ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す

 

 ローカルルールとは、実は単なる個人の不全感でしかありません。
 不全感をそのまま表明せずに、そこに「理屈」をつけて、覆い隠して相手を巻き込むものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 しかも、それ自体は不全感でしかないために、「I’m OK」としては成立できません。そのために、「You’r NOT OK」を重ねて、他者に因縁をつけて、否定することでようやく成立するのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 しかし、本来は、人はみな異なります。たとえ同じ日本人であっても、人は異なる考え、価値観で動いていて、ある人の価値観が、他者よりも優れているという保証はどこにもありません。すべて並列。
 

 

 そのため、ある人がある人を裁く、批判するという権利は本来ない。とても僭越なことです。批判する根拠がどこにもないのです。
 できるのは、自分も他者と並列でその価値観も大したことはない、というわきまえのもと、自分の考えとして、戯れに独り言のようにいうことくらいまで。
  

  
 その僭越でおかしなことをしないとローカルルールは生存することができません。(まるでウイルスのようです)

 そこでローカルルールは「(ニセの)人間一般」あるいは、「(間違った意味で)常識※」という架空のニセの概念を持ち出します。

 「人間一般は~だ」「これが普通だ」という形を持ち出します。

 さらに、「自分はその人一般に属している」「普通を代表している」として、「自分にはあなたを裁く権利がある」と飛躍した理屈で因縁をつけようとします。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 ローカルルールの被害を受ける側に、心の隙間のように「自分は普通とは違うかも?」とか、「おかしいかも?」といった気持ちがあると、そこをスパイクとして、ローカルルールは侵入してきて(真に受けて)内面化しています。(さらにウイルスのようです。)

 ハラスメントとはこうした構造でなりたっています。

 

 ※真の意味での常識とは、人はそれぞれ異なるということ(多様性、多元性)を尊重するためにあります。本来、常識は私達を守ってくれる拠り所になるものです。間違った使い方をするケースは、自分のローカルルールを「常識」とよんでいるだけです。
 

 

 ローカルルールから逃れるためには、自分自身も「(ニセの)人間一般」という概念があると考えていないかは、チェックが必要です。
 
 それ自体は当たり前に見えて、そのニセの概念が橋渡しとなり、ローカルルールは入りこんできますし、自分自身がイマイチ「自他の区別」がつかない原因ともなっています。

 

 先日お伝えしたトレーニングは、こうしたニセの概念を壊すためでもあるのです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

“たまたま”を「因果、必然」と騙る~「自分だからハラスメントを受けた」はローカルルール

 

 ”作られた現実”の代表的な事象はハラスメントの被害にも見られるのではないかと思います。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 最近、ハラスメントの被害を受けた、と訴える有名人のニュースをよく目にします。

 あんなに快活なようにみえるスポーツ選手が、関係者からいじめにあっていたりしたんだ、と驚いてしまいます。

 

 乙武洋匡さんも、一時、教師をしていた際に赴任先で同僚の教師からいびられて、とても嫌な思いをした、ということをTV番組でおっしゃっていました。

 USJを再建して有名になった森岡毅さんも、P&Gで働いていた際に、米国本社で現地の社員にとても激しいいじめにあって苦しんだそうです。
 自分だけ会議の案内といった情報が来なかったり、面罵されたり、大変な思いをしたそうです。

 歌手の和田アキ子さんも、新人の頃、楽屋で先輩から辛いいじめにあったそうです。
 

 臨床のあるあるかもしれませんが、野球部など運動部に属していたという人に「いじめにあったか?」とたずねると、かなりの確率で「部でいじめられていた」と答える、と聞いたことがあります。
 
 

 

 こうして、いろいろな人のハラスメント経験を聞いて改めて思うことは、「ハラスメントはどこにでもある」そして、「ハラスメントの対象となるのは、やはり、たまたまだ」ということです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 わたしたちは、「自分だから、ハラスメントを受けた」「ハラスメント受けた理由の一端は、自分の言動や性格の不備にある」と思いがちです。

 

 しかし、それらは全くの間違い。それ自身が刷り込まれたローカルルールである、ということです。

 ローカルルールとは、常識を騙った私的情動です。
 私的情動であることがバレたら、成立しなくなります。
 最もな理屈をつけて正統性を偽装し、巻き込み、相手に真に受けさせることが不可欠なのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 物理的な現実は「たまたま」なのですが、「たまたま」では都合が悪い。

