「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 

 人の意見を単なる意見として真に受けないなら、反対に、独りよがりになって、人間として間違ってしまうのではないか?曲がってしまうのではないか?と不安になるかもしれません。

 

 トラウマを負った人というのは、とても真面目で向上心がありします。厳しい意見も反省して自分を鍛えなければいけない、とおっしゃる方は多い。
 

 ただ、それは人間の本質や世間のプロトコル(関係の手順)とは異なって、生きづらさを生み出してもいます。
 

「反省」ということもその最たるものです。

 

 実は、人として間違うときというのは、人の意見を聞きすぎたり、それに対抗しようとしたときであることがほとんど。反省しないからではない。

 

 そもそも、人間には「反省」はできない。反省するとむしろ歪んでしまう。

 

 

 なぜかというと、人間の行動の要因というのは、とても多要因、多次元であって、その結果だけを見ると「人」が起こしているように見えますが、実際は違うことがほとんど。

 

 例えば、人が何かを盗んだ、明らかに証拠もある、というとき。法的にはその人の罪です。
 

しかし、その犯罪に至った原因は?ととらえると 

 経済状況
 養育環境
 教育
 体質、気質の問題
 社会、文化的な要因

 など、多岐にわたります。
 
貧しい国でしたら、やむにやまれず窃盗を起こすことがあります。
難しい養育環境で育った可能性があります。
教育が受けられずに、安定した職につけなかった可能性もあります。
摂食障害では、自分でもコントロール出来ないままに、食べ物を盗んでしまうことがあります。
窃盗癖という精神障害もあります。

 

 こうなってくると、原因をその「人」に単純に帰することができなくなってくる。

 

事実、無理に反省させても逆効果になることを描いたのが、元刑務官が書いた
岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間は直感的に物事の本質を把握しています。
だから、「あなたのせいでしょ?反省しろ」と言われても、腑に落ちないのはなぜかといえば、人間の直感が物事は多要因、多次元であると知り、本当の要因を察知しているから。
単要因に回帰させていることがおかしい、割り切れないということがわかっているからです。

 

 

こうしたことは統計的にも裏付けられます。
大学などで統計に触れた方はご存知かもしれませんが、社会科学においては、明らかに「AはBの原因だ」とおもうような事象でも、統計解析にかけると、影響力は3割にも満たないことがしばしば(単純に言えば10割だと100%それが要因)。
※状況によっては3割でもなかなか高い割合とされます。しかも、物事は、「因果(原因→結果)」ではなく、「相関(要素←→要素)」の関係です。

 

 

 世の中は多要因ですが、人間はかなり単純化して捉えてしまっているわけです。

 特に、「人」は「人」に惹きつけられますので、多くの場合、自他ともに「人」に原因を帰することを安易にしてしまっています。

 

 さらに、世の中では嫉妬、支配、攻撃、ストレスの処理で相手にイライラをぶつけて因縁をつけるといったノイズも多い。99%はノイズといってもよいくらい。

 本当の問題を把握するためには、ノイズもクリアにしないといけない。多くの場合、ノイズが作り出したニセの問題であることがほとんど。本当に「反省」すべきことは限られてもいるのです。

 

 こうしたことを考えると、「反省」とはなにか?「反省する」ということは、とても難しいことがわかります。結論を言えば、人間には「反省」はできない、ということ。

無理に反省をすると、帰属エラーを起こしておかしくなってしまいます。

 

 実際、皆様もいかがでしょうか?例えば、筆者の経験でも、よく考えればこれまでの人生で「反省」して自分が向上したことは基本的には一度もありませんでした。むしろ、萎縮する、抑制される感じで、良くなったとしても、それは母屋を取られた破産者のような感覚でしかありませんでした。

 

 

一方で、人間は改善したり、成長したりしてきています。

それはどうやって実現しているのでしょうか?

