先日、サッカー日本代表の試合を見ていました。
いつものメンバーとは違い急造チームだったためか、連携もうまく取れておらず、ミスも多い。
もどかしい試合展開でした。
見ていると、
「なんで、そこでミスをするんだ」
「どうしてこの選手が先発なんだ」
といったことが頭で沸いてきます。
ただ、そうした頭で沸いてきたことを客観的に眺めながら、ふと、自分のしていることへの疑問がよぎりました。
「ああ、意識で判断しているな」と。
すると、
「監督が何か意図があるのかも?」とか、
「この選手も何か理由があってうまくいっていないのかも」
「選手を身近で見ているのは監督だから、起用されるには意味があるんだろうな」
「なのに、意識で判断するのって、おかしいな」
と判断を打ち消すようなカウンターとなる疑問も浮かんできます。
優れた監督であれば、どうとらえるのだろうか?と本質について考えるようになってきます。
そうしているうちに気が付いたのは、
「最初に頭に浮かんできたことって、「判断」うんぬんというよりも、”ダメ出し”なんじゃないか?」ということです。
単に、判断する、しない、といった高尚な段階ではなく、そもそも”ダメ出し”というプロセスが常に頭にあって、それが物事をありのままに見えなくさせているんだ、ということに気づきます。
判断しないようにしよう、とすると難しくてできなくなりますが、それ以前の”ダメ出し”が問題なのだということです。
普段、自分を責める声だったり、恥ずかしさがわいてきたり、というのも、判断というようなこと以前にダメ出しが頭を支配している。
人間というのは、一枚岩ではなくて、複数のモジュール(プログラムや人格のようなもの)で出来ているということが分かってきています。
モジュールというのは、育ってきた中での規範や周囲の声を内面化したものです。
例えば、親が批判的であったり、厳しかったりすると、よい子であればあるほど、優等生としてそれを内面化しますから、大人になるにつれて苦しむようになります。
例えば強迫的な”ダメ出し”が沸いてきて、周囲との人間関係が悪くなったり、頭の中が騒がしくなってしんどくなるということが起きてきます。
クライアントさんでも、頭の中で自分や他人への”ダメ出し”が止まらずに苦しんでいる方は少なくありません。
それらを、無意識とつながることで、ではなく、妄想やファンタジーで何とかしのいだり、リストカットなど外部からの刺激やマヒでごまかしたりしてしまうのです。
無意識は「判断」しないか、といえば、「判断」している、と思います。
例えば、ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」では、古代の人々は、無意識のみで生きていた、という仮説が紹介されています。
無意識のみで生きるといっても、酩酊状態というわけではなく、危険を察知して避けたり、何かを「判断」したりはしていたことでしょう。
では、偽の判断、と本来の判断との違いは何か?といえば、まず、ノイズがないこと、”ダメ出し”というプロセスが排除されていること、といえます。
一級の哲学者や科学者が、表面的な常識や思い込みを排して、物事の本質をとらえますが、まさに、あのような感じではないかと思います。
冒頭のスポーツの例でいえば、優れたリーダーの在り方もそうだと思います。
優れたリーダーは、意識で沸くダメ出しにとらわれず、例えばマスコミの声がうるさくても、まず、本質をとらえようとします。
例えば、そのサッカーの試合であれば、選手のいい悪いということではなくて、
・システムの問題点
・どこを改善すればいいのか
・(うまくいっていなくても)その選手の強みを探して発揮できるようにする
・そもそも、この試合の長期的な意図
といったことを冷静にとらえます。表層的に目の前の人のせいにすることはありません。
現象学のフッサールは、「カッコでくくる(エポケー)」と言いましたが、私たちが意識で漠然と持っている常識とは、これまで私たちが内面化してきた他者の意識にすぎません。
それらをいったん、カッコでくくってどこかにやってみる。
そうして心静かに待っていると、、実は、物事の本質とは向こうからこちらの思い込みをねじ伏せるように迫ってきます。
それが、無意識さんに任せる、ということではないか、と思います。
無意識さんに任せる、という行為は、悩みの渦中にある人、トラウマを負った人ほど、そのことに本質的に触れていたります。
本質的に触れている一方で、ノイズも大きいために、トータルで見ると、安定型の人、トラウマを負っていない人よりも不安定に見えて、思い込みやとらわれが多く見えているだけなのです。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
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