 そのために、「お前だからハラスメントを受けて当然だ」とか、「これは常識なのだ」という“現実(ローカルルール)”を作り上げをわたしたちに投げつけてきてきます。

 昔、学校などでいじめを受けた、という人にとって、何より影響を及ぼしているのは、当時のダメージよりもむしろ、「わたしだったから(因果、必然)」という感覚ではないかと思います。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」 

 

 わたしたちが、過去の嫌な記憶を思い出して、「自分だから、あんな目にあったんだ」「イケている他の人だったら、あんな目には合わなかったはずだ」
「他に人からは人気のあるあの人からハラスメントを受けた、ということは相手がどこか正しいに違いない」とか、そうした思いは単なるローカルルールによる“思い込まされ”なのです。

 

 いじめとか、嫌がらせというのは、その行為自体だけではなく、「あなたのせいだ」「あなただからこうした仕打ちを受けている」と”たまたま”を「因果、必然」と言い立てる理屈付けとセットでなりたっているものだからです。

 

 理屈づけは「おまけ」ではなく、それがなければハラスメントというローカルルールは成立しないからです。

 つまり、「因果、必然」と偽装するその理由付けは全くのデタラメだ、ということなのです。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 わたしたちが生きていく中では、必ず、このようなローカルルールによるハラスメントには遭います。それらは”たまたま”でしかない。戯れ言としてスルーしていく必要があります。

 
 作られた現実は、一つの目立つ要因を取り上げて”「因果」を騙ります。

 一方、「物理的な現実」は多要因、多次元ですから、因縁でもつけなければ言語化できるレベルに明快な因果や必然などはないのです。

 

 私たちにとって安全基地となるいわゆる”愛着”というものは、私たちに「物理的な現実」を見せることをサポートするものです。

 たとえばハラスメントにあったとしても、それを「たまたま」「あなたは大丈夫」として、ローカルルール(作られた現実)をバラバラと解体する作用があることがわかります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 反対に、先日の記事でも書きました「ニセの感情」や「俗な知識」はニセの因果や必然を補強するものであることがわかります。

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~俗な知識

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 「ローカルルール人格って本当にいるの?」と疑問に思う人もいるかもしれません。

 

  ローカルルール人格というのは、心理学や社会学などでも明らかになっている事象をまとめて表現した臨床上の概念です。もちろん、実際に存在しますし、誰でも目で見て確認したことがあります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

 たとえば、「モラルハラスメントの加害者(いじめっ子、ハラッサー)」というものについて。モラハラは本当にあるのか?ということを考えてみます。

 

 仮に整理するために、

a)概念 + b)物理的な存在 + c)現象

 の3点セットがそろってはじめて、確実にわかる、ということであるとするならば、

a)概念    (モラルハラスメントという仮説で規定) b)物理的な存在(加害者として物理的に存在していることを確認できる) c)現象    (ハラスメント行為が目で見て確認できる)

 ということで、明らかに確認できます。

 いじめっ子という存在も、「いじめ」という概念があってはじめて明確になりますが、物理的に存在し、明らかにその行為をしていることを確認できます。

 

 

 ローカルルール人格はどうか?といえば、これもはっきり目で見て b)存在 と c)現象 を確認し、実際に接することができます。

 

 みなさんも自分の目でローカルルール人格を見たことがあります。

 

 一番わかりやすいのは、最近ドライブレコーダーやスマホの普及で撮られるようになった「あおり運転」の映像。

 あれがまさに「ローカルルール人格」 録画で証拠として撮られていますね。

a)概念    (ローカルルール人格という仮説で規定) b)物理的な存在(映像で撮られている) c)現象    (映像で撮られている)

 ということで疑う余地もない、ということですね。

 

 普段は人の良いおじさん、お姉さんが、車に乗ったら人が変わる、なんていうことはわたしたちも昔から知っていました。あれがローカルルール人格。

 

 職場の意地悪な人。DVするパートナーなんかもそうです。 物理的に確かに存在します。

 意地悪な行為も目で見て明らかに確認することができます。

(最近は、モラハラ、いじめの現場も音声、動画で残るようになりました。国会議員がローカルルール人格にスイッチして、秘書に「ハゲ~~!」といった記録のもそうですね。)

 

 心理学の概念や事象は目で確認しづらいものも多いですが、「ローカルルール人格」は多くの人がその目でその存在を知っています。

 (ただ、当事者、本人は自分がローカルルール人格にスイッチしていることがわからないことが多いです。あおり運転の加害者もしかりです。)

 

 