それは、「学習」というメカニズムによってです。

 

ハラスメント研究で知られる安冨歩教授は、
「人間社会は学習を基礎としており、学習は情動と感情を基礎としている」「学習とは、新たなコンテキストを獲得していくこと」としています

もっと簡単に言えば、
学習とは、情動、感情というような無意識的、生体的なレベルから世界との関係を更新していく作業、ということです。

 

 例えば、同じような景色を見ていても、人間の認知能力では全部を捉えきれることはできませんから、省略、削除して捉えています。
 情動に素直になってありのままにみていると、見え方、感じ方は自然と更新されていきます。

 そこに、不適切なラベルやレッテルが入ると、その「学習」は閉ざされていってしまいます。
(例えば、「そんないつもと同じ景色じゃん」とか、「あなたが感じることができるわけがない」といったようなこと)

 私達の日常の体験もそうです。
本来、失敗も成功もなく、ただ、多要因、多次元の出来事が流れていっているだけです。

 多要因のままを身体、無意識で感じ取れば、自然と身体と無意識は修正していってくれます。
フォーカシングや暴露(エクスポージャー)といった方法はまさにそれを利用しています。

 

 

スポーツ選手などは顕著ですが、一流の選手であればあるほど、私達が思うような「反省」などはしません。失敗しても自分を責めてわびたりなどしません。

野球のピッチャーなどは相手にぶつけても、負けても平然としている方がよし、とされる。

 

それで、人間としてだめになっていくか、といえばそうではなく、意識、無意識に「学習」している。
自分の身体と対話したり、あとで総合的に分析していたり。

 

本来の人間のあり方とはそういうものではないか?

 

タモリさんの有名な言葉に、「反省しない」という言葉があります。

なぜ「笑っていいともが長寿番組になったか?」と聞かれた際に、「反省しなかったから」と答えています。
直感的にそのほうが正しいと知っていたからかもしれません。

 

日常では、社会的な約束事として便宜的に、「誰かの責任」とすることはありますが、いたずらに反省しても意味はない。むしろもっと悪くなる。

 

「反省」というのはそれ自体がハラスメント的であって、人間的ではない。
 強いて言えば、すべてを知った「神」であればできるかもしれないけども、人間には扱えない行為。
 「反省は」それを悪用して、相手への攻撃、支配の道具として用いられてきた。

 

 多次元、多要因である世界を捉え、循環する自然に生きる人間に適した行為は「学習」。

 さらに上記でも書きましたが、世の中では嫉妬、支配、攻撃、ストレスの処理で相手に因縁をつけといったノイズも多い。99%はノイズ。

 だから、文句を言われたり、失礼なことを言われたりしても、真摯に承っても、そのまま真に受けない。いきなり反省したりしない。無意識に任せて、構造を捉える。

 

 実際に、明らかに自分が悪いと思わされる場面でも、催眠や筋反射を応用して無意識に聞くと「ちがうよ。悪くないよ」という答えが帰ってくることがほとんど。それは、心(無意識)が多要因を捉えているからだと思われます。

 

 

支配、ハラスメントから身を守るためにも、

「反省」ではなく、「学習」を意識する。

 

このことはとても大切なことです。

 

 

 

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幻想の構造~心理療法やセラピーも現実を知るためにある

 人間というのは、おそらくは動物の中で唯一、抽象的な概念や、想像を用いる生き物です。
そのために、高度な社会を築くことができました。

 概念や想像を共有することで、共同体の枠組み、規範や帰属意識が醸成されて社会が形成されています。
科学でも概念を操作することで、発展してきました。

 さらに、ミラーニューロンを介して人同士がつながり、抽象的な価値観が内面化されている、とも考えられています。

 抽象的な概念を用いることは大いなるメリットをもたらしましたが、同時にデメリットももたらしました。現実を回避することで、問題が大きくなってしまうこと、幻想の中に逃避してしまうことが起きることです。

 

 もともとの私たちは単なる自然物であって、そこには罪も何もないわけです。

 ただ、安心安全が脅かされて、閉鎖的な共同体が持つローカルルールを内面化したりすることで、呪縛とも呼べる幻想(「自分はダメだ」といったこと)を強く持たされてしまう。
 

 

 安定した環境で育っても、ある程度は幻想が入るのですが、安定した環境で内面化したものは、安心安全が確保されているため、多様性があり、変化可能であり、不要ならば循環して「排泄」されていきます。そして、新しい環境に合うものを獲得していくことができます。

