人間が生きづらさ、苦しい状況から逃れるためには、逃れる先が必要だったりしします。
私はよくそれを「足場」というような表現をします。
移る先となる「足場」をどうするか?ということをセッションでも考えます。
心理療法やカウンセリングでは、トラウマや生きづらさに苦しんでいる状態から脱出した先に、本来の自分というものを設定します。流派によっては「無意識」といった表現をする場合もあります。そこがある種の足場、ゴールだとして、取り組みがなされます。
しかし、多くの場合、その設定される足場も、その心理療法の世界で良いとされる概念から来たもので、結局人工的なものでしかなかったりします。
例えば「無意識」などというのも要注意で、その世界では素晴らしいとされますが、素晴らしいがゆえにほんとうの意味での足場になり得ないということがあります。
なぜなら、「より良い存在」「立派な存在」「ちゃんとしている存在」のみが「無意識」とされ、わけの分からなさ、情けなさ、弱さと行った部分は結局排除されてしまうということが生じるからです。
例えば、「無意識」をただ理想的で良いものとされてみたりすると、そうではないものは居る場所がありません。
フロイト等は、無意識を様々なものも含んだわけのわからないものとしていたはずです。それでこそ、自分の本来となりえます。
本当はぐちゃぐちゃしたわけのわからなさ、情けない自分をこそ認めるもので、そうしたものこそ「愛着」とよばれるものなのです。
愛着というのは、幼少期の分けのわからない情動や自分を肯定されることです。
それこそ安心安全であり、土台となる自分が承認されることになります。
しかし、近年の自己啓発、ポップ心理学ブームの中で、いつの間にか「無意識」というものの中から、わけのわからなさ、弱さ、情けなさ、といった要素は脱臭、蒸留され、そこにわけのわからなさという重要な部分が存在する余地がなくなってしまいました。
遺伝子の世界でも、ゴミであるとされた「RNA」こそ重要な役割をしていた、ということが最近わかってきているとされていますが、まさに、わけのわからなさは、私たちにとってRNAのように不可欠な存在です。
また、クリシェが生のダイナミズムを阻害することにも注意する必要があります。
クリシェとは、簡単に言えば、乱用された結果、あるいは無批判に状況に当てはめられた結果、命を失ってしまった「言葉」のことです。
例えば、会社などでよくありますが、「改革」「調整」といった名詞、「マネタイズ」「トップライン(売上高のこと)」といったカタカナ表記などは典型ですが、言葉を並べていると何かを表現しているように見えて、具体的なものが失われてしまっていて、何も表現されていないということはよくあります。
官僚の言葉などもその代表的なものです。
新卒で会社に就職した際は、会社員としての話し方がわからず、言葉がうまく出てこなかったことを思い出します。
そのうち、先輩とか上司、お客さんの「うまい」言い方を真似して身につけていきますが、一方で大切なものも失っていったようにも思います。
私は学生の頃に、吃音で苦しんでいたことがあります。
その際に取り組んでいたのは、例えば声が出ない、というときの身体の動き、感覚をそのまま感じるということです。
人間は油断すると、ついつい、概念や言葉の方を実際と思ってしまいます。
例えば、吃音で言葉に詰まることを「難発」といいますが、自分が言葉に詰まっている状態を表現するために「難発」と言ったのでは、自分に生じていることを何も表現できていません。
代わりに「胸が詰まる」「喉が苦しい」と言っても、それがどうなのか?はまだ十分に表現できているとは言えません。
Aさんにとっての「胸が詰まる」「喉が苦しい」と、Bさんにとっての「胸が詰まる」「喉が苦しい」は全く異なります。
また、同じAさんでも、3日前の「胸が詰まる」「喉が苦しい」と、今日の「胸が詰まる」「喉が苦しい」は同じではありません。
日々感覚も変化していっています。
どこの部分がどのように感じるのか、どこがこわばって、そのときにどのような感情が湧くのか、微細な感覚は偏見なく無心でとらえ表現する必要があるのです。
こうしたことをそのまま捉えようとするのが、吃音改善のカウンセリングの取り組みでした。
実際にありのままに捉えれば捉えるほど、脳はそれをキャッチして不要なものを修正していってくれます。そうして、克服困難な吃音は徐々に解消されていくのです。
しかし、「難発」とか、「胸が詰まる」という言葉で概念としてとらえていては、脳もそれに騙されてしまい、症状は一向に改善しないのです。
当時受けていたカウンセリングはグループカウンセリングで、ロジャーズカウンセリングをベースとしていました。
恩師とも言えるカウンセラーの先生のもと、数学者の岡潔や英文学者の小林秀雄の「美を求める心」「春の日、冬の日」などを読み、感じたことを述べていくのですが、油断すると、ついつい易きに流れて、表面的な言葉に陥ると、カウンセラーから「おや?・・」と指摘が入るのです。
はっ、と我に返って、自分の感じたことに意識を向け直すことをしていました。
まさに吃音克服は、“自分の言葉”を取り戻すための取り組みであったと思います。
プロのスポーツ選手などは、まさに自分の体の動きをそのまま捉えようとしますし、芸術家なども、俗な観念、認知を超えて、そのまま感じたものを捉えることをします。
それらも、足場を自分に求めるような取り組みです。
一方、自分の感じたものに足場を求めることを邪魔するものも世の中にはたくさんあります。
それは、他人の評価であったり、不全感から来る不安、内面化して相対化できていない親の価値観、親の人格であったり、成長してから会社などで身につけた立場、世間体であったり。
俗な知識、概念もそうです。解決のためにあるはずの心理学や自己啓発の概念や知識も要注意です。
そこを破って、自分に到達する必要がありますが、なかなか一筋縄では行きません。
投げかけをするカウンセラーに誤って怒りが向くなんていうことも生じます。
(私はこれが本当の自分とおもっているんだから、不安になる余計なことするな!ただ症状を取ったり、気持ちよく今の私を受け入れて前向きな言葉かけをしてくれればいいんだ!!そんなこともできないのか!)
先行の知恵は役に立ちますが、参考にしたら、後は自分の言葉にしていく必要があります。
そうではない場合には、なにかは言っているようで言っておらず自分の言葉ではなくなり、立場主義(立場≒自分)に陥り、自分が失われてしまうのです。
自分の感覚というのはきれいなものだけではないのはいうまでもありません。
わけのわからなさ、情けなさ、弱さ、そのものを受け入れていくことは必要で、それが自分の言葉、感覚となり、生きづらさから抜け出す足場、自分となってくれるのです。
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