 さらにパート2の応用編としては、

 「認知」と「思考」とを切り離すということも行っていきます。

 たとえば、

 道を歩いていたときに、気になる人がいて、「なんだ、変な人だな」と思う状況があったとしたら、

 意識して、「認知」と「思考」を分けます。

 「男性が歩いているのを見た」(認知)

 「なんだか変な人だな、と思った」(思考)

 というふうに。

 

 別の例では、

 信号が赤になって、「しまった!信号に捕まった」と思う状況に出会ったら、

 「目の前の信号が赤になった」(認知)

 「しまった!と思った」(思考)

 というふうに。

 これを繰り返して、 「認知」と「思考」を分けていくと、漫然と自他の区別なく、環境に巻き込まれるようになっていたことがなくなり、自分の認知や感情が明確になってきます。

 

 「そういえば、このせっかちさは、父に怒られたからだな。」「父はせっかちで、いつも車の運転で赤信号になったら舌打ちしていたな」といったことに気がついたりもします。

 「あっ!自分の考えと思っていたものは、父の価値観だったんだ?!」と気がつくようにもなってくるのです。

(参考)→「内面化した親の価値観の影響

 

 さらにローカルルールの影響から離れ、自他の区別が明確になってきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 ステイホームということが合言葉になっている昨今。
 代わりに時間がありますから、家でできるなにかを、ということで、
 「自他の区別」をつけて、ローカルルールの影響を取り除くために自分でできる方法についてお伝えしてみたいと思います。

 ストレスを解消するためにもとても有効です。

 

 
 現在、非常にストレスフルな情勢下にあります。
 誰もがイライラを感じたり、ストレスを感じることは当然のことです。

 ただ、そのストレスの解消の仕方、ぶつける対象については、かならずしも適切ではありません。

 たとえば、
 「こんな状況でもパチンコ屋に行く人はけしからん」とか、
 「政府はもっと素早く動け」「検査数を増やせ」「保障をもっと多く、もっと早くしろ」とか、著名人のツイッターでの発言にムッとしたりとか。

 

 「理屈」そのものの是非は、ここでは問題ではありません。
 政府にもたくさん問題はありますし、パチンコ屋に行くことがふさわしいかについても同様です。

 「理屈」の中身の妥当性ではなく、私たちが感じている「感情」と、その「理屈」との組み合わせが適切なのかどうか?をテーマとしています。

 

 結論から言えば、99.9%の割合でミスマッチを起こしています。

 
 そして、ミスマッチを起こした状態だと、いくら「理屈」をつけても、もとにある「感情」は解消されないのです。

 イライラなどストレスはそのままとらえないと解消されません。

 

 
 たとえば、ステイホームで外出もままならない。
 せっかくの連休なのに、行楽にもいけない。

 その結果イライラが募っていますが、そのイライラの原因はなにからきているかは実は自分でもわかっていない。
 過去のトラウマ、生育歴の問題を投影している場合もしばしばです。
 

 
 よくあるのが、子どものときに「自分の意見が通らずに嫌な思いをした記憶」「友達であったり親などが思い通りに振る舞って自分が蔑ろにされた経験」「自分は我慢しているのに、兄弟(姉妹)が自分勝手なことをしていた」など。
  

 

 そのトラウマが潜んでいる中で、「自粛して自分が我慢しているのに、パチンコ屋に行く人」「自分の考えとは異なる政府や著名人の言動」を見たときに、生育歴の記憶が刺激、投影されて、「政府への怒り」「著名人の言動への怒り」「パチンコ屋に行く人への怒り」という「理屈」がついて、イライラが表に出てきます。
 (繰り返しになりますが、その理屈の是非はここでは問題ではありません。)
 

 

 
 本人は、政府のせいでイライラしている、パチンコ屋に行く人に怒っている、と思っていますが、 本当は、親や友達、兄弟、過去の自分のトラウマに対してイライラしている。

 
 その証拠に、「政府への怒り」「著名人への怒り」「パチンコ屋に行く人への怒り」という形では、イライラは解消されないはずです。
 さらにイライラが募るだけです。
 (マッチしていれば、イライラは減ります。)

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情」

 

 こうしたときには本当はどうしないといけないのか?といえば、

 「イライラ」や「怒り」だけをただ感じてみる、体感に注目しながら、「イライラする、イライラする」「怒り、怒り」とつぶやいてみたりする。

 

 あるいは、体感を感じながら、「なにが言いたいの?」と問いかけてみる。

 