 特に反抗期では顕著に「排泄」が行われて、親の価値観はいったん捨ててしまい、再解釈をされることになります。

 その経験があるため、社会に出ても、価値観を真に受けずに、ある程度自分で選択できるようになります。

 

 抽象的な考え、感情は、外部からもたらされます。そのために「関係」はとても重要で、私たちの判断も関係のネットワークによって支えられます。できるだけ多様で、緩やかな関係を多く持てると、安定は増しますし、安心安全があることでより良い関係を持つこともできます。

 

 もちろん、健康な成熟を見せる人も、誰しもほどほどに「幻想」を持っています。ただ、安心安全が担保されているため、多様で柔軟で選択可能性があるのです。
 意図的に、幻想と戯れたり、「ふり」をしたり、また現実に戻ってきたりすることができます。

 

 反対に、トラウマを負っていたりして不安定な場合は、安心安全がなく、さらに関係が少ないため多様性がなく、
「幻想」が信仰のようになってしまいます。
 あたかも「幻想」が、現実をふさいで窒息させてしまうような形になってしまうこともあります。

 

 さらに、「幻想」から抜けるために、さらに別の幻想を持ってこうとそして、屋上屋を重ねる、といったことになります。ますます解決から遠ざかってしまう。
 (先日の記事で書いた、「愛」「全体性」とか無限の観念をもって対抗しようとすることはこうしたことを指します。)
 実際、壮大な理想を唱えた人たちが最後は嫉妬の塊となって仲間を殺したり、テロリストになったりすることは過去の歴史的事件を特集したTV番組を見ればしばしば出てきます。

 図にすると、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛) ← 別の幻想
       

 ますます本来の自分が分からなくなる・・・

 本当は、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛)
            ↑
      これを除いて“現実=本来の自分”に触れるのがセラピーの役割。

 

 ここで、「“現実を知る”っていうと、今の自分で我慢しろ、とか」「自分は結局ダメだ、と告げられるのでは?」と思うかもしれませんが、そうではありません。

 

 例えば、イルカや、犬、自然に触れるようなセラピーがありますけど、そうしたものが教えてくれるのも、やっぱり「あなたは大丈夫」ということです。
 (人間のカウンセラーが言っても、なかなか信じてもらえませんけども・・)

 

 〝現実”のほうが面白いし、楽しいし、優しいし、美しい。

 人間が頭でこしらえた「自然」と、「本物の自然」とを比較すればわかりますが、当然、実際のほうがはるかによいものです。
 私たちは、セラピーを通じてそこに還っていく取り組みをしているわけです。

 

 仏教の「覚る(さとる)」というのも、あたかも学者のように世の中や自分をありのままに見る、というだそうです。(だから、仏教には、いわゆる神といった概念はなく、まるで唯物論みたい、といわれます。)
でも、そちらのほうが、悩みからは抜けやすいと、お釈迦さまは発見した。

 

 理屈はそうだけど、やっぱり幻想が欲しい・・
 
 という場合は、“戯れ(たわむれ)”として利用すればいいかもしれません。すこしすっきりしたら、また現実に戻ってきたらよいのではないでしょうか。

 本当に苦しい時は、幻想を希望に変えてでもしなければ立ち向かえないくらいに、生きづらいものですから。

 でも、幻想を希望にしたままでは、生きづらさからはなかなか抜けれません。だんだん「幻想」に嫌気がさしてきて、飽きてきて、「なんだ、結局、引き寄せとかなんとかいっても、そんなもの当たらないじゃないか!やめた!」「自分は自分だ」と思った瞬間からうまくいったりもするのです。

 そうしたことを、依存症治療の世界では、「底をつく」というそうです。底をついて現実に触れると、幻想がパーッと晴れて、「あれ?自分って本当は能力あるんじゃんか!?」って気がつけるようになります。
  

 

 

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判断しない(無意識に任せる)とはどういうことか?