 筆者ももちろんローカルルール人格と直接接して話をしたことがあります。 あるときは、ローカルルール人格が暴れてカウンセリングルームの机を蹴られたこともあって、その証拠が今でもヘコミとなって残っています。

 

 ローカルルール人格とは、ローカルルールを内面化した内的要素のことです。 ローカルルールが伝染する、というのは社会学者などによって指摘されていることで、歴史的にも様々な事件で見られる現象です。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 最近起きた教師間のいじめなども、まさに異常な現象がおきるのは、ローカルルールというものが存在するからです。 保護者からは評判が良かったらしい先生がおかしくなってしまう、というのもこうしたことからです。

 

 人間は誰もが、人格が分かれている、というのは解離の研究や、性格の研究、脳科学の研究などでは当たり前に指摘されていることです。

(参考)→「解離性障害とは何か?本当の原因と治療のために大切な8つのこと)」

 わたしたちが使っているPCやスマホも、アプリやプログラムが複数動作していますが、わたしたちはまさにあのような感じです。

 

 

 人間の脳とは、社会的脳といって、複数のモジュール(ネットワーク)から成り立っているといわれています。

 アメリカの心理学者マイケル・S・ガザニガなどが提唱している仮説です。人間は一枚岩ではなくて、複数のネットワークがいつも並行して動いているような存在です。

 

 

 性格検査というものも科学的には根拠がないとされます。関係や場面によって現れる性格が異なるからです。 (社会心理学者が書いた「あなたはなぜ変われないのか 性格は「モード」で変わる」(ちくま文庫)に詳しいです。)

 複数のモジュールが常に動作しているのが人間というものの姿です。

 

 

 作家の平野啓一郎さんは、「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」(講談社現代新書)という本を書いています。 私とは、一つの個人ではなく、分人の集まりであるということです。

 

 人間というのは、社会の規範を意識・無意識的に内面化して社会に適応していきます。”内面化”というのは頭で理解して、というレベルではなく、まさに「そのものになるように」「染まるように」適応していく。

 

 社会の規範というものが、本物の社会であればよいのですが、人間はしばしば、ローカルルールというニセの規範を生み出すことがある。 これも、人間が社会的な動物であることに由来します。

 社会的であることを悪用して、自分の不全感をごまかして、ローカルルールを生み出してしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 だから、いじめのような卑劣な現象が生じたり、ストレスがかかると常識的な人が急におかしくなって失礼なことを言い始めたりもする。

 ローカルルールも、頭で知識として格納されるのではなく、まさに染まるようにわたしたちに影響します。内面化されたものは、人格単位で適応し、内外に影響します。それが「ローカルルール人格」というものです。

 

 

 ローカルルール人格という存在を意識してみると、自分が被ってきた理不尽な事象がスッキリ解釈できたり、自分自身についても、それまで動かなかった悩みも改善が期待できたりする。

 例えば、多重人格の研究では、人格が変わると、体質も変わってしまうことが明らかになっています。 (F・パトナム他「多重人格障害-その精神生理学的研究」(春秋社)

 人格が変わると、実際に薬の効きも変わったりする。薬には薬耐性など、体質的に効かない人がいる。

 

 

 

 だとすると、遺伝子コードが効かない、セラピーが効かない、という場合、人格がスイッチして体質を変えているとしたら・・?

 これまでいろいろのなことをしてみても良くならない、という方は、カリスマカウンセラーが「こんな新しい手法を考えました」と新しい方法を持ってきても、人格がスイッチして邪魔しているのなら、「何をしても効かないんです」ということになりかねない。

 

 上にも書きましたが、性格検査も、社会心理学では意味がないとされている。 性格もモードによって変わるためです。人格を一つとしていては、その人を捉えられないのです。

 そうであれば、セラピーも人格を一つ、としていては意味がなくなってしまうのかもしれない。まさにセラピーで扱うはずの心理や人格が場面場面で変わってしまうのですから。

 

 

 そうではなく、私たちは分人であること、「人格(のスイッチ)」ということそのものに注目してみたら、どうだろうか。

 もしかしたら、「効かない」ということの首根っこも押さえることができるのではないか? もっと、効くようにできるのではないか?