 すると、「悲しい」といったように答えが帰ってきたりすることがあります。
 (感じていることや帰ってきた答えを言語化してみることが重要です。)

 

 そうして「感情」と「理屈」とを切り離していきます。

 

 「感情」をそのまま感じていると、その根源が見えてきます。

 

 根源が見えると、実は「理屈」というのは、他人からの無自覚な影響であったことも見えてきます。

 
 
 自他の区別がうまくついておらず、メディアなどを通じて他者の感情や理屈を自分のものとしていたりしていた。あるいは親の価値観を直訳して内面化していた。

 

 少し複雑ですが、現在の問題について語るメディアを見ながら、親が言うであろう文句を自分のものとしていたり。他人の評価を気にしていて、他人が言うであろう批判を先回りして自分のものとしていたり。

 その「理屈」と自分のイライラがくっついていただけだった。

 

 実は、自分の考えと思っていたものは自分のものではなく、それどころか自他の区別がうまくいっていなかったことが明らかになってきます。

 他人の「理屈」を無自覚に受け入れていると、他者に支配され自分というものは失われていきます。
 また、他人との距離が適切に取れず、他人の言葉がズバッと心に侵入してきて振り回されるようにもなるのです。 

 

 

 健康な発達の過程では、安全な環境の中で自他の区別をうまくつけることができるように自然とトレーニングを受けていきますが、不適切な環境下でそれが果たせずにサバイバルしてきた方も多いのです。

 それどころか、他人の理屈をそのまま受け入れることが、「素直」であり、「相手に合わせること」であると思い、人間関係のスタイルとなっていた。 
 自分の感情なのか、相手にものかもわからずにごちゃごちゃの中で生きてきた、ということも珍しくありません。

(参考)→「トラウマを負った人から見た”素直さ”と、ありのままの”素直さ”の実態は異なる」 

 

 

 

 さらに、「負の感情」+「理屈」のセットというのは、よく見るとローカルルールの構造ではないか?!ということにも気が付きます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 つまり、これまで自分の中で内面化したローカルルールがウイルスのように再生産され続けていた、ということもわかってきます。

 再生産されていたローカルルールが自律的に影響を及ぼす状態を「ローカルルール人格」と呼んでいます。

 こうしてストレスによる機能障害が続くのがトラウマです。

 「自他の区別」というのローカルルールの影響を取り除いたり、悩み解決のためのキーポイントになるものです。
 

 日常でも、負の感情を感じたら、「理屈」を被せる前に、「感情」をただそれだけで感じて見るようにする。

 これを繰り返すと、感じている「感情」の根源が見えてくることでストレスが解消されやすくなりますが、なにより、自分そのものと、そうではないもの(他者の影響)に自覚的になり、区別する習慣ができてきます。

 

 自他の区別をつけるためには、なにが自分のもので、なにがそうではないかを自覚することが大切です。
 その上で、自分のものではないものを否定する。自分のものだけを感じる。
 

 まとめると、

 1.イライラなど、感じているストレスや感情を取り上げる。

 2.頭で考えているそのストレスの原因(「理屈」)はいったん脇に置く。
 
 3.ストレスそのものを感じる。

   身体のどこで感じているのか?どのように感じているのか?
   
   その際に、  
    ・その感じを取り出してみて、自分の手の上においてみても良いです。どんな形でしょうか?どんな大きさでしょうか?どんな色でしょうか?どんな肌触りでしょうか?
    ・そのストレスに名前をつけてみてください。

 

   取り出さないパターンもあります。
    ・ただ感じてみてください。どんな感じなのか、言葉に出してみてください。(「イガイガ」「ふわふわ」「カチカチ」)など

   そのストレスに問いかけてみてください。「なにがいいたいの?」と。 答えは期待しなくて良いです。ただ問いかけるだけでも良いです。ふと頭の中に浮かんできたら、それがヒントになります。
  
   ヒントが浮かんできたら、それを感じてみてください。更に問いかけてみても良いです。(「どこから来たの?」といったように)

  自動的に目の前のものや人に原因を求めていた「理屈」が本当の原因ではないことに気がついてきます。「理屈」と「感情」とを分ける間隔が身につきます。

 

 4.日常でもストレスや「感情」を感じたら、「感情」だけを感じて、「理屈」は常に脇に置くことを習慣とします。

 

 このトレーニングは本来の自分を取り戻すことにつながります。

 よろしければ、ステイホームの期間にでもお試しください。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について