 

先日、サッカー日本代表の試合を見ていました。

いつものメンバーとは違い急造チームだったためか、連携もうまく取れておらず、ミスも多い。
もどかしい試合展開でした。

 

見ていると、
「なんで、そこでミスをするんだ」
「どうしてこの選手が先発なんだ」
といったことが頭で沸いてきます。
ただ、そうした頭で沸いてきたことを客観的に眺めながら、ふと、自分のしていることへの疑問がよぎりました。

「ああ、意識で判断しているな」と。

 

すると、
「監督が何か意図があるのかも?」とか、
「この選手も何か理由があってうまくいっていないのかも」
「選手を身近で見ているのは監督だから、起用されるには意味があるんだろうな」
「なのに、意識で判断するのって、おかしいな」
と判断を打ち消すようなカウンターとなる疑問も浮かんできます。

優れた監督であれば、どうとらえるのだろうか?と本質について考えるようになってきます。

 

 

 

そうしているうちに気が付いたのは、

「最初に頭に浮かんできたことって、「判断」うんぬんというよりも、”ダメ出し”なんじゃないか?」ということです。


 単に、判断する、しない、といった高尚な段階ではなく、そもそも”ダメ出し”というプロセスが常に頭にあって、それが物事をありのままに見えなくさせているんだ、ということに気づきます。

 判断しないようにしよう、とすると難しくてできなくなりますが、それ以前の”ダメ出し”が問題なのだということです。

 

 普段、自分を責める声だったり、恥ずかしさがわいてきたり、というのも、判断というようなこと以前にダメ出しが頭を支配している。

 

 人間というのは、一枚岩ではなくて、複数のモジュール(プログラムや人格のようなもの)で出来ているということが分かってきています。

モジュールというのは、育ってきた中での規範や周囲の声を内面化したものです。

 

 例えば、親が批判的であったり、厳しかったりすると、よい子であればあるほど、優等生としてそれを内面化しますから、大人になるにつれて苦しむようになります。
例えば強迫的な”ダメ出し”が沸いてきて、周囲との人間関係が悪くなったり、頭の中が騒がしくなってしんどくなるということが起きてきます。

 クライアントさんでも、頭の中で自分や他人への”ダメ出し”が止まらずに苦しんでいる方は少なくありません。

 

 それらを、無意識とつながることで、ではなく、妄想やファンタジーで何とかしのいだり、リストカットなど外部からの刺激やマヒでごまかしたりしてしまうのです。

 

 無意識は「判断」しないか、といえば、「判断」している、と思います。
例えば、ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」では、古代の人々は、無意識のみで生きていた、という仮説が紹介されています。

 

 無意識のみで生きるといっても、酩酊状態というわけではなく、危険を察知して避けたり、何かを「判断」したりはしていたことでしょう。

 

 では、偽の判断、と本来の判断との違いは何か?といえば、まず、ノイズがないこと、”ダメ出し”というプロセスが排除されていること、といえます。

 

一級の哲学者や科学者が、表面的な常識や思い込みを排して、物事の本質をとらえますが、まさに、あのような感じではないかと思います。

 

 

 冒頭のスポーツの例でいえば、優れたリーダーの在り方もそうだと思います。
優れたリーダーは、意識で沸くダメ出しにとらわれず、例えばマスコミの声がうるさくても、まず、本質をとらえようとします。

 

 例えば、そのサッカーの試合であれば、選手のいい悪いということではなくて、
・システムの問題点
・どこを改善すればいいのか
・(うまくいっていなくても)その選手の強みを探して発揮できるようにする
・そもそも、この試合の長期的な意図

といったことを冷静にとらえます。表層的に目の前の人のせいにすることはありません。

 

 

 現象学のフッサールは、「カッコでくくる(エポケー)」と言いましたが、私たちが意識で漠然と持っている常識とは、これまで私たちが内面化してきた他者の意識にすぎません。

それらをいったん、カッコでくくってどこかにやってみる。

 

 そうして心静かに待っていると、、実は、物事の本質とは向こうからこちらの思い込みをねじ伏せるように迫ってきます。

 

 それが、無意識さんに任せる、ということではないか、と思います。

 

 無意識さんに任せる、という行為は、悩みの渦中にある人、トラウマを負った人ほど、そのことに本質的に触れていたります。
本質的に触れている一方で、ノイズも大きいために、トータルで見ると、安定型の人、トラウマを負っていない人よりも不安定に見えて、思い込みやとらわれが多く見えているだけなのです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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