ローカルルールには、「私」がなく、「私」が苦手

 

 前回までの記事で見ましたように、
(参考)→「自分を出したほうが他人に干渉されないメカニズム」  

 「私」というものを曖昧にすると、他者から干渉されやすくなります。
 人間は社会的な動物ですから、権利の所在が明確なものには干渉することはとても難しく、反対に、所在が曖昧だと、干渉されても抵抗することはなかなかできません。

 そして、「私」を曖昧にすることはローカルルールのありようと似たものになります。

 

 ローカルルールとは、私的情動であるにも関わらず、それが一般的なルール、常識だと騙るということです。

 「私」というものの存在を後ろに隠すことで、社会の中で他者に対する影響力(支配)を持たせようとしているのです。
 
 あたかも生命体かどうかも定かではないウイルスが他の生命体への感染力をもつのと似ています。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールは、他者の「私」も消そうとします。

 

 ローカルルールの影響から自分を守ろうとする側も、いつの間にかローカルルールと同じ構造をもつようになってしまうのです。

 

 ローカルルール:     私的情動を隠す  +  ニセの常識、ルールでコーティング

 
 恐れからくる回避・防衛: 私を隠す     +  常識や一般的なルールで防御線を張る

 つまり、わたしたちが無意識に行う回避・防衛もローカルルールに影響された営みである、ということです。

 現実には足場のない、所在の怪しい一般的なルールや常識についての問題になっていますから、権利の所在が曖昧になり、他者から干渉されやすくなります。

 

 おもしろいことに、
 実態としては、単なる私的情動でしかないローカルルールには主体性、「私」というものがありません。

(参考)→「ローカルルールは自分のことは語れない。

 

 一方、公的環境において、自他の区別が明確な言動には、「私」があります。

(参考)→「“自分の”感情から始めると「自他の区別」がついてくる

 

 「私」を隠せば隠すほど、ローカルルールとは噛み合わせがよくなり、支配されやすくなります。
 
 反対に、「私」を明示すればするほどに、「私」のない状況を利用しているローカルルールにとっては、都合が悪いのです。
 

 トラウマを負っていると、自分が社会、周囲から受け入れてもらうためには、自分を抑えて殺して、周りに合わせなければいけない、と思っていますが、それは全くの逆だ、ということです。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 公的環境とは、健全な愛着を土台に、自他の区別をつけた「私」によって生み出されるものです。

 「私」の範囲、程度がわかっていますから、そこには、無理もないし、わきまえがあり、他者への干渉もない。

 
 反対に、私的領域は、「私的」とついていますが「私」はありません。範囲や程度がわからず、わきまえもなく、帝国のように他者に干渉しないと、生きていくことができません。

 
 ハラスメントを防ぐ公的環境とは、「私」を明示することから生まれてくる、ということを頭においておくだけでも自分を取り巻く環境は変わってきます。
 
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

主体性や自由とは“無”責任から生まれる。

 

 マックス・ウェーバーという政治学、社会学者の著作に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というものがあります。

(参考)→プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 

 とても有名な著作ですが、そのなかでウェーバーは、資本主義の精神の土台となったものの一つは、プロテスタントの「予定説」ではないか、という仮説を提示しています。

 キリスト教は一神教で、全知全能の神が世の全てを作ったとしています。それを予定説といいます。

 そのため特にプロテスタントに、「自由意志」という概念は基本的にありません。なぜなら、今私達が考えていること、感じていることも神がすべて決定し、予定しているものだから。
 人間が自分で自由に決めて考えているわけではありません。

 「予定説」とは、この世の中のことや私たちの人生、審判の日に救われるかどうかも全てをあらかじめ決められているということです。

 

 すべてが決まっているのでしたら、無責任になってしまい、「頑張っても意味ないや」と堕落してしまいそうですが、人間とは不思議なもので、そうはならないとウェーバーは考えます。

 

 反対に、全てが決まっているからこそ、自分が神から救われる側の人間であることを証明しようとして勤勉に努力する、というのです。
 そうした勤勉さが資本主義の精神の土台となった、とするのです。

 

 
 この説は、発表された当初から批判もあり今でもありますが、その意義を認める学者も多くいます。
 社会科学では古典であり、基礎とされるテーゼです。心理学でも、実験で妥当性を検証した研究を筆者も見たことがあります。

 

 アメリカ人などが代表的ですが、自由主義や自助の精神も、その現象とは反対に、自由意志などなく最初から全てが神様に決められているということからスタートしている、というわけです。

まず、すべての責任を神が背負ってくれるから(人間に責任がないからこそ)、人間は主体性を持った近代人として生きていけるという逆説。

 