 

 ローカルルール人格に注目すると、そんな面白いこと(変なこと?)も考えられる。

 

 

 このように人格(ローカルルール人格)というものに着目してみると、たいへん便利ですし、皆さんの身の回りのさまざまな事象を捉えたり、難しい悩みを解決することに役立ちます。

 

 人間は単に”解離しやすいサル”であり、ローカルルールの中にいるからすごく巨大に見えていただけだ、そして、自分も弱く感じられていただけだ、ということがわかってきます。これまでは得体のしれない感じがしていた事象や人が怖くなくなってくる、なんだこんなものか、と感じられてきます。

 

 わたしたち人間は、現実や社会を適切に捉えることができれば、悩みを自然と修正する力がある、ということなのでしょう。「ローカルルール(人格)」という発見はそのためのとても便利な道具です。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

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恐れる必要はない

 

 

 トラウマによって引き起こされることで一番大きなことは、やはり対人恐怖ではないかと思います。

 人というのが、何を考えているのかわからず、裏で恐ろしい企みをして、自分を貶めるような感覚が襲ってきます。

 動じない人を見ると怖くなったり、

 幸せそうな人を見ても脅威を感じたりするようになります。

 精神的に強いや安定している人は皆、サイコパスのように感じられたりする。

 わけのわからないことを言う人は、何やらとてつもない策略をもっているように感じてしまう。

 

 その根本にあるのは、理不尽な家族との関わりです。

 

 自分の全てを見抜いた上で、自分にとって嫌なことをしてくるように感じる。意味深なことを言ってきて、自分を縛る。

 

 不気味な怖さを感じてしまいます。

 たしかに、モラルハラスメントを仕掛けてくる人が狡猾さをもっていることは事実です。なかなか侮れない。気のせいではない。

 

 しかし、それはローカルルールの世界においてのみ成立する、ということです。

 

 いじめなどもそうですが、いじめられている空間においては、狡猾さは完璧に見え、そこから自分は逃れられないような気がしてしまいます。加害者は全てを掌握し、支配し、自分のすべてを知りぬいた上でハラスメントを仕掛けてくる感覚があります。

 

 ただ、常識の光が照らされて、ローカルルールの魔法が解けるや嫌な、や児戯に等しい異常さや、拙さがそこにあるだけということが見えてきます。

 

 呪縛されている間は完全なものに見える、
 ローカルルールというのは、そうした性質があります。

 
 なぜかといえば、
 「ルール」という言葉が含まれるように、ルールというものを悪用しているところにその理由があります。

 

 かくれんぼでも、トランプでも、草野球でもそうですが、その遊びをしている間は、わたしたちはそこで決められたルールを絶対のものとしています。

 その世界で没頭しています。ルールは強制力を持ち、それに従って過ごします。

 

 もし、遊びの世界で”王様役”というものがあれば、本当に王様のように振る舞い、皆それに従います。

 さながら小宇宙のようであり、それがすべてのように感じられます。

 しかし、遊びが終わるやいなや、それは雲散霧消してしまい、もとの常識の世界へと戻っていきます。

 「ルール」には、かんたんに小宇宙を形成する力があるのです。
 
 

 たとえば、理不尽な親や上司がとてつもなく狡猾に見え、賢く見え、自分が弱々しく見えるのはなぜか、といえば、それはローカル”ルール”の世界にいるから。

 ルールから外れれば、小さな、年老いた親がそこにいるだけ、だったりする。

 相手を騙すような頭の良さもなければ、能力もない。
 

 

 考えてもみてください。

 もし本当に悪魔のような狡猾さがあるのであれば、政治家か、社長にでもなって、もっと世の中で大活躍しているはずです。
 実際はそんな知力も、能力も持ち合わせてはいない。

 

 強く、したたかに見える加害者(親や上司や、パートナーや、知人)は能力が高いわけではありません。

 強く見えるのはローカルルールの世界の中で、ルールの大本を握っているから、そう見えるだけです。 
 それは、ごっこ遊びの世界で王様役の人がいろんな事ができるように見えるのと同じ。本当は大した能力など無い。

 大切なのは、「恐れない」ということです。

 恐れる、というのはルールに同意する、協力する、ということ。

(参考)→「「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 単に「恐れるな」といえば道徳になってしまい、「そんなの無理」となりますが、上にも書きましたが、相手はそんな力はない、という事実を知ることです。

 

 人間というのは大した能力を持ち合わせている人は、100万人に1人くらいしかいません。

 私たちの周りにいる人で、そんな力のある人はいません。
 

 「いや、いますよ。うちの親(上司)がそうで・・いつも私を狡猾に支配してくるんです」というのは、ローカルルールというニセの小宇宙の中でだけの力だということです。

 

 「裸の王様」の話のように、同意する人がいなくなれば、王様は単なる裸の人になってしまうものです。

 そのことがわかるだけでも、ローカルルールはこわれていきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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