自他の別を体感する方法の一つとして、「iメッセージ」というものがあります。
「iメッセージ」とは、簡単に言えばすべてを「私」を主語にしてみる、ということです。
私たちはついつい、相手の視点から語ったり、物語の作者のように神の視点に立ってしまったり、してしまいがちです。
想像力という人間が持つ機能ですが、それが「自他の別」をわからなくさせ、苦しめたりもします。
本来自分にできること、範囲は「私」しかありません。
例えば、職場で嫌な人がいたら、
「あの人は、~~だから、~~すべき」といったような考えや文句が浮かんできます。
「あの人は~」の文章は、相手の視点や、あるいはニセの神様の視点に立っています。
私が思っていることと、相手の在り方についての話とがごっちゃになっていて自他の別を越えています。
相手の問題と自分の問題が混合されてしまっています。
そして、自他の別を越えていることを正統化するために、無理やり「すべき」という論拠を持ち出さなければならなくなって道義的にも苦しくなります。
一方、「iメッセージ」になると
「私は、あの人の~~が嫌です。」
「~~してほしいと、私が思っています。(でもそれは、相手の領分です。)」
という風になります。
最初の文は、完全に自分だけで完結することができます。
2番目の文は、も自分の要望で思うのは勝手です。ただ、実行してくれるかどうかは、相手次第になります。
「iメッセージ」で始めると、驚くほど自分がかかわれる範囲は限定され、狭いことが分かります。
いわゆる成熟すると、自然と「iメッセージ」となっていきます。
相手にもいろいろな事情があるということを知りますし、
自他の別を越えて結局何もよいことがないことを学んでいきます。
いじめの研究などで指摘されますが、
クラスのメンバーが固定されて閉鎖的な小学校、中学校などでは、「ローカルルール」が支配しやすくなります。
「あの人は、~~だから、~~すべき」といった考えになりやすく、いじめの温床となります。
(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
一方、大学などになると、よほど公共のマナーを違反するような行為でなければ、他者に対しても関心を向けず、「私」が主語(「iメッセージ」)になりやすい。
大学の大講義室で、特定のメンバーに目をつけて「あの人は、~~だから、~~すべき」などと思っていたら、かなり妄想的といえるでしょう。
しかし、状況が閉鎖的になると、職場、家庭、街中でもこうした妄想的なことをしてしまいます。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」ではありませんが、マネー違反は公共(カエサル=皇帝≒公共)に任せて、神(相手のこと)は相手の領分です。
ニセ神様のようになって、相手の領域を侵犯して、相手を裁くことを正当化する行為はかなり異常だということが分かります。
私たちは弱く、すこしのきっかけで解離してしまって、そうしたことに陥りやすい。
とくに、「あの人は~」で考え始めると、頭がグルグル回って止まらなくなります。
そのため、「iメッセージ」で考える癖をつけることはとても役に立ちます。
→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
●よろしければ、こちらもご覧ください。