 
 このことは私たちの悩みを解決し、主体性を持って自分らしく生きるためにもとても大切な視点だと考えます。
 

 たとえば、私たちは悩みにあるとき、それが自分の責任であると考えて解決に努めます。

 しかし、トラウマを負った人の特徴として、この世界の中で自分で頑張るしかないという考えが強く、努力しますが、うまく行かずに社会に適応できなくなる、ということが起きている。  
 自分が自由に決めれるとして頑張れば頑張るほど、うまくいかなくなるのです。

 

 依存症の方も、その特徴として罪悪感の強さが挙げられますが、頑張れば頑張るほど、足が沼にめり込むように依存に陥っていく。さらに、そのことを社会的に責められて、という悪循環に陥ってしまう。

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 なぜか、といえば、いったんニセの責任をすべて引き取ってくれるメカニズムがないままでは人間は主体的に生きていくことなどできないからです。

 そのメカニズムは、一般的には、神という宗教的なものではなく、「愛着」や「ストレス応答系」が予定説の代わりを引き受けてくれると考えられます。

 

 
 愛着が安定している人は社会にうまく適応することができるとされますが、なぜかといえば、「愛着」が安全基地として、責任などをすべてを引き取ってくれるから。「ストレス応答系」も同様で、身体の恒常性を維持しストレスを除いてくれるものです。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 「愛着」のメカニズムで大切なことの一つは「免責(無責任になれること)」の提供だと考えられます。

 ニセの責任を一旦「愛着」や恒常性維持機能が全て引き受けてくれるからこそ、主体的な“自分”というものをスタートさせることができる。

 

 社会に生きていく中で、他人が因縁をつけてきてニセの責任を背負わせようとしても、「愛着」が作動して「それ、私の責任じゃありません」とフィルタしてくれる。

 反対に、不安定な愛着しかなく、「全ては自己に原因がある」という考えがあると「免責」が機能せず、親のローカルルールからきたニセの責任を背負わされて、過責任に苦しむことになる。 
 解けないニセの責任をずっと果たそうと余計な努力を続けさせられることになってしまうのです。

(参考)→ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ

 

 自己啓発などでは、よく「全ては自分の責任」といった考えで展開されます。
自己啓発のほとんどは、アメリカのキリスト教などを起源としていたりするとされますが、じつは、「全ては自分の責任」という話には、そもそも前段階があった。
 それは、「すべては神様が決めている(予定説)≒責任は自分にはない(無責任)」ということを受け入れているということです。

 

 
 いったん、すべての責任を引き取るフィルタを通るからこそ、安全な環境で守られた中で、「全ては自分の責任」といって、主体的であることができる。

 安全が確保された競技場で思いっきりスポーツをするような感覚。

 反対に、すべての責任を引き取るフィルタが無きままだと、さながら、凸凹の危険な環境で戦っているような状況。

 愛着を持っている人は、安全な芝生の上で思いっきり飛んだりはねたり、転んだりできているのに、愛着のフィルタがない人は、ニセの責任の引き受けさせられて大怪我をして、人も世の中も大嫌いになってしまうのです。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 

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ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す

 

 ローカルルールとは、実は単なる個人の不全感でしかありません。
 不全感をそのまま表明せずに、そこに「理屈」をつけて、覆い隠して相手を巻き込むものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 しかも、それ自体は不全感でしかないために、「I’m OK」としては成立できません。そのために、「You’r NOT OK」を重ねて、他者に因縁をつけて、否定することでようやく成立するのです。

(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 しかし、本来は、人はみな異なります。たとえ同じ日本人であっても、人は異なる考え、価値観で動いていて、ある人の価値観が、他者よりも優れているという保証はどこにもありません。すべて並列。
 

 

 そのため、ある人がある人を裁く、批判するという権利は本来ない。とても僭越なことです。批判する根拠がどこにもないのです。
 できるのは、自分も他者と並列でその価値観も大したことはない、というわきまえのもと、自分の考えとして、戯れに独り言のようにいうことくらいまで。
  

  
 その僭越でおかしなことをしないとローカルルールは生存することができません。(まるでウイルスのようです)

 そこでローカルルールは「(ニセの)人間一般」あるいは、「(間違った意味で)常識※」という架空のニセの概念を持ち出します。

 「人間一般は~だ」「これが普通だ」という形を持ち出します。

 さらに、「自分はその人一般に属している」「普通を代表している」として、「自分にはあなたを裁く権利がある」と飛躍した理屈で因縁をつけようとします。

(参考)→「目の前の人に因縁をつけたくなる理由

 

 

 ローカルルールの被害を受ける側に、心の隙間のように「自分は普通とは違うかも?」とか、「おかしいかも?」といった気持ちがあると、そこをスパイクとして、ローカルルールは侵入してきて(真に受けて)内面化しています。(さらにウイルスのようです。)

 ハラスメントとはこうした構造でなりたっています。

 

 ※真の意味での常識とは、人はそれぞれ異なるということ(多様性、多元性)を尊重するためにあります。本来、常識は私達を守ってくれる拠り所になるものです。間違った使い方をするケースは、自分のローカルルールを「常識」とよんでいるだけです。
 

 

 ローカルルールから逃れるためには、自分自身も「(ニセの)人間一般」という概念があると考えていないかは、チェックが必要です。
 
 それ自体は当たり前に見えて、そのニセの概念が橋渡しとなり、ローカルルールは入りこんできますし、自分自身がイマイチ「自他の区別」がつかない原因ともなっています。

 

 先日お伝えしたトレーニングは、こうしたニセの概念を壊すためでもあるのです。

(参考)→「感情は、「理屈」をつけずそのまま表現する~自他の区別をつけて、ローカルルールの影響を除くトレーニング

 

 

 

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“たまたま”を「因果、必然」と騙る~「自分だからハラスメントを受けた」はローカルルール

 

 ”作られた現実”の代表的な事象はハラスメントの被害にも見られるのではないかと思います。

(参考)→「「物理的な現実」に根ざす

 

 最近、ハラスメントの被害を受けた、と訴える有名人のニュースをよく目にします。

 あんなに快活なようにみえるスポーツ選手が、関係者からいじめにあっていたりしたんだ、と驚いてしまいます。

 

 乙武洋匡さんも、一時、教師をしていた際に赴任先で同僚の教師からいびられて、とても嫌な思いをした、ということをTV番組でおっしゃっていました。

 USJを再建して有名になった森岡毅さんも、P&Gで働いていた際に、米国本社で現地の社員にとても激しいいじめにあって苦しんだそうです。
 自分だけ会議の案内といった情報が来なかったり、面罵されたり、大変な思いをしたそうです。

 歌手の和田アキ子さんも、新人の頃、楽屋で先輩から辛いいじめにあったそうです。
 

 臨床のあるあるかもしれませんが、野球部など運動部に属していたという人に「いじめにあったか?」とたずねると、かなりの確率で「部でいじめられていた」と答える、と聞いたことがあります。
 
 

 

 こうして、いろいろな人のハラスメント経験を聞いて改めて思うことは、「ハラスメントはどこにでもある」そして、「ハラスメントの対象となるのは、やはり、たまたまだ」ということです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 わたしたちは、「自分だから、ハラスメントを受けた」「ハラスメント受けた理由の一端は、自分の言動や性格の不備にある」と思いがちです。

 

 しかし、それらは全くの間違い。それ自身が刷り込まれたローカルルールである、ということです。

 ローカルルールとは、常識を騙った私的情動です。
 私的情動であることがバレたら、成立しなくなります。
 最もな理屈をつけて正統性を偽装し、巻き込み、相手に真に受けさせることが不可欠なのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 物理的な現実は「たまたま」なのですが、「たまたま」では都合が悪い。

 そのために、「お前だからハラスメントを受けて当然だ」とか、「これは常識なのだ」という“現実(ローカルルール)”を作り上げをわたしたちに投げつけてきてきます。

 昔、学校などでいじめを受けた、という人にとって、何より影響を及ぼしているのは、当時のダメージよりもむしろ、「わたしだったから(因果、必然)」という感覚ではないかと思います。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」 

 

 わたしたちが、過去の嫌な記憶を思い出して、「自分だから、あんな目にあったんだ」「イケている他の人だったら、あんな目には合わなかったはずだ」
「他に人からは人気のあるあの人からハラスメントを受けた、ということは相手がどこか正しいに違いない」とか、そうした思いは単なるローカルルールによる“思い込まされ”なのです。

 

 いじめとか、嫌がらせというのは、その行為自体だけではなく、「あなたのせいだ」「あなただからこうした仕打ちを受けている」と”たまたま”を「因果、必然」と言い立てる理屈付けとセットでなりたっているものだからです。

 

 理屈づけは「おまけ」ではなく、それがなければハラスメントというローカルルールは成立しないからです。

 つまり、「因果、必然」と偽装するその理由付けは全くのデタラメだ、ということなのです。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 
 わたしたちが生きていく中では、必ず、このようなローカルルールによるハラスメントには遭います。それらは”たまたま”でしかない。戯れ言としてスルーしていく必要があります。

 
 作られた現実は、一つの目立つ要因を取り上げて”「因果」を騙ります。

 一方、「物理的な現実」は多要因、多次元ですから、因縁でもつけなければ言語化できるレベルに明快な因果や必然などはないのです。

 

 私たちにとって安全基地となるいわゆる”愛着”というものは、私たちに「物理的な現実」を見せることをサポートするものです。

 たとえばハラスメントにあったとしても、それを「たまたま」「あなたは大丈夫」として、ローカルルール(作られた現実)をバラバラと解体する作用があることがわかります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて

 

 

 反対に、先日の記事でも書きました「ニセの感情」や「俗な知識」はニセの因果や必然を補強するものであることがわかります。

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~ニセの感情

(参考)→「ローカルルール(作られた現実)を助けるもの~俗な知識

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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